迷い家
さて、と浅葱は思う。
自分は何故ここにいるのだろう……?
見覚えのない一室を、ぐるりと浅葱は視線だけで見回した。
綺麗に整えられた部屋だと思う。小まめに人の手が入っていることを感じさせる佇まいだ。
床の間に飾られている掛け軸や壷も、とりあえずその価値を知らない方が幸せだろうと思える程度のものが飾られている。正確な値段など浅葱は知る由もないが、それでも良いものは見れば何となく感じ取れるぐらいにはなった。多分、あれ高い。触るな危険。教養には程遠いほとんど感覚的なものなので、浅葱に対する当主教育が実を結んでいるかどうかは微妙なところだろう。でもきっとあれは高い。絶対。
丸く切り取られた窓には嵌め殺しの木枠が嵌まっており、その向こうには真っ白な障子紙が貼られている。木枠のすぐ傍らに飾られている一輪挿しの桔梗が目にも鮮やかだ。
窓の向こうから差し込む光は、ない。部屋の隅に設えられた行灯の光が、室内を柔らかに照らし出している。不思議と暗く感じることはなく、けれど明るすぎるといったこともなかった。
部屋のほぼ中央にある炉に据えられた茶釜。茶室、と。おそらくはそう呼ばれる部屋なのだろう、と浅葱は脳内でそう判断を下す。
茶室など、浅葱は今まで足を踏み入れたこともない。神代の家にももしかしたらあるのかもしれなかったが、あってもなくても浅葱はそこに用はないのであまり関係はないだろう。茶に限らず、飲めればそれでいい。浅葱のこれまでの生活水準における教訓のようなものだ。
お茶に限らず、浅葱の周囲はいつだって実用的なもので満ちている。もしくは遊び心か。先代当主が好んだような、格式高いナントカ……などというものは、ふぅん、と気の無さげな相槌ひとつで他所へやる。実際、興味など持てない。綺麗なものは好きだが、別にそこに金銭的な価値はなくても構わないのだ。
堅苦しいことも苦手、格式なんてものは省けるならばその方が有難い。―――― だからこそ浅葱は、今のこの状況がよく判らない。
シャカシャカと一定の間隔で響いていた音が止まる。つい、と優雅な仕草で茶筅を引いた老婦人が、おっとりとした笑みと共に浅葱の目の前に茶碗を置いた。
中には、綺麗に泡立った抹茶。
「ふふ……どうぞ?」
「……どうも?」
そう、何故だろうか。
格式も、堅苦しさも、ついでに正座も苦手な浅葱は ―――― 何故か今、品の良い老婦人を前にしながら茶を飲んでいる。
* * *
口に含んだ抹茶は、思った程苦くはなかった。覚悟していただけに、妙な肩透かしを食らったような気分になる。
不快ではない程度に残る苦みをこくりと飲み干して、浅葱はえーっと……と考えた。こういう時は何て言うんだっただろうか。一応作法として習ったような気はするのだが、ものの見事に浅葱の脳内からすっぽ抜けている。結構な……ナントカ……? 駄目だ、思い出せない。うん、ぶっちゃけ茶の作法に興味がなかった。実践する気もなかった。
「美味しい……」
なので、とても素直な感想を浅葱はそのまま口にした。ぽつり、と零されたその呟きに、老婦人があら……と笑顔になる。
「ありがとう、嬉しいわ。貴方、お茶は好きかしら?」
好きか嫌いかで論ずるのであれば、好き、で良いのだと思う。
ただ浅葱は、これまで飲めれば何でもいいというような生活を送っていたわけで、実際今でもその傾向の方が強い。浅葱の知っているお茶は、大体少し色が付いているだけのお湯に近かった。高い茶葉で丁寧に淹れたお茶は甘いのだと、浅葱は最近初めて知った。
「まぁ……細かいことを気にしなくていいなら、好きかな」
考えるのが面倒になって、浅葱は老婦人の問いにひとつ頷いてみせた。抹茶は苦みが強いので少しばかり苦手だったのだけれど、老婦人が立ててくれたこれは素直に美味しいと思う。なので、嘘ではない。作法だの何だのと細かいことは浅葱には判らないが、それらを気にしなくてもいいのであれば、お茶を飲むこと自体は好きである。
―― そう、例え、今正にどこの誰とも知れぬ相手と向かい合って飲んでいるお茶であっても、だ。
再び茶碗に口を付けた浅葱に、老婦人は着物の袖で口元を隠しながらくすくすと柔らかな笑い声を零した。
「あらあら、思い切りの良いこと……」
やんわりと瞳を細めて、笑う。その表情は、どう見ても人の良さそうな老婦人でしかない。
けれど。
「それに『何か』が入っていたとしたら、あなた、今頃取り返しがつかないことになっているでしょうねぇ……」
ふふ……と笑う声に、笑みの形に細められた瞳に。やさしさ以外の何かが入り雑じっていることを、浅葱は知る。
確かに老婦人の言う通り、浅葱の手にした碗の中に毒でも入っていたのなら、今頃浅葱はこうして座っていることさえもできないだろう。それは判る。仕掛ける側の人間が言っていいことでもないような気はするが、理屈は判る。が。
「そういう心配はしてない」
あっさりと応じて、浅葱は茶碗に残っていた最後のひと口を飲み干した。老婦人が、あら……というように瞳を瞬かせる。
別に浅葱は、老婦人がそのようなことをしない、と思っているわけではない。毒を入れるような、そんな手段に出る訳がないと、盲目的な信頼をしているわけではなくて。
「お茶に『何か』を入れなくても、あんたが俺を殺そうと思えば一瞬で終わるだろ」
そんな回りくどい手段を取らなくても、もっと直接的に、簡単な方法で老婦人はそれを成せるのだ。
つまりは、そういうことである。
浅葱は、空になった茶碗をトン、と畳の上に置いた。視線を上げた先、老婦人は変わらず微笑んでいる。
その笑みこそが毒なのだろう、と浅葱は思う。知らぬうちに侵食し、気付いた時には手遅れになる類のものだ。
やんわりとした笑みを見上げて、浅葱はこてん、と首を傾げた。
相手は老婦人である。いくら浅葱がまだ体つきも頼りない子供だとはいっても、純粋な腕力を比べるのであれば老婦人よりも上だろう。―― そう、思うけれども。
それでもきっと、浅葱は老婦人には敵わない。
浅葱の知らないうちに、生殺与奪の権利すら相手に握られている。そんな気がした。
だって……、
「ここでのあんたは、きっと誰よりも強い」
おそらくここは、現実の世界ではないのだろう。
浅葱はこんなところに来た記憶がない。気が付いた時には茶室の中で正座しており、目の前で老婦人が茶を立てていた。直前の記憶は、おやすみと言って布団の中に入ったところで途切れている。どれだけ注意深く思い出そうとしても、それ以上の記憶は出て来ない。
ということはつまり、ここは自分の夢の中なのだろうか、と最初は考えた。すぐに、それは何か違うな、と思った。
はっきりとした感覚がある。現実の世界と似たようで、違う場所。
ここは ―――― 老婦人の支配下にある世界だ。
頭ではなく、肌で、感覚で、浅葱はそれを理解していた。
首を傾げたままあっさりとそう言い放った浅葱に、老婦人の笑みが少しだけ変化する。おや、とでもいうように僅かに瞳を瞠って。
「あらあら……思っていたよりもあなた、適正があるのねぇ……」
予想外だわ、とくすりくすりと笑みを零す老婦人の言葉は、遠回しな肯定だ。適正、というのが何なのかはよく判らないが、おそらくはこの不可思議な事態を感じ取れるかどうかという部分なのだろう。
この場所は、最初から自分に不利に出来ている。そう感じた浅葱の直感は間違っておらず、ここで浅葱が何か対応を間違えば、そのまますべてが終わるのだ。比喩的な意味ではなく、浅葱の人生そのものが。ぷちっと。
あ、もしかしなくても俺詰んでる……? と浅葱は思った。思考は通常運転で緊張感がない。ただし状況はそれに準じない。自分がどこにいるかもよく判っていない、というのは、既にかなりまずい段階である。多分、意識だけを老婦人が支配するこの場に連れて来られたのだろうとは思うが、それも感覚的なものからの判断である。
それにしても、お茶の味とか普通にするのはどうしてだろう、と内心で首を傾げた浅葱は、そこでふと置いた茶碗の脇に存在する茶菓子に気が付いた。
まあるい月を象った、淡い黄色のお菓子。ふんわりとした印象のそれを指差して、浅葱は問うた。
「これ、食べてもいい?」
どう考えても今訊くべきなのはそこじゃない、と思える問いを口にした。
思い切り虚を突かれたのか、老婦人が瞳を丸くする。笑うことを止めたその表情は、本来見せるつもりはなかったのだろう素の表情だ。
あれ、何かまずかったか……やっぱこういう菓子って食べちゃ駄目なもんだったっけ? あれ? 食べずに持って帰るものだったか? と浅葱は動かない表情の下でこてりと首を傾げたが、おおよそ問題の争点が斜め下辺りにずれている。気にすべきはそこじゃない、と毎回律儀に突っ込んでくれる千歳は、今ここにはいない。
「……食べちゃまずい?」
「いいえ……食べて貰って構わないのだけれど……」
「そか。じゃ、いただきます」
老婦人の微妙な間など、浅葱はまったくもって気にしない。作法的に間違っているのだろうが、もうこの際細かいことは気にしても仕方ないなという開き直りの元、ぱちん、と食事前のように両手を合わせてから黒文字を手に取る。僅かに濡れたその黒文字からは、ふわりと木の香りがした。
ああ、そういえば茶菓子ってお茶と一緒に楽しむためのものだったような……? と、今更のように浅葱は思い出した。既に空にしてしまった茶碗を眺めて、こくりと頷く。うん、手遅れだ。飲み干した。
まぁいいか、と気を取り直してぱくり、と口に含んだ淡い黄色のお菓子は、見た目同様ふんわりとした甘さと柔らかさだった。さつまいも……と浅葱はその甘みの正体を心の中で呟く。
あ、これ美味い……と表情を動かすこともなく浅葱は思い、けれどそのちょっとばかりほころんだ気分はしっかりと雰囲気に現れていたらしい。一瞬の驚きからすぐに立ち直った老婦人が、くすくすと笑み零れながら「気に入って頂けたようで何よりだわ」と言った。
「ふ……ふふ……。大物なのか、その逆なのか……判断に困るところねぇ……」
もぐもぐと茶菓子を咀嚼中だったので、浅葱はその返答を避けた。とりあえず、美味しいものは食べられる時に食べておくというのが浅葱の基本方針だ。こういう時は空気なんて読まない。元々の生活水準が並以下なら自然とそうなる、と本人的には開き直っている。
「確かに聞いていた通り、面白い子ではあるようだわ」
「…………うん?」
何か、今、微妙に引っ掛かることを言われたような気がする。
聞いていた通り、と老婦人は言った。それは ―― 誰に?
疑問を乗せた眼差しを向けた浅葱に、老婦人はにっこりと微笑んだ。最初からずっと、彼女が浮かべている笑み。その柔らかな印象に変わりはないが、けれど確かに、そこに含まれていた毒が薄れている。ゆうるりと細められた瞳からは、鋭い光が消えていた。
「少し、ねぇ……気になってはいたのよ。神代の先代は、あまり出来た人間ではなかったから」
優雅な仕草で自分用にと立てたお茶をひと口啜って、老婦人はにこり、と微笑んだ。
神代の先代、という単語に、浅葱はあぁやっぱり五家の関係者か、と内心で納得の表情を浮かべた。出来た人間ではない、というのは割と控えめな表現ではあると思う。その裏に隠された老婦人の意図はさておき、間違った表現ではないだろう。浅葱としても率直にあの当主は大嫌いだ、と言い切れるぐらいだ。
けれど、そんな人物像など、直接あの先代に会った者ではないと判らないのである。ついでに言えば、それなりに交流のある者。先代当主は対外的には猫を被るのが大変に上手かったので、一度や二度対面した程度では、よほど観察眼に優れていない限りその人物像に辿り着きはしないだろう。…………いや、何かこう……この人はもはや観察眼とかそれどころじゃない感じがしないでもないけど、それもともかく。
というかそもそも、他人の意識を自分の支配下に引き寄せる、なんていう芸当をそうそう出来る人間がいてたまるかという話である。加えて、神代の先代を指してあまり出来た人間ではないとあっさりと評してみせる辺りがなかなかにあれだ。えげつない。
別に、関係者であろうがなかろうが、どっちでもいいかな、と浅葱は思っている。どちらであっても、今のこの状況に大差はないだろうから。
ただ ――……、
「あんたは、琥珀を知ってる?」
「ええ」
「先代がどんな人間だったか、知ってた?」
「……ええ」
おっとりと老婦人は頷いてみせた。
「……そっか」
浅葱は小さく肩を竦めた。
頷くまでに少しだけあった間に、こちらを見る瞳に宿っている痛みに。気付きながらも、ただ頷いて、またぱくりと菓子を口にした。
それはつまり、琥珀の置かれていた状況を知りながらも放置していた、と言っているようなものなのだが、それに関しては自分にどうこう言う権利はない。何も出来なかったのは浅葱も同じで、助けてくれなかったと恨み言を言うのも詰るのも、それを口にする権利があるのは琥珀だけだろう。浅葱だって本来は詰られる側なのだ。
浅葱に出来たのは、泣いていたカミサマの頭を撫でて飴を与えたことぐらいだ。本当に些細な、誰にでも出来そうなこと。根本的な解決になど、何もなっていやしない。そもそも最初の頃なんて、遠くから眺めるばかりで関わることさえもしてこなかった。
そんな浅葱の反応が、老婦人にとっては少しだけ意外だったらしい。
「何も……言わないのねぇ」
「うん? 俺に言えることは何もないよ」
その権利があるのは琥珀だけで、けれどあのやさしい金色のカミサマは恨み言ひとつ口にすることはなかった。
泣きそうになって、堪えて、飲み込めずに泣いて、怒って。それでも最後には、許して受け入れてしまった。やさしくて、つよい子だ。自分はその隣に立つことを望んで、幸運にもそれを許される立場を手に入れたけれど、今に至るまで小さなカミサマに助けられるばかりで、あまり何かが出来ただなんて自分では思えない。ただ、前と同じように頭を撫でて、一緒にいるだけだ。とりあえずは、遠慮なく甘やかそうと心に決めている。
「……そう」
真顔で淡々とそう語った浅葱に、老婦人は一度瞳を伏せて、それからくすくすと零れるように笑い始めた。
「そうね。あなたは、それでいいのでしょうね……」
「うん?」
「何かをしようと思わなくても、あなたが傍にいるだけで十分助けになっているのでしょう」
そうね、そういう……ことね、とひとり納得したように頷いて老婦人はまたやんわりとした笑みを浅葱へと向けた。
浅葱としては、何故そんなにも老婦人に笑われているのかが判らない。けれど、最初とは違ってその笑みの中に嫌なものは感じ取れなかったので、まぁいいかと結論付けた。
「あんた……お婆さんは、琥珀に会ったことがある?」
「一度だけね。あの子が、その任に就いた時に」
神と呼ばれる存在として琥珀が見出されたその時に、顔合わせとして会ったことがあるのだという。
「今よりももっと小さくて、鶴来の双子たちの影に隠れるようにしてこちらを見上げていたわねぇ……。態度の横暴な先代に頼るよりは、馴染みのある双子の傍にくっついていた方が安心ということだったんでしょうけど……」
可愛らしいのと同時に、なかなか先行きが不安になる光景ではあったわね、と老婦人が小さくため息を吐きながら記憶を振り返る。容易に想像できるその光景に、へー……と相槌を打った後で浅葱はあれ? と首を傾げた。
馴染みのある双子、って……、
「鶴来のカミサマたちと琥珀って、元からの知り合いだったのか?」
「ええ。私はそう聞いたわねぇ。神として目覚めるよりも前からの知り合いだとか、どうとか……」
初耳である。へぇ……とあまり表情を動かすこともなく相槌を打った浅葱だったが、内心では普通に驚いていた。同時に、なるほど……とも思う。それ故の、駆け落ち騒ぎだったのか、と。
帰ったら千歳辺りに詳しく訊いてみよう、と浅葱は思い ―――― 思ったところで、はた、と瞳を瞬かせた。
帰ったら、というか、帰り方が判らない。清々しいほどに、これっぽっちも。
「えーっと……」
「? 何かしら?」
「俺、そろそろ帰ってもいい?」
というか、ここからどうやって帰ればいい? 俺、帰れる? と、いっそ方向音痴の迷子かと思えるような台詞を立て続けに吐き出した浅葱に、老婦人は虚を突かれたようにぱちぱちと瞬きをした。
おっとりと自分の顎の辺りに手を添えて、そうねぇ……と呟いて、
「帰り道は、私にしか判らないわね。あなたひとりでは帰れないわ」
「うん、そんな気はしてた」
老婦人のびっくり発言に、あっさりと浅葱は頷いた。
どうしてここに呼ばれたのか、なんて、今更訊くつもりはない。けれど多分、試されていたのだろう、と思う。
柔らかな微笑に隠されていた、毒。じわり、じわりと侵食するようなそれは、きっと自分が不用意なことをしようものなら即座に牙を剥かれていた。見透かすように細められた瞳は、事実浅葱の内面を見透かし、見極めるためのものだったのだろうと、浅葱はそんな風に理解している。
浅葱が、当主として相応しいかどうか。
神の傍に座すに、足りる者か。
きっと、答えをひとつでも間違えば、与えられる毒に気付かぬうちに、そのまま屠られていてもおかしくはなかった。
そう、理解したうえでまぁいいか、と結論付けたのは、浅葱が己の内面を覗き見られたところで痛くもかゆくもない人種で、己の生死さえもすべて盤上に賭けてしまえるような図太い神経の持ち主だったからに他ならない。浅葱の思考と言動は直結しているうえに、そもそもの感性が常人の斜め上へとずれている。そして図太い。めったやたらと図太い。
「ここは『迷い家』。そう呼ばれる場所を、私があなたの夢と繋いだの」
ふふ……と笑みを零して、老婦人は着物の袖で口元を隠した。ゆうるりと、細まった瞳。
「下手にこの部屋から出れば、あなた、一生迷子になるところだったわよ?」
―― 大丈夫。そんな気はしていたとも。
その言葉にも動じることなくあっさりと頷いて、浅葱は淡々と言葉を紡いだ。
「だから、訊いてる。俺は、帰ってもいいのか、って……」
あの場所に。やさしいカミサマの隣に。
そこに在ることを許されるのか、と。
…………いや、許されなかったとしてもそこはそれ、何が何でも帰る気ではいるのだけれども。足りない分は、今後すごく頑張るので許して欲しい。
至極真面目な表情のまま言い添えた浅葱に、老婦人は一度完全に袖に顔を伏せてしまった。見える肩が小刻みに震えている。
「ふ……ふふ……いやぁね、もう。訂正するわ。あなた、間違いなく大物の方よ」
笑みを含んだ震える声でそう評されても、浅葱としては「はぁ……」と気の抜けた返事をするしかない。
最初はやばい意味で微笑まれ、今は大物だと何故か笑い転げられている。どちらにしても笑われるわけだな、と浅葱は既に悟り顔だ。
「逆にお願いするわ。あなたはあの子の傍にいてあげて頂戴。―― あなたがいなくなれば、今度こそあの子は壊れてしまうわ」
その可能性を一瞬でも跳ね上げた当の本人が言っていい台詞ではないのだろうが、浅葱は気にせずにこくりと頷いた。帰してくれるというなら文句はないし、頼まれごとの内容としては当たり前のことでしかなかったので頷きを返すことに躊躇はない。
迷わず頷いた浅葱に、老婦人はふわりと瞳を細めて笑った。
「さぁ……そろそろ目覚めの時間ねぇ……」
すい、と浅葱へと皺のある白い手を差し伸べて。
「あなたは、あなたの居場所へ ―― おかえりなさい」
大丈夫、ちゃんと帰してあげるわ、と優しげな笑みと共に微妙に薄ら寒い台詞を頂戴したところで、浅葱は老婦人のその手を取った。ゆっくりと立ち上がる。正座に慣れていない足が若干ぴりぴりとした痺れを訴えてきたがどうにか堪えた。うん、これは全力で誤魔化そう。というか、こんなところに現実味を溢れさせなくてもいいと思う。
ああ、そういえば……と老婦人が浅葱の手を取ったまま再び微笑んだ。今度は随分といたずらっぽい笑みだ。
「迷い家からはね、何かひとつ、持って帰っても良いことになっているの」
「え?」
「あなたは何が欲しいのかしら?」
何を、持って帰りたい……? と問われて、浅葱はおもむろに周囲を見回した。室内は、そう歩き回れる程に広くはない。部屋の隅に立てば、何の苦もなく室内すべてを視界に納めることもできる。
床の間に飾られている壷や掛け軸は、浅葱が見ても判るぐらいには値打ちものだったのだが、即座にそれはいらないな、と判断を下した。だって高いものは手にするのが普通に怖い。壊しても弁償なんてできないぞ、と真顔で思う浅葱は、庶民の感覚がまったくもって抜けていない。根付いている。
茶道具を貰ったところで使わないだろう。いつも茶を淹れてくれる千歳だって、わざわざお茶を立てたりはしていないだろうし……と、そこまで考えたところで、あ、でも今度目の前で立てて貰ったら面白そうかもー……などという思考が乱入する辺りが浅葱である。悪人と評す程ではないが、決して性格がよろしいわけでもないのだ。
元々、室内に物は少ない。茶道具についてはとりあえず保留にすることにして、浅葱は再びぐるりと視線を巡らせた。
「あ」
その視線が、不意に一点で止まった。その動きに気が付いた老婦人が軽く小首を傾げる。
「欲しいものは決まった?」
「うん。あれ、貰ってもいい?」
言いながら浅葱が指差した先を追った老婦人は、一瞬理解できなかったのか動きを止めた。
「……これかしら?」
「うん、それ」
確認するように再度問い掛けた老婦人に、浅葱はこくりと頷く。浅葱の指差した先にあったのは、まあるい、淡い黄色の……、
「それ、美味しかったし。食べないんだったら頂戴」
さつまいもの味の、ふんわりと優しい印象の茶菓子。老婦人のものが手付かずのまま畳の上に取り残されている。行儀的に褒められた要望ではないだろうが、このまま捨て置かれるぐらいなら貰って帰っても罰は当たるまい、というのが浅葱の考えである。だって浅葱の根本はどこまで行っても庶民だ。もったいない精神が働くのだ。
それに。
「琥珀もこういうの好きそうだし」
以前よりも一緒にいる時間が長くなった結果、琥珀の趣味嗜好にも多少は詳しくなった。あの子供は、飾り付けられた菓子よりも、こういった素朴な感じのものが好きなのだ。
だから、お土産にどうかなー、と思っただけなのだが。
それをそのまま素直に伝えただけなのだが。
「ふ……ふふっ、ふふふ、あらあら、まぁ」
これでもかというぐらいに、笑われている。何故だ。
「他に、欲しいものはないのかしら……?」
「いや、別に」
「高価なものや珍しいものも、ここには色々とあるのよ? 探せばいくらでも出てくるわ」
「ああ、うん。でもいらない。そういうの貰って喜びそうな奴もいないし」
少なくとも、今浅葱の周囲にいる人間はそんな類の者ばかりが集まっている。下手に値の張る物よりは、いっそ金平糖でもお土産にした方が喜びそうな気がしなくもない。少なくとも琥珀はそうだし、千歳は無類の酒好きだ。高価な器を買うぐらいなら、その金額で浴びる程飲める酒を買うだろう。浅葱も多分食い気に走るだろうなぁ……と自分で思ってしまう辺り、似た者同士でしかないのだが。
「高いものより、確実に喜ぶ、って判ってるものの方が良くないか?」
不思議そうにそう問い掛けた浅葱に、老婦人はそうね、とくすくすと笑いながら頷いた。
欲がない、と言ってしまえばそれまでだが、新しいこの神代の当主にとってはそれが正解なのだろう。何が正しいのかなど、そんなものは老婦人にもはっきりと判断できるものではなかったが、ただ、浅葱の返答は好ましいものではあった。
真っ直ぐに ―――― 真っ直ぐに。
返される、眼差しと答え。
ああ、成程……この子は、ある意味で性質が悪いわ、と笑って、老婦人はひとつ頷いた。
「構わないわよ、持って帰りなさい。箱ごとあげるから、皆で食べると良いわ」
どこからともなく取り出した茶菓子の詰まった箱を、老婦人は浅葱へと差し出した。浅葱がそれを受け取ったのを確認して、老婦人はトンと浅葱の肩口を指先で軽く突く。そう強い力ではなかったが、浅葱の身体はふわりとした一瞬の浮遊感と共に後ろへと倒れ込んだ。
「え……」
くらり、と微かな眩暈。世界が、急速に自分から遠ざかってゆく感覚。
視界に映る景色が、歪んで、掠れて、消えようとしていた。
くすくすと、笑い声が耳を打つ。
「―― ああ、そうそう」
忘れるところだったわ、と。笑みを含んだ声が、告げた。
「伝言をね、預かっているの」
……伝言?
「竜胆がね、また葡萄の飴が欲しい、って」
くすり、くすりと笑い声が遠ざかる。確かに伝えたわよ? と。
竜胆。
覚えのある名前は、驚きよりも、ああやっぱり……と納得する気持ちの方が強かった。老婦人の情報源は、そこか、と。
そうなると自然に、老婦人の正体など察して余りある。
現実の世界でまた会いましょう、と囁いた声に、まぁ……放っておいてもそのうち会いそうだよな……と暢気に考えた思考を最後に、浅葱の意識は真っ白に塗り潰された。
* * *
気が付けば、朝で。浅葱は自室の布団の中で眠っていた。
一瞬状況が判断出来ずにぱちりと浅葱が瞬いたのと同時に、失礼しまーす、と軽い断りと共に千歳が室内へと入ってくる。
「あれ? 若様、今起きたんスか? 珍しい……」
いつもはどこのお爺ちゃんかってぐらいに早起きするのに、と首を傾げた彼は、そこで再びあれ? と声を上げた。
「若様、若様。これ何スか?」
寝る前こんなの置いてましたっけ? と千歳が指差す先には、簡素な白い箱がある。枕元へそっと置かれていた見覚えのある箱に、浅葱はあ……と声を上げた。
「中身はいけーん……って、ちょっと若様? これ本気でどこから持って来たんスか」
箱の中には、千歳にとっては見覚えのない、浅葱にとっては見覚えのありすぎる茶菓子が綺麗に鎮座していた。
淡い黄色のふんわりと丸い茶菓子。それはさつまいもの味がするのだと、浅葱は既に知っている。
「あー……えっと、お土産?」
「何で疑問形なんスか? てか、お土産って。いつの……」
「んー……というより、強奪……?」
「響きが劇的に悪くなったッス!」
どこで犯罪に手を染めて来たんスか! と今日も朝から千歳は元気だ。そしてどちらかと言うと、浅葱は犯罪に手を染めた方ではなく、巻き込まれた方である。だってあれは間違いなく誘拐の類だ。さっくりと人生終了のお知らせまで出なくて何よりだったけど……と本人の思考はやたらと暢気なものである。
「ちょっと若様! 聞いてるんスか!?」
「聞いてる聞いてる」
「じゃ、この茶菓子の出所も言えるッスよね!?」
「ああ、見知らぬお婆さんとお茶飲んで、帰る時にこれ貰って帰った」
「さすが若様! まっっったく! 意味判んねッス!」
千歳が吠えたが、浅葱は頓着した様子もなく箱を持ち上げた。箱の中の茶菓子は、おそらく浅葱が食べたひとつ分だけ減っている。あれが夢だ、と思っていたわけではなかったけれど、改めて確信した。
「五家の関係者って、何かすごい人ばっかなんだなぁ……」
カミサマがすごい存在であることは元から判っていたことだが、どうも当主たちも普通という枠をひょいっと超えてゆく人たちばかりであるらしい。少し前までは、対象が神代の前当主しかいなかったから、そんなことは思わなかったのだけれど。
ひょっとして、自分も当主という座に就いた以上、あれぐらいの芸当が出来るようにならないと駄目なのか? と浅葱は思う。……無理だ。浅葱はまだ人間であることを捨てられない。未だに根底は一般庶民なのだ。
「え、ちょ、若様……? 今、ちょっと、聞き捨てならない……」
「竜胆、って言ってたから……多分あれ、縁のご当主様だよなぁ……?」
「え」
完全に静止した千歳を余所に、あ、そういえば名前訊き損ねた……と浅葱は暢気な呟きと共に、くあ、と欠伸を漏らしたのだった。
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