7 『再び11日の酒場』


 頭が少し痛い、少し飲みすぎたみたいだ。昨日を思い出していた。男は先生を慰め、励まし、ビールをおごる。そして息巻く。先生はまたまた自虐の谷に落ちる。その繰り返しに田村は付き合わされたのだ。思い出しても笑えてしまう。

 揺れた。表に出た。外の惨状を見た。恐怖が走って妻と2階に上がった。揺れが治まった。すぐ逃げればよかったのに・・。ジャンパーの男は30分もあったと云っていたがそんなに時間があったのか・・?思い出せない。思い出そうとしたら、激しい頭痛がする。


 新聞をフロントにと思って・・そうだ、ここはなかったのだと思い出した。

田村には、新聞と朝の珈琲はセットものの習慣だ。どちらが欠けたって寂しい。手持ち無沙汰だ。

 新聞てそんなもんだった。いつの頃からだろう。昔は社説も読んだ。幾分、田村と見解が近い新聞を取っていたが、値上げを機会に妻の春海がY紙に代えたときだって、文句も云わなかった。三島由紀夫が「ニュートラルなつまらない日本人」とか云ったが、まさに新聞はそれに成り果ててしまっていた。ないから寂しいだけの物。すぐに慣れるだろう。


 昭和45年三島由紀夫は『私の中の25年』で、「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら『日本』はなくなってしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代はりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなってゐるのである。」と語っている。


 図書館に出向いた。行く所が出来たのは有難い。

受付嬢に「今日は、午前中は手伝います」と云い、「本はどこから持ってくるのですか?」と訊いた。

「海の深いところにいっぱい流されて溜まっているのです。救援隊が一緒に持ってきてくれるのですが、救助船は小さいから中々作業が進んでいないのです」と、答えた。


 以前(陸では)、図書館に勤めていたという女性が道具のセットを持って来た。本は乾燥室で乾燥され、傷んだ所を治すのだという。

「ああ、破れはセロテープで貼るんですね」

「みたいに見えますが、ページヘルパーといって劣化して黄色くなったりしないのです。だから、借りてる本が破けてもセロテープ貼らずにそのまま持ってきて欲しいの。破けたページを云って貰えたらなお嬉しい」

カッター、ハサミ、ピンセット、目打ちに定規これらはわかる。

「これはどんな時に使うのですか?」木槌を取り上げた。

「紙を折ったときに、厚みが出ないように叩いて仕上げるときに使うの」

「なるほど、これは?」と云って糸鋸を取り上げた。

「接着強度を増すために本の背に切れ込みを入れるときに使用。今まで見たことはないわね」あとは大体どんな時に使うものか田村にも分かった。特別なものはない。

 その女性が横に座って、それらを使って、破れ補修、ページ外れ補修、テープ等の剥がし方などを親切に教えてくれた。根はいるが田村には楽しい仕事に思えた。

「印刷所もないし、作家さんもいないみたいだし、本は大事にしないとね」とその女性は云った。メガネがよく似合う。

「図書館の女性って、どうしてメガネが似合う美人が多いんですかね」12日のママがうつってきた。

「わたし、コンタクトなんです」と受付嬢は・・云った。

「明日から来ます」

メガネの女性は「お待ちしています」と静かに答えた。


 午後からは宮本輝の『螢川』を読んだ。主人公が想いをよせる女性のワンピースの中にホタルの群生が入り込んで暗闇に灯りが点滅するラストのシーンが印象的だ。それと、主人公の少年の父が大阪で事業に失敗し、母と少年三人が冨山に落ちていく冬の汽車の中のシーンが思い出される。後は殆ど忘れている。


 4時からは酒場の時間だ。一応日課が出来たので少し元気が出た。起きて、職場に(田村にはそれが学校だったが)行って、居酒屋でチョット飲んで、家に帰って、「メシ、フロ、ネル」の日課。涙が出るほどありがたいものだと今更に思った。


「毎度」。3回目にしてお馴染みだ。ここのママは直ぐにそんな感じにさせてしまう。ママの向かいは、例によって、黒いジャンパーを着たトクさん。

ウイスキーのロックを注文した。

「あら、田村正和さんのおでましだわ」

「名前だけですよ。下はジュンといいます」

「そんな鍋の上に、水滴が落ったようないじましい名前はやめて、正和にしたら」

「そういや、横から見たらそっくりだ」革ジャンのトクさん。

なんだ、この店と客は「グルっぺか?」と思った。でも、帰ってホテルでゆっくり、自分の顔を改めて鏡に写して見ようと田村は思った。

「ゆんべ、帰りに娘が来てね、田村正和そっくりが来たって言うからさ、あんたのことだってすぐわかったわ」。二人のママには勝てない。


 トクさんと話しをすることにした。

「漁師をされていたとか。僕の親父も漁師をやっていました」

「兄さん、と云っても俺らとおんなじぐらいだんべ」

「39です」

「やっぱー、兄さんだ。俺らは38だ。こんママもおんなじ歳で学校も一緒だった」

「隣のママに聞きました」

「あいつ、何でも喋んだぁ」

「ここのママに『ほ』の字だってこともね」

「あいつ、そんだことまでぬかしたんだ」

「告白出来なかったこともね…」

「こんママ、今はこうだけど、高校時代は体操部で、レオタードなんて着ちゃってぇ、エレぇー綺麗だったんさ」

「今も綺麗だよ」とママが口を挟んできた。

「こん人さ、他の女の子には口は利いても、私には話しかけないんだっぺ、てっきり私のこと嫌いなんだと思っていたんさ」

「そこんとこ、切ない男の心を察するのが女でなかっぺかぁ」

「何が切ないだ。田村さんならわかるけど、おめぇーみていな無神経男にそんなもんあるとは思わなんだ」と云って、酒を注文するカウンターの端の男の方に行った。


「ママは高校出て、仙台の役所に勤めたんさ。一年は気仙沼にも帰ってきていたけど、そっから行く方知れずになって、ここの亭主、組合長らと一緒に東京さ行った時、銀座のバーでホステスしてて、バッタリ会たんさ。運命の出逢いだ。これは告白・・と思ったんだけど。組合長が『手を出すな!』と云ったんだ」

トクさんの切ない恋物語は終わった。ママにウイスキーの水割りを二つ注文して、トクさんと挨拶代わりの乾杯をした。

「ところで、お前さんの親父さんも漁師だって云ってたんべ」

「僕が小学校のとき海に出て、そのままになりました」

「そっか」とトクさんは云って、ウイスキーを飲み干した。

「こちらでは、救助隊の隊長をされているとか」

「ああ、目の前に魚は泳いでんのに取れねぇんだ。はがったらしくってぇー」

「本も回収されていると、図書館で聞きましたよ」

「うんだ、魚の代わりに本を捕ってんだ。ほんに切ないよ。ママー、ウイスキーふたつぅー!」

「どうして、魚は捕ってはいけないんですか?ここの干物や隣の刺身は?」

「海の人は魚と仲良くしなければなんねぇーから捕ってはいけないつぅーの。ここの食べ物は全部陸(おか)から来てんだぁ」

「誰かが買い付けてるんですか?」

「お金のかかることは、ぜーんぶ、あの人がやってくれてんだ」

「あの人って誰ですか?」

「特別の人、そのうち分かるから…」ママと同じ答えであった。

それ以上は、今日は訊いてはいけないと田村は思った。


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