カミサマ語録

ひそやかに忍び寄るもの

「……およ?」


 視界の端に過ぎった光景に、ふと浅葱は足を止めた。


 買い物帰り、ついでに散歩をして帰ろうということでいつもとは違った道をほてほてと歩いていたら、道のど真ん中に見慣れない物体がごろりと転がっていた。

 何というか、全体的に黒っぽい……、


「千歳ー。俺にはあれが人間に見えたりするんだけど、気のせい?」

「…………気のせいじゃないッス。というか、もーちょっと慌てるとか騒ぐとかいう反応くれないッスかね、若様」


 一応アナタ偉い人なんで。要警護人物なんで。ひとりで出掛けるなんて却下ッス。

―― と、そう言いながら有無を言わせず浅葱に付いて来ていた千歳が、あー……というような表情でそう言った。呆れのような懇願のような、そんな調子で繰り出された千歳の台詞に、浅葱は首を傾げながらも一応の譲歩で驚きの声らしきものを上げてみせる。


「……わぁ?」


 この上なく、語尾の上がった疑問形だったが。


「……逆に何か物悲しくなってきたッス、俺」


 もういいッス……、と千歳は項垂れた。

 そんな千歳の心境などさっぱりと理解する気のない浅葱は、もういいならいいかと潔いまでの思い切りの良さで納得し、再び前方へと視線を戻した。


 黒い塊は変わらずにそこにある。千歳の肯定もあったので、あれは人間ということで確定。

 うん……と少しだけ考えて頷いた後、浅葱はその塊の傍にちょこんとしゃがみ込んだ。そしてそのままおもむろに手を伸ばして、ぺしぺしと相手の頭を叩き始める。割と怖いもの知らずのその行動に、千歳の顔が僅かに引き攣った。


「いや、ちょっと……若様、若様。あのッスね……」

「おーい? こんなとこで寝てると危ないぞ。人通りがないわけじゃないし、踏まれる。具体的には俺に」

「若様が踏む気満々なんスか!」


 駄目だこの人! とでも言いたげに突っ込んだ千歳に、浅葱は俺自分の注意力とか信用してないから、とやけに淡々とした表情で答えた。そういう問題ではない。とりあえず踏むな、と千歳は思う。こんな判りやすいもの、というよりは ―――― 踏むとやばいものを。

 そんな千歳の内心などまるで察してはくれない浅葱は、あくまでもマイペースに今度は相手の顔の辺りをてしてしと叩く。


 それは、随分と体格の良い男だった。身体を丸めるようにして転がっているので最初はよく判らなかったが、多分立ち上がった状態だと浅葱が見上げるような位置に目線があるだろう。浅葱がまだ十代前半の、これから成長期を迎えようかという年代であることを差し引いても、おそらくは結構な身長差がある。高さ的には千歳といい勝負だ。

 けれど余分な肉が付いておらず、どこかひょろりとした印象の千歳と違い、男はひと目見て判る程の恵まれた体格をしている。それでも威圧感らしきものが欠片もないのは、瞳を閉じたその表情が不思議なぐらいに幼い印象を与えるからだろう。子供が遊び疲れてうたた寝をしている、そんな微笑ましさすら覚える様子で男はくぅくぅと寝息を立てていた。


 あろうことか、道のど真ん中で。


 ……そう、例え見た目が微笑ましかろうが何だろうが、男のしている行動自体は微笑ましくも何ともない。ついでに浅葱は踏むと宣言している。結構普通に何事かと問いたくなるような光景だ。

 だがしかし、それに対するのは浅葱である。てしてしと軽く叩いていた手のひらの下、思いの他ふわふわと柔らかい髪の毛に、浅葱は内心で感動しながらその感触を楽しむことにした。


「……若様。最初の目的完っ璧に忘れ去ってるッスね」

「―― おお」


 千歳とそんなやり取りがあったのも、ご愛嬌というものである。


 てしてしてしてし、ぽむぽむぽむ。


 叩くというよりは撫でるといった仕草でふわふわの髪の毛を思う存分堪能していた浅葱だったが、しつこいぐらいに繰り返されたその動作に、さすがに撫でられている本人の意識も刺激されたらしい。うぅん……と猫のような仕草で更にぎゅっと身体を縮め、頭を撫でる浅葱の手を払う代わりにぱしりと掴んでみせた。

 そこから、数拍の間があって。


「……あれ?」


 不思議そうにぱちぱちと男は瞬いた。ようやく自分が掴んだ何かが、他人の手だということを認識したらしい。寝起きのどこかぼんやりとした瞳で、掴んだ手をてんてんと辿り、やがてその瞳がばっちりと浅葱のものとかち合う。


(あ……)


 不思議そうに自分を見るその瞳の色を見て、夜が明ける時の空の色だ、と浅葱は思った。

 少しずつ空の端が明るくなってゆく瞬間に現れる色。夜の色彩を、光がほんの少しだけ溶かして、現れた紫紺。

 綺麗だなー、と暢気な感想を頂いた浅葱を見上げ、相手は再びぱちぱちと瞬いた。


「あんた、誰……?」

「通りすがりだ、気にするな。とりあえず、おはよ」

「ん、おはよう」


 存外素直に返された挨拶に、浅葱はおぉ……と内心で小さく感心する。まるきり良い子のお返事状態の挨拶といい、きょとんと不思議そうに首を傾げるその仕草といい、身体は大きいが子供のような反応だ。今、もうお昼過ぎッス……という千歳の呟きは華麗になかったことにされた。


「起きたんならさっさと立った方がいいぞー? 踏まれるから」

「……踏む?」

「うん。まぁ、まずは俺が踏む」

「そっかー」


 あ、駄目だこの人たち……とでも言いたげな表情を千歳は浮かべた。何故そこで堂々と踏むぞ宣言をしたのか。そして何故そこで納得した。両者共に何かが盛大にずれている。


「というか、何でこんなとこで寝てたんだ?」

「あれ? 俺、寝てた……?」

「ばっちりしっかり」


 寝ていたとも。気絶ではなかったのは、頭を撫でている際に聴こえてきた規則正しい寝息が証明している。本当に、本気で男は道端で眠っていたのだ。

 こくりと頷いた浅葱に、男は再びうーん? と首を傾げた。少し考え込むように宙へと視線を投げていたが、やがてあぁ……と小さく声を漏らす。


「そっか、俺、お腹空いて目が回ったんだ」


 それで、そのままここに転がってたー、と淡々と男は今に至るまでの経緯を告げた。それはまたなかなかにすごい理由だ。


 浅葱は呆れるよりも感心した。それは世間一般で行き倒れと言う。隣で千歳が「あー……これ、間違いなく本物ッスー。何でこんなとこにいるんスかやーだー」と更に遠い目になっていた。意味はこれっぽっちも判らなかったが、実害はなさそうだったので放置した。

 例え千歳が心底嫌そうな表情になっていたとしても、若様のあほー、大物ほいほい釣り上げないで欲しいッスー、と訳の判らない苦情を言い立てていたとしても、浅葱は放置の方向性だ。だって実害はない。聞き流せばそれは雑音以下だ。

 素でひどい思考を脳内で展開しながら、浅葱はこてん、と首を傾げた。


 手は、未だに男に掴まれたままである。大きな手のひらは、浅葱の両手首を一纏めにして掴めそうなほどだ。然程力は込められていないので痛くもない。浅葱はその手を解くことはせず、そのまま男の顔を見上げた。

 お腹が空いて倒れていた、と問題しかない発言を繰り出したその言葉通りに、今になって空腹を思い出したのだろう、しょんぼりと眉を下げて男はあー……と情けない声を押し出した。


「ねぇ、何か食べるもの……持ってない?」


 あ、何だかそれは街でガラの悪い輩に絡まれた時の定番台詞だ。要求されているのが金品か食品かの違いだけで、問われている内容は大差ないように思う。

 さすがにそれを口に出すことはしなかったものの、千歳にはばっちり伝わってしまったらしく、言っときますけど絡まれてるわけでも追い剥ぎでもないッスからね……? と先回りして突っ込まれてしまった。何故判った。


「さっすが千歳。以心伝心」

「わー、棒読みの賛辞どうもありがとうゴザイマスー」

「ところで千歳、何か食べ物持ってる?」

「持ってないッスよ、ってか人の話聞き流す若様、さすがッスー……。世知辛い……何か俺一人が右往左往してて見事な一方通行じゃねッスかこんちくしょー!」

「うん? 一方通行じゃないぞ? 俺、千歳好きだし」


 あっけらかんと浅葱は言い放った。問題発言を真っ向から受け止めた千歳は一瞬絶句した後、いやいやいやいや! と絶叫した。


「だからっ! 何でそう落として上げるの得意なんスか! それ立派な誑しの手口ッスからね!?」

「そんな人聞きの悪いことをした覚えはないけど……」

「普段から真主様誑しまくってる人が何言っちゃってるんスか! というか、今! 正に俺が誑されてるッス!」

「ふぅん……?」


 よく判っていない表情で浅葱は首を傾げた。真主様 ―― 自分の家にいるカミサマを誑した記憶もない。浅葱としては、いつだって素直な心情をそのまま口にしているだけだ。


 とりあえず、千歳は食べ物の類を持っていないらしい、ということだけは判ったので、再び浅葱は目の前の男へと視線を戻した。しょんぼりと眉を下げたままの男はこてんと首を傾げた。ああ、これはお腹が空いて切なくなってるカオだなと浅葱は思い、同じようにこてんと首を傾げる。さて、どうしたものか……。


「……あ」


 そこで浅葱は、自分が抱えていた包みを思い出した。先程購入したばかりの袋を、何の躊躇もなくバリッと破る。


「ほい」

「へ?」

「あんまり腹の足しにはなりそうにないけどなー。林檎に桃に蜜柑……今ならどれでも選び放題だ」


 どれがいい? と問い掛ける浅葱に、男はきょとんと瞳を瞬かせた。目の前に差し出された袋の中に見えるのは、色とりどりの ――、


「……飴?」

「そ。俺と琥珀のおやつ。ちょうど切らしててさ、これ買いに出て来たようなもん」


 何ひとつ嘘は言っていない。庶民でも無理なく手に入るような飴玉を好んで食べているのも本当のことだし、その飴玉の補充をうっかり忘れていたことに気付いて、じゃあ買いに出るかーと軽く行動に移したのも事実だ。浅葱は本気で飴玉を買うためだけに外出しようとしていた。先程口にした説明に嘘は何ひとつない。


 ただ、浅葱はもはやそんな風に軽々しく外出していい身分ではないという事実や、琥珀というのが浅葱のいる家における最上位の存在であることが綺麗に伏せられているだけで。

 その辺りのことにまったくもって頓着しない浅葱は、千歳の嘆きを他所にごそごそと袋の中身を漁った。


 陽の光に僅かに煌めく色彩は、随分と色鮮やかだ。その中でふと目に付いた色を、浅葱はひょいと摘み上げた。


「葡萄、嫌い?」

「ぶどう? んーん、むしろ好き」


 やはりどこか幼い仕草でふるりと首を振った男の手のひらに、浅葱はころりと葡萄味の飴玉を転がした。

 深い、紫の ―――― どこか男の瞳の色に似た色彩だ。


「選び放題、って言っといて何だけど。それ、あんたの瞳と同じ色だからさ」


 良かったらそれ食べて、と言いながら、あれ? もしかしてこれ、共食いか? といつぞやと似たようなことを考える。とろりとした蜜のような瞳をした子供に檸檬味の飴を押し付けた前科もある浅葱だったが、そこは気にしないことにした。葡萄は嫌いじゃないと言っていたしいいだろう。

 男は手のひらに転がされた飴玉を見て、それから自分を見上げる浅葱を見下ろして、ぱちりとひとつ瞬いた。


「……瞳の、いろ?」

「そ。あんたの瞳の色。似てるなー、って」

「ふぅん……。俺の瞳、こんな色してるんだー」

「や、飴玉よりは、もっとずっと綺麗な色してるけど」


 葡萄の飴玉が一番似ていたというだけで、まるきり同じというわけではない。

 夜明けの一瞬だけ現れる色彩。例えとして挙げるのであれば、それが一番近い。

浅葱は少し前まで中の下といった程度の庶民だったのだから、その色彩を雅やかな言葉で言い表すことなどできはしない。ただ、綺麗だな……と。そう、素直に思うだけだ。


 淡々とそれだけのことを伝えたところ、目の前の男の表情がぽかんとしたものに変化した。けれどそれも一瞬のことで、すぐにくつくつという押し殺した笑い声が取って代わる。


「……俺の瞳、きれいって?」

「うん、俺は好きな色」

「あー……なるほど、なるほど」


 抓んだ飴玉を、そのままころりと指先で転がして、男はひょいと身軽な動作で立ち上がった。

 思っていた通り、背が随分と高い。座り込んでいた浅葱の目線は、男の顔を追ってほとんど真上を見上げるような恰好になっていた。

 くつり、と笑みを零しながら、男は再びなるほどと呟いて、ぽいと飴玉を口の中へと放り込んだ。空になった手のひらで、見上げる浅葱の額をくしゃりと撫でて。


「そーゆー人間なわけね、お前」


 理解したー、と愉快そうに笑われた。その笑みと言葉の意味が、浅葱には判らない。


「え、俺何かしたか?」

「んーん、別に。飴玉、ゴチソーサマ。ありがとね」

「うん? ああ、どういたしまして」


 もうひとつふたつ持って行くか? と問えば、ううん、これでいいと僅かに膨らんだ頬を指差された。……ごちそうさま、というか、まだ食べてるな? と今更のように浅葱は思ったが、そこは今問題ではない。隣にいる千歳は、もはや物理的に頭を抱えている。


 さて、帰ろと呟いた男は、のんびりと踵を返した。もう途中で倒れるなよー、と浅葱が声を掛ければ、がんばるー、と何とも間延びした声が返る。大丈夫かな、と首を傾げた浅葱の隣で、いろんな意味で大丈夫じゃないッス……と千歳が呟いた。どういう意味だ。

 ふと。男が思い出したかのように浅葱を振り返る。肩越しに視線を投げて、男はにこりと子供のような笑みを見せた。


「―――― また、ね。浅葱」


 お前とだったら、『また』会ってやってもいいよ。


 ひらり、と振られた手と一緒に残された言葉に、浅葱は盛大に首を傾げた。何というか、突っ込みどころの多い台詞だなぁ……とは思う。浅葱はこれといって気にもしないが、天然上から目線だ。

 会ってやってもいい、ということは……、


「次に渡す飴玉の味、何がいいと思う?」

「……気にするとこそこなんスか……。てーか、もおぉぉ、あーあー! もう俺知らないッスー!」

「うお、いきなりどうした千歳」

「若様がー! またしても大物釣り上げた気配を察知ー!」

「……大丈夫か?」


 何故だろうか、千歳がやや壊れ気味である。唐突に喚かれても何のことだか浅葱にはとんと判らない。

 判らなかったが、いつもの通りまぁいいかと思考を終了しようとしたその矢先に、ふと引っ掛かるものを覚えた。


 また、と言われた。それから ――……、


「……あれ?」


 浅葱、と。

 名前を、呼ばれた。


「俺、名前教えたっけ……?」


 今更のように首を傾げた浅葱に、千歳はもうほんとに俺知らねッス……と不貞腐れたように呟いた。







*  *  *


 五家、と呼ばれる家系がある。

 文字通り、五つの家系を総称する言葉だ。人に非ざる ―― そう称されるほどに強い【異能】を宿した存在、それを神と呼び、その神を真主として頭に据えているその家を五家と呼ぶ。

 定義としての五家はそれだ。神と呼ばれる程に強い異能を秘めた存在は五家以外に現れることはないし、その数が今以上に増えることもない。


 籐条(トウジョウ)、縁(エニシ)、吾妻(アヅマ)、鶴来(ツルギ)、そして神代(カミシロ)。それが五家の名称で、浅葱がいるのは神代の家だ。一年近く前、十二歳の誕生日を迎えたその後に神代の家に従者見習いとして入ることを許された。

 浅葱の知る五家に関する知識は、言っては何だが一番始めの定義程度か、下手するとそれ以下だ。興味がなかったので知らない、とある意味潔い切り捨ての方式がそこに働いた。

 一般常識と同程度の知識を切り捨てないで欲しかったッス……とは千歳の弁だ。至極もっともな嘆きではあったが、当の浅葱は「あ、ごめん」というひと言でそれを終わらせた。軽かった。本当に興味がなかったんだから仕方ない、と浅葱の返答はにべもない。


 割とつい最近まで、浅葱は自分のいる神代の真主 ―――― カミサマの名前も知らなかった。普段は、カミサマ、カミサマと呼び掛けていたので、うっかりと名前を認識しそびれたという、呆れるしかない事実がそこにある。

 神代のカミサマの名前は琥珀(コハク)。覚えた。きちんと覚えたとも。

 自分のところのカミサマの名前すら知らなかった浅葱だが、それでも現在、これまでのように『知らない』では済まされないところに己がいるのだと、それぐらいは理解している。五家は知っていて然るべきものであるし、その関係性も理解しておけと要請された。


 浅葱にそれが義務付けられた理由はひとつ ―――― 浅葱がその五家のうちのひとつ、神代の家の当主となったからだ。


 今になってよく考えてみても、何故そんなことになったのだか、当事者であるはずの浅葱が一番よく判っていない。何せ、前当主は殺され、その襲撃者によって浅葱も殺され掛け、ギリギリのところを琥珀や籐条のカミサマに助けて貰い…………直後出血多量でぶっ倒れ、意識を取り戻した時には空いた当主の座に据えられていたという寸法だ。これを理解できたら逆にすごい。始点と終点が見事にぶっ飛んでいる。どうしてそこが繋がっているのか。

 が、判っていないものの、まぁいいか、と結論付けてあっさりと受け入れてしまったのが浅葱である。驚きも疑念も薄かった。十分驚いたぞ? と本人は言うが、絶対嘘だ、というのが彼の周囲の一致した見解である。浅葱と驚きという感情は、割と縁遠い。例え驚いたとしても表情に出ないというのは、結構な致命傷である。


 浅葱は、まだ十をいくらか越えたばかりという子供である。思い切りの良さというか、達観しているその様がまったくもって子供らしくないという評価を貰うことは多々あるが、そんな年齢の、何の後ろ盾もない子供でしかない。そんな人間が、五家の当主の座に就くなどといった事態が普通であろうはずもなく、当然の如く周囲は大騒ぎとなった。が、浅葱がそれを感知するよりも先に、おおよその騒ぎ自体はいつのまにか終息していた。

 何があったのかと説明を求めたところ、あー……籐条のー、ご当主サマとー、真主サマがぁー……? と千歳が遠い目になっていたので、浅葱はそれ以上詳しく訊くことは避けた。というより、それだけで察した。何やったんだ、あの家。


 そんな風に急変した浅葱の環境ではあったが、当の本人に与えた影響は然程でもない。一介の使用人が当主の座に据え置かれたというのに、浅葱自身は微塵も変わらなかった。覚えなければならないことは増えたが、それよりも御飯が豪華になったことが嬉しいといった感想が先に立つぐらいに、のほほんと日々を過ごしている。

 敢えて繰り返すが、当の本人だけは。


「……若様には、早急に危機感とか自覚とかその辺のモノが必要だと思うッス」


 そんな浅葱の傍付きとして任じられてた千歳が、しみじみとそう言い放った。ウチの若様、大物過ぎて手に負えない……というのが、ここ最近の彼の口癖である。

 千歳は元々、神代のカミサマの世話役という肩書きを持っている。それに加えて、浅葱が当主の座に就いたそのごたごたの最中に、当主の傍付きという役職も併せて手に入れた。押し付けられたわけではなく望んで手に入れた立場ではあるが、護るべき相手が規格の枠内に収まってくれないせいでままならない日々を送っている。


 別に、今の生活が嫌なわけではないのだ。浅葱は前当主に比べたら余程真っ当な部類の人間に入るだろう。

 だがしかし。


「若様、若様。もうちょーっとばかり、人様を誑しこむの自重しませんー? ていうか、してくださいッス。ほんと切実に」


 不満ではないが懇願に近い感じで、そう思ってしまうのは仕方のないことだった。


 千歳にとって、浅葱は不思議な少年である。もうすぐ十三歳の誕生日を迎える、まだ幼いと言っていい少年ではあるが、中身はこれで子供って無理があるだろうと思わず千歳が真顔で言い放ってしまうぐらいには落ち着いている。否、落ち着きすぎて、一周回って変人の域である。何でもかんでも許容して、挙句自分の基準に落とし込んで行動に移す輩を普通と称したら何かが終わるだろう。千歳はそう確信している。

 浅葱の取っている行動自体は、割と普通の範囲内である。そこまで突拍子もない行動を取ることもない。通常の感情の振れ幅があまりにも少ないのはさて置き、ひとつひとつの行動自体はありふれたものでしかないのだ。


 だがしかし、その行動を、いつ、誰に、という枠を当てて考えた場合、浅葱の異常性が突出して現れることとなる。

 断言しよう、頭を撫でる、という行為自体は普通のことであっても、それをカミサマ相手にまでやってのけるのは普通ではない。自分の家のカミサマ相手ならまだしも、他所の家のカミサマの頭まで撫でてしまうのは如何なものだろうか。ましてや、そのカミサマが普段頭を撫でられて大人しくしているような性格ではなかった場合、千歳としてはもはや若様すげぇ……という感想しか抱き様がないのである。


 神代の家に帰り着くなり、深々としたため息と共に繰り出された千歳の直球での訴えに、浅葱はきょとんと瞳を瞬かせた。


「……なに? そのすごく人聞きが悪い感じの言い掛かり」

「言い掛かりじゃなくて、事実ッス」


 きっぱりと千歳は言い切る。この件に関しては、琥珀の同意も貰えるだろうと確信している千歳である。だって琥珀は、真っ先に浅葱に誑されてしまっているご本人様だ。…………割と最近は、己にもそれが適用されてしまっている事実が怖い。誑される、駄目、ぜったい。

 理不尽にも思える台詞に、浅葱はよく判らないといった表情を浮かべていたが、すぐにまぁいいけど、と肩を竦めた。基本的に浅葱は物事を深く考えない。


「千歳、お茶にしよう。―― 琥珀も熱下がってるといいけど」

「あー……どうッスかねー……? とりあえず俺は、真主様置いて外に出掛けちゃった事実が今更のように怖いんスけど……」

「うん? だから俺一人で出掛けて来るって言ったのに」

「いやいやいやいや! そっちの方が何割か増しでやばいってことに気付いてくださいッス!」


 風邪で熱出した真主様はとりあえず寝かせておけば大丈夫! 若様は一人で行動させるのが駄目ってか碌なことにならない! となれば俺が取る行動はひとつッス! と千歳。


「…………ってーか、付いてったにも関わらず、若様の自重しない行動をまったくもって阻めなかった俺なんスけどね……」


 かと思えば、一瞬後には千歳の視線が遠くなった。その落差に付いていけず、けれどそっかまぁ頑張れ、と他人事のように対応した浅葱である。流す。基本的に浅葱は、物事をこれでもかと流す。


 手の中で、封を再び閉じ直した袋がカサリと音を立てる。浅葱が懐に飴を偲ばせるのはもはや習慣のようなもので、ちょくちょく飴玉を買い足すのも普通のことだ。だが、ここ最近はそういった『普通のこと』がしづらくなっているな、と浅葱は思う。

 ちょっと息抜きに外出をするだとか、手の空いた時間に人気のない場所で昼寝をするだとか、少し前まで出来ていたそういったことがやり辛くなった。そこでまったく出来なくなった、ではなく、やり辛くなったという程度なのは、一重に浅葱の性格によるものである。浅葱はこれと言って自己主張の激しい人間ではないが、かといって自分のやりたいことを曲げるような人間でもない。


 そもそも当主の座は、浅葱自身が欲したものではない。棚ぼた式というか、むしろどこでそうなったのだか判らないといった具合に事態が飛躍した結果そうなっていた。

 浅葱は庶民だ。むしろ、その庶民の中でも兄弟が多かった分、裕福とは言い難かっただろう。今の生活は浅葱にとって無縁だった領域で、少しばかり窮屈だなぁ……と思う気持ちがないわけではない。今まで使われる側だった自分が、その真逆の位置にいるという感覚はどうにも不思議なものがある。


 けれど、今の状況が嫌ということはない。

 当主の座を、欲したわけではないけれど。それでも、望むものがあって、その為に必要な立場なのだと割り切っている。


 選んだのだ、浅葱は。

 カミサマと共に歩んでゆける、その場所を。


 さーて、そのカミサマは大人しく寝ているのだろうか、と呟いた端から、ばたばたばたっと廊下の向こう側からその答えのような足音が聴こえてきた。勢いはあるが、音は軽い。その足音の主が誰であるかを推測するには十分だった。


「あー……寝てないどころか、大人しくもしてないッスね、これ」

「みたいだな」


 苦笑気味の千歳の台詞に、小さく浅葱がため息を落とした、その時。


「っ、浅葱!」


 金色のカミサマが、勢い良く姿を現した。白い寝間着姿のまま、長い金の髪を翻して走り寄って来るのは、浅葱よりもひとつふたつ年下に見える子供 ―――― 神代のカミサマ、琥珀である。


 足音が示した勢いのままに、浅葱の前で止まるというよりも、浅葱を使って止まったと言わんばかりの勢いで突撃して来たカミサマを、浅葱はおお……と言いながら受け止めた。よろけなかったのは半ばこうなることを予測していたのと、単に琥珀の体重が軽かったせいだ。

 ぎゅう、と浅葱にしがみ付いたままの体勢で、琥珀はキッ! と顔を上げると目線も強く睨み付けた。


「浅葱! お前……っ」

「うん、ただいま。琥珀」

「あ、おかえり…………じゃなくて!」


 反射で応えてから、はっと我に返ったように再び目尻に力を込めている。相変わらず、ウチのカミサマは反応が素直で可愛らしい。厳しい視線になる琥珀とは逆に、ふ……と目元を和らげながら浅葱はそう思う。


「何でただいまなの!」

「え? 今戻って来たところだから?」

「何で私が寝てる間に外に行くの!」

「そりゃ、琥珀が熱出してたからだろ。病人連れ出すわけにもいかないし、良く寝てたから起こさなくてもいいかな、って」

「何でひとりで行くの!」

「え、ひとりじゃないぞ? 千歳が付いて来た」

「待って若様! それ火に油ッス!」


 慌てたように千歳が口を挟んだが、時既に遅し。千歳は琥珀に鋭い眼差しを向けられた。羨ましい恨めしい、そんなところだろうか。要するに、八つ当たりである。自分も一緒に出掛けたかったのだという気持ちを、これでもかと込めた眼差しだ。

 むー……と判り易く膨れて黙り込んだ琥珀を見下ろし、浅葱はこてん、と首を傾げた。うん、ウチのカミサマは今日も可愛い、と真顔のままそんなことを考える。通常運転である。


 ぽん、とはちみつ色の旋毛を撫でて、浅葱は琥珀の顔を覗き込んだ。きょとん、と瞬いた瞳は、とろりとした蜜色。それが普段よりもぼんやりと潤んで見えるのは、単純に熱があるせいだろう。そういえば、頬は上気しているのに、顔色はどことなくくすんでいる。

 少し眉を顰めて、浅葱はそのまま目の前の琥珀の額に自分の額を押し付けた。こつん、と軽い音がして、先程よりも更に間近ではちみつ色の瞳がぱちりと瞬く。触れあった額は、それと判る程に熱を持っていた。


「―― 千歳」

「了解ッス」


 短く名前を呼べば、心得たように頷いて、千歳はそのまま琥珀の身体を肩に担ぎ上げた。うひゃ、という何とも言い難い悲鳴が上がる。


「あー、ちょっと真主様。何で上に何も羽織らず布団から出ちゃったんスか。完っ璧に身体冷え切っちゃってるッスよ?」

「ちょ……高い高い高い! 視界が! 高い! 下ろせ……!」

「却下。千歳、このまま布団まで直行して」

「な、なんで浅葱が却下するの!」

「はいッス。うわ、真主様、裸足じゃないッスか。そりゃ冷えるでしょーよ……」

「……千歳はちょっと後で覚えといて」

「俺だけ扱いが理不尽!」


 どういうことッスか! と喚く千歳の背中を、腹立ち紛れに琥珀はべしべしと叩いた。全力での抵抗ではあったが、元が非力すぎるために千歳自身に影響はほとんどない。カミサマ、と呼ばれる琥珀は強い【異能】を持っているけれど、その【異能】を使わない限りは腕力など並以下でしかないのだ。

 べちべちと遠慮なく背中を叩き続ける琥珀の手を、浅葱はひょいと掴んで止めた。止んだ音の代わりに、ぺちん、と渇いた軽い音がひとつ響く。浅葱が琥珀の額を軽く叩いたのだ。びっくりしたように瞳を見開いた琥珀の頬を、浅葱はふにふにと抓み上げた。


「あさぎ……」

「俺、熱あるんだから大人しく寝てろよ、って言わなかったっけ? 琥珀」

「う……き、聞いた、けど……っ」


 良くも悪くもカミサマは大変素直である。誤魔化すこともせず、素直に言葉に詰まるその様子に若干和みながら、けれど外見からはそんなことは微塵も感じさせることはなく、浅葱は琥珀の頬をふにふにと抓み続ける。


「熱、下がってないのにこんな薄着で歩き回ってたりしたら、心配するだろ」


 ごく真面目な面持ちで告げた浅葱に、琥珀はぽかんとした表情になった。が、それも一瞬のことで、言葉の意味を理解した頬がじわじわと赤くなってゆく。

 基本的にカミサマは、気遣われるということに慣れていない。それは前当主の方針があまりにも悪質であったことに起因するのだが、誰かに心配されるという感覚を、カミサマは実体験として理解できていなかったのだ。


 神である、と。敬われ、恐れられ、明確に線を引かれ、遠ざけられた。

 自分とは違う強い力を持つ者を恐れる気持ちは判らなくはなかったが、浅葱としてはなんだかなぁ……と思う気持ちの方が強い。だってカミサマは、きちんと他人を気遣える良い子だ。だからこそいつだって、貧乏くじを引いてひとりで泣いていた。

 誰かを心配することの出来るカミサマが、誰かに心配されることを覚えてくれればいいなぁ……と。

 浅葱は、そんな風に思うのだ。


「……思うだけじゃなくて、行動込みでキッチリ実践する辺りがさすがッス、若様……」


 体勢的に、今の浅葱と琥珀のやり取りが見えていたわけでもないだろうに、すべてを承知したかのような面持ちで千歳が呟いた。そうか? と浅葱は不思議そうに首を傾げたが、琥珀は照れ隠しも兼ねてべちん! と千歳の背中を叩いた。今までで一番いい音がした。


「琥珀は反省。ちゃんと寝て治せよ? 後でお土産の葛餅、千歳にお茶淹れて貰って一緒に持ってってやるから」


 な? と頬を抓むのを止めて頭を撫でれば、頬を赤らめたまま視線を右往左往させていたが、やがてこくりと頷いた。うん、よし、と少しばかり笑顔になった浅葱の手を、琥珀がぱしりと掴んで握り締める。


「……浅葱」

「なに? 琥珀」

「浅葱も、反省」


 私も、ちゃんと反省するから、と前置いて。


「次は、一緒に街に行こうって、約束してた」

「あー……」


 握られた手をそのままに、浅葱は視線を宙へと投げた。

 そういえば、そんな話を ―――― していた。していたなぁ……と、今思い出した。これは完全に浅葱の落ち度だ。

 それが口約束でしかなかったとしても、何気ない会話の中に埋もれてしまうような些細なものだったとしても、約束は約束だ。言われた通り、素直に浅葱は反省した。


「……うん、ごめん。俺も反省だな」

「次……」

「ん。ちゃんと元気になったら、琥珀の好きなとこに行こうか」


 どこにでも付き合うぞ? と頷いた浅葱に満足したのだろう。琥珀が握り締めていた手を離して、代わりに「ん」と小指を突き出す。浅葱は一度ぱちりと瞬いて、すぐに目元を緩めながら突き出された小指に自分の指を絡めた。

 指切りの意味も、そのやり方も、浅葱が琥珀に教えたものだ。


 うそついたら、はりせんぼんのーます。


 歩きながら器用に指切りを始めた子供たちに、千歳は小さな笑みを漏らしながら、やっぱり若様は猛獣使いなんスよねぇ……と呟いた。


「ところで、今日は何しに出掛けてたの?」


 ゆびきった! と小指を解いたその後に、そういえば、と琥珀が訊いた。別に隠すようなことでもなかったので、ああ、うん、これ……と浅葱が持っていた袋を差し出す。


「これ買いに出掛けてた」

「……飴?」

「そう。食べるか?」

「貰う……けど。何でもう封が開いてるの」


 不思議そうに問う琥珀の手のひらに、浅葱はころりと檸檬の飴玉を転がしながらあっさりと答えた。


「行き倒れ? に、飴あげたから」

「え」


 なにそれ、と至極当然な疑問を口にした琥珀の傍らで、千歳が実に嫌そうな表情になった。


「あー……、それがあった。残ってたー。特大の大問題ッス」


 眉間に皺を寄せた千歳は、肩に担ぎ上げたままだった琥珀に語り掛けた。


「真主様ー」

「なに?」

「それ、若様のいう『行き倒れ』、あれまず間違いなく竜胆様ッス」

「……え」


 ぴたり、と琥珀が動きを止めた。竜胆、と繰り返すように琥珀が呟いたそれが、名前なのだと一拍遅れて浅葱は知る。

 りんどう、とその音を確かめるように、浅葱はその名を口にした。


 花の名前だ。そして、ひどく聴き覚えのある名前。

 当たり前だ。それは、最近覚えたばかりの ――……、


「―――― 縁の、カミサマの、名前……?」


 ……だった気がする、と自分の記憶を辿りながら口にした言葉に、げんなりとした表情で千歳が頷いた。


「はい、そうッスよー。覚えててくれて嬉しいッス。ついでに言うなら縁の真主様に興味持たれるような言動をしないで貰えたらもぉぉぉっと嬉しかったッスー……」

「え」


 三度、琥珀はその言葉を吐いて動きを止めた。


「竜胆……に、何したの?」

「へ? いや、腹減ったって言うから、飴やっただけだけど?」


 特に何もしていない、と首を傾げる浅葱をしばし睨み付けた後、琥珀は自身の世話役を振り返った。


「千歳」

「はいッスー。確かに縁の腹ぺこカミサマに飴玉あげて、いつも通りの言動をしてただけッスよ、若様は。ええ、ええ、通常運転ッス!」


 その割には何故そこで遠い目になるのか、それが浅葱には判らない。


「いつも通り……」

「はいッス……。自覚ない口説き文句みたいなもんを繰り出してただけッス」

「それって……」

「しっかりばっちり興味持たれちゃった感じがひしひしと!」

「ちょ……! と、止めてよ!」

「無茶言わないでくださいッス! アレを真主様は止められるんスか!?」

「っ、無理だけど! 絶っ対、無理だけど!」

「俺もそう思うッス!」


 よく判らない会話を繰り広げる二人を余所に、浅葱は縁のカミサマだという男のことを思い出していた。


 見上げるように背の高い、けれどどこか子供のような言動の縁のカミサマ。竜胆。


 ―――― また、ね。浅葱


 告げられた言葉を、噛み締める。

 男が自分の名前を知っていたのは、他所の家のカミサマだったからか……と、浅葱はとても今更なことに納得して頷いた。











*  *  *


 カタン……と、微かに鳴った音に、部屋の中にいた人影は顔を上げた。

 僅かに暗い室内、そこに籠った空気よりも少しだけ冷たい温度の空気が頬を撫でてゆく。その空気の動きの元を視線で追った人影は、戸口に立つ人物に気付いて相好を崩した。


「あら、帰っていたの? ―― 竜胆」


 戸口に立っていたのは、浅葱たちと会っていたあの男で、迎えたのは品の良い雰囲気の老婦人である。

 書きものをしていた手を止めて、老婦人は竜胆を手招きした。それに応じて、竜胆は室内へと足を踏み入れる。


「おかえりなさい」

「ん、ただいま」


 素直に返された帰宅の挨拶に、けれど老婦人はおや? と首を傾げた。


「竜胆、あなた、何を食べているの?」


 ただいま、と返された声の調子がどこか舌足らずだった。よくよく見ればもごもごと口を動かしている竜胆に、老婦人が問い掛ける。別段、咎めるような響きはない。元々このカミサマは燃費が悪いのかいつもお腹を空かせているような印象で、食事時以外でも何かしら口にしていることが多いのだ。

 さて、今日は厨で何を貰って来たのかしら……とおっとりと微笑んだ老婦人の思考は、けれど綺麗に否定されることになった。


「ん、貰った」


 べ、と舌を突き出して見せたのは、もうほとんど溶けかけた飴玉だ。行儀の悪いその仕草を、これ、と柔らかな苦笑で咎めながら、あら……? と老婦人は内心で首を傾げた。飴玉。当然ではあるが、そんなものは厨には常備していない。


「誰かのお八つを貰ったの?」

「あぁ……うん。おやつだって言ってた」


 少し考えた後に、竜胆は頷く。


「神代の……新しい当主に分けて貰った」


 肯定の言葉は、老婦人の予想のやや斜め上を突っ切っていった。


「まぁ……」


 おっとりと、けれど掛け値なしの驚きの表情を浮かべて、老婦人は竜胆を見上げる。


 五家のひとつ、神代の当主が変わったことは、当然老婦人も知っていた。何せ老婦人がいるのは、同じく五家のひとつ、縁の家だ。そういった情報は、他よりも余程よく入ってくる。

 以前の当主は、進んで付き合いたいと思うような人柄ではなかった。他者を貶めることでしか己を誇示できない輩を、老婦人はおっとりとした笑みの裏で冷ややかに見据えていたのだ。

 すげ代わったその当主の座に就いたのは、まだ年端もいかぬ子供だということも知っている。けれど、その子供を強く推したのが、他でもない五家の序列一位の籐条であったこともあり、縁としてはしばらくは静観の構えを取っていたのだが……、


「あなた……神代の当主に会ったの?」


 家としての思惑など、何もかも吹っ切っての行動に出た自家のカミサマに、老婦人は呆れたような声音で問い掛けた。これもまた、咎めるような響きではない。竜胆としてもそれは判っているので、軽く肩を竦めただけで表情を変えることさえもしなかった。


「偶然。俺も会う気はなかった」


 と、いうよりも……、


「あの状態で声掛けてくるとは思ってなかった」


 そう、この方がより正確であろう。

 元より竜胆としても、新しい神代の当主にさしたる興味はなかったのだ。


「……あなた、何をしていたの?」

「お腹空きすぎて道端で倒れてた」

「あらあら……」


 それはまた……と完全に呆れきった表情で老婦人は呟いた。


 竜胆の燃費の悪さは筋金入りで、そういった状態に陥るのは何もこれが初めてのことではない。立場的に大問題ではあるが、今更言って聞かせても直りはしないだろう、と老婦人は半ば放置している。実際、竜胆がそのせいで窮地に陥ったことがないせいもある。

 ―― 否、正確には、竜胆の持つ縁の能力がそれらを綺麗に回避してくれるのだ。

 縁が特化している能力は、『天運』と『調整』。その力は、大なり小なり縁に利があるように強制力が働く。どんなに竜胆が危なっかしい行動を取ろうと、決定的な窮地には陥らない理由がそれだ。


「それで? 神代の当主がその飴をくれた、と……?」

「ん。面白い子だったよ ―― 浅葱」


 おや、と再び掛け値なしに老婦人は驚いた。

 竜胆が、他人をちゃんと認識している。

 このカミサマは、人に対する興味が薄い子だった。出会った時から今に至るまで、ずっとそうだ。図体は十分な程に成長したものの、精神はどこか子供っぽさを残したままで、嫌いな人間は存在さえも認識しない。興味のない人間に対しても右に同じだ。竜胆が認識しなければ、彼の傍にいくら人が集まろうとも、それらは空気と同じことだ。

 竜胆の世界は、ひどく狭い。きっと彼自身に、その自覚はないだろう。もしくは自覚があって、その上でそれでも構わないと思っているのかもしれなかったが。


 神代の当主、名を浅葱。その子供は、竜胆の世界の外側にいたはずの人間だ。

五家の当主だからといって、竜胆が覚えているとは限らない。実際、神代の前の当主や鶴来の当主の名前は覚えていないままだ。

 外側の人間が、こうも容易く世界の内側へと入り込んだ。それはいっそ賞賛に値する。


 老婦人の驚きに頓着した様子もなく、がりりと最後に飴玉を噛み砕いて竜胆はペロリと唇を舐めた。

 瞳の色に似ている、と言っていたその飴は、ただ甘く。


「浅葱だったら、また会ってやってもいいかな、って」


 きっと、遅かれ早かれいずれは顔合わせの場も設けられるだろう。最初は、他家の当主に欠片も興味が湧かなかったので、そんなものは無視してしまおうと思っていた。

 けれど、気が変わった ―― と。そう告げた竜胆に、老婦人は笑う。


「ふふ……そう……」


 自分の傍ら、その長身を投げ出すようにごろりと転がった竜胆の頭をさらりと撫でて。


「それじゃ……私も一度、その子に挨拶に出向かなきゃならないねぇ……」


 嫋やかに、微笑う。

 柔らかく細められたその瞳の中、ほんの少しだけ紛れた鋭い光に、気付いた者は誰もいなかった。

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