第9話「ふるさとまでの距離」

遠いようで近い。

いや、本当は近いようで遠いのかもしれない。ふるさと、というものは。


東京発新幹線。

早朝六時に出発するのぞみに乗る。広島には十時少し前に着く予定だ。祖父の七回忌に出席するために。

 東京の大学を卒業して、そのままそこで就職して早二十一年が経つ。

 そんな実感はまったくないのだが、いつのまにか、ふるさとで過ごした時間を、東京でのそれが追い越していた。


 新幹線の乗っていると、ものすごい速度で走ってるのに、乗客はその速度を感じることは、ない。窓の外の景色もゆっくり動いている。過ぎゆく時も、案外そんなものなのかもしれない。


 往復の旅費は四万円弱。正社員とはいえ手取り二十五万円の一人暮らしの独身女には少々の痛手だ。

 近いようで遠いと感じるのは、金銭という、世知辛く現実的な理由かもしれない。


 車内販売でホットコーヒーを買う。あらかじめ、キオスクで買っておいたサンドイッチを取り出して、朝食にする。多少ではあるが、キオスクの方が経済的なのだ。

 ポットから注がれたコーヒーをひと口飲む。

 作り置きであろうが、やはりインスタントではない豊かな香りにほっとした。母もまたコーヒーが好きだった。私のコーヒー好きは母譲りなのかもしれない。

 そんなことを考えながら、うつらうつらしながら、心地よい振動に身をまかせていると、ふいに眠気がやってくる。シートをリクライニングにして、しばらく眠った。


 広島駅まで、母が車で迎えに来てくれていた。

「遠いのに悪かったねえ」

「いいって。こんなことでもないとなかなか帰ってこれないし」

「身体は?」

「元気だよ」

「あんまり無理しなさんな」

 五年前の定期検診で、私に乳癌が見つかってから、母はすっかり心配性になった。

 表皮に近いところにできた癌であったため、発見しやすかったらしい。初期のステージ0期であったため、簡単な部分切除の手術だけで済んだのを、今はラッキーだと思うようにしている。

「父さんと兄ちゃんは?」

「直接お寺さんに向かうって」

「レン君だっけ? 大きくなったろうね」

「もう三才よ。これが結構きかん坊でねえ。優子さんの手前、遠慮しいしい叱ってるんよ」

「ふうん、まあ同居するといろいろあるんだろうね」

「父さんなんか、いっこも怒らんで。あたしばっか損な役回りさあ。でもね、叱るときは叱ってあげないと」

 愚痴とも不満といえないような話だったが、母はどこか嬉しそうだった。兄が優子さんと結婚して同居し、孫も出来た。

 私に出来ないことを、ちゃんとしてくれた兄には感謝している。

「ほら、いとこのさっちゃん。あんたと同じ年だったよね、もう娘が成人式なんだって。驚きよねえ。あんたもしじゅうだもんねえ。私も年とるわけよね」

 ふうん。さっちゃん、ヤンキーだったからなあ。

 高校も途中で辞めて結婚するって聞いた時、親戚中で不良娘って揶揄していたけれど、きっと今はいいお母さんなんだろうなあ。

 私はさしずめイキオクレか、ふふ。

 帰ってくるたび持ち込まれた見合い話も、今ではぷっつりとない。


 ほんと、すがすがしいわ。


 浄真寺の玄関には、既に親戚たちの似たような黒い靴がひしめきあっていた。

「はい、あんたにはピンクがよかろう」

 母に洗濯バサミを手渡される。

 左右の靴をそれではさんでおけと言う。そうすれば目印になって間違えられないのだそうだ。

 葬式とか法事とか、同じような黒い靴ばかり並ぶ場所では、結構靴の間違いがあるそうなのだ。

 


 それにしても何だろう。少しでもかわいい色の目印を娘に渡したいというのは。一体誰にアピールしたいのか。

 これが親心というものなのか。洗濯物ではないのに、はさまれてしまった黒いヒール靴。

 死を取り扱う神聖な場所であるゆえにだろうか、可笑しさがこみ上げてくる風景だった。


 法事のあとは料理屋の座敷で昼食となった。

 ふと食後のコーヒーを母だけは飲んでいないことに気づいた。

「母さん、コーヒー飲まないの?」

「うん、ちょっとね」

「なあに? 胃でも悪くした?」

「まあ、そんなとこ」

 なんだか、は切れが悪い。

 隣の父をちらりと見ると、一瞬目が合ったものの、慌てて視線をはずされた。なによ。


 その後、実家に行く。

 リフォームされた室内は、きれいだけど、どこかよそよそしい。

 子供の玩具があふれている。

 もう私は、ここの住人でないんだなあ。それをあらためて知らされるようだった。

 そうか、ふるさとが遠いと思うのは、実家に帰ってきて感じる、こんなさみしさからなのかもしれない。


 帰りは、兄に広島駅まで送ってもらう。


「あのさ、さっきのコーヒーの話だけど」

 何か重大な秘密を打ち明けるように真面目な声で兄が切り出す。

「おまえの病気が治るようにって母さん願掛けしてんだよ。コーヒー断ち。母さんに口止めされてるけど。でもおまえ、さっき心配してたやろ。言うとった方がいいと思ってさ。母さん、胃なんて悪くないから」「……」

 鼻の奥がつうんとして、温かいものがこみあげてきた。

 母さん、ごめんね。私のせいで、コーヒーのない人生にしてしまって。

「ふるさとってなんじゃろうね」

「さあな。おれは一度もここを出たことないから、ようわからん。でもおまえ広島弁しゃべっとうやん。それでいいんとちがう?」

「忘れんもんなんやね、ふるさとって」

「いつか戻ってこいや」

「そうやねえ」

 私は未来の自分に、思いを馳せた。

 このままいくと、おそらくひとり暮らしだろう。


 ひとりでも、ひとりぼっちではない。

 私には、ふるさとがある。





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