カミサマ異聞
逢魔が刻の迷い道
ふ……と、誰かの声が聴こえたような気がした。
「……うん?」
ある秋晴れの日、そろそろ昼下がりも過ぎようかという時刻。浅葱は耳朶を掠めていった音に足を止めて振り返る。
それは、声だったのか。それともただの音だったのか。あまりにも小さく耳へと届いたそれを、浅葱は声だと思った。誰かを呼んでいる声。
「んー……?」
こてり、と首を傾げて少し考え込むような体を取った後、浅葱は迷いなく踵を返した。ぺたぺたと濡れ縁を横切り、そのまま庭へと降りる。少しだけひんやりとした風が袖を揺らしてゆくのを無造作にやり過ごして、浅葱は再びこてりと首を傾げた。
「んんー? …………こっち?」
多分。そんな気がする、と少し大きめの下駄をからんころんと鳴らしながら、浅葱は歩みを進める。
耳を掠めたそれを、浅葱は声だと思った。呼んでいる、と思って、でも自分が呼ばれているわけじゃないな、とも思った。それはもはや勘ですらない、ほとんど確信のようなものだ。
小さな、小さな、声。誰かを呼ぶもの。
例えるならそれは、母猫とはぐれた仔猫が心細げに上げる声に似ていた。だからこそ浅葱はその声の主が呼んでいるのが己じゃないと知りながらも、その声の主を探してからころと下駄を鳴らす。基本的に浅葱は、寂しげな声を上げるものを放ってはおけないのだ。
「えーっと……」
まいご、まいご、迷子はどこだー? と、完全に声の主を迷い子扱いして覗き込んだ先、
「……およ?」
予想外な茶色の毛玉を目にして、浅葱はぱちりと瞳を瞬かせた。
* * *
結論から言えば、それは猫ではなかった。
四足歩行の動物であることに間違いはなかったが、あまり馴染みのないその生き物は、おそらく ――、
「……狐?」
……のような気がする。多分。
もふっとした尻尾をまじまじと見やりながら、浅葱はそう結論付けた。野生の狐というものを見たことがあるわけではなかったが、多分間違いはないだろう。ただ、想像する狐よりも一回り以上小さいので、きっとこれはまだ子供なんだな、と浅葱は思う。これ、が狐ではないという可能性はさっさとどこぞに放り投げた。
いや、違う。問題はそこではなく。
「なんで、狐がこんなとこに?」
こてり、と浅葱は首を傾げた。
自分がいるのは、もちろん神代の家の中である。つまりは街中だ。まかり間違っても山の中ではない。視線の先、浅葱とばっちりと目が合った状態でかちんと固まっている子狐は、多分普通はこんなところにいるはずもない動物である。何故こんなところに迷い込んで来たのだか理解に苦しむ部分はあるのだが、一応野生の生き物だろうに未だに逃げずに固まっている理由は浅葱にもすぐに知れた。
きゅん、と小さく鼻を鳴らすように声を上げた子狐はようやく硬直が解けたのか、浅葱から視線を外すことなくずりっ……と少しだけ後ずさる。それを見咎めて、浅葱は僅かに眉を顰めた。
「あ、こら。動くな、動くな」
「きゅん!?」
「ほら、言わんこっちゃない。怪我悪化するぞー」
からん……と下駄を鳴らして、浅葱はひょいっと子狐の前にしゃがみ込んだ。とは言っても、手を伸ばしても届かないだけの距離は開けている。鉄則、野生の動物とは急に距離を詰めるべからず。ああこれ、カミサマ相手にも適応されるよな、と浅葱はなかなかに失礼なことを考えた。浅葱の中で自分のところのカミサマの印象は野良猫で固定されているし、鶴来のカミサマたちの印象も野生動物だ。籐条のカミサマは……野生というか、とにかく強いやつ。出会ったらやばい系の。
……いや、それはともかく。
「ああ……ざっくり切れてるなぁ。お前、どうしたんだ、それ」
「きゅぅ……」
「んー……悪いな。放っておけ、っていうのは却下だ。俺の精神衛生上よろしくない」
「きゅん!?」
そんな理不尽な! とでも言うように、子狐が鳴いた。鳴き声ひとつではあるが、随分と感情豊かな狐である。
というか、これ完全にこっちの言葉理解してるよな、と内心でそんなことを思いながら、浅葱はひょいと右手を子狐へと伸ばした。
「ん、何もしないからこっち来い」
「きゅ……」
「だーめ。動けないんだろ? お前が呼んでたの、俺じゃないのも知ってるけど、気付いちゃったものは仕方ないし、その辺は諦めろ」
「きゅー……」
「後で、お前の家? んー、山……か? そこに帰してやるから、とりあえず傷の手当てぐらいさせてくれ」
「……」
子狐は、じっと浅葱の言葉を聞いている風だった。自分へと向けられる言葉を理解して、考えているような。多分全部理解してんだろうな、と浅葱は思う。こちらを見上げる子狐の瞳に、試されているような気分になった。
が、そこで臆するなどという可愛げが欠片も湧いてこないのが浅葱である。彼の脳内は、あー、なんかこれ琥珀と初めて会った頃思い出すなぁ……などと、極めて平和なものである。
やがて、戸惑うように恐る恐ると、けれど確かに自分の意志で子狐は浅葱へと近付いた。ほんの少し、手の届かなかった分だけの距離を詰めて、鼻先をちょん、と浅葱の手へと押し付ける。
「ん、いいこ」
ふわりと微笑んだ浅葱は、今度は躊躇わずに手を伸ばした。怪我は、右の前足。その箇所を確認して、怪我に障らないようにと丁寧な手つきで子狐を抱え上げる。
今更ではあるが、浅葱は可愛いものが大好きである。ついでに言えばふわふわもこもこも大好きだ。その合わせ技のような子狐を腕に抱いた浅葱は、彼にしては珍しくふんわりと相好を崩し、指先で喉元を軽く撫でた。
「あ、猫じゃなかったな。ま、いいか」
つい癖で、と零す浅葱は、最近庭へと姿を見せる野良猫たちを餌付けするのが密かな楽しみとなっている。若様のタラシ手腕は猫にも適応されるんスか……と、どこか遠い目を千歳はしていた。意味はよく判らなかったが、まぁいいかと浅葱は思っている。
とにもかくにも、野良猫と同じ扱いを子狐へと向けていたわけなのだが、腕の中で大人しく収まっている ―― というか、どこか気持ちよさそうに瞳を閉じている相手に、よしこの対応のままいくか、と判断を下した。嫌じゃないらしいし、自分はもふもふを堪能できる。一石二鳥だ。
ゆるゆると喉元をくすぐりながら、浅葱はからころと下駄を鳴らした。
「んー……傷薬……、千歳に訊いた方が早いか……?」
そう、独り言を漏らしながら歩いていた、その時。
ふ、と。頬を撫でる空気が変わった。温度ではない。ただ、決定的に『違う』と感じる、それ。
からん、と下駄が鳴った。
乾いたその音が消えゆくその瞬間に瞬きをして ――……、
「……おお」
浅葱は、小さく声を漏らした。
それは紛れもなく驚きの声で、当の本人もそれはもう心の底から驚いていたのだけれど、残念ながら声音からそれを窺い知ることは出来なかった。それぐらいに軽い、感慨も何もない声で浅葱は再び「ええー……」と呟く。
「……どこだ? ここ」
自分は、確かに神代の家の庭にいたはずである。それなのに。
ぐるりと周囲を見回す。見覚えのある景色は、そこにはない。
ほんの一瞬。瞬きの間に、自宅の庭にいたはずの浅葱は、見事に迷子になっていた。
* * *
かさり、と足元で落ち葉が舞った。
赤く色付いたそれを目で追って、同じように赤く染まった空を見上げる。それだけは先刻までと同じものだ。だがしかし、決定的に空気が違う。場所が違う。どこだここ。
「ウチ……に、鳥居はなかった、よなぁ……?」
夕焼け空に溶け込むような朱塗りの鳥居を見上げて、浅葱はこてりと首を傾げた。
神代の屋敷は何と言っても広い。とても広い。浅葱自身、この家に来てそれなりの年月は経っているが、屋敷の隅々まで把握しているかと問われれば素直に首を振るしかない。従者見習いだった自分が立ち入れる範囲などたかが知れていたし、お前の行動範囲は人というよりむしろ猫だと琥珀に言われたこともある。ちなみにその発言は見事に琥珀自身へと打って返されたわけなのだがそれはともかく。
当主となってからも、浅葱の行動範囲は従者見習い時代とそう変わらず、多少足を踏み入れる場所が増えたぐらいで、屋敷の全景を知っているとは到底言えなかった。それでもこれは断言できる。ウチに鳥居はなかった。しかもこんなにたくさん。極め付けに立派なの。
ずらり、と朱塗りの鳥居が連なっている様は、圧巻の一言に尽きた。赤い、少しだけ小ぶりな鳥居は、浅葱の立っているその位置からずっと奥の方まで続いている。どこに続いているのかは、夕闇に紛れて見えなかった。
「きゅん」
腕の中でもふもふが鳴いた。視線を落とせば黒々とした瞳と目が合う。見つめ合うことしばし、浅葱はゆっくりと子狐から視線を外して鳥居の奥を見やった。
「……あそこに行けって?」
「きゅ!」
「まじか」
え、あっち絶対何かいるだろ、と呟いた浅葱に、子狐はきゅう? と小首を傾げてみせた。……うん、かわいい。もふもふかわいい。浅葱は無言のままもふもふとした頭を数回撫でて、諦めたように小さくため息を落とした。
絶対に、何かいる。
何か、というのは、言ってしまえば妖とか物の怪とか呼ばれる類のもので、いるというより出ると言ってしまった方がより正確だろう。どちらにしろ浅葱の専門外だ。
が、そう思っているのは当の本人のみで、浅葱は昔からそういった類のものにやたらと好かれやすい体質であった。それはもう、びっくりするぐらいに好かれる。連れて行かれそうになる。というか、未遂どころか完遂された実績もある。連れて行かれた。
そうやってあちら側に連れて行かれる割には当の本人に危機的意識が薄く、何故だか毎回無事に戻って来てしまうものだから危機管理意識も育ちようがない。お前、ホントそういうとこたち悪いよな……と呆れたように言っていたのは年上の幼馴染だったか。何度目かの神隠し体験の後、黒い綺麗な鳥の羽を手に何食わぬ顔で帰って来た浅葱に向けての台詞である。今度は烏天狗かよ……と更に呟かれたそれは、意味が判らなかったのでそのまま流したけれども。
それはともかく。
気が付いたら知らない場所にいました、などという焦って然るべき事態も、浅葱にとっては既に慣れっこでしかない。知らない場所。何かいるな、というのは感覚で判る。普通の人間であれば臆してしまうところではあるが、そこは浅葱である。暗くて見えない鳥居の奥へと目を凝らして、ぴりぴりとした感じはしないな、と内心でひとつこくりと頷いた。何かいる……けど、まぁ多分大丈夫だろう、と結論付けて頓着なく足を進めた。
からん、と下駄の音が鳴る。
夕暮れ時。逢魔が刻ともいうのだったか、虫の声もしない周囲はひどく静かで、異質だった。そしてそんな中をすたすたと怯えも警戒もなく、まるきり普段通りに歩いてゆく浅葱はある意味異常であった。だがしかし、これで通常運転なのだから頭が痛い。主に世話役辺りの。
浅葱とて、ここは違うな、ということはよく判っている。今まで自分がいた屋敷とここでは、何というか世界がずれているのだ。
違う世界に、何か違うイキモノが、いる。
それは浅葱の知るカミサマたちともまた違うモノたちだ。
鳥居の奥を目指して、浅葱は進む。からころと下駄の音。朱塗りの鳥居が、闇の中でもその色彩を主張している。空気が、とても静かだ。
「―― お?」
不意に。
目の前でぽぅ……と灯りが燈った。
橙色の、手のひらに乗る程度の大きさの灯りだ。それがふわり、と宙に浮いている。ぱちり、と浅葱が瞬きをしている間にもそれはみるまに数を増やし、夕闇を鮮やかに染めてゆく。
ふわふわと浮かぶその灯りが、実はとても見知った形をしていることに、浅葱はようやく気が付いた。えぇと、これは何だったか。庭に生えてるの見たことあるぞ。そう、確か……、
「……鬼灯?」
「―――― おやァ」
浅葱がその灯りの正体を呟いたのと、ひどく艶のある声がそこに響いたのは、ほぼ同時だったように思う。
「こォれはこれは……随分と、可愛らしいお客人だねェ……」
くすり、くすりと零れるような笑い声。きゅう! と狐が腕の中で鳴いた。
声の出所を辿るように浅葱が振り返った、先。そこで、鮮やかな赤の着物を身に纏った女が糸のように瞳を細めて笑っていた。
* * *
「いらっしゃァい、坊」
「……お邪魔してます?」
とりあえず、挨拶。これ大事。
浅葱の身に沁みついている教訓めいたものが反応して、咄嗟に挨拶らしきものが口を付いて出たが、果たしてこれは合っているのだろうか、と思う。その言葉を受け取った相手はと言えば、楽しそうにころころと笑っているのでまぁそれで構わないのだろうが。
「はァい、お邪魔されているねェ。……というより、坊はその子に招かれて来た口だから、気にすることはないさァ」
その子、と言いつつ女が指差したのは、浅葱が抱えている子狐だった。
「……招かれた?」
「そォ。その子がここまで連れてきて欲しい、って頼んだんだろォ? ここはこちら側のものが呼び込まない限りは入れない場所だからねェ。その子に連れられて、坊はここまでやって来たってわけさァ」
なるほど、そういうことになるのか……と、にんまりと笑みの形に彩られた女の口元を見ながら浅葱はこてんと首を傾げた。次いで、腕の中にいるもふもふを見下ろす。きゅぅ? と黒目がちの瞳に見上げられた。うん、かわいい。かわいいからもういい。
浅葱に、連れて来られた、という意識はない。怪我をした子狐の手当をしようと思っただけである。あとは、棲み処へ帰そうと思ったぐらいか。
「こいつ、ここの子?」
艶やかな印象の女を見上げながら、浅葱は訊いた。赤い瞳。ゆうるりと眇めた目は、糸のように細い。それをはっきりと笑みの形へと変えて、女は頷いた。
「そうさねェ、ウチの子だ」
ふふ……と小さく笑って、女はすいっと白い指先を伸ばしてきた。爪を綺麗に赤く彩った指先で子狐の喉元をくすぐる。気持ちよさげにその指先に擦り寄った子狐は、甘えるようにきゅう、と鳴いた。ああ、そっか。お前が呼んでたのは、この人か。すとんと浅葱はそう納得する。
「この子はウチの一番末の眷属でねェ、今日はずっと姿が見えなかったから探していたところだったのさァ。連れて来てくれて助かったよォ、坊」
「いーやー……? 連れて来たというか、むしろ迷子になっただけというか……?」
浅葱としては、庭から母屋へ戻ろうとしていただけの話である。始点と結果が繋がっていない。いや、まぁいいけど……と駄目な見本のような結論を早々に導き出した浅葱は、あぁそうだ、と今更のように子狐を抱え上げている理由を思い出した。
「あ、そうだ。こいつ、怪我してるんだけど……」
「どォれ? ―― あァ、本当だねェ。そう深くはないから大丈夫だよォ」
「うん、でも俺が気になるから手当てしてやって」
「あれまァ……」
きっぱりと言い切られつつ自分へと渡された茶色の毛玉を受け取った女は、少しだけ驚いたように瞳を見開いた後、楽しそうに笑った。
「坊はいい子だねェ……」
小さな笑い声と共に、するりと頭を撫でられる。浅葱は他人の頭を撫でるのはしょっちゅうだが、撫でられる経験はそう多くない。そして浅葱は、主にカミサマたちの頭を撫でるのも大好きだが、撫でられることも決して嫌いではないのだ。自分がいい子かどうかはさておき、ゆるりと頭を撫でてゆく女の手を、浅葱は役得とばかりに享受した。
おやおやァ……と女が零れるように笑う。ウチの子が本当に悪かったねェ……と、艶やかな声に重ねるようにして子狐がきゅうと鳴いた。
ウチの子、と女はそう断言した。女へと渡した狐の子と、ずうっと連なっている鳥居を見上げて、浅葱は再び女へと視線を戻す。ぼんやりとした鬼灯の燈に浮かび上がる女の姿は、普通の人間にしか見えないけれども。
「……狐?」
つまりは、そういうことかなぁ……と浅葱はこてりと首を傾げつつ訊いた。
おやァ……と女が楽しげに瞳を細める。
「正解だよォ、坊」
人にしか見えない、と思っていた女の頭には、いつの間にかぴんと尖った狐の耳が生えていた。視線を落とせば、真っ白な尻尾が揺れている。いち、にい、さん……あ、何かまだある。もふもふだ、気持ち良さそう……。触らせてくれないかなぁ……、
…………ではなく。
「確かに、アタシは狐だよォ。天狐、と……呼ばれているねェ」
あ、これやばいやつだ。大物さんだ。
今更のようにそう認識した浅葱の脳内で、「若様の馬鹿あああぁぁっ! 遅いッスうううぅぅっ!?」と想像上の千歳が吠えた。
基本的に浅葱は危機意識が足りない。それは既に周知の事実である。
危機意識に付随する恐怖心その他も足りていないので、この状況下において「あ、やばい」と思ったものの、浅葱のその先の行動には何ら影響が出ない。とりあえず、やっぱり尻尾触らせて貰いたい……ではなく。
「じゃあ、名前は訊かない方がいいし、俺も名乗らない方がいいな?」
こてり、と首を傾げて浅葱は言った。おそらくは、というか絶対、相手に言ってはいけない類の台詞であろうが、浅葱としてはこれで通常運転である。脳内の琥珀が「浅葱はばかなの!?」と喚き、千歳が「ああああ……」と頭を抱えた。
「ふ……ふふあはははっ! おォや、惜しい。意外と坊はしっかりしているねェ」
こォんなに拐かされやすそうなのに、と実に楽しそうな笑い声を上げながら、女がついっと手を伸ばしてきた。するりと頬を撫でて行った白い指先は、不思議な程にひんやりしている。
ひやりとした冷たさが、目元で止まった。赤い爪が、目じりを撫ぜるようにゆるゆると動く。赤い瞳。ひた、とこちらを見据える瞳は楽しそうに笑んでいるけれども、どこか冷たい。それは空気の冷たさではなく、刃物の切っ先を向けられた時のような温度だ。
多分これ、目を逸らさない方がいいやつだよなぁ……下手すると死ぬやつ、と暢気に物騒なことを考える浅葱を他所に、女はにこり、と微笑み、ねェ……と囁いた。
「ねーェ、坊? 坊は、『こちら側』に来る気はなァい?」
「うん?」
こちら側? と浅葱は首を傾げる。
それはつまり、ここのような世界のことを指すのだろう。人のいる世界とは少しずれた、人以外のものが多く棲む場所。
浅葱はきっと、どこでだって生きて行ける。自分でそう思う。こちら側、と女が呼ぶその世界でだって、生きようと思えば普通に生活できてしまうのだろう。浅葱が浅葱である限り、それはもはや揺るがぬ事実であるように思えた。
けれど。
「行かない」
女の誘いに浅葱はきっぱりと首を振った。どこでだって生きていけることと、そこに居たいという場所があるのはまた別の話だと思うのだ。
浅葱には、ここに居たいと思える場所がある。だから『あちら側』へは行かない。
「おォや、振られてしまったねェ……」
「きゅぅ……」
くすり、と笑んだ女の腕の中で、子狐が鳴いた。その声がどこか不満げでつまらなそうだったので、浅葱は反射のように手を伸ばしてその茶色の毛並みを撫でた。
「ごめんな」
浅葱はもふもふの動物が大好きだし、可愛いものも大好きだ。実のところ、女のふわふわな尻尾も未だに撫でてみたいと思っているし、夕暮れ色に染まるこの世界は、怪しいぐらいに綺麗だと思う。
そう、多分自分は、ここでだって生きてゆける。
それでも。
「いっとう可愛いの、待たせてるから。だから帰る」
浅葱が居たいと思うのは、いつだってあの金色のカミサマの隣なのだ。
夕暮れの世界が、ぐんにゃりと歪む。子狐が拗ねたような、仕方がないとでも言いたげな眼差しで、きゅん、と浅葱の手を鼻先で押しやった。
「おやァ……こォれはこれは、惚気られてしまったねェ」
くすくすと、楽しくて仕方がないとでもいうように、女が笑った。今度はちゃんと、温度のある笑みだった。
「坊、訂正するよォ。お前さん、いい子、じゃなくて随分といい男だねェ……」
あァ、勿体ない、と笑う声が遠ざかる。歪んだ夕暮れ色の中、女の姿がぼんやりと浮かび上がる。茜色に染まる、真っ白な尻尾と狐耳。朱塗りの鳥居の間を縫うようにして、いくつも浮かんでいた鬼灯の燈が、ひとつふわりと浅葱の傍らに舞い降りた。
「あげるよォ、持っておゆき。迷わずに、『いっとう可愛いの』の処へ帰れるようにねェ」
お守り代わりだよォ、と反響するように揺れる女の声と一緒に、手の中の灯りもぼんやりと揺れた。からん、と下駄の音。
「残念だけど、此度はこれまで。―――― またねェ」
ふっ、と一瞬で闇に閉ざされたその中で、鬼灯の燈がふわりと浮かんで、そして ――――……。
はっ、と気が付いた時、浅葱は庭の片隅に立っていた。手の中には、橙色の鬼灯がひとつ。
「……おお、まだ光ってる……」
すごい、とそれを手のひらに転がしながら浅葱は呟いた。先刻までとは違い浮いてはいないが、それでもまだぼんやりとした光で周囲を照らしている。下手な提灯などよりは余程明るいそれを手に、浅葱はこてりと首を傾げた。
夢だったのかと思い、けれど即座にいや違うな、と自分で否定した。あれが夢ではなかったことは、自分が一番よく知っている。
「……あ、下駄片っぽ落としてきた」
どうりでさっきから平衡感覚がおかしくて、片足が冷たいと思った。浅葱は片方残った下駄を脱ぎ捨てて、裸足で庭の土を軽く蹴る。
逢魔が刻、と呼ばれるその時刻は、もう終わろうとしていた。向こう側の景色も、もう見えない。見覚えのある、神代の屋敷の風景だ。
帰って来たなぁ、と思う。帰って来れて良かったなぁ、とも思う。いや、絶対に帰ってくるつもりではあったけれども。
「……浅葱?」
小さな声が、浅葱を呼んだ。
浅葱がその声を聞き漏らすことはない。
きっとどこでだって生きていけると思うけれど。
一緒に生きていたいと思う相手がいる。
だから、自分が居たいと思うのは、ここでしかないのだ。
「―― ただいま、琥珀」
珍しいぐらいにふんわりと笑んで、浅葱は告げた。その言葉を向けられた先、金色のカミサマはぱちりと瞳を瞬く。
「え、おかえ、り……? って、浅葱、どこか行ってたの?」
「うん、ちょっと……違う世界に?」
「は!?」
え、なにどういうこと!? と詰め寄る子供に、浅葱は笑う。
ただいま。
ここが、自分の居たい場所。
―――― 一緒に、生きてゆきたいひと。
* * *
「…………ところで若様」
「うん? あ、千歳もただいまー」
「はい、おかえりなさいッス。…………ってぇ! まーた供も連れずにどっか出掛けてたんスか!?」
「や、不可抗力不可抗力」
「浅葱! 違う世界ってどういうこと!?」
「何スかその突っ込みどころしかない台詞っ! 違う世界っ!?」
「うーん……、そうとしか言いようがない……。あ、そうだ。下駄片っぽ落としてきた、ごめん」
「今! 明らかに! 問題なのはそこじゃないッスよね!?」
「というか、浅葱……これ何? 何なの?」
「ん? 鬼灯」
「若様若様、普通の鬼灯は光ったりしないッス!」
「何かすごい力感じるんだけどこれ……」
「真主様もそんな補足はいらなかったッス! 若様ちょっと!? これの出所は!?」
「え、貰った」
「誰にっ?」
「んー……、真っ白い狐耳と尻尾いっぱい生やした……多分大物な感じの女の人」
「…………え?」
「さっすが若様! まったく意味判んねッスううううううぅっ!」
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