カミサマ襲来 後編

 少女が僅かばかり眉を寄せて、まずいところが見つかった、とでもいうような表情になった。その隣で少年は、もっと判りやすく「げ……」と呻いている。

 浅葱は ―― うわぁ、と呟いた。


 双子の向こう側に見えている光景、これがなかなかに凄まじかったと言ってもいい。

 浅葱が知るカミサマがそこにいた。

 それはまぁいい。そのカミサマが、誰が見ても判る程に怒りの表情を浮かべていたのも、まぁ許容範囲ということでいいだろう。客観的に見て、かなり迫力があって尋常ではなく怖いことになっていたがいいことにする。綺麗な奴が怒ると怖いって本当なんだな、と浅葱は思った。無意味に余裕である。

 カミサマが、部屋の入口から入って来た。

 まぁこれも、言葉通りに捉えるのであれば普通のことでしかない。だがしかし、カミサマは戸を開いて入って来たわけでは決してなく、敢えていうなら壊しながら室内に乱入して来た。これを普通と呼んだら何かが終わる気がする。とりあえず、戸の寿命は終わった。粉々だ。


 戸だけというよりも、その枠ごと、もっと言うならその周辺の壁ごとぽっかりと丸く抉り取られた大穴に、何をどうやったらそうなるのだろう、と浅葱は思った。


 カミサマすごい。

 すごく ―― 怖い。


 何かに怒っていることだけは痛いぐらいに判るのだが、何に怒っているのかは浅葱にはよく判らない。

 少年越しにカミサマの方を見やりこてんと首を傾げた浅葱と、いつになく強い感情を乗せたはちみつ色の瞳が、真正面からぶつかった。が、それも一瞬のことで、すぐに外された視線が、ひた……と双子へと据えられる。


「何を、してる……?」


 押し殺したような声は、低く、ひどく冷たかった。

 あー……、カミサマそんな声も出せるんだー、などと能天気極まりない浅葱の思考とは裏腹に、空気は痛いぐらいに張りつめていた。広がった静寂の中、双子の息を呑んだ音が聴こえる。

 怒りに煌めく瞳をすうっと細めて、カミサマは再び口を開いた。


「青嵐、瑠璃」


 静かに紡がれたそれが、名前なのだと一拍遅れて浅葱は知る。


「答えて。お前たちは、何してるの」

「琥珀……」

「浅葱に、何してたの」


 あ、やっぱり『琥珀』ってウチのカミサマのことだったんだー、とか。

 というか、カミサマちゃんと俺の名前覚えてたんだな、とか。

 暢気にも程がある脳内で浅葱はそんなことを思ったが、残念ながら状況はそこまで暢気でも微笑ましくもなかった。むしろ冷たく、空気は凍っている。


「何を、してたの……?」


 繰り返し問い掛ける声に、まぁひと言で片付けるなら拉致監禁だよな、と浅葱は思った。言えないけれど。決して声に出してそれを言えるような雰囲気ではないけれども。

 対する双子はと言えば、先程まで浅葱へと向けていた敵意も迫力もどこへやら、正しくいたずらが見付かった子供のような反応でカミサマを見返していた。


「……危ない、って思ったのよ」


 ひとつ、諦めたように息を吐き出して、少女が言った。

 ばつが悪そうな表情でそっぽを向いた少年を一瞥して、少女へと視線を戻すと、カミサマは軽く眉を顰めた。


「どういうこと?」

「今まで、琥珀に近付く人間なんていなかったから。何か、目的があって近付いたんじゃないか、って……」

「……だから、お前に何かある前に俺たちでどうにかしとこうっつって思ったんだっての」


 完全に不貞腐れたような調子で吐き出された少年の台詞を聴き終えて、なおかつそれを理解して、浅葱はうわぁ……と呟いた。


 何というか、思ったよりも酷かった。

 そんな理由で危うくこの先の人生をざっくりと刈り取られそうになったことも酷いが、そもそもそんな行動に走るまでの前提とされてしまったカミサマのぼっち認定具合も酷い。近付く人間がいたら怪しい ―― なんて、それはどんなぼっちを極めたらそうなるのか。それを確信しちゃってる双子はどうしたことだ。

 そして現在、目の前に事の顛末がそのままあるわけだが、うわぁ、と呟くしか反応できない浅葱である。同じように双子の言葉を聞いていたカミサマは、ぴくりと眉間の皺を深くして「……は?」とひっくい声を押し出した。……うん、カミサマ、これはちょっと怒ってもいいところだと思う。


 静かに怒りの様子を見せるカミサマと、そんなカミサマに慌てた様子を見せる双子と。 両者を視界におさめて、浅葱はぱちりを瞬きをした。

 目の前で騒ぐ、カミサマと呼ばれる子供たち。

 神代のカミサマはどうあがいても浅葱よりも年下だし、双子のカミサマたちも年代的には似たようなものだ。

 桁外れの【異能】をその身に宿す、神と呼ばれる者たち。

 人にはない力を持つが故に、恐れられ、敬われ、遠ざけられる。鶴来の家の事情は知らないが、神代とそこまで大差はないだろう。双子のあまりにも排他的な態度に、浅葱はそう判断を下す。


 神、と呼ばれる。

 人にはない【異能】を宿している。


 けれど ―――― けれど。


 なんだ、と思う。

 おかしくなって、浅葱は笑った。


 カミサマだと、知ってはいるけれど。

 すごい力を持っているのだと、知っているけれど。

 不機嫌そうに、眉を寄せる。睨み付ける。そんな相手に、困ったみたいに眉を下げたり、おろおろしたり。どの子供もころころと表情を変えて、忙しそうなことこの上ない。


 何だ、と思う。

 変わらないじゃないか。自分たちと、何ひとつ。

 始点と終着点のぶっ飛び具合はさておき、確かに相手のことを思って行動に移した双子も。

 どういう経緯だかは知らないが、自分のことを助けに来てくれたらしいカミサマも。

 そうして今、年相応の他愛もない喧嘩を繰り広げている、その行動さえも。

 ただの、子供でしかないなぁ、と。

 そう、気付いてしまえば ―――― 思ってしまえば、あとはもうおかしくて仕方なかった。


 喉の奥で押し殺した笑い声は、室内の空気を僅かに震わせただけだった。

 が、どんな聴覚を持っているのか、はたまた何かの能力に目覚めてしまっているのか、カミサマは難なくそれに気付き、不機嫌そうな表情で浅葱を振り返る。


「……何暢気に笑ってるの、お前」

「あ、矛先がこっちに来た」

「…………ほんっとうに、どこから来るの、その余裕……」


 心配して損した、と呟くカミサマに、浅葱はあれ? と瞳を瞬かせた。


「心配、してくれたんだ?」

「っ、してないっ!」

「そっか。心配してくれたのか。ありがと、琥珀」

「だからっ! してない、って……え?」


 真っ赤になって怒っていたカミサマの表情が、一瞬でぽかんとしたものに変化した。え、ともう一度呟いて、


「名前……」

「え? ―― ああ、そっちの双子のカミサマに聞いた。『琥珀』でいいんだろ? 」


 普段はカミサマ、カミサマって呼んでたから、名前なんて知らなかったもんなぁ、とのんびり言う浅葱に、カミサマ ―――― 琥珀は、え、と三度呟いた。


「いや、え、うん。合ってる、けど……」


 何故かしどろもどろになるその様子は、先程まで冷気を放出しながら怒っていた人間と同一人物だとは思えない。


「今更だけどさ、カミサマ、って呼ぶのもどうかと思ったから、ちゃんと名前で呼ぼうかと思ったんだけど……」

「っ、え、いや、えっと……」

「……呼ばない方がいいか? 名前。『琥珀』って」


 何やらうろたえようが半端なかったので、名前で呼ぶのはやめた方いいのだろうかと思い問い掛けてみれば、肯定も否定も返事がなく、代わりに何故だか真っ赤になったカミサマの顔と、あー、とも、うー、とも付かない呻き声のようなものが返って来た。


「要するに、呼ばれ慣れてない、と」

「…………もう、本当に、お前、そういうところが嫌だ」


 勘弁して、と弱々しく呻いたカミサマ ―――― 琥珀は、もはや耳まで赤かった。

 やっぱりウチのカミサマ可愛いなぁ、と暢気な感想を抱いて、いつも通り衝動が命ずるがままにはちみつ色の頭を撫でようと手を持ち上げたところで ――……、


「……あ」


 ぎっちりがっちりと縛られたままであった己の両手を、浅葱は思い出した。

 右手を持ち上げたら、それに左手がぴったりとくっついてきた。この状態で頭を撫でることはできなくもないが、絵面がものすごく妙なものになること請け合いである。


 忘れてた、とあくまでも暢気に呟いた浅葱とは逆に、琥珀の表情は険しいものになった。一瞬で瞳が鋭くなり、浅葱の両手をまるで親の仇でも見るかのように睨み付けている。

 そして、視線の強さもそのままに、それまで背後でぽかんと呆気に取られた表情で自分たちのやり取りを眺めていた双子を振り返った。


「青嵐」

「お、おう」

「これ、とっとと解いて。今すぐに」


 何かすごい腹立つ、と吐き捨てるように言い放った琥珀に、双子は完全に腰が引けている。いや、確かに怖いけれども、今のカミサマ。というか、それ以前にさっきまで別のところで吃驚してたみたいなのは何なのか。浅葱にはよく判らない。そもそも、最初からいろいろと判らないことだらけなのだけれども。

 何とも言えない表情をして、浅葱を直視することもなくぎっちりと縛られた結び目と格闘を始めた少年だったが、そう器用な性質でもなかったらしく、悪戦苦闘しているのが判りやすく見て取れる。見かねて隣から少女が手を伸ばしたが、こちらはこちらできつく結ばれた結び目に純粋に力が足りず、諦めの表情を浮かべただけに終わった。

 というか、多分まず間違いなくこれを結んだのは目の前にいる少年なのだろうが、自分で結んだものが解けないっていうのも何だかな、と思わなくもない。双子があっちにこっちに結び目を引っ張る度に、縄の表面がざりざりと皮膚を撫でていく感触がそれなりに痛かったのだが、そんなことはおくびにも出さずに浅葱は双子の旋毛とその向こう側で憮然とした表情を晒している琥珀を見やった。


 何というかこう……客観的に見て割と面白い構図になっていると思う。

 カミサマ三人に囲まれている一般人 ―――― なかなかに類を見ないというか、何事なのかというか、何をどうやったらそうなるのだかまったくもって判らないというか。実際、今まさにその渦中に置かれている浅葱も、何故こんなことになっているのかなんてこれっぽっちも理解していなかった。むしろ、理解したら負けという気がする辺りが救えない。


「……っと、これを……こう……、っし!」


 ぱらり、と重力に従って下へと落ちた縄の端に、少年が拳を握り声を上げる。微妙にやり遂げた感があるのだろう、最初に向けられていた威圧感などもはやそこにはなく、つい先程までのばつが悪そうな表情も浮かべていない少年は、どことなく機嫌が良さそうにも見えた。

 眉間に皺が寄ってないと幼く見えるなぁ、と少年が聞けばまず間違いなく怒りそうなことを考えたのは浅葱である。それが伝わったのかどうなのか、浅葱の視線に気付いた少年は一瞬で眉間に皺を刻み、浅葱へと鋭い視線を寄越してきた。


「……何だよ」

「や、別に。ありがと、助かった」


 ちりちりする手首を擦りながら短く礼を言えば、少年が虚を突かれたような表情になった。僅かに見開かれた瞳は綺麗な青色で、内心で浅葱はおお……と感嘆する。

 これは、あれだ ―――― 嵐の後の、澄み渡った空の色。

 成程、青嵐とは良く名付けたものだ、とひとり納得して視線を横へと滑らせる。そこにいた少女の瞳をそれと意識しながら見てみれば、そこには少年のものよりも藍が濃い色彩があった。昼の空よりも、夜の空に近い。そういえば瑠璃色っていうのがあったなぁ……と、そんなことを考えた。


 こんな色をしてたんだな、と思う。

 あの時は遠目にしかその姿を確認できず、おまけに暗がりの中では色の判別など難しい。


 覚えている、僅かなこと。  

 そこに言葉はなかった。垣間見えた光景も、ごく僅かで。  

 カミサマ、ではなく。  

 三人の子供が、そこにはいた。ただそれだけのことだった。  


 逃げれるなら、その方がいい。

 幸せであればいい、と。

 願ったそれは、叶いはしなかったけれど。  


 ぽすり、と自由になった右手で琥珀の頭を撫でる。触り心地の良さに、そのまましつこいぐらいにはちみつ色の頭を撫でていたら、さすがにご本人様から胡乱な視線を向けられた。


「……なに?」

「んー? まぁ、良かったな、って」  


 本当は他にも、本気で嫌そうな表情はしなくなったなぁ、とか、反応に困って固まることもなくなったなぁ、とか、いろいろと思ったことはあったのだが、さすがにそれをそのまま口にすることはしない。素直に口にしたが最後、相手の機嫌が急降下するだろうことは浅葱にだって判っている。  

 だから、そういう余計なものには全部蓋をして、浅葱は一番言いたかったことを口にした。


「会えて、良かったんじゃないか?」  


 まぁ、過程は果てしもなくアレな感じではあったが、カミサマ同士が直接対面する機会などそうそうない。過程の理由が本当にアレなものでしかなかったので、友好的な雰囲気とも言い難かったが、それでも決定的な溝になることもなく今に至っている。  


 あの日から、カミサマ ―― 琥珀に、自由というものはなくなった。元から少なかったものが限りなく零になった。

 そんな中でそもそもの騒動の原因の片割れである『鶴来』のカミサマたちと会うことなんて出来るはずもない。  

 だからこその浅葱の台詞だったのだが、あまりにも説明をざっくりと省いてしまった為、相手にはそれなりの混乱をもたらしてしまったらしい。琥珀には、え? と訊き返され、青嵐にさえ、は? ときょとんとされ、瑠璃には無言で怪訝な視線を向けられた。

 琥珀は元々文句なしで可愛いし、青嵐もそういう表情をすると幼さが強調されて可愛いなぁと思うのだが、可愛い女の子であるはずの瑠璃が怖いことになっているのはどういうことだ。その視線は怖い。すごく怖い。本能的に怖い。


「……浅葱」

「うん?」

「お前、こいつらが何なのか知ってるの」  


 琥珀の問いに、何を今更、という気分で浅葱は頷いた。


「え、カミサマだろ? 『鶴来』の」  


 迷うこともなくあっさりと言い切れば、ますます相手が妙な表情になった。  

 とりあえず瑠璃、もはや視線どころか顔が怖い。


「……ひとつ、いいかしら?」  


 ひた、と浅葱へと定められた瑠璃の視線は、凍るような温度の冷たさだった。けれど、浅葱はその温度の中で揺れていた戸惑いを感じ取って、ただこてんと首を傾げてみせる。


「なに?」

「貴方は、何故私たちの素性を知っているの?」  


 これまた今更な問いだなぁ、と浅葱は暢気な感想を抱いた。


「何で、って……」  


 少しだけ低い位置にある瑠璃の瞳を見返しながら、浅葱は再びこてんと首を傾げた。貫かんばかりの鋭さを宿した、深い藍色。何かこんな色の宝石なかったっけ? などと、暢気を通り越して能天気なことを考えながら口を開く。  

 何でなんて、訊かれても。


「見たことがあるから?」  


 ―― としか答えられない。  


 雪の降る日。凍えるような空気の深夜。  

 手を繋いで駆けてゆく背中を見送った。  

 ただ、それだけの話だ。出会いとすら呼べはしない。  


 そんな風に、この上なくぞんざいな位置付けで、いっそどうしようもないぐらいに軽い扱いをしていた記憶を語ったわけだが、浅葱の思惑とは裏腹にカミサマたちからしてみればそれは決して軽くもなかったらしい。  

 質問をした瑠璃は目を見開いて固まっているし、その向こうで青嵐は「はぁっ!?」と素っ頓狂な声を上げている。目の前の琥珀は、信じられないものを見る目付きで浅葱をまじまじと見据えていた。何というか、地味に傷付く反応である。  

 がしかし、そんなもので傷付くような可愛げなど欠片も持ち合わせていない浅葱は、カミサマたちのそんな反応をただ不思議そうに見やっただけだった。ちなみに、何なんだ、と不思議に思ったその心境でさえ、これっぽっちも表情には表れていない。いつも通りの涼しげな表情は、動揺などとは無縁である。  


 むしろ動揺を露わにしているのは、カミサマたちの方だった。  

 浅葱の話を聞いて呆気に取られていた琥珀だったが、やはり付き合いの長さ故か立ち直りは一番早かった。はっ、と我に返った様子で浅葱の腕を掴むと、どういうことだと詰め寄る。


「ちょ……っと、お前……」

「うん?」


 が、勢い余って詰め寄ったものの、その先に何を言うかは考えていなかったらしい。はくはくと口を開いて閉じてを繰り返す琥珀を見下ろして、浅葱はぽんぽんと頭を撫でた。ぽん、ぽんと宥めるように、軽く。


「うん、落ち着け、落ち着け。慌てなくてもちゃんと聞くから」  


 前にも言っただろ? といつも通りの淡々とした声音で告げて、ほらまずは深呼吸、とどこまでものんびりと続ける。その声に従うように、琥珀は素直に深く息を吸ってそれをそのまま吐き出した。その辺りはもはや条件反射である。  

 良くも悪くも素直に出来ている神代のカミサマは、目の前でゆるゆると己の頭を撫でる少年を見上げた。  


 とりあえず、最初の混乱は去って落ち着いた。  

 が、落ち着きついでに意味が判らないことになった。  

 だって、琥珀は知らない。  

 泣いていたところを目撃され、その後飴玉を貰ったあの瞬間まで、琥珀は浅葱のことなんて知らなかった。  

 知らなかった、のに。


「お前、あそこに、いたの……?」  


 何もかもを投げ出して、神代から逃げ出そうとしていたあの瞬間を。  

 見ていたと、いうのか。


「いたぞ」  


 琥珀の受けた衝撃などまるで素知らぬ顔で、浅葱はあっさりと頷いた。


「カミサマたちが駆け落ち騒ぎ起こした時には、既に神代の家にいたぞ? 俺は」

「いや、そうじゃなくて……」  


 どうせお前、自分の周囲に誰がいたかなんてちっとも把握してなかっただろう、などとそんな風に断言されて。それは確かにその通りでしかなかったのだが、琥珀が気にしていたのはそこではない。  見ていたと、いうのなら。  

 後で聞いた話ではなく、あの時、あの場所で、自分たちの姿を見ていたというのなら。


「何で、お前、止めなかったの……?」  


 半ば呆然と紡がれた言葉に、浅葱はうん? と首を傾げた。  

 カミサマたちが何に驚いているのか、浅葱には判らない。傍から見れば割と判りやすいカミサマたちの動揺を、浅葱は理解しない。  


 普通は、止める。それが当たり前の反応だ。  

 神と、そう呼ばれる者たちが持つ【異能】。通常では考えられない程の大きな力をその身に宿す彼らは、家というものに縛られる。五家は、彼らを保護するものであり、また束縛するための檻でもあるのだ。

 神代におけるその檻は、他家と比べてもより強固なものだっただろう。何せ神代のカミサマの能力は『豊穣』と『繁栄』。決して逃していいようなものではない。誰が考えても同じ、判りきった構図だ。納得するしないは別として、琥珀自身もそれを理解している。  

 それなのに。


「逃げれるなら、その方がいいと思ったんだ」  


 神代の家の、そこに組み込まれているはずの浅葱が、いとも簡単にそんなことを言うのだ。  


 逃げてもいい ―――― 逃げた方がいい、と。


「大人の都合に振り回されて泣いてばかりなのは、可哀相だなって」  


 いつも、いつだって浅葱が目撃するカミサマは、泣きそうな表情をしていた。実際に泣いているのを目撃したのは、駆け落ち騒ぎよりも後のことだったけれど。


「泣かなくていい場所があるんなら、そこにいる方が幸せだろ?」  


 浅葱はあっけらかんとそう口にして、ぽふりと琥珀の頭を撫でた。  


 浅葱が口にしたそれは、あまりにも当たり前のことでしかなかった。普通の人が、普通に思う、当たり前のこと。  

 けれどそれを、神と呼ばれる存在にそのまま当て嵌めてしまう人間など、今まで一人もいなかったのだ。  

 今は無理でも、そのうちまた鶴来のカミサマたちと一緒にいれるようになればいいんだけどなぁ、なんてそんな暢気な希望を口にしながらぽすぽすと己の頭を撫でる浅葱を見上げ、琥珀は咄嗟に表情を選び損ねた。考えてみても判るわけがない。こんな時に、どんな表情をすればいいのか ―― なんて。


「お前は、本当に、なぁ……」  


 何を言えばいいのかも判らなかった。  

 向けられる畏怖の視線も、そのくせ蔑むような態度も、あからさまに取られる距離にも慣れている。  

 けれど、当たり前のように気遣われる、そんな行為には慣れていない。  


 こんな風に、気軽に頭を撫でてゆく手だとか。  

 時折手のひらへと落とされる、色とりどりの飴玉だとか。  

 普通の子供に向けるようなそんな言動も、何ひとつ今まで琥珀が向けられた覚えのないものだ。  


 逃げてもいい、だなんて。  

 そんなこと、誰も言ってはくれなかった。


「うん? 何か問題があったか?」

「……割と、問題しかないわね」  


 首を傾げた浅葱に、瑠璃が深々としたため息と共にそう言った。ばっさりと切って捨てるような発言ではあったが、そこに先程まで存在していたはずの冷たさはもうない。

 棘のない、むしろ呆れの入り雑じった声音で告げた瑠璃に、浅葱はよく判らないときょとんと瞳を瞬かせた。……うん、何故そこで温い視線を送られなければならないのか。本気でよく判らない。


「あー……何か俺ら、馬鹿みてぇ……」  


 がしがしと頭を掻きながら、青嵐がぼそりと呟いた。その声音が疲れ切っていて、何なんだと浅葱は思う。  

 よく判らない。―― 判らないのだが。


「とりあえず……あれだ。悪かった」  


 潔く下げられた頭の意味は、さすがに浅葱も取り違えない。  

 というか、誤解から拉致された後のこの状況で、何のことか判らないなんて単語はさすがに出てこない。


「……そうね。全面的にこちらが悪かったわ。ごめんなさい」  


 青嵐の隣で、瑠璃がこちらも潔く頭を下げた。青み掛かった真っ直ぐな黒髪が、肩口からさらりと零れる。言い訳もしない、随分と男らしい謝り方だ。  

 なんだ、と浅葱は思う。鶴来のカミサマたちもちゃんと良い子たちだ。  

 悪いことは悪いことだと、己の非を認めて謝ることが出来る。そこには誤魔化しも躊躇いさえもありはしない。  

 少しだけ笑みを浮かべて、浅葱はふるふると緩く首を振った。


「いい。気にしてない」

「……いや、お前は気にして。本当に、いろいろ気にした方がいい。頼むから」  


 琥珀が何とも言えない表情で浅葱を見ながら突っ込んだ。少なくとも拉致なんていう通常あり得ない経験をしておきながら、気にしてないなんてひと言で済ませるんじゃないと物申したい琥珀である。  

 というか、それよりも。


「何でそこで、ごく自然にそいつらの頭撫でてるの。浅葱は」  


 意味が判らない、と琥珀は呟いた。  

 本当に訳が判らない、と双子は思った。何故自分たちは頭を撫でられているのだろう? 意味も脈絡も判らなさすぎて、二人揃って一瞬固まった。


「いや、こう……良く出来ました的な?」

「訊かれても……」

「ごめん。家で弟たちによくやってたから」  


 癖なんだ、とまったくもって気にした風もなく告げる浅葱には、呆れればいいのか何なのか。とりあえず、カミサマと己の弟妹を同列に並べるその神経の太さからしてよく判らないと言う他ない。  

 けれど。  

 ああ、そうか……、と双子は思う。浅葱には、神だの人だのというそもそもの線引きが存在していない。全部纏めて自分の感覚で判断して、自分の基準に当て嵌めたそれをそのまま形にする。  

 だから、だろう。琥珀のことも、自分たちのことも、目の前のこの人間はただの子供として扱っているのだ。そこには他意も、ましてや打算などありはしない。それだけは、双子にもよく理解できてしまった。  

 ……いや、それでも未だに頭を撫でられているこの状況が本当に理解できるかと言われれば、首を傾げるしかないのだが。何故そこでなでなでを再開したのか。―― 思いの外手触りが良かったのと、慣れない行為に固まっているその様子が面白かったから、と浅葱は即答する。浅葱自身に悪気はないが、決して性格がよろしいわけでもない。


「さて、と……」  


 見事にカミサマ三人を振り回してみせた一般人は、小さく呟くと肩を竦めた。


「それじゃ ―― 帰ろうか、琥珀」  


 言いながら、手を差し伸べる。  

 そこに、たいした意図はないだろう。ごく自然に自分へと向けられた手を、琥珀は少し不思議な気分で見返した。  


 帰ろう、と言われた。

 帰る場所なんて、ないと思っていた。

 神代の家は、帰りたい場所ではない。それでも。


「……うん」  


 その手を取ることに、抵抗は覚えない。  


 帰ろうと言ってくれる人がいる。差し出された手の暖かさを、知っている。  

 それは決して疎むべきものではないのだと、今の琥珀は知っていた。  


 帰ろう、帰ろう ―――― 一緒に帰ろう。  

 繋がれた手と、その言葉は、悪くないもののように思えた。







   *  *  *


「あ、ご用はお済みッスかー? 真主様」  


 建物の外に出ると、不意に傍らからそんな声が掛けられた。  

 見ると、微妙に歪んだ入り口の木枠の隣、壁に背を預けるような格好で青年が立っている。ふわふわとした焦げ茶の髪と、天鵞絨のような深い色彩の瞳。背は高いが横幅がそれに伴っておらず、どことなくひょろりとした印象を受ける。おそらく歳は二十歳に届いてはいないだろう。瞳を細めてにっこりというよりはにんまりと笑うその様子が、まるで猫のようだ。  

 ……とりあえず、入り口が木枠ごと斜めになっているのは気にしないでおこう、と浅葱は思う。どうせ先程まで浅葱たちがいた部屋の戸は粉々になっているのだ。それに比べたら、ちょっと斜めになっているぐらいは些細なことだろう。……多分。  


 ところでこの人誰だろう? と、本来ならば木枠よりも先に気にしなければならない項目を、今更のように浅葱は考えた。琥珀に対して『真主様』と呼び掛けていたのだから、おそらくは神代の屋敷の者ではあるのだろう。それを裏付けるかのように、琥珀がぱちりと瞬いて青年の名を呼んだ。


「千歳」

「はいッス」

「げ、てめぇかよ」  


 呼び掛けに応えて、更に瞳を細めてにんまりと笑んだ千歳に、青嵐が嫌そうな表情を向ける。視線を受け止めて、およ、と今度は千歳が瞬いた。


「……お? おー、おー、一瞬誰かと思ったッスー! 鶴来の真主様たちじゃないッスか! 大きくなったッスねぇ」

「やかましいわ。しみじみ言ってんなよ。近所のおばちゃんかてめぇは」

「あれま。口も達者になっちゃって。でも近所のおばちゃんたちの勢いはこんなもんじゃないと思うッスよ?」

「何の話だよ。聞いてねぇよ。無駄に実感込めて言ってんじゃねぇっつの」  


 青嵐が嫌そうな顔をしている割には、何だかんだで仲が良さそうに見える二人である。嫌っているというよりは、単に遠慮のない間柄だと称した方が良さそうなやり取りに、浅葱はえーっと……と瑠璃へと視線を送った。知り合い? と軽く小首を傾げれば、こちらも微妙に嫌そうに眉を寄せた瑠璃が、渋々といった風に頷いた。


「琥珀の、世話役よ」

「世話役?」  


 いたんだ、そんなの……という思いを込めて呟けば、それを綺麗に拾い上げてしまったらしい琥珀が、憮然とした表情で口を開いた。


「一応は、いる。まったくもって世話して貰った記憶とかないけど」

「ひどいッスよ、真主様! 今正にアナタの世話焼いてるッスよね、俺!」  


 琥珀の発言を耳聡く聞きとがめたらしい千歳が、誰のおかげで外に出てこれたと思ってるんスかー、と子供のような膨れ方でもって琥珀に詰め寄っている。  

 神代の家では珍しい類の人間だなぁ……と、妙に感心した気分で二人のやり取りを見やっていたら、ふと千歳と目が合った。およ? と一瞬だけ不思議そうに瞬かれた瞳が、不意に理解の色を広げて浅葱を見る。  

 そして。


「君が浅葱くんッスね! はじめまして、千歳ッス!」  


 何故だか気付いた時には手を握られていた。  何が何やらよく判らなかったが、目の前でご機嫌な猫のように瞳を細めて笑う青年に、浅葱は軽く首を傾げながら口を開く。


「えーっと……? 浅葱、です。……はじめまして?」

「ご丁寧にどうもッス! お噂はかねがねー」

「噂?」  


 その言い方だと、どうも噂されている対象が自分なのだが……? とますます訳が判らないといった表情で浅葱が更に首を傾げるも、千歳にそれは伝わらない。いや、本気で噂って何だ。


「やー、ここのとこずっと真主様からやたらと君の名前が飛び出してたもんで、あんま初対面って感じがしないッスけど」

「え?」

「ちょ、お前、何を……!」

「今日もッスねー、予定時刻を大幅に過ぎても君が帰って来ないとか、買った物は籠ごと路上に放り投げられてたとか、誰が聞いてもこりゃ何かあっただろー、ってのが判る話を小耳に挟んで、いてもたってもいられなくなっちゃったのが我らが真主様ッス!」

「っ、千歳!」

「他人にまったくもって興味がなかった真主様の! 自主的行動ッスよ! とりあえず微笑ましく見守るしかないじゃないッスか! いや世話役なんで手助けぐらいはするッスけどね! とりあえず内緒でお屋敷抜け出すところから ―― って、ぃだぁっ!」

「ああもうお前ちょっと本気で黙れ千歳!」  


 ここに至るまでの経緯を、何となくちょっと居た堪れない風味で暴露されてしまった琥珀はもはや涙目だった。そして、そんな琥珀に容赦なく脛を蹴り上げられた千歳も同じく涙目だった。


「…………ちょっと何か本気で私たちが馬鹿みたいに思えるあれこれね?」

「……言うな」  


 ついでに、鶴来の双子のカミサマたちも、内心涙目だったかもしれない。  

 何となく哀愁が漂っていたので、浅葱はよしよし、と双子の頭を撫でておいた。更に落ち込まれたような気がしないでもないが、手は振り払われなかったので良しとする。


「わー……猛獣使いッスか、浅葱くん」  


 何故だか感心したようにそう呟かれ、浅葱はうん? と首を傾げた。猛獣使い?


「双子ちゃんたちが大人しく頭撫でられてるとこなんて、初めて見たッスよー」

「……黙りなさい、千歳」  


 ひやりとした温度の瑠璃の声がぴしゃりと命じる。先程からやかましいだの黙れだの散々な言われようの青年は、それでもまったくもって堪えた様子もなくけらけらと笑っていた。素直にすごいと浅葱は思う。


「お断りするッス! てか、俺が黙ると逆に心配されるんスよねー」  


 それはどうなんだ、というようなことを堂々と千歳が言い放つが、呆れるどころかさもありなん、と妙に納得できてしまうのは如何なものか。初対面の浅葱をもってしてこうなのだから、付き合いの長い他の面々の反応など推して知るべしである。


「それにしても、浅葱くん一体どんな力を使ったんスか? 君に対する双子ちゃんたちの警戒心が無さすぎて、俺びっくりッス!」  


 すごいッスね! と感動した様子の千歳に再び手を取られ、はぁ……と浅葱は曖昧な返事をしながらこてりと首を傾げた。


「えぇと……千歳、さん?」

「あ、千歳でいいッス!」

「じゃあ、千歳」

「清々しく躊躇いってものがないッスね、浅葱くん!」  


 悩む間もなく即答で返した浅葱に、千歳が楽しそうに笑った。あれ、何か駄目だったのだろうかと思ったが、いやいや、いいッス! 無問題! と本人が言っているので、浅葱はそれ以上気にしないことにした。うーん、面白いぐらいに自己完結型ッスねー、と続けて呟かれたが、そちらの意味も判らない。がしかし、浅葱は一度気にしないと決めたら、それはもう潔よすぎるだろうというぐらいに気にしない人間なので、千歳の呟きは綺麗にそのまま流された。


「何ならちーちゃんでも何でも、もう好きなようにお呼びくださいッス!」

「呼べと言われたら、俺、廊下の端から端に届くような声で『ちーちゃん』って呼べるし、呼ぶことに躊躇いのない人間なんだけど。それでもいいなら」

「……割と恐ろしい子ッスね、浅葱くん! 千歳って呼んでくださいッス!」  


 一瞬、目の前の千歳の笑顔が引き攣ったような気がしたが、あまりに一瞬だったので確証はない。おそらくは気のせいだろう。笑顔のまま千歳は己の前言をあっさりと翻し、その向こう側で琥珀が「あぁ……」と何だか納得の表情になっていた。曰く、浅葱は間違いなくやる。やってのける。それを聞いた双子たちの反応も琥珀のそれと似たり寄ったりだった辺り、浅葱は彼らに妙な信頼を貰っている。


「……ん? これ、どうしたッスか? 浅葱くん」  


 不意に、浅葱の手を握ったままだった千歳が、浮かべていた笑みを消してそう訊いた。うん? と千歳の視線を辿れば、最終的に己の両手首辺りに行きついたので、あー……と浅葱は声を上げる。  

 両手首に残る、縄の痕。そんなに痛くはないのだが、擦過傷と痣とで見た目が酷いことになっている。気のせいでなければ、先程よりも見た目的に悪化しているようだ。時間経過と共に、滲んだ血と内出血とが赤黒く浮かび上がってきたようで、思わず浅葱も内心でうわぁ……と呟いた。


「え、ちょっとこれ本気でどうしたッスか?」

「拉致監禁の……結果?」

「思ったよりも物騒な答えに素でびっくりッスよ!?」  


 素直に答えたら喚かれた。  

 え、なんスか、もしかして思ってたよりも緊迫した状況だったんスか、突撃して行った真主様が怖くて俺そっち行けなかったッスけど一体何があったッスかー、と更に喚かれたが、ちょっと答えようがない。緊迫していたかどうかというのは、浅葱の主観とその他ではかなり異なる。言わずもがな、浅葱の脳内だけはあの状況下でも割と平和だった。  

 己の手首を軽く擦りながら、浅葱は何とも言えずばつが悪そうな表情を浮かべる双子たちを振り返った。  

 彼らの気持ちも判らなくはないが、一度謝って貰った身としては気に病まれるのも何か違う気がする。浅葱は双子の頬を、右手と左手で軽く抓んで引っ張った。


「謝って貰ったし、いいよ、って俺言ったぞ」  


 痛くはなかっただろうが、驚きから息を呑んだ二人に、浅葱は告げる。


「気にしてない、とも言った。俺が気にしてないんだから、お前らも気にしなくていいよ」  


 淡々と言い放ち、満足したように指を放した浅葱に、うーわー……と千歳がぬるい笑みを浮かべた。


「ほんっきで怖いもの知らずッスねぇ、浅葱くん。一応それ、鶴来の真主様たちッスよ?」

「知ってる。というか、それ、とか言ってる千歳の方がよっぽどだと思うけど」

「そこは突っ込まない方向でお願いするッスー」  


 ていうか、それにしたって頭撫でて頬っぺた……と、何か言いたげな表情を千歳がするので、「良いことをしたら褒める、悪いことをしたら叱る、感情表現は思うがまま自由に、っていう教育方針で育って、それをそのまま実践したらこうなった」というようなことを淡々と説明したところ、またうーわー……と声を上げられた。浅葱にはよく判らない反応である。あと無駄に男前ッスね……としみじみ言われた。意味がよく判らない。


「……気にしねぇ、っつーのは難しいんだっつの。一応、もう一回謝っとく。悪かった。怪我させるつもりは ―――― あるかないかっつったら普通にあったけどよ」

「そうね。痛い目に遭えばいい、という心意気だったものね」

「うん、知ってる。そんな気配がすごくしてた。割と雑草刈り取るような勢いで俺の命も刈り取られそうだなー、とか思ってた」

「……え、これ俺突っ込んでいいとこッスかね?」  


 今度こそはっきりと千歳の笑みは引き攣っていた。  

 いやだこの子たちこわい聞かなかったことにしたいッスー、という彼の反応は一般的に考えてごく普通のものである。とりあえずカミサマたちは除外するとして、浅葱の反応はといえば良くも悪くも薄っぺらく、感情の幅もいっそ面白いぐらいに上下への揺れがない。どう考えても普通とは呼べはしないし、むしろ呼んではいけない。


「……うん?」  


 ふと。右手を包んだほわりとした暖かさに、浅葱は視線をそちらへと向けた。見ると、琥珀が浅葱の右手を両手でぎゅうっと握り締めている。


「琥珀?」  


 何事かと名前を呼ぶも、それに対して特に返事らしいものは何もなく、視線がじいっと一点に固定されている。握り締めた右手の、少し下。 あぁ……と浅葱は再び声を漏らした。握られていない方の手で、ぽふぽふと琥珀の頭を撫でる。


「大丈夫。見た目ほど痛くはないから」  


 要するにこれは心配されているってことだろう、とものすごくほんわりした気分になりながら告げたそれは、どうやら間違ってはいなかったらしい。むっと眉を寄せた琥珀が、やっぱりこれすごいむかつく……と呟いた。双子の引き攣った表情を視界の隅っこに捉えながら、何かそれさっきも聞いたなぁ……と浅葱は思った。  

 浅葱の手首の自由を奪っていた縄を、むかつく、と睨み付けていたのも、今その痕を見てむっと眉を寄せているのも、大元の心境としては同じものだろう。心配されている。向けられる気持ちが暖かくて少しくすぐったい。  

 こういうところは、素直でほんとに可愛いよなぁ……などと思いながら、ぽふぽふと暢気に頭を撫で続けていたら、きっ! と睨み付けられた。


「お前はっ!」

「うぉ? うん、何?」

「何、じゃなくて! 痛くないとか、そういうことでもなくてっ……ああ、もう!」  


 言いたいことが上手く纏まらないらしく、苛立たしげにダンッ! と一度足を踏み鳴らして、琥珀は浅葱の手を再び握り締めた。


「とにかく! 心配ぐらい普通にさせろっ!」

「……と言われても。本当にそんなに痛くない……」

「同じ怪我を私とかあいつらがしてたら、お前どう思うの」

「え? ―― ああ、そっか」  


 言われたことを想像したら、すとんと納得してしまった。  

 心配は、する。怪我をしていたら、大丈夫だろうかと心配になる。けれどそれを受け取って貰えなかったら、きっとそれはひどくもどかしいのではないだろうか。  

 確かにこれは自分が悪い、と素直に反省してごめんと謝る浅葱に、琥珀はぎゅっと眉を寄せた。怒っているような、泣き出す一歩手前のような、ごちゃごちゃな表情だった。


「……別に、謝って欲しいわけじゃない」

「うん、そうだな。でも、ごめん」

「…………帰ったら、まず手当てするから」  


 憮然とした口調で言い放った琥珀は、殊の外丁寧な手つきで浅葱の手と自分の手を繋ぎ直すと、そのままずんずんと歩き始めた。少し低い位置にあるはちみつ色の頭を見下ろして、浅葱はきょとんと瞳を瞬かせる。  


 貰った言葉が、くすぐったい。繋いだ手が、暖かい。―― この気持ちは多分、嬉しい。  

 自然と小さく笑みを浮かべた浅葱に、千歳がにやにやしながら口を開いた。


「いやー、愛されちゃってるッスねー、浅葱くん」  


 からからと笑いながら告げられた言葉に、え? と首を傾げた浅葱は、けれどすぐにあぁ、と頷いた。


「うん。でも愛されてるというか、むしろ愛しちゃってるけど」  


 さらり、と返された言葉に、一瞬時が止まる。  


 心配されているなぁ、と思う。その実感はあるし、向けられた気持ちはくすぐったい。嬉しい。愛されている、というのなら、多分その通りなのだろう。  

 けれど、それ以上に。むしろ前提条件として、浅葱はこの小さなカミサマのことが好きなのだ。そう、胸を張って言ってもいい。  


 何の照れも衒いもなく、浅葱は断言した。彼にとっては当たり前の事実だったので、皆が一様に動きを止めた理由が浅葱には判らない。あと、琥珀が首まで綺麗に真っ赤になっているのは何故なのか。


「やっぱり浅葱くん猛獣使いッス……」  


 千歳にしみじみと呟かれたが、その言葉の意味も浅葱にはやっぱり判らないままだった。

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