第13話「火の棘」

 豪徳寺駅を降りて、小さな商店街を瀬里は歩いていた。

 車は進入禁止である。自転車さえ気を付けていればいいのだから八ヶ月の身重にとっては歩き易い道であった。

 鰻のようにうねうねと曲がる道沿いに、八百屋やパン屋、蕎麦屋などが軒を連ねている。小さな門松を飾る店もあり、大晦日の賑わいを冷たい風の中に感じるのだった。

 十五分も歩くと瀬里が生まれ育った家が見えてくる。

 塀を高く超えてせり出したピラカンサの実が、まるで何かの目印のようにたわわにぶらさがっている。何か、とは何か。懐かしさだろうか。まるでここだけ時間が止まったかのような錯覚がある。

「変わらないわ」見上げて瀬里は白い息を吐く。

 実家は祖父の代からこの地で開業医をしていた。この家は祖父が建て、相当年季が入っているが、父母亡き今、今だ独身の兄が住む。家はどんなに古くなっても人が住んでいる間は死なないし、死ねない。

 玄関前のインターホンを鳴らす。

「はい」親しんだ、お手伝いの志づの声だった。

「瀬里よ」

「あら、まあ、まあ」

 間を置かず、正月の独楽のように志づが飛び出してくる。年はとっても相変わらず機敏な人であった。瀬里が小さい頃からこの家で働いていてくれる人である。

 瀬里の母は家事の一切をしない人であったので(それこそ本当にお嬢様であった)志づの料理を食べ、志づの洗濯したものを着て大きくなった。 白い割烹着が誰よりも似合い、口紅さえもつけない、この女をずっと瀬里は慕っていた。

 対照的に、母はいつも美しく化粧をしていて、小鳥のようなソプラノで歌を唄った。

 母の通夜に、瀬里は死化粧をほどこし、最後にゲランのミツコをふりかけた。母のお気に入りの香水。それはとりもなおさず、父も好きであった甘い女の香りであろう。

「いらっしゃるのは明日とばかりと思ってました、お嬢様」

 三十一歳の既婚の女に、お嬢様はないだろう。しかし、その呼び名は止めてと何度言っても志づはきかない。なので最近はもうすっかりあきらめて、聞き流すことにしていた。そうしてみると、不思議に心地よくもあった。世界で一人だけ、自分のことをそう呼ぶ人がいる。そのことはくすぐったくもあったが、何か輝かしいことでもある気もしてきたから、人の気持ちというのは、くるくる回る風見鶏のようだ。

 居間はまるで外のように冷え切っていた。

 おそらく志づは夜遅く帰る主(今は瀬里の兄である)に合わせて暖房を入れる心づもりだったのであろう。

「寒いでしょう。ごめんなさいね。今エアコンをいれますから」

 二十畳はあろうかという広いリビングが暖まるまでは相当時間がかかることだろう。父母が生きていた頃には、現役だった暖炉も、長い間使われていないのだろう。

「たまには暖炉に火を入れない?」

 生きているのに、死んでしまったように見える暖炉が瀬里には忍びなかった。

「そうですね。では薪をとってまいります」

 使われないと知っていて、ちゃんと薪を用意している、志づはそんな女であった。薪と一緒にカシミアのひざかけを持ってきて瀬里に手渡す。その気遣いが瀬里の心に沁みる。半年前に母が亡くなってからというもの、人の愛情を貪欲を求めたがっている自分がいることに気づく。

 ──だから今回だけは夫の裏切りが許せない。

 出窓に置かれた花瓶に庭のピラカンサが挿している。

「母は時々ピラカンサの実を食べていたわ。子供の頃それを真似しようとしたら、ぱしりと手を叩かれて。『子供には毒なのよ』って。怖い顔をしてね。もう大人だし、食べてみようかしら」

「およしなさいませ。それは本当に毒の実ですよ。時々、その実を食べ過ぎた緋連雀(ひれんじゃく)が庭で死ぬことがあるんですから。赤ちゃんにさわります」

「人も死んでしまうの?」

「いいえ、人が死なない程度の毒です。ですが胸が悪くなって吐き苦しむことになります」

 父は母と結婚し婿養子となって祖父の跡を継いだ。医院はそれなりに続けてきたが、父としたら居心地が悪い家であったのかもしれない。詳しくは知らないが愛人がいた時期もあったらしい。

「……母はよく吐いて寝込んでいたわね。もしかして?」

 母が赤い実を食べていたのは、父が愛人宅に泊まる夜であったのかもしれない。

「お嬢様、ピラカンサは別名『火の刺』と呼ばれているのです。奥様の心の中にあったものもそんな火の刺であったのかもしれませんね」

 母の具合が悪くなると父は真直ぐに家に帰ってきた。

 その夜、夫が瀬里のもとを訪ねてきた。

「誤解だよ」

「ほんとうに?」

「信じてくれよ」

「それじゃ、その赤い実を食べてくれたら、信じてあげてもよくてよ」「これは?」

「ピラカンサっていうの。死なない程度の毒があるそうよ。あなたにそれを食べる勇気があったら明日の新年をお祝いを一緒にしましょう」

「食べなかったら?」

「私が食べるわ」

 暖炉の薪が小さくはぜる。

瀬里のまばたきひとつ許さない真剣な眼差しに、夫はそれが冗談でないことを察知し、その実を何個かもぎとる。

「気を付けて。刺があるから」

 夫の口の中に、強烈な苦味が広がる。

「うっ」

「吐いてはだめよ。吐き出したら許さないから」

 瀬里の躯で息づくもうひとつの命が、強く腹を蹴る。唐突に瀬里は可笑しくなって、あわてて窓の外へ視線を移した。ねえ、お母さん、私ももう夫を許しているのかもしれません。

 いつのまにか窓の外を雪が舞っていた。

 それは新しい年に向かって静かにふりつみ、明日になれば庭のピラカンサの刺さえも優しく隠すかもしれない。

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