9 『女酒場』
目覚めたホテルの窓からは、薄い明かりが射している。それが朝の印だ。山も見えない。海も見えない。その筈だ、ここは海のなかだもの。海の水が空気みたいなもので、海そばの潮の匂いを含んだ霧の中にいる。その霧が乳白色でなく、もう少し透明感を持っている、そんな感じだ。木も見えない。
昨日、外国人青年から書き写した紙をテーブルの上に広げた。昨夜、その紙を熱心に読んでいるのを見て、さらに2枚書かれた文章をくれた。「いいのですか」と云うと、「明日、又、写すから」と青年は云って、くれた3枚の紙。今日はそれが新聞がわりだ。コーヒーは11日のママからインスタントのパックを貰ってきていたのでお湯を入れた。
新聞?と珈琲。朝、目覚ましがわりに、春海がベッドの傍まで運んでくれていた。落ち着いた朝だ。
最初の1枚・・
「最初に、目に見えない、形のないコンセプトがあるわけです。それは怒りだったり、エネルギーだったり、あるいは不思議な形を作りたいという希望だったり。スタッフにはそれだけしか言いません。そこからみんな出発するんです。余裕はありません。ギリギリまで出て来ないんですよ。新しいことをやろうと思ったら、長年の経験は邪魔になりますから、厳しい状況になります。『刺激』とか『楽しい』という言葉では言い表せないですね」
次の2枚目には
「今こういうことに腹が立つし、何か世の中がおかしいのではないか、ということがひとつの材料になることもあります。要するに、形になっていないことにも、デザイン性がある。何かを感じて、いろんなことが影響しあって、重なり合って、アクシデントがあって、それから生まれる何か、なんですね。怒りだったり、何か新しいことをやろうよ、ということもあるし、不思議な形を作りたい、ときもあります」と書かれてあった。
田村は、津波があって、瓦礫がきれいに片付けられているだけの、何もない町の景色と、海そばの白い破壊された原発の建屋の景色が重なった。
「君なら、どんなデザインを描く?」。語られているのは、いつも新しい何かに挑戦し続ける服飾デザイナーの言葉であるが、田村にはこの国のデザインの仕方を語っているように思われた。
田村の町にもモダンな建築物が建った。町の人たちは一言で云った。「まるで東京みたい」。田村の学校も木造校舎は全て取り壊されて、鉄筋コンクリートに変わった。古い物を残せと言うのではない。全てを一律に変えてしまうやり方を言っているのだ。木造でしか伝えられないものがある。図書館だけに残す。木と紙とはよくあうではないか。鉄筋と鉄筋の間の渡り廊下の点描として残す。補強しなくても残せるものはある。
第一、そこで教える教師たちに希望を訊かれたことがあったろうか。
「新しい校舎ができます。どんな学校がいいか絵を描いて、説明も付けてね」という授業があっただろうか。さぞかし、楽しい『夢の学校』がいくつも出来たであろうに。
それが生かされなくてもいい。子供たちの中にはすでに出来上がったのだから。デザインの感性はそうして養われていくのではないだろうか・・。
出来上がった学校は、金太郎飴を切ったようなどこも同じ仕切りの無機質なものだった。
町の将来をデザインして、原発を呼んで来たのだろか。単にお金が入るから、雇用が生まれるからだけの安易な発想で作られただけでなかったのか。そうして得た潤沢なお金だったから造ったモノは、「まるで、東京に行ったみたい」で、人々が本当に必要としたものだったろうか。
このデザイナーの言葉を借りて云えば、「往々にして、わかりにくい、価値がない、と見なされる、形になっていないもの」を私たちは見逃して、必死のデザインの挑戦もせず、借り物のコピーをしただけでなかったか・・それらが破壊された今、「何か新しいことをやろうよ」「不思議な形を作りたい」のチャンスではないだろうか?
それぞれの町が、自分たちの町を真剣に、大胆にデザインするチャンスなのだ。おのずから、違った町が生まれるだろう。それぞれのコンセプトが大事だ。違ってよい。「金は出す。口は出さない。地方に任す」何の思想もない押し付けられた一律均一はもうごめんだ。
ママのインスタントは上等だった。今日は久しぶりに、新聞を読んだような気がした。外国人の青年の修復が終わったら、このデザイナーの服がどんな服か見てみようと思った。
図書館に出向いた。受付嬢が「お早うございます」と挨拶してくれた。受付嬢の顔にはメガネがかけられていた。元気な声だった。朝からの元気な挨拶は大切だ。
昨夜の外国人青年はすでに来て、作業にかかっていた。「写真が多い本の修復は大変だ」と彼が云ったのを、笑いながらメガネ美人が道具を持って現れた。
「田村さん、今日からこの全集をやってください。学校の図書館に置きます。個人作家の全集がこのように揃って見つかることは少ないのですよ。大事に扱って下さい。ときどき見に来ます。わからないことがあれば、必ず私を呼んで下さいね」と念を押した。
筋向いに座って作業している外人青年に口だけで、「Good Morning 」と挨拶を入れた。まず、一冊目から一枚、一枚チェックを入れていった。余り傷んでいない。乾燥皺を取ればいいだけのようだ。でもチェックは欠かせない。所々に鉛筆の書きこみがある。何枚かの書き込みを読んでみて、慌てて表紙を見た。
『太宰治全集1』とあった。後ろ表紙の裏を見た。田村ジュンと書かれてあった。
「俺の本だ。あったのだ」。大学時代、太宰に夢中になった時期があった。あの頃の田村には高嶺だったが思い切って買った。田村には唯一の全集だった。あるとき読みたくなって探したがない。何回かの引越しはしたが、これだけは別梱包して、なくさないように注意したからあるはずだ。と云って、春海を手伝わせ、家探しをしたが見つからなかった。
「何処に行ったのだろう?」読みたかった箇所は文庫本を買ってきて凌いだ。それが揃って今、目の前にある。田村は興奮して、手を上げてメガネ美人を呼んだ。
「これ僕の本です。僕の…」本の名前と免許証の名前を見せた。メガネ美人も信じられないという顔をした。二人を見て外人青年が覗きこんで「Oh wonderful!」と言ってくれた。
「太宰さん、お久しぶりでした。元気でしたか?お会い出来てうれしいです」
まるで、本当の太宰治に会ったような気がした。田村が高校1年生の時だった。一人の女性を好きになった。その女性が読んでいた本の表紙を盗み見た。「人間失格」と書かれてあった。共通の話題が欲しかったのだ。その女性とは悲恋で終わったのだが、太宰を読むきっかけになったのだった。その女性が好きな太宰だったから、太宰を好きになったのかもしれない。
何の題名だったか、文の末尾がこんな文句で締め括られていた。
「読者諸君、絶望するな!太宰がついている…」こんなセリフを言える太宰をにくたらしいと思った。でも、この作家は信用できると思ったものだ。
何だか今日はいいことがありそうで、わくわくしてきた。午後からはファッション雑誌を見たが、川久保玲の服はなかった。最近の雑誌はカジュアル一辺倒のようであった。外人青年の出来上がりを待つしかない。彼に、ここを出たら飲みに行かないかと誘った。
「昨日のとこですか?」
「ノー、『女酒場』」と田村が云うと、青年はにっこり笑って「Good!」一度行ったと云った。一応ママに聞いてから出向いた方がいいと思って、11日の店に立ち寄った。
「あらー、今日はお友達と・・」ママの最初の一言は、「いらっしゃいませ」の常套句ではない。客に応じて千差万別である。
「こちらの外人さん初めてではないですね」
「ハーイ、3回目です。アラン・アシルと云います」
「あらー、いい名前ね。フランス人みたい」
「ハイ、フランス人です」
「今日は幸せね。正和とアラン・ドロンが来ちゃったみたい。で何にします?」
「ドロンはチューハイがいいです」アシルはもうドロンになっている。田村はハイボールを注文した。
「ママに聞きたいことがあるんだが・・」
「ハイ、探偵さんどうぞ」
「この店はどうして女の人は、入れなくしたの?」
「チョットした美人が入って来てね。嫌な奴だった。流し目送ったりしてさ。それで男が近寄っていくと、『なにさ』て、感じであしらうの。一人その女を叩いたアホな男がいてね、そのアホな男に殴りかかったバカアホの男がいてね、後は男たちの乱闘、店はメチャクチャ、もとはと云えばその女が始まり。元々、女の出入りは好きでなかったの。男同士、女に色目なんか使わず、天下国家を論じて欲しいの。女は私で十分。ここは私の店。私のコンセプトがあったっていいわよね。うちの家族は私には逆らえないからね。隣も、12日の町も右へ習えしたの」
「ママはいいけど、女の人が可哀想じゃないの?」
「そうよね、あなたみたいな優しい人がいるのよね。それで、出来たのが『女酒場』、経営はウチじゃないわよ」
「そこに今から行こうと思うんだけど、ママに、注意事項を聞いとこうと思ってね」
「正和さん、それはお利口ね。店の中では男と女の会話はお互い声が聞こえないの。筆談は文字が消えるのは言ったわね」
「昨日、消えなかったよ」と昨日の写した紙を見せた。
「いけねぇー、英語を消えるようにしていなかったわ。ともかく、身振り手振りで伝えるか、見つめ合って伝えるかしかないわね。見つめ合って・・素敵ね!それで十分じゃないの。楽しんできてね。ドロンと正和、もてるわよ」
15分も歩いただろうか、白い壁に紅いネオンで、『女酒場』とサインが入った店があった。店の造りはぐっと変わってポップ・モダンなパステルな色調の店であった。カウンターの向にはジャニーズ系の若者が白いカッターに蝶ネクタイで3名いた。丸テーブルはなく、正方形の小さなテーブルが置かれ、4つの脚長の脚が置かれてあった。広さは11日の酒場の半分程であろうか。その代わり、カウンターはママの店の倍ほどあり、そこに女性客がたむろしていた。
20代から40代ぐらいの客層で賑わっていた。空いている席を探すのに大変だった。二人座っているテーブルがあったのでそこに飲み物を持って座った。30少し前の女性が二人、一人はスレンダーなショートカット、もう一人はグラマラスなミディアムカットであった。二人とも美形だ。
黙って挨拶して、アシルがスキンヘッドの頭に手でそれぞれの髪型を描いて「Good!」のサインを送った。次に首から胸にかけて二人が着ているコスチュームを描いて「Good」のサインを送った。アシルはフランスでブティックをやっていた。さすがだ。二人はアシルの仕草にニッコリ笑いを返した。
ミディアムの女性が手帳を出して、一枚をちぎり紙飛行機を作って、アシルにどこから飛んで来たかを聞いた。アシルはストローを濡らしてテーブルの上にヨーロッパの地図を描いて、フランスの上にウイスキーの一滴を垂らした。ショートカットの女性は指でエッフェル塔を描いた。アシルは「Yes, Yes」と頷いた。田村の席は和んだ。伝えようと思えば伝えられるのだ。
田村はアシルのマネをして、ショートカットの女性にヘアースタイルの名前を訊いた。彼女は田村をじっと見つめて指をさした。「マニッシュ・ショート」だと言っているのだ。「Good!」のサインを送った。彼女はペコリと頭を下げて「ありがとう」を言った。アシルがミディアムの女性の髪に手をやり髪型を訊いた。彼女が指で何かを描いたが田村には判らなかった。アシルとミディアムはそれを機会に二人きりの席に移った。アシルはグラマラスが好みだったのだ。田村はホッとした。暫くして二人は店を出ていった。
残された二人は何を話そう。アシルのようにはいかない。田村は学校の先生をしていたことを伝えようとして、大きな校舎を描き、四角い黒板を描き、細長いチョークで黒板に字を書くマネをして、子供の頭を撫でるマネをした。「先生」書けば2文字にこれだけの体力を使う。12日のママが「少し疲れますけれど」と云った意味が分かった。彼女は胸の前で、指で丸い輪を作った。
疲れた。しばらく見つめ合った。こんなに見つめあったことってあっただろうか?マニッシュ・ショートカットの女性は最後に田村の手を取って、「指切り、げんまん」をして去っていった。「指きり、げんまん。嘘ついたらダーメよ」だろうか…「又、会いましょうだろうか」。田村の小指に彼女の小指の感触が残った。
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