10 『深い海の人』

 田村は夢を見た。妻、春海が髪型を変えていた。「似合うでしょう。あなた好みのマニッシュ・ショートよ」と云って、後ろを向いて襟足を見せた。春海はセミロングで少しウェーブをかけた髪型であった。そして田村の手を取って、「指きり、げんまん」をさせた。「他の人に気を移したらダ~メよ」なのか、「きっと、私を探してね」だろうか?

 今日で6日目ではないか?図書館も、お店も、休みでないか?フロントにつないだ。今日は土曜日だという。図書館の休みは月曜日で田村が来た日だと云った。酒場の方はわからないと云ったので、電話番号を聞いた。「この町には電話はありません。あるのはホテル内の内線のみです」とフロントの男は無造作に答えた。仕方がない、歩いて行くまでだ。


 図書館に行くと、メガネ美人が元気な声で「お早うございます」と挨拶をした。

「あれ、受付嬢は?」

「生憎、彼女、風邪を引きまして休んでおります。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」メガネ嬢は何時も言葉使いが丁寧だ。別にご迷惑ではないが、あの声がないと少し寂しい。アシルはもうすでに来ていて「Good morning」と挨拶してきた。「Good evening?」と返すと、にっこり笑って頷いた。

 太宰治全集「これは新品同然に仕上げなくっちゃ」と思い、メガネ嬢に自分の書き込みの消し方を聞いた。メガネ嬢は書き込みの2、3箇所に目を通したが、

「これは個人が大切にされていた蔵書です。読む人にもそれが伝わるでしょう。構いません」と言った。やっぱりメガネ美人だ。メガネを外した顔を見てみたくなった。


 午後からは、修復成り終えたといっても1巻と2巻だけであるが、田村が持っていたのは筑摩書房の全13巻であった。2を開いた。1は作家になる前の習作が主である。見出しは、『晩年』『ダスゲマイネ』『雌について』『断崖の錯覚』『虚構の彷徨』と続く。

 『晩年』は初期の短篇集であるが、『私はこの短篇集一冊のために、10年を棒にふった。まる10年、市民と同じさわやかな朝飯を食わなかった。(中略)私はこの本を作るためにのみ生まれた』の文で始まる。本を手にしてここを読んだ人はもう逃げられない。

「読むしかない」ここまで言われては・・。読者は太宰の術中にはまったのである。下段の僕の書き込みを読んでみた。「なんと、口説き文句の上手な作家だこと」と書いてあった。懐かしくその字をなぞった。


11日の酒場に行った。毎日だ。田村はママを気に入ってしまった・・いや、ママの術中にはまったのである。少し早かったのか、店はまだ開いていなかった。それでも開けて入ってみた。

「いいですかぁ?」

「ああー、座っといて。雪花菜(おから)を炊いているの。アツアツだけど、味見するぅー」といって小皿に取り分けてくれた。田村はカウンターの方に移った。開店迄には20分ほどある。他に客はいない。


「夕べはどうだった?」

「二人の女性と喋りました。身振りでも意外と通じるんですね」

「見つめ合いっこはしなかったの?」と云って、大鍋から大皿に出来上がったオカラを移した。おいしそうな湯気が立った。

「田村さんの家ではこんな物作る?」

「母はたまに作っていましたが、妻になってからは食べたことありませんね」

「そうやろうね。料理の受け継ぎができてないからね。こんなに栄養があって、おいしいのにね。おまけに豆腐屋さんではタダ同然なのにね」ママも一口、口に入れて、

「見つめ合いはどうしたのよぅ」

「ええ、チョット。何十年振りかな」

「奥さんがいるのにね。女は見つめてもらうだけで嬉しいのよ」

「ママのご主人はそうなんだ」

「ウチは昨日、店が引けてからみんな集まったの。賑やかでね。特に上の娘。何時からああーなったんやろうね。おしとやかに育てたつもりなのに」

あ~ら、嫌だのお姉さんの顔を田村は浮かべた。明日でも行くか!

「ウチの家族はみんなこっちだから。この間、見たでしょう。向こうにいた家族を見て『よかった』って泣いていた人。こっちでは、殆どそうなのよね。うちみたいに揃っている方が珍しい。どっちがいいんだかねぇー」ママは何時になくしんみりと云った。

「ウチは、亭主も私も子供らを除けたら天涯孤独な身の上だからね」


「あ~ら、嫌だ。飲むものも出さず喋ってばかりでね。何にします?」

「喉が渇いているから、ビールをもらおうかな」

「何か質問される前に、こっちからお頼みを言っとくわね」

「頼みって、何ですか?」

「前の学校の先生を引き受けて貰いたいの」

「頼みって、えらい急なんですね。僕はもうしばらくゆっくりしていたいなぁー」

「ゆっくりしていたいって、新学期が始まんだよ。4月だよ、4月!」

「でも、こないだ行ったときは新しい先生がいてたじゃないですか」

「綺麗な先生だったでしょう」

「後ろ姿だった」

「あら、残念。女の先生ひとりじゃ可哀想じゃない?」

「又、紙で、この間みたいに作ればいいじゃないですか」

「簡単に言わないでよ。学校作れって言ったのは田村さんじゃなかったの」

「僕は学校が見たいから、ありますか?って聞いただけですよ」

「あ~ら、嫌だ。田村さんは逃げ口上言うのね。見損なった」

隣の「あ~ら、嫌だ」は母譲りなんだ。


「僕だって、僕の都合があるんですから・・」

田村はトクさんに頼んで『深い海の人』のところに連れていってもらって、春海を探そうと思っていたのだ。

「『深い海の人』がいる所ってどんなとこ?」

「それなら、トクさんに訊いた方がいいわね。毎日のように行ってるんだから・・それより学校の先生どうすんのよ!創設者先生!」

「創設者にさせられたって・・紙で作るわけにはいきませんか」

「みんな、私のことを何だって思ってんだろう。トクオだってそうだ、紙をコチョコチョとして、競輪場作れ・・。彼奴は本当に馬鹿だよ。お金がない世界でどうしてギャンブルが成り立つのさ。あるものはあるものを使う。どうしてもなくって、どーしても要るもんだけを作るじゃなかった!田村先生。私だって身を削って作ってんだ。この町のためにね。ホントだよ。店終わって、ない頭で一生懸命デザイン考えて、あーでもない、こーでもない、もっと勉強しとけばよかったと思いながらね。歳も取るよ、美貌も衰えるよ。紙切りしてなかったら、まだ娘なんかに負けるもんか!」

どうやら、ママを怒らせてしまったみたいだ。これ以上だと「お店立ち入り禁止」を言われかねない。ママの苦労は知らなんだ。反省!ともかく、トクさんに『深い海の人』のことを聞いてからだと思った。


「ママ、返事は明日でもいいかな」

「いいわよ。店を開けなくっちゃ」とママは表に『オープン』の札を出した。客が何組みかどやどやと入って来た。その中にトクさんがいた。ママの前に立ってオーダーをしょうとして、ママの不機嫌な顔に気がついた。

「エラい、ご機嫌斜めだね。珍しいや」

「飲みもんはなんにすっんだい。ビールかね、ウイスキー?」と云ってウイスキーのロックを二つ作って寄こした。問答無用である。田村は目を白黒させているトクさんのジャンパーの袖を引いて、相談があるからと云って壁際の席に移った。

「何で機嫌が悪いんだい?」と怪訝そうに訊いてきたので、先程のいきさつを話した。「俺も悪いなー、競輪場なんて云っちゃってぇ」と判ったという顔をした。

田村は『深い海の人』のことや、出来れば連れて行って欲しいことなどを話した。トクさんはママの紙を切る特殊能力のことから話し出した。


「ママは可哀想な育ちなんだ。あいつの親爺ってぇーのが、これ、三陸に全く不向きな男で、三陸では農地も少ないし、漁師になるか水産加工場で働くぐらいしか仕事はないんだ。あいつの親爺は船に乗れば船酔いが激しい。ともかく魚の臭いは嫌いだ。魚の目を見たって気持ち悪いっていうぐらいなんだ。それで、東京に出稼ぎに行くのがしょっちゅうだった。そんなんで、母親が寂しかったんだろう。男作ってどっか行っちゃって、親爺は元気なくして、東京の建設現場の高いところから落っこちて死んじまった。自殺だというやつもあったぐらいだ。で、あいつは〈ばっちゃま〉に育てられたみたいなもんで、この〈ばっちゃま〉が切り絵の名人で、なんにも買ってやれねぇーあいつのために、何でも作ってやった。本も買ってやれねぇーから切り絵でいっぱい物語をしてやった。小学校の時は半分ぐらいしか学校に来てなかったんじゃないかな。暗い女の子だったよ。あだ名が「座敷わらし」だった。「わらし」知ってっぺ?あいつが変わったのは中学校の時からだ。体操部に入ってな、あいつ身体がムチャクチャ柔らかいだわ。県大会かなんかで表彰されて、高校に入って近代体操をやり出して、それは綺麗だったよ。〈気仙沼の妖精〉なんて名前がついたぐらいだ」

「それで、トクさんは胸キューンになったてわけさ」と、田村は冷やかした。

トクさんは、チョット紅くなって話を続けた。


「明るく活発な性格になったよ。元々がそうだったんだろう。それが環境で抑えられていただけだったんだ。あいつの話はいいや。学校の話だけどな。一番熱心だったのはあいつだ。子供には学校がいるってな。みんなも、海のこんなちっぽけな町だけど、せめて義務教育はいっるてことで一致したんだ。建物はあいつのコチョコチョ、云ってはいけねぇーんだったな。ともかく作れる。教科書をどうする。教科書はいっぱい流されてあるけれど、修復するにも時間がかかっぺ。生徒だって人数が足りない。先生はどうする?いっぺぇーあんだ。先生作ったみたいだけど、あれはやっぱり紙なんだわ。あれによく似た人を『深い海で眠っている人』の中から見つけてくるのさ。生徒もおんなじだ。半分は連れてきたんだ。一艘きりの潜水艦で、大変なんだよ。あいつが、急に作りやがったから、こちかて、段取りがあらぁー!それでコチョコチョって嫌味になったのさ」

トクさんはウィースキーで一息を入れた。


「深い海では、死んではいないんだ。眠ってるだけさ。静かに目を閉じているだけなんだ。それは静かな顔だよ。それを順番に起こして船に乗せて来るってわけさ。中にはこのまま眠らせていて欲しいて人もあるし、特に歳いった人たちはね。そんなときはそのままにしておくんだ。子供は無条件だ。でも中には『あんな、お父ちゃんとお母ぁーちゃんのいっとこには帰りたくない!』って子もあんだ。ひでぇー話だ。『子供は子供ばっかりの家があって、そこで暮らす』と云ったら、ニッコリ笑って『うん』だ。モノを連れて来るみたいにはいかねぇーのさ。『何してんだ!』ツーう声もあんだ。子供ばっか先って訳にもいかねぇーべ。町の人口バランスも考えなきゃなんねぇーし、苦労あんだ。こちらから一人乗せれば、連れてくるのは一人減るんだわ。隊員の目もあっから特別って訳にもいかねぇーさ。特徴を書いてくれれば、髪型とか、着てた服とかさ、注意して一番に見っけてやっから。悪いね田村さん。そうだ!一人男の先生予定がいてたんだけど、ママが田村さんを見てから田村さんでなきゃ学校を開かないと言い出したんだ。あいつは物わかりが凄くいいとこと、どうしょうもないとこあんだ。えれー、惚れられたもんだ。あやかりたいね」


 トクさんの話は終わった。春海のことはトクさんに任すしかない。さっそくメモを作って手渡そう。「せんせい」の件は逃げられない。ママに「せんせい」の件はオッケーだと言った。ママは嬉しそうに笑って、それなら明日、朝8時に店に来るように言った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る