繋いだ手と手 2

 不意に、息苦しさが無くなった。急に肺へと送られてきた空気に、浅葱はげほごほと咳き込む。トン、と足元に地面の感触がして、そのままずるずると壁伝いに床へと座り込んだ。  

 今の声……と生理的に滲んだ涙を払うように瞬けば、視界に眩いばかりのきんいろが映った。  


 何故か今の自分みたいに、げほごほと身を折って咳き込んでいる男の目の前に。  

 きんいろの、お日様のひかりみたいな。


「こ、はく……?」  


 何で、ここに……と呟いた声に、きんいろの小さなカミサマはちらりと視線を寄越して、またすぐに男へと向き直った。すぅ……と瞳が細まる。  

 うわぁ、絶対零度、と浅葱は内心で呟いた。さすがに声には出さない。先程まで締め上げられていたせいで喋るのもしんどいという理由もあるのだが、最低限の空気ぐらい浅葱だって読む。多分、今は口を挟んでいいところではない。  

 何か前にもこんなことがあったような……? と思い、すぐに双子のカミサマによる拉致事件を思い出した。あの時の琥珀も怒っていて大変に怖かったのだが、現在の琥珀はその比ではない。  


 怖い、という感情さえも浮かんでこない。激怒と呼ぶにも生温い空気。

 そんなものを真正面から向けられた男は、ひ……と小さく悲鳴のような声を上げた。が、直後そんな自分を恥じるように眦に力を込めて琥珀を見返す。  

 無駄に頑張るなぁ……というのが、一連の流れを見ていた浅葱の率直な感想である。思考に余裕が出てきたせいか、暢気さ加減が戻って来た。  


 通常運転の状態で、浅葱は思う。  

 カミサマ、やばい。

 何がどう、とかいう以前に、とにかくやばい。  


 新入り下男終了のお知らせ、なんて、そんなふざけた単語がふと脳内を過ぎる。触れれば切れるような、そんな鋭利な怒りを纏った琥珀の背中を見やり、続いてその場に踏み止まってはいるものの完全に迫力に押し負けている男の姿を見た。浅葱は意味もなくひとつ頷く。……うん、笑えない。本気で終了のお知らせが出てる。  

 けほ……と遠慮がちに咳き込んだ浅葱の視線の先で、琥珀は男に向けて子供とは思えない程冷ややかに、この上なく綺麗に微笑んだ。  

 あ、と浅葱は思う。あ、駄目だ。これは、まずい。駄目だ。  

 警戒のような、焦燥のような。自分でも判別の付き難い感情を抱えた浅葱とは裏腹に、男はよく判っていないような瞳で琥珀を見た。自分がどうして目の前にいる子供を恐れたのか、全く理解していない表情だった。男の覚えた恐怖は、本能として正しかっただろう。生き延びる為に、怯え逃げようとする姿勢は間違いではない。けれど、その根本を理解していなかった男は、そんな自分の行動に苛立ち、本能的な恐怖をねじ伏せ虚勢を張った。  


 男は、理解していなかったのだ。  

 目の前にいる小さな子供が、この神代の家のカミサマであること。  

 カミサマは、神と呼ばれる程強い【異能】を持っていること。  

 畏怖を忘れ、自らの力を過信し、何ひとつ理解していない男に、琥珀は冷ややかさを増した笑みを向けた。


「―― お前、誰に、死ねって……?」  


 つい、と軽く指先を振る。ただそれだけの動作だったにも関わらず、ガッ……! と何かがぶつかる鈍い音がした。直後、男から聴こえた短い悲鳴と、床へ叩きつけられたその身体に、何が起こったのかをぼんやりと浅葱は知る。  


 【異能】というものを、浅葱はこれまで直接目にしたことはなかった。  

 そういうものがあるということは知っている。カミサマたちが桁外れに強いその【異能】を手にしていることも、絶対数は少ないが他にも【異能】を使える人間がいることも知っている。けれど、知っているのと実際に目の当たりにするのは大違いだ。  

 見えない何かに、押し潰されているようだった。自分の喉の辺りを擦りながら、浅葱は先程まで自分へと振るわれていた力に対してそう思う。見えない、という部分は同じだけれど、今目の前で琥珀が振るっているその力は、それよりも重い、と感じた。多分、純粋に強い。何ひとつ知らないはずの浅葱でさえ、そう感じ取れる程に。


「ねぇ、お前、誰に向かって死ねって言ってたの……?」  


 冷ややかに笑んで、琥珀は言った。男に白い指先を向ける。今死ぬべきなのはお前だろう? と。  

 冷たい、冷たい、声が告げた。これに比べれば、氷でさえも温度があるだろうと浅葱は思う。  

 駄目だ、と思った。ただ漠然とそう思った。これは、駄目だ。止めないと。  

 が、しかし。それまで痛めつけられていた浅葱の喉も身体も本人の認識以上にガタが来ていたらしく、咄嗟には掠れ声さえ出なかった。その上、腕を持ち上げることさえも億劫で、とてもじゃないが止められそうにない。  


 格の違いを感じ取れなかったのか、それともただ認めたくなかっただけなのか。男が大きく舌打ちをして、琥珀を睨み付けた。


「うるっせぇっ! 弱ぇ奴に死ねつっただけだろうが! それの何が悪い!」  


 吠えるように声を荒げ、男は腕を振り上げる。そしてそれを振り下ろした刹那、ぶぉん、と空気を切り裂くような音がした。  

 不可視の力。浅葱には何が起こっているのか知る術はなかったが、それでも男が【異能】を使って攻撃し ―――― 琥珀がそれを、冷えた微笑みを浮かべたまま阻んだことだけは判った。パキィン! と薄氷が砕けるような音が周囲に響く。


「ふぅん……?」  


 ゆうるりと唇の端を持ち上げた琥珀は、次の瞬間それまで浮かべていた表情をすべて消した。


「この程度で、死ねって言ってたの?」  


 私に、傷を付けることもできないで? と、冷ややかな声が問いを重ねる。


「っ、くそ……っ!」  


 男が腕を振り下ろす。また、パキン、と音がする。何も起こらない。  

 二・三度それを繰り返して、先程とは違う瞳で琥珀を見やった男の唇が、馬鹿な……と呟いたのを浅葱は見た。  

 男の持つ【異能】は、カミサマの力に遠く及ばない。浅葱から見てもよく判る、強者と弱者の縮図がそこにはあった。


「……もう、終わり?」  


 いっそ優しげとも取れる口調で、琥珀が囁いた。一歩、男へと近付く。近付いた距離以上に、男が慌てたように身を引いた。


「ねぇ、弱い奴に死ねって言って何が悪い……だったっけ?」

「く、るな……っ!」  


 自分の力が通用しない。それを、男もようやく理解したのだろう。浅葱に対していた時に浮かべていた愉悦も苛立ちの表情ももはやそこにはなく、男はただ怯えたように後ずさった。


「だったら私がお前に死ねって言っても、何の文句もないってことだよね……?」

「来るな! 来るんじゃねぇよ……!」

「お前の命令を聞かなきゃならない義理はない」  


 また一歩、ゆっくりと足を踏み出す。床に広がった血溜まりを気にした様子もなく歩を進め、琥珀は梁に貫かれた当主を一瞥した。あぁ……と吐息のように漏れたのは、からからに乾いた声。


「こんな、簡単なことだったんだ……」  


 呟いて、琥珀は一度瞳を閉じる。表情は動いていない。やがて再び瞳を開いた琥珀は、男の姿を真正面から捉えた。ひた、と据えられた視線に、男が息を呑む。


「ひとつ、だけ……」

「ひ……っ、来るな! 来るな来るな来るな!」

「アレを、始末してくれたこと。それだけは、お前に感謝してもいいかもしれない」  


 そう言って、小さなカミサマは ―― 琥珀は、ふわりと、場違いなほど綺麗に微笑んだ。  


 花が綻ぶような、誰の目も奪うようなそんな微笑みだった。けれど浅葱は、そこに琥珀が抱えていた歪みを見る。  

 だって、知っているから。普段の琥珀が、どんな表情をして笑うのか。  

 知っているから、あれは違う、と思った。

 あれは喜びではなく、もっと別の名が付くもの。


「……は、く……」


 名前を呼びたいのに、声が出ない。  

 再び琥珀が、その顔から笑みを消し去った。


「とりあえず、お前、同じ目に遭うところからやってみる?」  


 つい、と琥珀が指先を動かす。ただそれだけの動作で、男の身体が宙に浮いた。


「あ……ぐ……っ!」  


 首を支点に持ち上げられているのだろう、苦しげに呻いた男の顔色は赤黒く変色している。じたばたともがくその様を、はちみつ色の瞳が冷めた様子で眺めた。  


 浅葱は、先程から掠れた息しか漏れない喉を早々に諦めて身体を起こした。何かを言わなければならないような気がするのに、考えがまるで纏まらない。だったらもう、直接行動に出た方が早い ―― と。そんな風に、妙に男前かつ短絡思考に落ち着く辺りが浅葱である。そもそもあまり深く物事を考えない。  

 声が届かないのなら手を伸ばそうと、そろりと浅葱が動き始めたのと、


「―― それぐらいにしておけ、琥珀」  


 聴き覚えのない少年の声がそこに割り込んだのは、ほぼ同時のことだった。  


 響いた声は、場違いなぐらいに静かなもので。部屋の中にたち込める血臭も呻き声も全部無かったことにするような、涼やかな風を思わせる声音だった。  

 うん? と浅葱が首を傾げたのと、ドサリ、と何かが倒れたような重い音がしたのは、これもまたほぼ同時のことだ。見ると、先程まで宙吊りになっていた男が床へと這いつくばっている。  

 そして。  


 その隣に見えた、印象的な赤色 ――。


(あ……)  


 炎の色だ、と浅葱は思う。  

 夜の闇に揺れる灯のような髪色と、夕焼け空みたいな瞳の色。年の頃はおそらく浅葱とそう変わらないだろう。背格好は琥珀と同じぐらいに小柄なのだが、纏う雰囲気がひどく大人びている。  


 人の上に立つことを当たり前にしている、そんな空気を持つ少年が、男の傍 ―― ちょうど琥珀と向き合うような位置に、いつの間にか立っていた。


「朱緋」  


 不機嫌そうな声が、現れた少年の名を呼んだ。アケヒ、と浅葱は口内でその名前を呟く。聴き覚えはなかったけれど、何となく浅葱は悟った。本当に、何となく。


(―――― カミサマ、だ)  


 神代でも鶴来でもない、他の五家のどれか。当然の如く浅葱は、他家のカミサマの名前などこれっぽっちも把握していなかったのでどれかとしかいいようがないが、確率で言えば三分の一で当たる。籐条(トウジョウ)か縁(エニシ)か吾妻(アヅマ)……と、さすがにこれぐらいは知っている残りの五家の名前を脳内で挙げ、籐条かな、と適当に判断した。  

 五家の中でも序列のようなものは存在しており、籐条はその第一位に当たる。……何となく、本当に何となくなのだが、目の前の少年は誰かの下にいるということを良しとしないような、そんな気がしたのだ。浅葱は己のそういった勘が滅多と外れないことを知っている。それはもう有難くもない実体験として学んでいる。  

 多分、籐条のカミサマ、と浅葱が仮定したその瞬間を見計らったかのように、不機嫌なままの琥珀の声が響いた。


「お前、わざわざ何の用? 籐条から滅多に出てこないくせに」  


 わぁ、判りやすくありがとう、と浅葱は心中で呟いた。棒読みで。  

 仮定、改め確定で籐条のカミサマ ―― 名を朱緋と呼ばれていただろうか。その名に相応しい色彩を纏った少年は、棘だらけの琥珀の言葉に軽く肩を竦めて、うっすらと微笑んでみせた。


「引きこもり度合いで言ったら、お前も負けてないと思うんだけど。ねぇ? 琥珀」

「そういう無駄口はいらない。用件は?」  


 ばっさりと切って捨てるような冷淡さで琥珀は応じ、朱緋はそれにおやおや、と肩を竦める。怖がっているような素振りはまるでない。むしろ朱緋の背後にいる男の方が、絶対零度の空気を醸し出す琥珀に判りやすく腰が引けている。  

 朱緋の介入を好機と取ったのか、男が隙を突いて逃げ出そうとする素振りを見せた。あ、と浅葱が気付いたその動きを、当然の如く琥珀も気付いたらしい。無表情のまま軽く手を振り、琥珀は指先を男へと向けた。トス……、と何かが突き刺さったような音がして、すぐさま男の悲鳴が響き渡る。


「アアアアアァッ!? 腕ぇっ! 俺の腕ええぇっ!?」  


 絶叫と呼べるそんな声を上げる男の腕は鮮血に染まり、まるで縫い止められたかのように肘から先がぴくりとも動いていなかった。  

 否、実際に縫い止められているのだろう。男の腕から噴き出した血が不自然に空中を伝い、床へと流れ落ちてゆく様がそれを裏付けている。  


 見えない力。これが、【異能】。  

 恐ろしいはずのその光景を、けれど浅葱は目を逸らすことも瞬きすることもなく見据えていた。


「……琥珀。それぐらいにしておけと言ったはずだよ」  


 ため息と共に、朱緋が口を開く。呆れを含んだ声音は、不自然な程に涼やかだった。  

 最初からそうだった、と浅葱は思う。この子供は ―― 籐条のカミサマは、どこか遠いところから喋っているような感じがする。誰かが死んでいても、今正に血を流している人間が目の前にいても、まるでそれが当たり前のことであるかのように振る舞うのだ。  

 今も、そうだ。琥珀を止める素振りは見せても、そこに咎める響きはまるでない。  


 このカミサマが驚くことなんてあるのかなぁ……と、やや明後日の方向に思考を脱線させていた浅葱は、


「うるさい。朱緋、邪魔するならお前ごと吹き飛ばすよ」

「……おや」  


 だから、琥珀の言葉に驚いたように僅かに瞳を見開いた朱緋を見て、逆に驚いたのだ。  

 今のは、演技じゃなかった。本当に驚いてる表情だった。  


 何だ、そんな顔もできるんだ……なんて、妙な感心をしている浅葱の内心など伝わるはずもなく、朱緋はその一瞬の驚きをすぐに消し去り、ひょいと琥珀の顔を覗き込んだ。


「これは……珍しい。本当に怒っているんだね、お前」  


 ふふ……と楽しそうに笑んで、朱緋は琥珀の前髪をさらりと指先でさらっていった。本当に怒っている、と評した相手にするような行動ではない。不機嫌を通り越してもはや無表情になっている琥珀を前に、臆した様子などまるでない朱緋は、ふぅんと呟いて背筋を伸ばした。  

 カミサマ、強い。浅葱は思う。 籐条のカミサマは、琥珀とは別の意味で、こわい。


「今まで、何をされても泣きながら耐えるばかりで、決して怒りはしなかったお前が、ねぇ……? アレを殺されたからといって、喜ぶことはあっても怒る理由なんて欠片もないだろうに」  


 軽く小首を傾げながら、朱緋は既に事切れた当主を見る。温度のない目線は、人ではなく物を見る目付きだった。


「まぁ……お前の怒りの原因は、想像がつかなくもないけれどね」  


 ぱちり、と真正面から浅葱と朱緋の目が合った。夕焼け空の色。少しだけ暮れかかった時刻を思わせるような、紫の混ざったその色彩が綺麗だなと浅葱は思う。……物を見る視線ではなかったが、それでもあまりよろしくない類の視線を頂いていることなんて、気付かなかったことにしてしまいたい。  

 なんだかなぁ……と思いながらも、じいっと夕焼け色の瞳を見返した浅葱に、朱緋はにっこりとした笑みを浮かべてみせた。そうして、再び琥珀へと視線を戻す。


「―― とりあえず、それは置いておこうか」  


 笑顔がこわい。  

 何だろう、さっきも思ったけど、改めて思う。カミサマこわい。


「琥珀」  


 涼やかな声が、琥珀を呼んだ。その場の熱も、怒りも、何もかもを冷ますような声音だった。静かな分、妙な迫力がある。  

 声に含まれた意図が、そこまでだ、と告げていた。それ以上は駄目だ、と。  


 他者を、従える声。  

 ひれ伏せ、と命じられれば、おそらくは考えるよりも先に無条件で従ってしまうだろう。浅葱でさえそう思う程に、判りやすく何らかの力を宿した声は、事実琥珀の動きを止めるには十分だったようだ。不本意だと体現しながらも、琥珀は男にそれ以上攻撃を加えることもなく、朱緋へと視線を移した。


「……何なの、朱緋」

「それぐらいにしておけ、という話だよ。ソレをここで殺されるのは些か困るんだ」

「理由を。お前がそいつを庇う理由が判らない」  


 鶴来のカミサマたちと琥珀の会話は、内容はともかく子供らしくて可愛いかったんだけどなぁ……と何となく浅葱はそんなことを思い出した。そう、何となく。自分を拉致した相手とそれを助けに来た人間とのやり取りだったのに、何故だか最終的に和ませて貰った。うん、鶴来のカミサマたちも可愛かった。  

 籐条のカミサマとの会話は……うん。何というか、無味乾燥だと浅葱は内心で呟いた。潤いがない。現在の状況が殺伐としているのが悪いと言われればそれまでだが、現実逃避のひとつやふたつしたくなるぐらいに冷え冷えとしている。

 手っ取り早く簡潔に理由を問うた琥珀に、これまた手っ取り早い即答で朱緋が返した。


「ソレはね、籐条でも似たようなことをしようとしたんだよ」  


 ソレ、と言いながら朱緋が遠慮なく指差したのは、今もなお呻き続ける男の姿だ。当主に続いて、彼も朱緋に人扱いされていない。ソレ、で指差し確認は、もれなく物扱いだ。


「え?」

「ああ、だから、そこのソレ。籐条の当主にも喧嘩売ったんだよ」

「……籐条の当主に?」

「そう、ウチの当主に」  


 怪訝を通り越して若干の呆れと憐れみを含ませた表情で訊いた琥珀に、朱緋は深々と頷いた。真顔だった。

 何を馬鹿なことを……、まったくだ、とでも言いたそうな雰囲気の二人に、浅葱は何となく悟る。多分、籐条の当主様は人間的にちょっとあれな感じなのだろう、と。そして反則的に強いんだ、きっと。


「……で? 訊くまでもないと思うけど、結果は?」

「見事に返り討ち。―― そこで懲りていれば良かったのにね?」  


 台詞と台詞の僅かな合間、瞬き程の時間に、朱緋はガラリと纏う雰囲気を変えた。後半は琥珀ではなく男へと向けた言葉だ。浮かべた笑みはそのままに、器用に空気だけを変えてみせた朱緋は、さて、と言葉を続けた。


「何故庇うのか、とお前は訊いたね? 琥珀。庇うつもりはさらさらない、というのが僕の回答だよ。お前がこれを許せないというなら、最終的な生殺与奪の権利はお前にやろう。後日になるけれどね」

「後日?」

「そう、後日だ。今は待て。この場は僕に譲れ、ということだよ」  


 朱緋が微笑む。それは、絶対者の笑みだった。  


 最初に浅葱の抱いた朱緋への印象は、ある意味でとても正しかった。籐条の神であるこの少年は、誰かの下に就くことを良しとしない。己へ牙を剥いた者には決して容赦をせず、報復は倍にして返す。  

 つまり。


「これは籐条に喧嘩を売った。僕はそれに相応しいものを返したい。―― その為に、ここで死なれるわけにはいかないんだ」  


 うっそりと笑んだ朱緋に、浅葱は自分の勘の正しさを悟った。朱緋は何も優しさや公正さを持って琥珀を止めたわけではない。そのことがよく判る台詞だった。むしろ朱緋の言い分は、自己中心的と言ってもいいぐらいである。  


 神様なんて、皆残酷なものだよ ―― と。  

 そう言っていたのは誰だっただろうか。祖父だったか、祖母だったか、はたまた近所に住んでいた物知りな青年だったか。誰が言ったのだかも覚えていないくせに、何故だかこんなところでその言葉の正しさを実感しそうになっている。  


 浅葱よりも余程顕著にそのことを感じ取ったのは、おそらく男の方だっただろう。朱緋の宣言に、男の表情が絶望に染まった。縫い止められた腕もそのままに、ぎこちなく首を振る。


「い……や、だ……」  


 恐れを、そこに含まれる忌避の眼差しを、それと知りながらも受け止めて、朱緋は笑った。  

 この上なく綺麗に微笑んで、告げた。


「気付くのが、少し遅かったね?」  


 神と呼ばれる存在、それに対する畏敬や畏怖というものを。  

 忘れることなくいたのであれば、こんな状況になることもなかっただろう、と朱緋は笑う。


「すべて、お前自身の奢りが招いた結果だ。その身をもって思い知るがいい」  


 微笑みは、冷えていた。震える程の温度を宿したそれを向けられて、男が狂ったように首を振る。いやだ、悪かった、死にたくない。喚く男に朱緋は告げた。

 先程と寸分変わらぬ笑みで、


「すぐに殺しはしないよ。お前の存在は、見せしめにはちょうどいい」


 告げた声は、いっそ優しげですらあった。朱緋は、確実に男の心を折りに掛かったのだ。


「―― っ!」  


 叫びは、もはや声になっていなかった。男の自信も奢りも、希望ですら朱緋はすべて摘み取っていったのだ。残されたそれは、確かに絶望と、そう呼べるものだった。  


 朱緋の笑みに、男の表情に、琥珀が小さくため息を吐いて指を振る。直後、男の呻き声が聴こえ、周囲に漂う血臭がひと際濃くなった。男の腕から、また新たな鮮血が噴き出しているのが見える。重ねて力を振るわれたわけではなく、それまで男の腕を貫いていた何かを消し去ったらしいと、ぼんやりと浅葱は理解した。  

 納得したというよりは興味を失くした様子の琥珀に、朱緋はくすりと笑んですいっと右手を上げた。途端、音もなく彼の背後に現れた気配に、うおぅ、と浅葱は内心で驚きの声を上げる。どこから出てきた、この人たち。


「連れて行け。―― 丁重にな」  


 命じ慣れた者の声で朱緋は言い、現れた黒装束の男たちはさも当然のようにそれに従って、速やかに男を連れ姿を消した。

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