第11話「剣闘士」
古代ルピーナ帝国において、皇帝は「パンとサーカス」と呼ばれる政策に力を注いだといわれる。その両輪がうまく回っていれば、市民は大人しいのである。
パンは飢えさせないことを意味する。重税など課そうものなら、市民の不満よって反乱が起き、政権が倒されることもあるのだ。
サーカスは娯楽である。コロッセウム(円形闘技場)で開かれる剣闘士の命を賭けての試合は、市民にとって何よりの娯楽であった。
強い剣闘士は市民のアイドルのような存在で、中でもガルシアは随一の花形剣闘士であった。
ガルシアが出る試合は、いつも満員の盛況ぶりだった。
「いい気なもんさ。人は自分さえ安全地帯に置けば、血なまぐさいことが大好きな野蛮な生き物なんだ」
ガルシアは奴隷だった。もとは小国の豪族のせがれであったが、十二才の時、ルピーナ帝国との戦いに敗れて、父は戦死、弟共々奴隷市場に売られた。
そこで剣闘の興行師に買われた。
共に市場で売られていた、まだ八才の弟とはそこで別れた。必死に涙をこらえ、自分の腕にしがみついてくる弟にガルシアは言った。
「ここから先はたったひとりでゆかねばならぬ。でも兄は負けぬ。だからおまえも負けるな」と。
剣闘士になるという過酷な運命を受け入れたあの時から、涙という温かい水を忘れて生きてきたガルシアだったが、あたかもそこが唯一の弱点に思えてくるほど生身で柔らかな思い出。
それ以来、弟のことは忘れたフリで過ごしてきたのだった。
それから剣闘士の鍛練所で寝起きするようになってから八年間、一度も厳しい訓練から根を上げることはなかった。
訓練の日々は嘘をつかない。
鍛え上げられたしなやかな筋肉は、まるで天に昇る龍のように盛り上がり、その眼差しは獲物を瞬時に捉える天性のハンターのように鋭かった。 身体はそう大きくはならなかったが、それを補って有り余るほどの身体能力の高さがあった。
──殺らなければ、殺られる。
毎日が死と隣り合わせの緊張の連続だった。
その糸がぷっつりと切れるのは今日かもしれない。
明日かもしれない、と思いながら。
ある日、興行師が少年をガルシアのもとに連れてきた。
「名はサーガだ。鍛えて、モノにしてやってくれ」
見ればガルシアがここに連れてこられた時と同じような、まだあどけなさの残る年齢だった。
ある程度剣闘士として実績をあげると、給金も出るし、こうした買われたばかりの奴隷の教育を任されることがある。
運良く生き延びて、金が貯まれば、ルピーナ帝国の市民権を買うことも可能だった。
しかし一ヶ月もすると、サーガに剣闘士の資質がないことが明らかになった。
──心根が優し過ぎる。あれじゃ、小さな虫一匹だって殺せやしない。
殺すということに、いつまでたっても慣れない人種が存在する。いくら身体を鍛えても、そういう人種は早いうちに試合に敗れ、順次この世から消えていく運命だ。
なんとなく別れた弟を思い出させるサーガを、そんなふうに使い捨てのモノのようにはさせたくなかった。
そんな時相談したのは、鍛錬所に出入りしている商人のレベッカだった。
彼女は安全上、老婆を装ってはいるが、年はまだガルシアとそう変わらないだろう。やり手の商人だったが、取引において嘘はつかないのが身上。ガルシアは彼女とある取引をした。
翌日はガルシアとライオンが闘う試合だった。
ライオンは何週間も絶食させられていて、飢えていた。
ガルシアを恰好の獲物として飛びかかってくる。
野生の咆哮が耳をつんざく。
尖い牙が陽光にきらめく。
しかしガルシアは驚異の跳躍力で、その攻撃をすれすれでかわした。背中にとびつき、羽交い絞めするように急所である首の動脈を剣で切った。
景気良く血が飛沫を上げる。
観客の熱気は最高潮になった。親指を下へ向けて突き出して「仕留めろ! 仕留めろ!」とシュプレヒコールを上げる。
それに答えるかのように、瀕死のライオンの背中にガルシアは剣を突き立てた。
試合がはけて、闘技場の一台の馬車が横付けされた。
ライオンの死体を引き取りに来た毛皮業者のものだった。ライオンのふところに、待っていたサーガがすっぽりと隠れる。
まだ生温かい、そして血の匂いの充満する狭い空間の中で、いつしかサーガは眠ってしまった。
その後、難なくルピーナ帝国の城壁警備をくぐりぬけ、晴れて自由の身となった。
◇
やれやれ、これで清々した。サーガは俺の唯一のウイークポイントを思い出させやがる。遠い日、奴隷市場で自分の腕にすがりついてきた弟の温かい体温を。
ちっ、その代わり、また一文無しになっちまった。
レベッカの奴、ふっかけやがって。まあ、あいつの事だから、サーガを安全な所へ逃がしてくれるだろうさ。
ガルシアは親指を空に突き立てた。
剣闘士同士の試合で両者が死闘を繰り広げ、なかなか決着がつかない時がある。
もうこれでいいだろう、と観客が判断する時に親指を上にする。
『生きろ』という意味を込めて。
それは生き別れた弟とサーガ、そして自分自身に向けてのエールだった。
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