第12話「コーヒー牛乳の思い出」

 のれんをくぐると、中で入口はふたつに別れている。


 男湯と女湯。

 そこで仕分けされるのは、もちろん生物学的な男と女に基づくものだが、母親に連れられた小さな男の子というものは、女湯に入ることを許された稀有な存在かもしれない。というか、母親のおまけのようなものだったのだろう。

 

 いつものように、その日も母に連れられて女湯の脱衣所に入る。

 番台には背中を丸くしたおばさんが座っている。

 真四角の木のロッカー。

 扇風機がゆっくりと首をふっている。

 女達の白い裸体。腰巻の赤さだけが、ぼんやりとした視界の中で唯一鮮やかな色であった。

 年をとって垂れ下がった乳もあれば、まだふくらみきらない乳もあった。

 その中で私は母の乳が一番美しいと思っていた。

 母の乳房は私だけのものだった。

 月足らずで生まれた私を、母はいつまでも赤ん坊のように扱った。

 私は四歳。それなりに大きくなったなりで、まだ私は母の乳を飲んでいたのだった。


 広い浴場は湯気でくもり、女達が一日の汗を落としている。

 生きていくことは汚れていくことである。湯屋というものは、そのことを前提とした商売である。

 ぼうっと立っている間に、私は母の手によって泡まみれにされ、綺麗になったあと、先に湯船に入れられた。

 がらがらっ。

 突然、勢いよく硝子戸を開け、服を着たまんまの女がずんずんと入ってきた。

 どうみてもそれは特別な意思を持った、奇異な闖入者だ。

 裸の女の中に、裸でない女。

 母に向かって叫ぶ。

「どろぼうねこ!」

 そうして水風呂から湯桶でくんだ水を、母に向かってぶちまけた。一瞬あたりの空気が凍る。

 女達のおしゃべりも。

 湯気さえも止まった気がした。

 母は自分だけが理不尽にも裸であったことに怒るように、猛然とその女につかみかかり、頬をはたいた。

 二人はまるで踊っているかのようにくるくる周り出し、そのうち母は女を押し倒した。

 そんな修羅場をおろおろとして見ているうち、私の意識はお湯の中へと溶けていった。

       

 気づくと、脱衣所の長椅子に私は寝かされていた。心配そうにのぞきこむ母の顔があった。

「ごめんね。湯あたりさせちゃって」

 母は裸であった。

 唇は青ざめ、掌はすでに冷たくなっている。

 黒髪から雫が滴り落ち、胸の間をすべっていく。私はその乳にむさぼりつきたい衝動にかられた。

 けれど母が差し出したのは、茶色いびんであった。

「牛乳なくって。コーヒー牛乳で我慢してね」

 私は生まれて初めて、それを飲んだ。貪るようにして飲んだ。

 そして、なんてうまいんだろう、と思った。


        ◇

 

 あの日を境にして、私は母の乳を飲むことを止めた。私は母のおまけではなくなった。

 ひどく暴力的なその出来事が理由かどうかはわからないが、それからまもなく私達は引越してしまったので、今となっては、あの銭湯があった街がどこなのか不明である。

 それゆえ、長いこと生きてきたこの身の垢を今だに落とせずにいる、そんな気分にさせるのだ。

 父はどこかに存在していたのだろう、が、私は、その人が、どこの誰かも知らない。

 母が亡くなった今となっては、私にはそれらを探す手がかりさえ残されていない。

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