猫の警戒心と手のひらの熱
カミサマは、人間だった。
そんな風に、再認識した浅葱だったのだけれど。
「…………人間ってよりも、いっそ猫みたいだよなぁ……」
現在、更にその認識を改めている真っ最中である。
* * *
ある日、茂みの中からこちらを窺うはちみつ色の瞳と目が合った。
うぉう、と内心でちょっと驚きつつ、おはようと挨拶をしたら、ぷいっとそっぽを向かれた。 頭に葉っぱが付いていたので取ってやったら、ものすごい速さで逃げられた。若干、人間としての速度を超えていたような気がする。さすがカミサマ。でも途中で転んでいたのは大丈夫なのだろうか、あれ。
またある日は、ふと見上げた先の木の上でカミサマが昼寝なんぞをしていたものだからぎょっとした。多分表情には出ていなかっただろうが、かなりぎょっとした。
視線に気付いたのか、こちらを見たカミサマは何故か慌てた様子でばっと身を翻すと地面に見事な着地を決め、そのままどこかに走り去って行った。意外にも、運動神経的なものは良かったらしい。べそべそと泣いていたその様から、カミサマは鈍臭いものだと思い込んでいた浅葱は、その失礼な認識を改めた。
これまたある日は、猫が好きそうだよなこんな隙間、と思ったその場所に、しっかりとカミサマが入り込んでぐしぐしと泣いていた。
あ、ものすごい既視感、と思いながら、懐に入っていた飴をカミサマへと手渡した。ちなみに杏味だ。その際、何でお前ここにいるんだ的な目で見られたが、それは浅葱の方がカミサマに言いたい。何でそんなとこに入り込んだ。
それが、この一週間ぐらいの間の出来事だ。
前々から思ってはいたが、結構な遭遇率の高さである。加えて、何だか微妙な場面ばかりを目撃しているような気がしなくもない。
カミサマの威厳って何だろうか。少なくとも、浅葱は知らない。
カミサマはただの人間の子供で、人間というよりは行動が猫に近い。しかも野良猫。人に懐かない感じがそっくりだ。
浅葱のカミサマに対する認識は、そんなところに落ち着こうとしている。通常の人間よりも下方修正というか、むしろ斜め上の妙な位置に修正されているのだが、それを指摘する人間がいない。結果、浅葱の中でその微妙な認識はじわじわと固まりつつあり、カミサマがとても残念なことになっている。もはや人間扱いすらされていない。
まぁ、カミサマを人間扱いしていないのは、屋敷にいる人間皆だよな、と浅葱は思う。
ただその方向性が、浅葱のそれとは真逆になっているだけで。
「…………」
―― と、そんなことをつらつらと考えながら、浅葱はさて、と思う。
何だこの遭遇率、と。
浅葱の目の前、小さくなって膝を抱えているのはカミサマだ。カミサマが自分の膝に顔を伏せていることもあり、浅葱の目線からだとはちみつ色のつむじしか見えない。
が、小さく震えている肩だとか、堪えても漏れ聞こえてくる嗚咽だとか、まぁとにかく状況の把握自体は余裕だった。
ああ、やっぱり、と。
また泣いてるのか、と思いながら隣に腰を下ろせば、気配に気付いたらしいカミサマが顔を上げて睨んできた。野良猫の警戒心、と毛を逆立てる猫の様子を浅葱は脳内に思い描く。妙に嵌まっているのがどうしたものか。
「……また泣いてるのか、って思ってるだろう」
涙の溜まった瞳で睨み付けられながら、ずばりと思ったことを言い当てられ、浅葱はおお、と感嘆の声を上げた。
「すごいな、当たりだ」
「……自分で言っておいて何だけど、本当に失礼な奴だな、お前」
「それもカミサマの力、ってやつ?」
「そんな力、ない。なくてもそれぐらい判る」
「そっか。じゃあ、今、野良猫みたいって思ったのも?」
「……それは知らない」
というか、そんなこと思ってたのか……と胡乱げな眼差しを向けられても、浅葱はどこ吹く風である。そんなことに動揺するような可愛げを持ち合わせた子供ではない。
浅葱のカミサマの間には、人ひとり分の距離がある。 精神的に、といった意味ではなく、単純に物理的に。多分、これ以上距離を詰めたら逃げられてしまうと、予感というよりもむしろ確信めいた気持ちが浅葱の中にはあった。
他人に対して無関心な割に、そういう距離の取り方は絶妙にうまいよな、と言ったのは、確か近所に住んでいた年上の幼馴染みだったか。
とにもかくにも、そのぎりぎりの距離の外側から、浅葱はカミサマの顔ををひょいと覗き込んだ。
「ん、泣き止んだな」
「……っ」
今更のように、羞恥だとか気まずさだとか、そういう感情が襲ってきたのだろう、慌ててごしごしと顔を擦るカミサマに、浅葱は「擦ると赤くなるぞ」とのんびり声を掛けながら持っていた手布をほいと差し出した。
「……いらない。それくらい、持ってる」
「そか? 濡らしてあるから、こっちのがいいと思うけど」
え、と戸惑った声を上げるカミサマに手布をそのまま渡せば、微妙な表情をしていたものの、案外素直にカミサマは目元へとそれを押し当てた。
そのまま、沈黙が数秒。
「…………ずいぶんと、用意がいいな」
「ん? ―――― ああ、見てたからなぁ」
何を、とは言わなかった。 それは、偶然目にしただけだったのだけれども。
浅葱は見ていたから、きっとカミサマはまた小さくなって泣いてるんじゃないかと思って、念のためにと濡らした手布を持ち歩いていた。ただそれだけのことだ。
「泣いてばっかりとか、呆れたりしないのか?」
「しない。―― 見てたから」
ずっ、と隣で鼻を啜りながらの問い掛けに、浅葱はきっぱりとそう返した。
そう、見ていたから ―――― 見ていただけの自分には、何も言えない。
呆れることなど、何もありはしない。むしろカミサマは良く頑張っている。
浅葱は、カミサマは人でしかないと知っている。
というより、懐かない猫みたいだよなぁ、と最近では思っている。
若干人間扱いしていない自覚は浅葱にもあるけれど、それでも本家の人間のカミサマに対する扱いよりはまだましなんじゃないかな、とも思う。
見てたから、知ってる。
カミサマが、皆にどんな扱いをされているのか。
ヒトではない、と。 線を引くのは容易い。
特別な力を持っているからと、カミサマとの間に線を引く。その心理自体は、浅葱にも理解できなくはない。
ちがうのだと、線を引いて遠ざけるのは、自分と同じ枠内に入れて理解しようとするよりも、ずっと簡単で楽なのだ。
そう、解ってはいるけれども。
浅葱の目には、カミサマは普通の子供と変わりなく映る。
泣くし、怒る。怪訝な顔もするし、呆気に取られた顔もする。普通の、子供だ。 それはカミサマの持つ力を知らないからだ、と言われてしまえばそれまでだが、例えそれを知ったとしても、浅葱が知っている、猫みたいだと思ったカミサマがいなくなるわけでもない。
ヒトではないと、線を引くこと。
本家の人間は、カミサマをヒト扱いしない。ヒトを相手にしていないと思っているからだろう、どんなひどい仕打ちだってできてしまう。
―― 自分たちとは、違うものだと思っている。それが意識的なものであれ、無意識的なものであれ、そう思っているのは事実だろう。
カミサマを恐れながらも、自分たちの自由にしようと ―――― 自由にできるものだと、そう思い込んでいる。
それに割を食うのは、いつだってカミサマだけだ。理不尽な扱いにじっと耐えて、陰で小さくなって泣いているというのに、本家の人間はその姿を見ようともしない。
浅葱の知っているカミサマは、少し意地っ張りで、我慢強くて、でも反応の素直な良い子だ。 ヒトではないと線を引かれながらも、人間を拒絶しきれない、不器用でやさしい子供だ。
今なら大丈夫かな、と浅葱はそっと手を伸ばした。
ぽふり、と柔らかな感触を伝えるはちみつ色の頭を撫でれば、手布に顔を埋めたままだったカミサマの肩がびくりと震えたけれども、手を振り払われることはなかった。
わー、さらさらだ、とそんなことを思いながら、浅葱はカミサマの頭をゆるりと撫でる。
そして。
「―――― よく、頑張りました」
えらい、えらい、と。
弟たちにしていたように褒めてやれば、手のひらの下、カミサマがかちりと硬直したのが判った。顕著な反応に思わず笑いそうになる。
要するに、これは……、
「褒められ慣れてない、と」
「……本当、なんなの、お前……」
わけがわからない、と顔中にでかでかと書いてあるような表情で、その通りの台詞を口にしたカミサマは、けれど浅葱の手を叩き落とすでもなくそのまま撫でられている。きっと、どうすればいいのかが判らないのだろう。そういえば、前に髪に付いてた葉っぱを取ってやった時は、ものすごい勢いで逃げられた。
「ん」
手、出して、と言えば、怪訝な表情をしながらも、手のひらが上へと向けられる。カミサマはこういう部分が妙に素直だ。
「あ……」
「今日は林檎味な」
泣いている時にいつも渡している飴玉をころり、と手のひらに転がせば、カミサマはそれを見てぱちぱちと瞬きをした。長い睫毛に乗っかっていた涙の雫が、その拍子にするりとカミサマの頬を滑って行く。
泣いてる顔も綺麗、というか、本当に綺麗な顔をしてるな、といっそ感嘆しながら更にはちみつ色の髪を撫でていたら、じっと手のひらの飴玉に視線を落としていたカミサマが、はくり、と口を動かした。
「あ……」
「うん?」
はくはくと口は動くものの、声になっていないその様子に、浅葱は軽く首を傾げながらその続きを待った。
伝えたいことが言葉にならない、そんな印象の相手には、急かしても逆効果である。主に実家の小さな弟妹相手に、浅葱は経験としてそれを学んでいる。
「う、あ、の……」
「うん、ゆっくりでいいぞ。ちゃんと聞くから」
お前の言いたいこと、全部聞くから。
そう告げた浅葱に、カミサマはまたぴたりと動きを止めた。
まじまじと、浅葱にはよく理解できない感情を宿した瞳に見据えられて、何か変なこと言ったっけ? と浅葱は内心で首を捻る。心なしかカミサマの顔が赤いのも何故なのかよく判らない。
「お前、本当に……ほんっとうに……っ」
「うん? 低音声音でそれを繰り返される理由もよく判らないけど、まぁいいや。何でも聞くって言ったの俺だしな。飴玉の味の要望でも何でもいいぞ?」
「もう、本気で、わけがわからない……」
何故だかカミサマはがくりと項垂れた。
その反応だと、浅葱の方がわけがわからない。
面白いなぁカミサマ、と思って、再びぽふりと頭を撫でれば、うぐぐと呻くような声を上げて今度はがくりと肩を落とされた。
「? どうかしたのか?」
「どうかしたか、はこっちの台詞だ……」
「うん?」
「お前、私を何だと思ってるんだ」
涙の渇ききっていない、きらきらとしたはちみつ色の瞳が、真っ直ぐに浅葱を見る。その眼差しを受け止めて、今度は浅葱がぱちぱちと瞬きをした。
意味が判らない。というか……何だと思っているのかと問われれば。
「……カミサマ?」
「……一応、知ってはいたんだな。というか、疑問形……」
「―――― と、理解してはいるんだけど、どうも弟たちと同列に見えるというか、最近は警戒心の強い野良猫に見えるというか?」
「っ、本当に! お前は! 訳も意味も判らないな!」
完全に余計だその台詞! とカミサマに怒鳴られた。誰が野良猫だ! とも。
そういうところが猫っぽいんだけどなぁ、と思ったが、それを口にしたらますます怒られそうだったので、さすがに浅葱も口を噤んだ。物事に対する興味が他人より極端に薄いだけで、浅葱だって多少は空気を読む。敢えて読まない場合もあるが、それはそれだ。
怒鳴ったことで、涙は完全にどこかへいってしまったらしい。 代わりにいつもよりも紅潮した頬でこちらを睨み付けてくるカミサマに、浅葱はこてんと首を傾げた。
なまじカミサマの顔がかなりの高水準で整っているため、そこには確かに迫力と呼べるものが存在していたのだが、主に年齢的なものが原因でどうにも微笑ましさの方が先に立つ。弟がこんな怒り方してたなぁ、てなものである。浅葱の脳内は大変平和だ。ちなみに妹の怒り方はもう少し怖い。思い出してもあまり微笑ましくはない。
こんな子供、町にいたらあっという間に浚われそうだなぁ、とそんなことを思った。 決して裕福と言えない界隈では、未だに人攫いだの人買いだのが多く存在する。かくいう浅葱も、その昔浚われて金持ちに売られかけた口だ。自分の何が良かったのだか浅葱にはとんと理解できないのだが、自分が売り物になるぐらいだ、カミサマなんて高額目玉商品として取引されそうだと、そんなことを思った。他意はない。
カミサマは、変わらず浅葱を睨み付けている。 浅葱はそれを真正面から見返して、あれ、と思った。
これは、怒っているというよりも……、
「……お前、私のことが怖くないのか?」
躊躇うように紡がれた言葉に、怒気はもはやなかった。
あったのは、不安だとか、戸惑いだとか。おそらくはそう呼ばれるもので。
「……こわい?」
何が、と浅葱は思う。
綺麗な顔をした、人間の子供。
怒るし泣くし不安そうな顔もする。 それのどこを怖がればいいのか、浅葱には判らない。
「……私は、神と呼ばれてる」
「うん、知ってる」
「―――― 人にはない力を、持ってる」
「ああ……」
そこか、と今更のように、浅葱は納得の声を漏らした。
【異能】というものを、浅葱はきちんと理解しているわけではない。
浅葱自身に【異能】の力は宿っていないし、そもそも【異能】というものがどんなものなのかさえ判っていない。興味もなかったので調べもしなかった結果がこれである。
【異能】は、別にカミサマだけが持っている力ではない。 ごく少数ではあるが【異能】を持っている人間は存在するし、この神代の家にも異能持ちがカミサマの他にいるらしいことは知っている。
けれど。 人ではない、と。
そう称される程に強い【異能】は、神と呼ばれる者しか持ち得ない。
その力はもはや人とは呼べない、と。無意識のうちに線を引く。
神代の家を含む五家のみに現れる、強い異能持ち。神、と呼ばれる人間。
矛盾を抱えながら、人はそこに明確な線引きをする。
浅葱だって、さすがにそれぐらいは知っている。
―― 知らない、わけではないのだ。
それでも。
「怖くない」
きっぱりと、浅葱は否定の言葉を紡いだ。
「これっぽっちも、怖くない」
繰り返して、もう一度。
カミサマの瞳が揺らいだのを見て、浅葱は少しだけ笑った。
馬鹿だなぁ……と、思いながら。
「怖くない。……というより、どこを怖がればいいのかが、いまいち?」
「……それはお前が私の力を目の当たりにしてないせいだ」
「まぁ、それもあるだろな」
そこは素直に浅葱も認めた。
それは紛れもない事実で、知らなければ怖がりようもない。
でも、と浅葱は思う。
ひとつだけ、はっきりと判る。
「俺はカミサマの力のことなんて何も知らないけど、カミサマのことは知ってる」
だから、それで十分だと思うのだ。
カミサマがぽかんとした表情になった。ひどく人間らしい表情だと、浅葱は思う。
そんな顔が、できるのなら。
カミサマが、人であろうとするのなら。
怖くはない。大丈夫だと、浅葱には思えるのだ。
カミサマの力は、カミサマのものだ。力だけがそこにあるわけじゃない。カミサマがそれを使うことで、初めてそれは人に対して力を持つ。
どれだけカミサマの力が強くても、怖いものだとしても。それを使うのがカミサマであるのなら、浅葱は大丈夫だと思うのだ。
だって、浅葱は知っている。
カミサマは、ちょっと不器用な、やさしい子だ。
カミサマの力は知らないけど、カミサマのことは知っている。【異能】の力が怖いものだとしても、カミサマは怖くない。
「ってことで、結論、怖くない」
「…………お前、本当に、馬鹿だろう」
俯いた、カミサマの声は震えていた。
言葉は攻撃する形をとってはいたけれど勢いはなく、頼りなさだけが強調されていた。
ぽふり、ぽふり、と浅葱は宥めるようにカミサマの頭を撫でる。
繰り返し、繰り返し。
「大丈夫。―――― こわくない」
少しだけでもいいから、この言葉が、気持ちが。
間違いなくカミサマに届けばいいな、と思った。
どれぐらいそうしていたのだろう。
ぽふり、と撫でた手のひらの下、カミサマがもぞりと動いた。うん? と見下ろした先、はちみつ色の髪の合間から見える耳が、それと判る程に赤い。
あれ? と思ったその矢先、俯いたままのカミサマが、うぅーっ……と心底困り切った様子で唸った。顔は上げない。上げないというよりは、上げられないんだろうなぁ、と耳だけではなく首筋まで真っ赤に染めているカミサマを見下ろして浅葱は思う。
思いながら、もう一度ぽふり、と頭を撫でた、その時。
「……っ、ぁりがと……」
蚊の鳴くような、小さな小さな声が、した。
それは、風が起こす微かな葉擦れの音にさえ掻き消されてしまいそうな、そんな声だったけれど。
浅葱の耳にはちゃんと届いたので、ぽふり、ぽふりと頭を撫でながら、浅葱はどういたしまして、と笑った。
こわくないよ。
だいじょうぶ、こわくない。
―――――― ちゃんと伝わった……?
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