陽だまりのカミサマ 後編

 浅葱の周囲に、同年代の子供というのは案外少なかった。

 弟妹たちは当たり前だが自分よりも小さい子ばかりだし、その面倒を見るとなると、近所の子供たちと遊ぶというのもなかなか難しい。というより、そもそも浅葱が元気よく外で遊ぶというような子供ではなかったので、案外同年代の子たちとの交流は少なかった。誰かと一緒にいるということを厭うわけではないが、一人でも全く問題はないし、どちらかと言えば静かな時間を好むのが浅葱である。


 お前のそれは、許容と無関心だな、と評したのは年上の幼馴染だ。幼馴染は浅葱よりもひと回り近く年上であったのだけれども、若干十歳そこらで嫌な具合に達観している浅葱と問題なく付き合えるのが彼であっただけの話である。同年代の中で浅葱の淡々ぶりはそれなりに浮く。本人が気にした様子もないのが更に浮く。

 ちなみに先の台詞を頂戴した際、割と人のこと言えないよなぁ……と相手に対してそんな感想を浅葱は抱いた。要は根本的に似た者同士であったと言える。


 年上の幼馴染とは、もう随分と長い間会っていない。彼は浅葱が神代の家に入るよりもかなり前に生家から自立したので、最後に会ったのはいつだったか、と考えてみたところ思った以上に時間が経過している事実に今更のように気が付いた。


 俺はある意味お前が一番心配だぜ……と、元気が有り余って生傷が絶えない弟たちでもなく、世間知らずで騙されやすそうな他の子でもなく、間違いなく浅葱を指して幼馴染は言った。お前が一番危なっかしい、と。

 他にもいろいろと言われた記憶がある。基本的に彼は口が悪かった。言葉が足りていない部分もあった。けれどその割に面倒見は悪くなかったので、周囲に人が集まりやすいひとでもあった。善人か悪人かで分類するのであれば、善人ではあったのだろう。


 浅葱は、その幼馴染といつも一緒にいたというわけではない。ただ、気が付けば一緒にいることも多かったし、彼の傍はひどく楽だったような記憶があるのも確かだ。彼は浅葱のことをよく理解していたような節がある。天然たらしだの無自覚問題児だの、それはもう好き勝手な言われようだったが、大体間違っていなかった辺りが何とも言えない。幼馴染の口の悪さもひどいが、その暴言を実践してしまっている浅葱もひどい。


 思い出はいくつもある。今よりも更に幼かった浅葱の中にも残っている、いくつもの言葉。ふとした瞬間に幼馴染の言葉を思い出すことが多いのは、やはり印象が強いからなのだろう。彼の言葉は、よくも悪くも残る。残るけれど、浅葱はあまりそれらを気にしない。深く考えない。己の中に残るそれを、時折なぞるように取り出すばかりである。

 今更だけれども、浅葱はそう驚くといったことがない。上にも下にもぶれにくい感情の振り幅は、浅葱を驚きから遠くした。


「……あと、一応これも言っとく」


 けれど、それでも。

 己の中に残っている言葉を思い出しているその瞬間に、思い描いている通りの声が聴こえれば。



「そいつが神代の当主、っつーのも ―― まぁ、嘘偽りなく本当のことなんだよなぁ……どういう訳だか」



 さすがに、浅葱だってちょっとは驚くのだ。



「……おお」



 例え口から飛び出したのが、これでもかというぐらいの棒読みの感嘆であったとしても。



「おお、じゃねーわ。この阿呆」


 低く唸るような声を返したのは、眼光鋭い男 ―――― 紛うことなく己の幼馴染である。精悍な、と表現しても良いだろう整った顔立ちなのだが、目付きの悪さで大分損をしている。睨むような視線と眉間の皺はもはや仕様だ。


 今も変わらず目付きが悪いんだなぁ……と、口にした瞬間に殴られそうなことを考えた浅葱は、直後思考の強制終了を余儀なくされた。

 何のことはない、いつの間にか歩み寄っていた幼馴染に顔面をがっちりと鷲掴まれただけの話である。


「お前が神代の当主になったとか、何だそれ意味判んねーぞこの野郎」

「いたたたた、痛い、痛いって、常磐兄」


 みしみしと、顔面が有り得ない音を立てている。台詞を細切れに口にする度に、ますます指に力が込められるのだからたまったものではない。当然の如く、いたいいたいと声を上げた浅葱に、幼馴染 ―― 常磐(トキワ)はハッと鼻で笑ってみせた。


「棒読みで言ってんじゃねーわ」

「いたたたたたた、いや、ほんとまじで痛い」


 浅葱としては本気で痛がっているのだが、悲しいかな、声に感情が乗らない。

 自分の頭から洒落になってない音がする……と割と他人事のような感想を抱いたその瞬間、唐突にぱっと手が離された。解放され広がった視界の中で、眉間に皺を刻んだ常磐の姿が見える。不機嫌というよりはむしろ呆れられている……、と浅葱が察したのと同時にため息が落とされた。そのため息と同時にがしがしと乱暴な仕草で頭を撫でられる。これもまた、随分と懐かしい仕草だ。


「……で?」

「うん?」

「何か俺に言うことは?」

「え? ……久しぶり?」

「そうじゃねーだろが」


 びしり、と容赦なく額を指で弾かれた。普通に痛い。

 今更であるが、紛うことなく自分の幼馴染である。こんなところで会うとは思わなかった。浅葱自身もちょっと驚いたが、周囲はもっと驚いたらしい。唐突に乱入してきた常磐を咎めるどころか、目の前の光景を処理し切れていない様子でぽかんとしている様が何だか面白くて笑ってしまう。青嵐や瑠璃は、そういう顔をしていると幼く見えるなぁ……と微笑ましく思う傍らで、あ、ご当主様が大人しくなったこれで話の続きが出来るぞー、などと考えている浅葱は大概だがこれで通常運転である。そして話の続きはまだ出来ない。当主が喚くことはなくなったが、目の前にいる幼馴染の視線にまったくもってお許しの色が出ていなかったからだ。常磐は上から浅葱を睨み付けながら問うた。どういうことだ、と。


「何をどう間違って、お前が神代の当主なんていう愉快なもんになってんだよ」

「え、死に掛けた後に目が覚めたらいつの間にか?」

「……ほんっとにわけの判らんやつだな、お前は」


 何かさっきも言ったなこの台詞、と思いながらとりあえずの説明を試みれば、呆れきった眼差しと共にそんな言葉を頂戴した。内容はともかく、手をわきわきさせるのは止めて貰いたいなと浅葱は思う。さすがにまたあの鷲掴みの圧力を体感したくはない。


 だがしかし、更なる説明を求められても……、


「…………成り行き、と……朱緋、というか、籐条の暗躍的な?」


 うん、そんな感じ、と頷いた浅葱に、常磐は何とも言えない表情になった。何だそれは、ではなく、ああ……あいつが……、というかあそこか……という納得の表情だった。うん、あいつであそこです。


「ああ、それで…………あの野郎」

「うん?」

「いや、こっちの話だ、気にすんな」


 気にするな、と言われたら本当に浅葱は気にしない。常磐が気にしなくてもいいというのなら、それは自分には関係のない話なのだろうとあっさりと頷いた。


 そもそもの話。結果として神代の当主の座に収まっているものの、今もって浅葱は何をどうすればそんなことになったのかが理解できていない。むしろ理解出来なくて正解という気がしている。


 朱緋も何考えてるのかいまいち判んないしなぁ……と、自分を棚上げしたことを考えたところで ―― あれ? と思った。

 何故常磐は、納得できてしまったのだろう、と。


 籐条の名を知らぬ者はそういないだろう。五家の名前は、その辺の子供でも知っている。

 けれど、そこにいるカミサマの名を知っている者がどれ程いることだろうか。ましてや、その人となりを語れる者など。


 浅葱の身に起こった理解不能な出来事を、さもありなんとばかりに受け入れてしまった常磐の反応は、確実に朱緋を、籐条の家を知っている者の反応である。どこでそれを知り得たというのか。

 あれ? と首を傾げる浅葱に、常磐は今更、と鼻を鳴らした。


「そもそもお前、俺がここにいる理由の方を考えた方がいい」

「え?」


 言われて、少しばかり考える。

 ここは、鶴来の屋敷だ。しかも、正門入ってすぐの庭のど真ん中。

 …………あ、普通の人間には立ち入り不可能な場所だった。

 屋敷の中には必要に応じて業者なども出入りするだろうが、それらはおそらく裏手の方からしか入っては来ない。正面側に堂々と立ち入れる者と言えば、家人の中でもそれなりに限られるだろう。あるいは、客人であれば確実にこの場所を通る。


 浅葱は、もはや道場破りよろしくここへとやって来た。完全に行き当たりばったりの行動だった。その自覚はある。

 だが常磐はきっと、正式な客人なのだろう。彼を案内する途中だったらしき使用人の姿も見える。

 視線を移せば、ようやく衝撃から立ち直ったらしい当主が、こちらを苦々しげな表情で見やっていた。唐突に現れた常磐に対して言いたいことがあるような様子だったが、誰だと誰何するような様子は見受けられなかった。これは知り合いで確定であろう。そもそも当主が瑠璃と共にこの場に姿を見せたのは、常磐を出迎える為であったのかもしれない。

 ということは、つまり……、


「……青嵐」


 こてり、と首を傾げた浅葱は、傍らのカミサマの名前を呼んだ。ああ? と青嵐が顔を上げる。柄は悪いが、きちんと返事をしてくれる辺りは律儀である。


「んだよ?」

「青嵐は、常磐兄のこと、知ってる?」


 というか、見たことある? と問い掛ければ、何とも言えない奇妙な表情を返された。


「さすがに、知ってるぜ」

「さすがに、見たこともあるわね」


 瑠璃もそう言い添えた。やっぱりそうか、とさして驚きもせずに浅葱は頷いた。

 あれ? と首を傾げていた疑問は、もはや確信へと変わった。


 鶴来のカミサマたちは、駆け落ち未遂以降、極端に外界との接触を減らされている。狭くなった世界で、それでもさすがに、と断言される相手。これで気付かない程に、浅葱も鈍くはない。


 鶴来の家に、客としてやって来れる者。そして、双子のカミサマをもって『さすがに知っている』と言わしめる者。


 ―――― 自分の知らない五家の当主は、あと一人。


「……常磐兄」


 うわぁ、と平坦に呻きながら浅葱は幼馴染を呼んだ。



「俺、常磐兄が『吾妻』の当主になったとか、まったくもって聞いてない」



 つまりはそういうことであろう。

 辿り着いた結論を口にした浅葱に、常磐はふっと笑みを浮かべてみせた。そして。


「言う暇もなかったし、何より訊かれなかったからな」


 しれっと悪びれもせずにそう口にした。

 所詮は浅葱も常磐も似た者同士なのである。








     *  *  *


 常磐が吾妻の家の当主になったのは、数年前の話だ。奉公人として吾妻の屋敷で働いていた常磐に、穏便に当主の座が転がり込んできた。


 正確に言えば穏便だったのは前当主と常磐の間だけで、周囲は結構な混乱の渦に叩きこまれていたのだがその辺はばっさりと割愛しよう。ただ、浅葱の就任過程よりは段違いに穏便だったのだが、通常の代替わりとは程遠かったことだけは確かである。

 紆余曲折がなかったとは言わないが、今はこれといった波風もない。常磐は他がどうであれ、とりあえず吾妻が安定していればいいかという考えをしているし、そういう部分はとても浅葱の思考と似通っている。


 だがしかし、さすがにそんな驚きの出世をしているとは思わなかった、というのが浅葱の弁である。その辺に関してはお互い様すぎるので、常磐の反応はと言えば鼻をひとつ鳴らしただけだった。


「馬鹿じゃないんですか。貴方が言っていい台詞じゃないでしょう」


 そんな常磐の代わりに、浅葱に噛み付いた声がひとつ。

 聞き覚えのない声に、浅葱はぱちりと瞬いた。見れば、今の今まで常磐の影になっていて気が付いていなかったのだが、小柄な少女がそこにいる。ふわふわとした少し癖のある髪を肩上で切り揃えた、雰囲気の刺々しい少女。少女にしてはきつめの眼差しと掛けた眼鏡の相乗効果か親しみやすさというものには欠けているが、十分に可愛らしいと言ってもいいだろう。


 浅葱へと向けられた台詞に可愛気といったものは皆無だったが、噛み付かれた当の本人は特に気にした様子もなく、んー? と首を傾げている。

 見覚えのない、少女。だが、付き従うように常磐の傍にいる、といえば……、


「吾妻……の、カミサマ?」


 ということだろうか? と少女を指差しながら問い掛けた浅葱に、青嵐は呆れきった眼差しを向けた。


「いや……そうなんだけど……その確認の仕方はやめてやれ」

「え?」

「ちょっと!? 人を指差さないで貰えますかっ? 礼儀がなってない、不愉快です!」


 ぺしん、と向けていた人差し指を払い落とされた。同時に、きっ、と睨まれたが特に怖くはない。確かにこれは自分が悪かったなぁ、と浅葱は赤くなった指先をそっと下ろして、ごめんなさい、と頭を下げた。


「うん、俺が悪かった。ごめん」

「っ、べっ……別にっ! 判れば、それで……っ」

「で、吾妻のカミサマ、名前は?」


 なに? と前後の脈絡なく問う浅葱に、少女は一瞬毒気を抜かれたようにぽかんとした表情になったが、すぐに貴方に教える義理はありませんっ! とつんっとそっぽを向いた。


 良くは判らないが、友好的とは言い難い。そんなつんけんとした言動を前にして、浅葱が覚えた感情は不愉快でも怒りでもなく懐かしさであった。あー……何か出会ったばかりの頃の琥珀がこんな感じだったなぁ……てなものである。


「教える義理はあるだろう。こいつも五家のご当主様だ」

「なっ! あっ、貴方誰の味方ですか常磐!」

「一般論だろ。ああ、あとな……」

「んー……じゃ、とりあえず吾妻のカミサマって呼ぶな」

「はぁっ!? 何を……」

「だって名前呼べないのはさすがに不便……」

「っ、もうっ! 若葉です!」


 半ばやけくそのように返した少女 ―― 若葉(ワカバ)に、そっか、と浅葱は頷く。それに対して若葉は何か言いたげに口をはくはくとさせていたが、怒鳴る代わりに自家の当主を振り返ると何なんですかこいつは! と目で訴えた。その訴えを正しく理解し、常磐は笑う。


「お前の態度も、こいつにゃ無駄だ。突っ掛っても受け流されるだけだし、逆に恥ずかしい思いをすることになりかねんぞ」

「意味が判りませんっ!」

「えーっと……若葉?」

「馴れ馴れしく呼び捨てにしないで頂けますかっ?」

「えー…………若葉ちゃん?」

「っ! 若葉で結構です!」


 反射で拒否を返した若葉と、呼び捨てでなければいいのかと結論付けた浅葱の攻防は、一瞬で決着がついた。言わずもがな、浅葱の圧勝である。ほらな、そういうのだよ、と常磐はまた笑った。


「で……えーっと、何だっけか? 自由に会う権利、だったか?」


 そんな話してただろ? と問われて、ああそういえば、と浅葱は頷く。すっかり存在を忘れていた鶴来の当主へと視線を向けた。というか、常磐は一体どこから話を聞いていたのだろうか。

 浅葱に、そして常磐に視線を向けられた当主は、一瞬気圧されたようにぐっと顎を引いた。そんな相手に、常磐が口元だけで笑って見せる。


「いーんじゃねぇ? 会うでも遊ぶでも好きにさせれば」


 声も、瞳も笑ってはいない。妙な迫力を持って投げられた言葉に、当主は苦々しげな表情を隠そうともせず眉を顰めた。


「……他家への介入はお控え願いたい」

「へぇ? 最初にがっつり余所様の家へ手出ししたのはお前の方だろうに」

「……っ」


 当主の固い声など素知らぬ顔で、常磐が笑う。駆け落ち未遂、そこからの接触禁止。先に手を出したのはどちらかと。せせら笑う、という表現がぴったりなその様子に、わぁ辛辣、と緊張感なく浅葱は思った。双子のカミサマがどこか居心地悪げに身じろいだが、大丈夫、あれ別にカミサマたちを指しての言葉じゃないと思う。気にする必要はない。


「鶴来の神を、どう扱おうと……」

「神はお前の『もの』じゃない」


 浅葱も告げた言葉を、繰り返すように常磐は口にした。何を勘違いしている、と問う声は冷え切っている。


 ものじゃない。怒って、泣いて、笑う。普通のひとでしかない。

 そのことを、浅葱は知っている。知っているからこそ、言葉にして告げたのだ。それを同じように口にして、常磐は瞳を細める。


「成程、成程。それが道理だ。俺はそれに同意するぜ」

「な、にを……」

「―――― 浅葱」


 何かを言い掛けた当主をさっぱりと無視して、常磐は浅葱を呼ぶ。力のこもったその声に、浅葱は顔を上げた。


「なに?」

「お前、籐条と縁からの見極めは終えてるんだろ?」


 問い掛けに、しばし考える。見極め、という単語を聞くのは、何もこれが初めてではない。以前行われた顔見せの場でも言われた覚えがある。籐条は神代の先代が死んだその時に、縁は迷い家にてそれを終えたのだという。―― 見極めを終えて、承認すると。

 うん、と頷いた浅葱に、常磐は唇の端を持ち上げる。ならいい、と素っ気なく返して、けれど言葉とは裏腹に楽しげに笑った。


「お前が『こちら側』に来るとは思わなかったが、まぁいい。吾妻は神代の新しい当主を承認しよう」


 向けられた言葉に、浅葱はぱちりと瞳を瞬いた。今更……今更、なのだが。


「え、いいの?」


 そんなに軽くていいのかと問うた浅葱に、構わねーだろ、と常磐は飄々としている。


「お前がどういう奴かなんて既に知ってる。それで十分だろ」

「そういうもの?」

「そ。そういうもん。お前がそれを裏切らなきゃいいだけさ」


 裏切る、というのがどういう状態を指すのかいまいち判らなかったが、まぁいつも通りでいいということだろうと結論付けて浅葱はそっか、と頷いた。

 両者共に非常に軽いやり取りで事を終えているが、先程から若葉が本当にそれでいいのか、とでも言いたげな表情でこちらを見ている。が、常磐の決定に意を唱えるつもりはないようで、最後には諦めたようにため息を吐いた。その際、浅葱は睨まれたが特に問題はない。むしろ微笑ましく見やってますます睨まれたが問題はない。


 承認? と訝しげな表情をしている当主に、ああやっぱり知らないんだな、と浅葱は思う。鶴来は他家に承認されていない、という事実に特に驚きはしなかった。疑問よりもむしろ納得しかない。


 常磐とのやり取りの前後で、特に何かが変わったという実感は浅葱にはなかった。見える世界が変わるのだと言われたが、以前の顔見せの際にもそう変化があったようには感じられなかったのでそういうものなのだろう。ただ、異能などとは縁がなかったはずの浅葱がそれなりの強い力を手に入れたのは確かだ。自覚なく手のひらから零れた力は、光となって煌いて消えた。それが、浅葱が己に備わった異能に気付いた一番最初のことだ。

 唐突に自分の内から溢れた力に慌てることもなく、おお……と平坦な声を漏らした浅葱は、これ夜道とかで便利そうだなと呟いた。そういう問題……? と琥珀に奇妙な表情をされたが、浅葱にとってはその程度の認識しかない。もう若様はそれでいいと思うッス……と、千歳には妙に遠い目で言われた。それでいいと言うならいいか、と浅葱は気にしない姿勢である。


 何かが変わった、という感じはしかなった。けれど、何かが違うのだろう、と思う。


「先程から、何の話を……」

「浅葱」


 またしても当主の台詞を遮り、常磐は浅葱を呼んだ。そしてあっち、と指で差し示した先は双子のカミサマの姿。双子がどうしたというのか、と首を傾げた浅葱に、常磐は簡潔に告げた。


「もう、お前にも見えるだろ」


 あれ、と更に常磐は指を差す。礼儀にやかましいはずの若葉が、常磐のそんな行為に苦言を呈すことはなかった。うん? と思いながらも、浅葱は素直に常磐の指先を追って瞳を凝らす。


(……あ)


 黒い靄。


 最初に見えたのは、それだ。先程までなかったはずの靄が、ぐるりと双子を取り囲むように渦巻いている。絡まり付くようなそれからは、あまり良い感じがしなかった。知らず眉を寄せた浅葱に、常磐が喉の奥で笑う。


「よしよし、見えてるみてぇだな」

「常磐兄、何あれ?」

「あれが双子に掛けた……呪いみたいなもんだな」


 あれ、と常磐が目線を向けた先にいたのは当主である。もはや人扱いされていないが、そこは浅葱は気にしない。


「呪い……?」


 そう、気になるのはそこだ。

 その言葉に、当主がサッと顔色を変えたことも、双子が嫌そうに顔を顰めたことも、若葉の視線からすっと温度が消えたことも、常磐の瞳が全然笑っていないことも。

 つまりは、そういうことなのだろうと、思う。

 呪い、と常磐がそう呼んだそれが良くないものであることぐらい、浅葱にだって判る。黒い靄は、双子を邪魔するようにぐるぐると絡み合っていた。実際の動きを阻害するものではないのだろう、双子からその靄は見えていないようだった。が、双子が浮かべた表情から、呪いの存在は知っているのだな、と思った。


 思わず浅葱は靄へと手を伸ばす。特に感触はなく、靄が払われた様子もない。んー、と手を二・三度開閉させれば、その様子を見ていた常磐がくつりと笑い声を上げた。


「さすがにそう簡単には掴めねぇよ。そこにいるご当主サマが、己の保身を掛けて全力で神へと付けた『鎖』だ」


 どう考えても煽っているとしか思えない物言いに、それはもう思惑通りに鶴来の当主が煽られている。怒りの為だろう、常磐へと向ける当主の顔色は真っ赤だ。頭に血が上りすぎているのか、開いた口ははくはくと空気を吐き出すばかりで音にはなっていない。

 判り難いようでいて、随分と真っ直ぐに表現されたそれに、浅葱はああ成程そういうものなのか、と納得した。うん、俺、常磐兄のそういうとこ嫌いじゃない。


 カミサマが、自分の思い通りになると、当主がそう思う理由。

 黒色の、あまり良くないもの ―――― 双子のカミサマを、ここへと縛り付けるもの。


「おま、え……っ、なにを……!」

「なぁ、浅葱。それはお前にとって必要なものか?」


 己へと向けられた怒りを、そよ風程度にも感じていない涼しげな面持ちで常磐は問うた。


 考えるまでもなく、答えは出る。

 これは、いらない。

 ここに来た目的を考えると、とてもとても邪魔なもの。


 そもそも浅葱は、双子のカミサマたちの自由を奪い取る心づもりで鶴来の屋敷へとやって来たのだ。元より穏便に、などという思考は抜け落ちているし、穏便を重視するのならば鶴来の屋敷に乗り込まない。一番最初の段階で、そんなものは遥か彼方へと投げ捨てている。


 ふるふると首を横へと振った浅葱に、常磐は笑んだ。それはきっと、心からの笑みだった。


「それなら構うこたねぇ。やっちまいな」


 どこの悪役かという台詞を口にする。性質の悪いことに、とても似合っていた。お前の望むままにやってしまえと、けしかけるような声にうんと頷く。


 黒い靄。

 先程は掴めなかったそれを、常磐は呪いだと、鎖だと言った。

 カミサマを、繋ぐためのもの。縛り付けているもの。

 それならば。


 浅葱は、迷いなく手を伸ばす。ゆらり、ゆらりと蠢いていた靄が、不意にはっきりと形を持った。指先に、確かな感触が返る。


「お、おい……?」

「ちょっと、貴方、何を……」


 戸惑ったような声を漏らす双子に、うん、と少しだけ笑い掛けて。

 浅葱は、手の中の感触に目いっぱいの力を込めた。


















     *  *  *



「……で?」

「うん?」

「そのまま、ぶちっ、とやっちゃった、と……」

「うん」


 いい音がした、と頷いた浅葱の頭を、千歳は叩きたくて仕方がない。何でちょっと得意気なんスか若様。


 浅葱が屋敷内にいないことに気付いたあの後、もおおおおおおぉっ! と喚く千歳と、事態を把握して、えっ……と絶句した琥珀を他所に、朱緋は淡々と手を打った。このまま高みの見物するのも楽しそうではあるんだけどね、と前置いたそれはまず間違いなく本気であろうが、突っ走った浅葱を放置する方が危険と判断したらしい。行動力と決断力のある若様危険、と千歳は遠い目で呟く。ほんと手に負えない。


 朱緋の打った手は至って簡単、元々鶴来の家へ訪問予定のあった吾妻の当主に浅葱の回収をお願いしただけである。言葉にするとそれだけなのだが、内容が結構酷い。当主に当主を迎えに行けという字面が既に酷い。朱緋としては、顔合わせもまだだったし、ちょうどいいかと思って、とそれぐらいの軽さで依頼したようだ。まさか派遣した吾妻の当主が浅葱の顔を鷲掴みにするとは思っていなかった、とは朱緋の嘘偽らざる本心である。さすがにそこは予測できなかったよ、と朱緋は面白そうに笑っていた。双子ちゃんたちに掛けられてた縛めを千切って帰って来るのは予測してたんスか、とは訊けない。肯定されそうなので怖くて訊けない。


 結論から言えば、浅葱は無傷で帰って来た。これは、目出度い。それはいい。

 帰って来た、というか連れて帰って来られた、という状態だったのは、何のことはない浅葱の意識がない状態だったせいである。とは言っても危険な状態ではまったくなく、平和な寝息が聴こえてきたので、とりあえず千歳は浅葱の額をべしりと叩いた。同様に琥珀もべちべちと連打していた。判る、これはちょっと腹立たしい。ただ、それだけ叩いても起きる気配もなかったので普通の眠りとはまた違うということは理解したが。


 力の使い方もよく判らん状態で無理に呪縛を解いたからだな、疲れ果てて寝てる。寝かせといてやれ、と浅葱を渡された相手が吾妻の当主だったことに当然驚いたのだが、それよりも事の経緯の方が驚きに満ちていた。鶴来で何やらかして来たんスか若様。ちょっともう千歳にはよく判らなかった。

 一晩経って、すっきりと目覚めた浅葱にお説教をしつつ詳しい説明を求めたのだが、余計によく判らなくなった。ぶちっとやった、ってなんだ。そんなお気軽にやれるものなのか。


「まぁ、お気軽に出来るものではないね」


 くつくつとひどく楽しそうに笑うのは朱緋だ。事後確認という名目で、本日も彼は神代の屋敷に入り浸っている。


「えー? でも朱緋も出来るだろ、あれ」

「出来るけどね」

「出来るんスか……」


 基準おかしい……と呟いた千歳には構わず、朱緋はのんびりと手にしたお茶を啜った。


「純粋な力の強さと想像力。それさえあれば誰にでも出来ると思うよ」

「……へぇ」

「浅葱はあの呪縛を解くのではなく千切りたい、と思った。だから、簡単に千切れそうなものに呪が固まった。後は純粋に力技だね」

「ああ、うん。絡まってるのいちいち解くの面倒臭そうだし。ぶちっとやれないかな、とは思った」

「うわーい、若様男前―ぇ……」


 何だかもう全部がどうでも良くなって、千歳は投げやりな声を上げた。もういい。うちの若様男前だ。あと雑。雑すぎる。


「まぁ、力の使い方と加減を早く覚えることだね。何かをやらかす度に倒れてるんじゃ、また琥珀も泣くよ」

「あー……うん。頑張る」


 そこは素直に浅葱も頷いた。何せ朝起きてすぐに、涙目の琥珀と対面したばかりである。あれは結構心臓が痛い。自分が原因だと思うと尚痛い。浅葱にだってそれぐらいの情緒はあるのだ。


「素直で結構。頑張りたまえ」


 おおよそ同年代に向けるとは思えない台詞を吐いて、朱緋はことりと茶器を縁台に置いた。


「あと……今回頑張った結果があれだと思えば、まぁ、次も頑張れるんじゃないかい?」


 あれ、と言いながら朱緋が投げた視線の先を浅葱も追う。そこに在ったのは、カミサマたちが仲良く団子になって眠る姿だった。


「いやー、平和ッスわー」

「ああやってると、青嵐ですらも年相応で可愛らしいね」

「朱緋様はご自分の年齢を思い出した方がいいッス」

「え? 青嵐も十分素直で可愛いと思うぞ?」

「若様にかかれば、誰も彼も大体可愛い分類になっちゃうんでもういいッス」


 朱緋の訪問と前後するように、緊張の面持ちで神代へとやって来たのは鶴来の双子のカミサマだった。

 神代の門を潜り、本当に来れた……と呆然と呟いていたのが印象的だった。今までは己へと掛けられていた呪のせいで、神代の屋敷に近付くことも出来なかったらしい。浅葱が引き千切った呪縛は、確かにカミサマたちに自由を与えたようだ。


 浅葱は、常磐曰く無理な力の使い方をしたせいで、疲労からそのまま綺麗に寝落ちてしまっていたので、あの後の騒動など何も知らない。鶴来の当主が怒り狂っていたらしいが、それは別にどうでもいいかな、と思っている浅葱である。ただ、八つ当たりされるようなら逃げて来い、と双子には家出を推奨しておいた。


「ああ、そうだ。伝言を預かって来たんだった」

「え、面倒なやつは聞きたくないけど」

「安心していい、平和なものだよ。竜胆から」

「竜胆?」


 唐突に出された縁のカミサマの名前に、浅葱はきょとんと瞳を瞬かせた。伝言?


「『今度そっちに遊びに行くから、また飴ちょーだい』だそうだ」

「わー……ほんとに平和極まりなかったッス……」

「飴玉……だけっていうのもなぁ……。何かお菓子あったっけ?」

「若様、多分気にしなきゃなんないのはそこじゃないッス」


 いつからうちはカミサマの溜まり場になったんスかねぇ……と言いながら千歳は立ち上がった。呆れたような口調ではあったが、口元に履いた笑みはどこまでも柔らかい。何か掛けるもの取ってくるッスー、という千歳を、行ってらっしゃい、と浅葱は見送った。


「それにしても、よく寝てるねぇ」

「寝てるな」


 ぽかぽかと陽のあたる縁側で眠るカミサマたち。先程まで額を寄せ合って何かを話していたと思うのだが、気が付けばあの有様だった。まぁ、陽射しが気持ちいいもんな、と浅葱は茶を啜りながら思う。ぽかぽかの陽だまりには、抗いがたい力がある。



 陽だまりの、暖かさ。


 その温度を思わせる光景に、浅葱は瞳を細めて小さく笑った。


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