第8話「エレベーターの恋」
あの時、エレベーターを待ちながら、私は何を考えていたのだろう。
数人がエレベーターを待っていた。ようやく来たエレベーターに、最後に私が押し入るようにして乗り込む。
なんとなく嫌な予感がよぎる。
案の定、ブザーが鳴る。重量オーバーの知らせだ。
私は中肉中背だったが、太っていますと言われたようで奇妙に恥ずかしい。
すぐさま降りたのだが、なぜかもう一度ブザーが鳴った。
手前の一人が降りた。
ブザーはやっと止み、扉が閉まる。
次のエレベーターを待つ間、乗車拒否されたもう一人をさりげなく観察した。
背は高く、胸板が厚いのがスーツの上からもはっきりとわかる体格の良い男だった。
その後は誰も来なかった。
次に来たエレベーターに私、男の順に乗り込む。
「何階ですか?」
男に訊かれ、十八階だと答えると
「奇遇ですね。ぼくも同じ階です」
そう言って男は行き先のボタンを押した。
「よくあるんですよ。エレベーターのブザーを鳴らしてしまうことが。痩せろって言われているみたいですよね」
――さっきのことか。私は同意するわけでもなく、あいまいに笑った。
「あっ。あなたに言ってるんじゃないですよ。すみません。失礼なことを言ってしまって」
男の顔に、ひとはけさっと描くように、朱がさした。嘘がつけなさそう。私と同じくらいの年で、いかにも善良そうな顔立ちであった
これをきっかけにして同じフロアに入っている会社で働いているというその男と、その後何度かの偶然の出会いを重ね、私たちは付き合うようになった。
四十歳を少し越えて、する恋。
最初から、既婚者であるということは知らされていたので、はなから結婚は考えなかった。
苗字を変え、共に人生を歩んでゆく結婚生活というものに、若い時にはあこがれていた。
けれどそれは私には、永遠に手に入らないものだろうという気がしていた。年を経るに従い、そんなあきらめにも似た気持ちになったのだ。
それに、結婚イコール幸せという図式に、疑問も感じていた。
第一、こうして家庭があるのに不倫している男が私の傍らにいる。
まだ男を好きになれる、女であるという実感、それだけでいいと思っていた。
それだけで幸福だった。
それだけで孤独な生活が華やいだ。
彼との恋は思った以上に長く続いた。恋心だけでつながっていた日々を世間からそれを不倫と呼ばれても、純愛だったと今でも思っている。
それから十年のち、彼の奥さんから「別れて下さい」と電話があったのをきっかけに、あっけなく終わった。
いつか終わりがくることを想定していたけれど、やはりさみしかった。 それからひとつも恋をしないまま、私は会社を定年で辞めた。携帯電話のアドレスは未練がましいかと思いながらも、最後の恋の記念にでもしようと、削除はしないでおいた。
ある日のこと。携帯電話の呼び出し音が鳴った。見ると彼の名前が表示されている。
「もしもし」
電話に出てみれば、予想とはずれた女の声だった。
丁寧ではあるがどこか刺を含んだように冷たい。この声は一度聴いたことがある。
そう、彼の妻の声だ
その電話で、現在彼は末期がんで、入院中だという。
私に会っておきたいと、彼が希望し、電話をしたとのこと。
「会いに行っても、よろしいのでしょうか」
「お待ちしています」
その言葉が本心のはずがない。
夫の不倫相手に、たとえ余命いくばくもない夫の頼みだとしても、そんな風に言ってのける妻という存在が、ひどく切なく、同時に妬ましかった。
約束の時間に病室を訪ね、ノックする。
「どうぞ」
おそるおそるドアをスライドさせる。彼はひとりでいた。ベッドに身体を起こし、新聞を広げていた。
とても痩せてはいたが、確かに彼だった。
会わなくなった歳月と、病気によって蝕まれた肉体は、確実に彼を老けさせていて、覚悟はしていたものの、ショックを受けた。
てぶらというわけにもいかないので、買ってきたガーベラの花束を渡す。
「近眼でも、老眼になるんだよなあ」
「私だって、もうすっかり老眼よ」
彼の顔がぼやけてゆく。それは老眼のせいだけでなかった。
それから彼の乗る車椅子を押し、中庭を散歩した。
これが本当のお別れなんだと思いながら、そんな大切な日に言うべき言葉がみつからない。
風もなく、穏やかな秋の午後だった。このまま時が止まってしまえばどんなに幸せだろうと思った。そしてそんな願いが叶わないことは、経験上知っている。もっと時が流れて、いつかこの風景を私は思い出すだろう、そんな予感がよぎった。
病棟へ帰るエレベーターの前は既に人だかりで、私達が最後に乗るとブザーが鳴った。
車椅子を引き戻しながら、私はこみ上げてくる笑いを抑えることができなかった。
彼も笑っていた。
ひとしきり笑ったあと、ひどく悲しくなった。
「ふりだしに戻ったみたい」
「もうぼくはダイエットの必要はないけれどね」
「ふりだしに戻ったとして、また私と恋をしてくれる?」
「もちろん」
彼はたくさんの嘘をついたかもしれない。この言葉は嘘なのか、真実なのか、どちらだろう。
「痩せたね」
「痩せたけれど、ブザーは鳴るんだよね」
「生きているから、かしら」
「うん、生きているからだよね」
彼を病室に送っていったが、やはり奥さんの姿はなかった。が、いないという気配が漂っていた。
先程贈った花束は、なくなっていた。
病室を出てゆく時、さようならは言えなかった。ただ無言で胸の前で軽く手をふって、私は笑顔でドアをしめた。彼も何も言わず笑顔だった。
互いの顔の最後の記憶が笑顔であることが、唯一の救いのような気がしていた。
帰りがけに、なんとはなしに目に入った洗面室のゴミ箱の中に、無造作にガーベラが捨てられていた。
はっと息をのむ。
私たちの純愛は、誰かを今も傷つけ続けている。
悲しいくらい純愛だった。
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