第4話「蓮喰い」
ホテル・レ・ロチュスの201号室。
長く住んだパリ市内のアパルトマンを売り払い、クレアがここに住み始めてから、もう3年経つ。
古いシャトーをリフォームした石造りのこじんまりとしたホテル。
彼女はここがとても気に入っていた。
温暖なプロヴァンスの気候が今年70歳になる身にとって過ごしやすかったということ、中庭にホテルの名の由来であるロチェス(蓮)の花の咲く大きな池があるという点が、その主な理由だった。
もちろんホテルで暮らすということは、経費は高くつく。
若い頃、パリのオートクチュールのモデルとして活躍し、その後デザイナーとして名を残し、その頃の貯蓄でなんとかしのいでいけるだろうという目算を立てていた。が、たとえばものすごく長生きをしてしまったらどうなるのだろうと、貯金通帳の預金残高を見て、ため息をつくこともないことはなかった。
それでももうモードの業界に戻るつもりはなかった。
かつて洋服は、彼女にとって生きることと同等だった。
今日、何を着るか、それは今日どうやって生きていくかと同じ意味を持っていた。――次々と新しいものを産み出さねばならない。それが出来なければ、顧客の心は離れてしまう。
あたかもそれは自転車操業のようだった。
車輪が止まれば、倒れるだけ。
それが今はどうだろう。
しょせん洋服はそとがわ。
そとがわがいくら新しく美しくとも、なかみがそれに伴わなければ、虚しい。
流行りを追いかけても、あっという間に、それは古いものになる。
いくつかの彼女に訪れたロマンスにしたってそうだった。
恋の終わりはいつも虚しい。
仕事に忙しかったということもあったが、彼女は一度も恋を成就せずに、子を産むこともなく、人生のたそがれを迎えている。
そうしてみて、思い出すのは自分が育った孤児院である。
そこにも大きな蓮池があった。
けれどそれは観賞用ではなく、蓮を食用として育てていた。
収穫時には小さな子供たちも、泥まみれになって、蓮の収穫を手伝わされた。
しかし、その売上が子供たちに還元されることはなかった。
いつも粗末な食事でみな腹をすかせていて、環境は劣悪だったといっても過言ではない。飢え、病気、それで何人もの子供が命を落としていった。
棺桶さえも用意されない。布袋に入れられた小さな遺体は、墓堀人によって裏山に埋められ、名前を掘った木の十字架がおざなりのように建てられたが、手を合わせる者が果たしていたのか、いなかったのか。
「クレア、蓮の花をおたべ」
人付き合いが苦手だったクレアにとって、ひとつ年上のジャックは兄のような存在だった。
ジャックは大人の目をあざむいて、収穫時に密かに蓮の花をポケットに入れ、クレアにくれた。
蓮の花も蓮茶の原料として出荷されて、希少価値のある茶として、根よりも高値がつくほどだった。
なので厳密にいえばその行為は窃盗に当たった。
「……おいしい」
クレアがその花びらをうっとりをして食べる。
朝、開いたばかりの花は、甘い匂いを放っていた。
クレアは思った。
泥から生えているのに、なぜ蓮の花はこんなにも美しいのだろう。
「でも大丈夫かしら。毎日蓮の花を盗んで、しかられない?」
「見つからなきゃ、大丈夫さ、俺がそんなドジふむわけないだろう」
クレアはその言葉に安心して、また蓮の花を食べる。
後ろめたい、けれど共有した罪の味は蓮の花のように、甘美だった。
それをむさぼる。
食べ飽きた餌のようなパン粥より、それは満腹感をもたらした。
ジャックが盗んだものは、蓮の花だけではなかった。
とある満月の夜、孤児院の金庫からありったけの金を盗んで、逃亡し、それきり消息は知れない。
◇
ホテルの食堂でクレアはカフェオレとバゲットの朝食を摂る。
夜明け前だが、従業員は嫌な顔ひとつしない。
蓮の花が咲くのは早朝だけ。
太陽が高く上ってしまえば、あっけなくそれはしぼんでしまう。
蓮の花が開く季節、クレアが蓮の花を見るのを日課としているのを知る従業員はすすんで早朝出勤をした。
彼女がカフェオレを飲み干すと同時に、従業員はテーブルに水を半分ほど注いだ透明のグラスを置く。
食後、彼女が心臓の薬を飲むのを知っていたから。
そんなさりげない気遣いも、高いお金を出してでもホテルに住みたいとクレアが思う理由のひとつであった。
「メルシー」
「今日は顔色がいいようですね、マダム」
「そう? 昨晩、初恋の人の夢を見たからかしら?」
「どんな方だったのでしょう。さぞかし素敵なムッシューなのでしょうね」
「いいえ、ただの盗人でしたわ」
クレアがウインクしたので、従業員はそれがジョークの類であると判断し「よい一日を」と言ってさがった。
クレアは何十年も遠回りして、ジャックに寄せていた感情が幼いながらも初恋だったのだとやっと気づく。
彼女は肩にキャメル色のカシミアのうすいショールを羽織り、蓮池へ歩いていった。
ここに住む前、彼女は大量の服を処分した。残った洋服はスーツケース一個に収まるほど。
その中のひとつが肌になじんだこのショールだった。
「まぁ、きれい……」
今、まさに純白の蓮の花が開いたところであった。
朝日がゆっくりと池を輝かせてゆく。
光り、さざめいてゆく水面。
クレアはその花に手を伸ばす。
届きそうで届かない。
もうすこし、もう、すこし。
花をつかむ。
と同時にクレアの身は、池に落ちた。
――水面に落ちる音。
しかし、それを聞く者は誰もいなかった。
初夏とはいえ水は冷たい。
クレアがもう一度、蓮の花を食べることは叶わなかった。
持ち主から放たれた柔らかな布が、水面でゆっくりとその羽を広げていた。
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