4 『図書館』
田村はホテルを出て、図書館に向かった。フロントで訊くとすぐ近くだと云う。図書館は思ったより大きく、中は人でいっぱいであった。よく見ると読んでいる人は殆どいない。表紙を作ったり、何か修復作業をしているみたいだ。
受付で訊いてみた。
「午前中はあの作業をして、午後から読むことになっている」と受付嬢は云った。
「借りられるんですか?」と訊いた。
「もちろん。一人3冊までね。お客さん初めて?」
「ああ、そうですが・・」
「じゃー、あの作業は、今日はいいです。読んで貰っていいですよ」
受付嬢はいかにも「図書館です」という端正な顔立ちだった。
小説のコーナーに行った。借りる3冊とここで読む本を探した。日本文学全集、世界文学全集も揃っていた。現在の作家ものも揃っている。これでしばらく時間がしのげると思った。宮本輝の本があった。田村の好きな作家だ。『泥の河』『螢川』があった。かなりくたびれた装幀である。修復されて並んだものだろう。
この作家の作品も勿論好きなのだが、作家デビユーの顛末が面白い。本の後ろには作家の後書きがある。田村は本を買うときまずそれを見る。それが気に入って『泥の河』を読んだのが始まりだった。その後書きにはこんなことが書かれてあった。
急に雨が降ってきた。思わない激しい降りだったので、目の前にある本屋に宮本輝は飛び込んだ。当時話題になっていた作家の本が積まれていた。手に取って読んだ。「これなら俺でも書ける」と彼は思った。文学部を出ていたが、大学は適当に入れるところを選んだだけで、作家になろうとも思ったわけではない。小説は好きだったが、仕事に追われ、最近はとんと読んでいなかった。
彼は一つの問題を抱えていた。「パニック障害」である。満員電車に乗れない。やり過ごして少し空いた電車に乗っても頭痛がするようになっていた。サラリーマンである。通勤出来ないサラリーマンに女房、子供が養っていけるか・・将来に強い不安を抱いていた。
これだと決意した。家で出来る仕事。誰かに師事したほうがいいと思って、先生なる人についた。初めて書いた作品を持って行った。「いい出来だが、出だしを変えたほうがいい」と言われた。彼は出だしが全てだと思っていた。逆らうわけにもいかず、その原稿はお蔵にして、次作を持って行った。「これはいい」と言ってくれた。それが『泥の河』で太宰治賞をとる。次作にお蔵にした前作を出した。これが『螢川』で芥川賞をとることになる。人生何が幸いとなるかもしれない。生活のために作家になる決意をすることに田村は惹かれた。『道頓堀川』を入れて宮本輝の代表作「川三部作」である。
新しい本も今は読む気もしない。『泥の河』を読み直して見ようと思った。昭和30年の大阪。安治川の河口で暮らす少年信雄は両親から、近づいてはいけないといわれた舟に暮らす姉弟と交流を持つ。姉弟の母親は船上で春を売って口に糊していたのである。大人たちも切ないが、子供たちの交流も切ない、そんな物語である。
田村は小学校6年まで浪江町の請戸川の河口ベリで育った。前の河には船がいくつも停泊していた。田村の父はここで漁師をやっていた。がっしりした体格で腕のいい漁師だった。小学校6年の夏、沖に出て行った父はシケにあって海の人となった。そんなこともあって、『泥の河』の題の本を手に取ったのだった。
読みながら小栗康平の映画を思い出していた。映画は河口にかかる橋の風景から始まる。両親はこの橋の袂で小さな食堂を営んでいた。そこに毎日、馬車引きが一服入れにくる。時代はトラックに変わり、荷馬車は姿を消そうとしていた。一服入れた馬車引きは馬車を進め、橋の上で鞭を入れた。向こうから来たトラックに馬は驚いて横転し、馬車引きは荷車の下敷きになって死ぬ。それを見つめる少年…。
船に暮らす少年と知り合い、父に貰った50円硬貨を握り締め、二人は祭りの屋台店に出かける。落としてしまった50円硬貨、モノクロの祭りのシーンが綺麗だった。シベリア帰りの父を演じる田村高廣の父親が切なく良かった。船に暮らす少年の母親役の加賀マリ子が綺麗だった。これ一作を持って彼女は女優になった値打ちがあると思われた程だ。
小説も良かったが、小栗康平の映画はそれ以上に良かった。田村は、写真はネガポジがいいと思っている。田村のアルバムの両親の写真は途中からカラーに変わる。田村には一枚も白黒の写真はない。少年時代の両親と一緒の気に入っている1枚をパソコンで白黒変換して大事に貼り付けてある。そう言えばこの町もそれに近い。色は少なく、けばけばしさはない。3冊を借りて図書館を出た。
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