繋いだ手と手 1
神代の当主のことなど、浅葱はほとんど知らない。
実のところ、名前を覚えているかも怪しい。一番最初に教えられたはずなのだが、それはあっさりと記憶の片隅へと追いやられてしまったようだ。そんな風に、判りやすく興味がない。
当主というのは、五家における表の顔役である。本来、五家の頭は異能持ちのカミサマなのだが、それは本当に象徴的な意味しかなく、滅多に表に姿を現すこともない。実質的な意味で五家を取り仕切っているのは、当主と呼ばれる普通の人間だ。稀に【異能】を持つ人間が当主の座に就くこともあるようだが、その力の強さはカミサマと比べようもない。そもそもの格が違う。
祭事などの際に五家として表舞台に立つのも当主だ。カミサマたちはそういったものに滅多に関与しないこともあり、一般の人たちにとって馴染みがあるのは当主の方だろう。
他家はどうなのだか知らないが、神代の家においては屋敷内にいる人間であっても、カミサマの姿を見たことがある者はそう多くない。元々のカミサマの行動範囲の狭さもさることながら、何しろ駆け落ち騒ぎからこっち、当主がカミサマを屋敷の奥深くに追いやってしまっている。
何故だか浅葱は、そうなってからの方がカミサマとの遭遇頻度が増したという変わり種なのだが、それは本当に特殊例だ。
浅葱は、当主のことなどほとんど知らない。
顔は知っている。泣きそうな表情をした琥珀の腕を掴んで、そのまま強引に引き摺るようにして歩いている姿を何度か目にしたことがある。その時点で、浅葱の当主への好感度など推して知るべしだ。
それでも。
けほっ、と小さく咳をして、浅葱は僅かに視線を落とす。
その、先に。
身体中を赤く染めた当主が、目を見開いて事切れていた。
浅葱は、当主のことなんてほとんど何も知らない。感情的には嫌いと断言してもいいだろう。その程度の存在だ。
―― それでも。
こんな風に死んで欲しかったわけではないし、殺された方がよかったなんて思えるほど疎んでいたわけでもなかった。
けほり、と浅葱は再び咳をした。舞い上がった粉塵を吸い込んでしまったらしく、喉の奥がちくちくとする。左肩の辺りから伝い落ちた血が指先から滴り、床をタンと叩いた。
不思議と痛くはない。きっとどこかが麻痺しているんだろうと他人事のように思う。
足先に湿ったような感覚がした。見ると、ゆるゆると広がってきた血溜まりが浅葱の足袋を赤く染めている。 当主の身体に、天井の梁だったものが深々と突き刺さっていた。これで生きているなんて到底思えない。じわり、じわりと滲み広がってゆく血が、浅葱の足元を濡らしながら流れてゆく。指先を伝い落ちた血が、今度はぴちゃんと音を立てた。身じろげば、足下でびちゃりと音がした。
むせ返るような血の臭いに、今更のように気付く。カラカラに乾いているのに、どろりと纏わりつくような粘度を孕んだ空気。
完全に、非日常の世界だった。
「アハハハハ! ざまぁねぇなぁ! こんな弱っちいくせに当主なんて名乗ってたのかよ!」
日常を、非日常へと作り変えた原因が、笑い声を上げる。
楽しそうに ―― ただひたすら楽しそうに。
天井も壁も、何もかもを吹き飛ばされたせいで、窓もなかったはずの部屋から青空がよく見えた。その底抜けに明るい空よりも、なお明るい声で男が笑う。
霞む視界の中見えた男の姿に、あれ? と浅葱は首を傾げた。
多分……見覚えが、ある。
基本的に浅葱は、他人に対する興味関心というものが薄い。それはもう、ぺらっぺらと表現するのさえ申し訳なくなるぐらいに薄い。向こう側が透けて見える程に薄っぺらい。
そんな浅葱が他人の顔を覚えているというのは、それなりに印象深かった人間か ―― もしくは単に危険だと判断した人間に限られる。
流されているようで、その実飄々と自分の思うままに世間を生きているような浅葱も、防衛本能というものはそれなりに発達しているのだ。出来る限り厄介事には首を突っ込まない、という信条は浅葱の面倒臭がりな性質に主な原因があるのだが、それはそれとしても危険から身を守るといった点において、その姿勢はそれなりに効果がある。そもそも厄介だと思えることに関わらなければ、それ以上の危険に巻き込まれるといったこともない。
危険だと、直感にしろ何にしろそう判断した後の浅葱の行動は一択だ。関わらない。これに尽きる。
見覚えがあると思ったその男は、記憶が確かなら月の初めに神代の屋敷へとやって来た下働きで ―― 浅葱が危険だと判断し、己とついでに琥珀にも関わらせないようにそれなりに気を回してきた相手であった。
「アハハ! 馬鹿みたいだよなァ? 自分が蔑んでた相手に見下される気分はどうだ? アァ? ご当主サマよぉ!」
って、もう聴こえてねぇかぁ? と男が笑う。否、嗤う。
今の男は、きっと既に事切れた当主の姿しか認識していないだろう。とんだとばっちりだと浅葱は思う。
たまたま用事があり足を運んだ屋敷内の一室に、こちらもたまたま当主が居合わせ、そこを男に襲撃されて気が付いたらこんな状態でした ―― なんて。最初から最後まで、徹頭徹尾見事なとばっちりである。男の高笑いと繰り出された台詞に、事の次第を何となくいろいろ察した。
最近、妙なことにばかり巻き込まれてる気がするなぁ……と、浅葱は内心でため息を落とした。琥珀との遭遇頻度の上昇しかり、鶴来のカミサマたちに拉致されてみたりと無駄に経験の幅が広い。正直、微妙を通り越してそんな経験値は無意味だろうと断言したくなるぐらいにどうしようもない。
さて、どうしたものか……と考える浅葱は、自身の置かれている状況からすると、異常と言えるぐらいの落ち着きぶりである。浅葱自身、我がことながらあまりに上にも下にもぶれない感情値に、どこか壊れてるんじゃないかと素で自分を疑う。それぐらいに浅葱の感情起伏はない。山も谷もない。
普通ではないと思う。その自覚は大いにある。が、抱く感想はどこまでも他人事で、その辺りを突き詰めて考える程の根気もなければ、気に病むような可愛げもない。結果、いつだって大概のことは「ま、いいか」のひと言で放置される。
その例に漏れず、今回も「まぁいいや」と浅葱はそれ以上の思考を放棄した。
むしろ好都合じゃないかと思う。
人が、殺された ―― しかも殺した人間がまだ目の前にいるこの状況で、恐怖に竦んで動けなくなるよりは、どこか壊れていようが何だろうが冷静に思考できる方が余程いいじゃないか、と。
浅葱はどこまでも他人事のようにそう考えて、ひとつ息を吐き出した。血溜まりへと落ちた自分の血が、ぴちゃんと音を立てる。
「ハハッ! 恐れることもなかったなァ? 五家の当主だ何だっつってふんぞり返ってるから、さぞ強ぇのかと思いきや……」
クッ、と喉の奥で嗤った男が、爪先で当主の身体を突く。
「全然だったなァ。むしろ雑魚? ……ハハッ!」
ガッ、と靴底で胴体を踏み付けて、男は肩を揺らした。
「てめぇより、俺の方が強ぇんだよ」
ああ、と思う。今さらのように納得した。
異能持ちか、この男。
しかも、元は普通の人間であるとはいえ、カミサマの【異能】を分け与えられた当主を、一撃で屠るぐらいの力を持っているらしい。
五家の当主が、異能持ちである必要はない。むしろ異能持ちであることの方が珍しく、まったく何の力も持っていない者がその座に就くのが普通である。
けれど、当主となった人間は、その家のカミサマの力の一部を使えるようになるのだという。
虎の威を借る何とやら……と、割と常日頃から遠慮など消滅している浅葱は直球でそんな感想を抱いたものだあが、一部だけとはいえカミサマの力は大変な脅威である。それを使って神代の当主が敷いていたのは、一種の恐怖政治だ。力で抑え付けて自分が思うように支配しようとした。
客観的に見て当主がその座に相応しい人物であったかと問われれば、浅葱は素直に首を傾げる。死んでしまえばいい、と憎悪を向ける程の悪人ではなかったが、好き嫌いの次元で語るのであれば確実に嫌いの部類だ。保身と自己顕示欲が強く、いつだって威張り散らしていた。カミサマ相手でさえもそうだった。
下働きとして入った男と、当主の間で何があったのかなんて浅葱は知らない。
知らないが、当主のこれまでの態度と、男がそれなりに強い異能持ちであったことの結果が、現在のこの光景なのだろう。
本当にひどいとばっちりだ……と小さく息を吐いて、浅葱はじりっと後ずさった。
多分、というか絶対、逃げた方がいい。 取り乱すこともなかった思考が、冷静にそう判断を下した。が。
「それなら俺が当主になっても、何の文句もねぇわけだよなァ?」
その台詞を聞いた瞬間に、逃げようという気は綺麗さっぱりと失せていた。
当主? ―― この男が?
「寝言は寝て言え」
それはもうすっぱりざっくりと、浅葱はその台詞を言い放った。
* * *
あ、しまった。 言ってしまってから浅葱はぴたっと口を閉じて沈黙を守ったが、それこそ後の祭りというものである。
「……あ?」
ゆるりと、男が浅葱を振り返った。剣呑に細められた瞳に、ああ誤魔化しようもないぐらいにばっちりと聞かれたんだな、と確信する。今更だ。
浅葱の思考と口は割と直結している。その自覚もある。お前いつかそれで痛い目見るぞ、なんて呆れとからかいと心配の入り雑じった忠告を、年上の幼馴染みに頂戴したこともあるが ―― 多分、今正に見ている。痛い目。
しまったなぁ、と浅葱は思う。けれど。
「てめぇ、今、何つった?」
「寝言は、寝てから、言えと」
申し上げましたが何か? と浅葱はあっさりきっぱりと言い切った。迷うことなく繰り返して言い放ったばかりか、ご丁寧にひと言ひと言区切りながらの強調である。加えてこれでもかというぐらいの慇懃無礼な口調は、間違いなく真正面から喧嘩を売っていた。
不用意に口から出てしまった言葉は取り戻せない。しまった、と思ったけれど、その後すぐにまぁいいか、と思ったのだ。
「お前が当主とか、笑えない」
人を殺して嗤うお前が、カミサマの力を使うというのか。
―――― あの子供の、傍に立つというのか。
ふざけるな、と思った。浅葱の偽らざる本音だ。
だから、口からぽろりと零れ出た暴言に、しまったなぁとは思ったけれど、それを撤回するつもりはさらさらないのだ。
「お前にそんな資格は、欠片もないよ」
真っ直ぐに相手の目を見て、浅葱は告げる。
俺はそれを、許さない。
告げた声には、浅葱の意思が宿っていた。
この惨事を目の当たりにしながら、なお怯えるでもなく助けを請うわけでもない浅葱の態度が、どうやら男はお気に召さなかったらしい。先程までの楽しそうな様子から一変、不機嫌そうに眉を歪め、男は浅葱へと向き直る。その足元でべちゃりと血溜まりの表面が揺れた。
威嚇するような視線を受け止めて、浅葱は右手で左肩を押さえたまま背筋を伸ばした。
怖かったわけではない。むしろ心の中はいつも通り凪いでいる。ただ、腹の底でふつふつと何かが沸き立つような感覚が、浅葱の中にはあった。
「へぇ……? ガキ、てめぇ何なの? 誰に向かってモノ言ってんだよ」
「この場所に、お前以外の誰がいる」
思考と口が直結しているのは相変わらずだが、ほとんど反射の域で紡いだ言葉は我ながら随分と好戦的なものだった。
ああ、俺、怒ってるのか……と、他人事のように浅葱は自覚する。随分と久しぶりの感覚だ。
「あァ!? ンだと!?」
「怒鳴らなくても聴こえてる。最初から俺は、お前に言ってるよ。寝言は寝て言え、って」
三度、浅葱はその台詞を繰り返した。
見上げる位置にある男の瞳を、真っ直ぐに見返す。判りやすく怒りに染まったその顔を見て、浅葱はひとつ息を吐き出した。
しまったなぁ、と思う。押さえたままの左肩は、先程からもう感覚がない。痛みを感じないのは有難いのだが、どうも血を流し過ぎたせいか視界がちょっと霞んできている。
人間的に最悪であろうが、相手が異能持ちなのは確かだし、人を殺すことへの忌避感がないことも見て取れる。対する自分は、何の力もない、どこにでもいるようなただの子供だ。【異能】に対抗する手段もなく、本気で掛かってこられたらまず間違いなく瞬殺される。
そう、判っているのに。それでも前言を撤回することもなく、挑むような視線を相手へと向けたのは、もはや意地というものだろう。
当主になっても構わないだろう、と嗤う声。それを許さないと思った、その為の意思表示だ。
口を突いて出た言葉は反射的なもので、けれど確かに浅葱の本心からの言葉だった。
だから、まぁいいか、と思ったのだ。
浅葱は笑う。この際、言いたいことは全部言っておこうと思った。
「お前が何を考えてこんなことをしたかなんて知らないし、興味もない」
どうせ碌でもないことなんだろうし、とこれは心の中で付け加える。知ったところで、きっと理解はできないだろう。共感はもっと無理だ。
「だけど、お前が当主になるって……カミサマに近付くっていうんなら、ふざけんな、って俺は思う。お前にそんな資格はないよ」
「……へぇ?」
低い声が、囁いた。え、と思う暇もなくダンッ! という豪快な音と共に背中に衝撃を覚える。息が詰まった。
ジン……と一瞬だけ背中を襲った熱にも似た痛みに、浅葱は小さく呻いて眉を顰めた。何が……と目線だけで周囲を確認したところ、どうも無事だった側の板張りの壁に押し付けられているらしいと理解した。見える範囲に男の姿があるが、浅葱へと向けられているのは男の視線のみである。手は、こちらへと伸ばされていない。にもかかわらず、喉の辺りを押し潰すような勢いで締め上げられていると感じた。実際、足元に地面の感覚がないので、宙吊りになっているのだろう。
おそらくは、男の持つ【異能】だと、貧血と息苦しさからくらくらとする脳内で、ぼんやりと思った。
「ナニ? 偉そうなこと抜かしてた割に弱ぇじゃん」
ハッ、と鼻で笑われたが、別に腹は立たなかった。むしろ、当たり前だろうと浅葱は淡々と答える。それがちゃんと声になっていたかは、少々怪しい。
自分が弱いのも、何の力がないのも最初から判りきっていたことだ。偉そう、というのは、何やら最近になってやたらと琥珀に言われることが増えてきたので、そうなのかもしれない、と思ったりもするのだけれど。
―――― お前、何でそんな無駄に偉そうなの。自信満々なの。
呆れたみたいな声で言われた。表情は、どことなく拗ねていた。そんな光景をふと思い出す。琥珀はいい子だよ、俺が保証する、と言いながら頭を撫でた浅葱に返されたもの。
強い力を持ちながら、優しさゆえにそれを振り翳すことも出来ず、結果周囲の人間に振り回されていた子供。不器用な、やさしいカミサマ。
目の前で嘲笑う男に、浅葱は笑った。
「弱……い、けど……」
明確に、意思を込めて。
「おまえ、ほど……ばか、でも……ないよ」
力で何もかもが手に入ると勘違いしている、お前程馬鹿じゃない。
そんなお前が、あの子供の傍に立つ資格なんてない。
声に、言葉に、せめてもの強さを込めて、浅葱は笑った。
ただの、強がりだ。許さない、なんて言葉にしても、それを実現する為の力なんて手にしていない。何もない。けれど、許さないと思うこの怒りだけは全部自分のものだ。
ふざけるな、と思った。この意思は最後まで浅葱のものだ。
くらくらする頭と軽くはない怪我、にも関わらず苦痛に顔を歪めることもなく、【異能】に対する怯えさえもない。折れない意思を胸に笑う浅葱の姿は、男にとってただただ腹立たしいものだったようだ。首元に掛かる圧力が増す。
「……っ」
「チョーシに乗んな、ガキ」
低く、恫喝するような声が苛立ちも露わに投げ付けられた。そこに込められたのは、怒りよりも殺気に近い。
死ぬのかな、と浅葱は思った。どこまでも他人事のようにそう思って、ちらりと視線を物言わぬ当主へと向ける。多分自分もああなるのだろう、と思うがそこに恐怖心は湧いてこない。
「弱ぇ奴が吠えてんじゃねぇよ。殺すぞ」
「……なに、を、いまさら……」
助ける気もさらさらないくせに、と浅葱は男の視線を受け止めて尚も笑う。
視界が霞む。息が苦しい。それでも、最後まで視線は逸らさないと決めた。
少しだけ、自分に何の力もないことを悔やむ。あの子供を助けられるぐらいの力があれば良かったんだけど……なんて、埒もないことを考えた。
次の当主がどうやって決まるのかなんて、浅葱は知らない。でも、この男がその座に就くのは、どうしても許せなかった。
目の前で、男が苛立たしげに舌打ちをした。
「つっまんねぇの。―― もういい。お前、死ねよ」
最期まで、瞳は閉じない。
興味を失くしたかのように言い捨てた男を見返しながら、どうか、と思う。
あの子供の味方になってくれるような人間が現れますように。
どうか、どうか。
祈ることしか、できないけれど。
予想していたような衝撃は、いつまで待ってもやってこなかった。
代わりに届いたのは、浅葱の覚悟を肩透かしするかのような声。
「―――― 先にお前が死ぬといい」
温度のない、冷たい、声がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます