第6話「煙が目にしみる」

 約束の正午きっかりに到着できた。

 お盆で道が混んでいるだろうと読み、いつもより三十分早く家を出たのだ。

 玄関のチャイムを鳴らし「こんにちは」と声をかける。

 それは自然に出た言葉だった。

 夫の遼が生きていた頃は、この家に入る時、夫に倣って『ただいま』と言っていただろう。

 夫が亡くなって三年が経つ。 


 夫が三十五才という若さでクモ膜下出血であっけなく世を去ったあと、私は自責の念に捕らわれた。

 

─一緒に過ごしていて、なぜ夫の身体の変化に気づいてあげられなかったのだろう。

─―私が気づいてあげられていたら、命を落とすことはなかったかもしれない。

─―最期の朝、いつものように夫は「いってきます」と流星にほおずりをして、仕事に行った。あの時、夫の顔色がいつもより悪かったのではないか。思い出せない。


 自分を責めることで、かろうじてそれを現実の事として受け止めていたのかもしれない。


 そのあとで深い哀しみと失望感が心を支配する。


 どうどうめぐりを続けているうち、私は睡眠障害に陥り、心療内科に通った。

 そんな私に義父母が声をかけてくれた。


「美月さん、実家に帰りづらかったら、うちに来ないか?」

 私の父親は既に亡くなっていて、母親は再婚したのだが、私とは折り合いがよくないことを義父母は知っていた。

「でも……」

「こんな時くらい甘えて頂戴。流星のためにも。それに美月さんのことは、娘みたいに思ってるのよ、私たち。遼が死んだのは、しかたのないこと。運命なの。決してあなたのせいじゃないわ」

 それから半年、この家で同居し、その間に少づつ笑えるようになり、健康を取り戻すことが出来た。

    ◇

「いらっしゃい。よく来たねえ。さあ、あがって、あがって」

 満面の笑を浮かべた義父母が出迎える。

「おじいちゃん、おばあちゃん、こんにちは」

 車の中で幾度も練習した成果が出て、その挨拶はよどみなく、流星の口から放たれた。

「まあまあ。この間まで、じいじ、ばあば、だったのに。流星がおじいちゃん、おばあちゃんだって、あなた」

 義母の隣で、義父が穏やかに笑っている。

「ぼくね、来年小学生なんだ。もう赤ちゃんじゃないよ」

「ふふふ、そうね、もう赤ちゃんじゃないのね。それじゃ、ランドセル、じいじ、ばあばからプレゼントさせてね」

「だからぁ、おじいちゃん、おばあちゃんだよ」

「あらあら、そうだったわね」

「ありがとうございます。お義父さん、お義母さん」

「いいのよ。何も出来ないけど、これくらいさせてちょうだい」


 一生かけても返せないほどのものを、この善良で優しい夫婦から私はもらった。

 なのに。

 近々私は再婚し、私と流星は、この家族の一員ではなくなる。


 半年間同居したあと、小さな会社の事務職として職を得ることが出来たのを機に、私はこの家を出た。

 いつまでも甘えてはいけない、自立しなければ。そんな思いもあった。

 

 働き始めて、慣れないことに戸惑う私を、同僚の藤原さんが何かと助けてくれたのだ。

 いい人だな、と思った。

 それが一年ほどする頃、好きなのかも、という気持ちに変わっていった。

 ある日、藤原さんに告白され、彼も私と同じ気持ちでいたことが、素直に嬉しかった。

 まだ恋が出来る自分に驚きながらも。

 流星も藤原さんに遊んでもらえることを、楽しみにしているようだった。


 ほどなく藤原さんからのプロポーズを承諾して、真っ先に義父母に報告したのだった。

 ふたりは『良かった。良かった』と喜んでくれた。

「私、幸せになっていいのでしょうか」

「もちろんよ。あなたの幸せが流星の幸せ。流星の幸せが私たちの幸せ。なによりも遼が、一番それを願っているはずじゃないかしら」


──忘れていいのよ、遼のことは。

 人間はそうして生きていくものよ、とも言ってくれた。

     ◇

 一日を義父母の家で過ごし、流星が眼をこすり始めている。普段であったら、とうに眠っている時間だ。

 けれど私は、なかなか帰るきっかけがつかめずにいた。

 この家にもう来ることはないかもしれない。

 たとえ、来ることがあったとしても、その時はもう家族ではないのだ。


 カナカナカナ……。ひぐらしの声。

 

 義父が

「流星、いいものあるんだ。やらないか」

 と言う。

 庭に出て、四人で線香花火をした。

 火を点けられた線香花火はジジジと燃えて一度目の花を咲かす。

 それから静かになって赤い火種を育て、またさらに美しい花を咲かせる。

「遼が小さい時、夏になると線香花火をしたもんだなあ、おかあさん」

「ええ。あの子ったら、線香花火の火種が落ちないよう、神妙な顔をしてましたね。普段はやんちゃだったのに。ほら、あそこの柿の木に登って、落ちて足を骨折したことがあるのよ。それからね……」

 小さな遼。

 若い義父母。

 幸せな風景が目に浮かぶようだった。

 義父母の眼に涙が伝うのを見て、私もこみ上げてくるものを抑えられなくなった。


「ねえ、なんでみんな泣いてるの?おかあさん」

「……煙がね、花火の煙が目にしみちゃたのかな」

 そういえばそんなタイトルのジャズナンバーが、あったっけ……。


 遼、あなたのことは少しづつ忘れていくかも。

 ごめんね、薄情で。

 でも毎年線香花火をする度、思い出すから、許してね。

 ――この夜、私は、遼の存在を確かに感じていた。

 

 ねえ、遼。一緒に、この花火見ているんでしょう。 

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