第9話霧崎麻述と森田友一②
「ちょ、待てよ!」
森田友一が声を荒げたのを聞いて、私は現実に引き戻された。緊張状態の教室というのは、私にとっては未だにトラウマらしく、思わず数秒程、現実逃避をしていた。
森田友一の後ろでは、相良弥生が、椅子に座ったまま小さく震えていた。
少女を後ろに回した森田君の姿は、文句なしに英雄的だった。彼は今、他人の為にリスクを背負っているのだ。だが、英雄的行為というのは得てして、日常のスケールには合致せず、どこか失笑を与える滑稽さに成り下がる。
森田君と相良さんの二人を囲んだ女子たちが、困ったような表情を浮かべながら、顔を見合わせている。自分たちの余裕と、優位を、確認し合うように。
彼女たちは、天宮愛を筆頭とした、霧崎麻述のヒロイン(取り巻き)たちであった。
森田君と、彼女たちの対立を、教室中が固唾を飲んで見守っていた。昼休み終了まで15分もなかったが、授業の準備をしている者など、一人もいない。
「いくらなんでも、一方的に決めつけすぎじゃねえのか……麻述を保健室送りにしたのが、相良だっていう証拠でもあるのかよ!」
霧崎麻述は今、この教室にいない。だからこそ、混乱に収拾がつかないのだ。
1-Aは、学園一の人気者である、霧崎麻述を精神的な支柱として、成立しているクラスだ。この教室のジョックスは彼一人が務めており、権威的に振る舞ったりはしないものの、このクラスは一人残らず、多かれ少なかれ、彼に依存することで、安定を得ている。そんな特殊な生態系というか、カーストの元に成り立つ1-Aには、他のクラスでは考えられないような、変わった習慣がいくつも存在する。そのうちの一つが、毎週木曜日の昼休みに行われる、『弁当会』である。
誰が開始の合図をするわけでも無いのに、木曜日の昼休みになると、一斉に、自然に、霧崎君の机の周辺に女子たちが集まり、それぞれが、お弁当を広げ始める。その全てが、好き嫌いの激しい霧崎君の為に作られ、彼におかずを分けてあげることを前提とされた、弁当たちである。いつもは学食派の女子たちまでもが、その日ばかりは、彼が自分の弁当をつまみに来る時を思い、胸を高鳴らせながら、輪に加わるのだ。言うなれば、霧崎麻述のためだけに行われる、週一のバレンタインデーである。
ちなみに、この風習は、叶瀬さん発祥らしい。霧崎君の『幼なじみ』である彼女が、時々霧崎君にお弁当を作って持ってきているのを見た他の女子たちが、次第に、真似をするようになって、そのうちに、今の形態に落ち着いたそうだ。前に彼女から、「あれ、私が始めたんですよ」と、教えてもらった。理解しがたいが、それはどうやら どちらかと言えば慎ましい性格である彼女を、自慢げにさせるほどの栄誉であるようだ。
そして、今日も木曜日であった。いつものように、教室の中心に大きなサークルを作り、弁当会は行われていた。
霧崎君が、女子たちの間を飛び回り、弁当をつまんでいく。最初は大抵、天宮さんか叶瀬さんのから、というのが相場なのだが、今日は叶瀬さんからだった。続いて天宮さんが、「し、仕方ないわね、一口だけなんだからね!」とそれらしいことを言いながら、煮転がしを箸でつまみ、手皿を添えて、彼の口元に近づけていく。
教室の後ろの壁際には、私が授業見学をする時の為の机が置かれている。私の、この学校における、メインの居場所である。そこに座り、自分の弁当を広げながら、私は、弁当会の様子を、ぼんやりと眺めていた。他の男子たちは、こういうの、どう思っているのだろう、なんてことを考えていた。なんといっても、私の見た限り、クラスの可愛い子は一人残らず、霧崎君に気があるように思える。こんなクラスで、青春もへったくれもないと思うのだが。しかし、これまた不思議なもので、霧崎君が女子を一人占めしているにもかかわらず、彼に嫉妬しているような気配のあるものは、一人もいないのだ。男子たちも、それぞれ固まって、いつものように、思い思いに談笑していた。男子たちにとって、霧崎君は嫌味なやつでもなんでもなく、明るくて楽しい仲間、と認知されていて、それ以外の何でもなかった。カリスマの為せる業、と言うやつなのだろうか。いや、どこか、違う気がする。私も、高校生だった時分があるので、クラスのリーダー的な存在が、周りを引き付け一目置かせる、フェロモンのようなものを持っているということは、理解している。でも、思い出の中の彼ら彼女らが使っていた、私の知っているカリスマは、こんなに都合の良い物ではなかったはずだ。もしかしたら、霧崎君には、殺人鬼であること以外にも何か、特筆すべき才能があるのかもしれない。鬼の力だけでなく、圧倒的な、人としての力が。
そう思いながら、霧崎君を何気なく見つめていた時だった。
悲劇は唐突に起こった。
霧崎君が、輪の中心で、盛大に嘔吐し、ぶっ倒れたのである。
一瞬の沈黙の後、クラス中から悲鳴が上がった。私は思わず、耳を塞いだ。人ごみの中で銃撃事件が起こったかのような、パニックぶりであった。
霧崎君が膝を着くと、慌てて数名の女子が駆け寄り、彼に肩を貸しながら、保健室へと運んで行った。見たところ、霧崎君は、軽いうめき声を上げるだけで、まともな受け答えが出来ていないようであった。
私は、女子たちの手によるゲロ掃除が終了するまで、呆然と立ち尽くしていただけだった。教師としての役目は、何一つ果たすことはできなかったが、私の柔弱ぶりなど、誰も気に留めていなかった。
「さて」
床が綺麗になり、天宮さんがそうつぶやいた時、鳥肌を立てずに済んだ人間が、この教室に何人いただろうか。
「誰が、やったの?」
誰も、何も言えなかった。天宮さんと目を合わそうとするものすらいなかった。
「誰がやったのって、聞いてるのよっ!」
天宮さんが、黒板を平手で叩いた。大きな音がした。手形が残るんじゃないかと言うような、轟音が響いた。彼女の手の甲に、血管が浮き出ているのが見えた。
何人かの女子が、犯人を捜す天宮さんの姿勢に、同調して、声を上げ始める。彼女らは、霧崎君の取り巻きであると同時に、天宮さん率いる女子グループの構成員でもあった。
天宮さんの視線が、教室内にいる人間達の間を、忙しなく移動する。やがて、視線の動きを止めた天宮さんが、一人の女子の元に、ゆっくりと歩んでいく。
「相良さん」
声をかけられた女子生徒の肩が震えた。
「あなた、これまで、麻述とお弁当のおかずの交換したことなんて、一度も無かったわよね。確か今日が、初めてだったわよね」
相良さんは、膝を閉じ、俯いた。
その態度が、罪の露呈を恐れているからなのか、天宮さんの迫力におびえてなのかは、わからなかった。
一つ確かなことは、天宮さんには、前者に映ったということだけだった。続いた天宮さんの言葉は、どこか確信めいていた。
「麻述が好き嫌い激しいの、知ってるわよね。……あんた、麻述に何を、分けてあげたの?」
天宮さんが、相良さんの机の上に広げられたままの弁当箱を一瞥する。バラエティ豊かなおかずたちの中に親の仇でもいるかのような敵意を、天宮さんは向けていた。
私は、近くの席に座っていた男子生徒に、小さく声をかける。
「……もしかして、霧崎君はアレルギーか何かなのですか?」
バケツをひっくり返したような嘔吐だった。どう見ても、好き嫌いの域を超えた肉体反応に思えたのだけれど。
「ああいや、本当に好き嫌いが激しいだけだと思うっす。味覚っていうか、胃が子供なんすよ、
きっと」
私も、小学校の頃、福神漬けが大嫌いで、給食に出て来た際には、吐き気をこらえながら食べていた思い出がある(担任が、給食を残すのを、断固認めない人だったのだ)。霧崎君は、あれが治らないまま、高校生になってしまった、と言うことだろうか。
天宮さんが、相良さんの目を覗き込みながら言った。
「勘違いしないでよねっ。別に、あんたのことが前から気に入らなかったから、疑ってるわけじゃないんだからね」
背筋が粟立つような、天宮さんの微笑。あ、これ、ダメなやつだ。私はこの時点で、察した。相良さんは、弁当会に初参加、と言うことだった。その情報から、彼女が女子カーストにおいて下方に位置するということが、容易に想像できた。相良さんは、自己主張が弱そうなのにもかかわらず、いつも何か言いたげに、もじもじしているような女の子だった。攻撃性の強い天宮さんとは、いかにもそりが合わなさそうだった。
何か事件が起これば、大衆は犯人を見つけて、報いを受けさせたがる。しかし、犯人がなかなか見つからない場合、そのうち、事件の真相よりも、事件の収拾が第一目標になる。犯人の存在は、ゴールではなく、事態収拾のための、代用の利く道具と化す。誰でもいいから犯人になってくれと、誰もが、心のどこかで望んでしまう。
事件は、最初に犯人を、続いて、生贄を求める。司法の世界では、一人の冤罪を出すくらいなら、百人の犯人を逃がした方がましだという理念も存在するが、これは人間の集合体であるところの、社会の本能には反している。
冤罪が求められる瞬間は確かにある。
天宮さんは、どこからどう見ても、感情的になっている。
相良さんが犯人だった場合、追求から逃れることは、ほぼ不可能だろう。無実であった場合も、『一番疑わしい』というレッテルを張られた後では、天宮さんの激情の落としどころとして、もう逃げることも敵わない。
何か言わなくては、と思った。
クラス中の視線を集める相良さんに、昔の自分が重なった。記憶が、脳内で明滅し、現実感が希薄になっていく。私が彼女の、隠れるための机にならなくてはならないのに。あの時、私を救ってくれたあの子のように。
しかし、私の身体は、全くいうことを効かなかった。
「ちょ、待てよ!」
その声が聞こえた時、私は思わず、安堵してしまった。重責から解放された感覚がした。
「いくらなんでも、一方的に決めつけすぎじゃねえのか……麻述を保健室送りにしたのが、相良だっていう証拠でもあるのかよ!」
声を荒げたのは、森田友一という男子生徒だった。彼の声を聞いた天宮さんは、取り巻きの女子たちと、顔を見合わせた後、あきれた様にため息をついた。完全に頭に血が上っているものの、彼女が決して、余裕をなくしているわけでは無いことが伺える仕草であった。
彼女のロッカーに、犬の死体を放り込んだ男子生徒が、学校にいられなくなった事件のことを思い出す。彼女は、感情を用いて大胆に、それでいて、冷静な部分を決してなくさない少女であった。彼女は、戦力の差を、今の一瞬で分析していたのだ。
女子たちのリーダーである、天宮さんであっても、森田くんは対処に困る存在のはずだった。なぜなら。
「邪魔しないでよ、モリのくせに。別に決めつけてなんかないじゃない。私は犯人を見つけたいだけよ。相良さんが犯人じゃないなら……そうね、また別の人から、話を聞くわ」
どうか、相良さんが犯人であってくれと、思わなかった人間が、どれだけいただろうか。一般市民にとっては、刑事の取り調べ自体が、一種の刑罰なのである。
「もちろん、モリも協力してくれるわよね。……あんた、麻述の『親友』なんだから」
彼女の言う通り、森田君は、霧崎麻述にとって、特別な存在であった。霧崎君には、当然のように、大勢の友達がいる。だが、いつも彼とつるみ、霧崎麻述が、女子を周囲に集めている時まで彼の隣に立つことを許されているのは、森田君だけだ。先ほどの、弁当会においてもそうだった。森田君は、購買で買ったパンを、「麻君、あーん。新発売ですよー」と叶瀬さんの物真似をしながら、霧崎君の口に突っ込んでいた。そんなことが出来るのは、この学校で彼だけだった。
霧崎麻述にとって、人間とは、素材であった。
彼はラブコメの世界の主人公として君臨する為、溢れる人間たちの中から、自分の理想とする世界に、かっちりとフィットする人間をつまみあげ、思うままに、側に置くのだ。
森田君は霧崎麻述の手によって、モブの中、背景世界の海からつまみあげられ、霧崎麻述の主観世界の中、『親友』という記号を与えられた、唯一無二の存在となった。天宮さんが、『ツンデレヒロイン』という記号を与えられたように。
学校とは、社会の縮図だ。人間にとって社会とは、ほとんど世界そのものである。世界であるなら、人間はそこに神を、主と呼ばれる何かを、作り出さずにはいられない。
彼ら彼女らは、霧崎麻述によって選ばれた、彼の主観世界における、小さなジャンヌ・ダルク達だった。
霧崎麻述は、他者を、当人が気付かないうちに、彼の作った主観世界の住人にする天才であった。
そこで彼ら彼女らに与えられる、使命感と幸福感は、しかし紛れもない本物であり、だからこそ天宮さんは、自分と同質の存在である、森田君に脅威を感じていたのだ。
古今東西、神に選ばれたものを止められるのは、同じく神に選ばれたものだけなのだから。
「……当り前さ。俺だって犯人捜しには協力するぜ。でもさ、ほら、熱くなり過ぎじゃん、天宮。これじゃ言いたいことがあっても、何にも言い返せねえって。相良だって、初めて麻述に弁当わけてやったからっつっても、麻述の好き嫌いのことを知らねえ奴なんてこのクラスにはいねーし、こんなことする理由があるやつは、もっといない。案外、麻述の胃の調子が悪かったとかだけなんじゃねえか?」
相良さんの方を向き、にっこりと、森田君は笑って見せた。相良さんは、涙ぐみながら頬を紅潮させた。
それを見た天宮さんが、ふん、と、小さな鼻を鳴らす。
「私の態度を、決めつけてかかってるって言ってたけど、あんたはむしろ、何が何でも相良に犯人であって欲しくないみたいだけどね」
天宮さんとしては、その路線で、森田君の振る舞いを追及したかったのかもしれないが、思わぬ邪魔が入った。
「理由なんて簡単じゃん! 霧崎のこと気になってるから、構ってほしくてこんなことをしたんだよ!」
「頭の中で、悪魔に『やれ』って命令されたとかじゃん?」
天宮さんの取り巻きの二人が、森田君に食ってかかる。天宮さんの為の援護射撃をしたつもりの彼女らは、得意げだったが、天宮さんから一睨みされたことで、余計な横槍だったことを自覚し、身を縮こまらせた。
二人の横槍は、結果的に森田君の意見を、逆に補強することになってしまっていた。いくらなんでもそんな、小学生男子みたいな理屈で、アメリカの大量殺人犯みたいな理由で、同級生を陥れる高校生がいるものか。
「確かに……森田の言う通りかもしれないな」
「い、色んな人のお弁当もらいすぎて、胃の中がこんがらがっちゃったのかも、知れないよねっ!」
天宮さんは、『モブ達』の様子から、形勢が森田に傾いていることを察したようだ。
激情でもって、事態に早々と決着をつけようとしていた天宮さんとは対称的に、森田君の穏やかな態度は、『モブ達』から、ことなかれ主義的な側面を、引き出すことに成功していた。
「……確かに、理由なんて、ないかもね」
天宮さんの言葉には、含みがあった。まだ何か、切れるカードが、あるようだった。
「でも相良って、前科が……」
天宮さんが、小さな、それでもよく通る、器用な声音で、呟いた。あたかも、独り言であるかのように。
森田君が、首を傾げた。相良弥生の、前科。そのキーワードに、彼だけでなく、クラス全員が、お互い、顔を見合わせていた。誰も、彼女の言葉に、心当たりがないらしい。
天宮さんの取り巻き達もそのようだった。だが彼女らが他のクラスメイト達と違っていたのは、自分達が今、立場的に何をしなくてはならないのか理解している、という点だった。特に、先ほど余計な口出しをしてしまった二人は、率先してその役目を果たした。
「え、なになに? なんのこと?」
「前科って何? 相良、前の学校でなんかやったん?」
天宮さんは、息を飲んだ。うっかり、言ってはならない秘密を口にしてしまったことを、後悔しているかのような素振りであった。
だが、天宮さんは、思慮なく口を滑らせるような女では決して無い。
天宮さんは、言いたがっているのだ。そのことを、彼女の友人たちは、よく理解していた。『本当はこういうことをみんなに広めるのは、良くないことだとわかっているけれど、ここまで言ってしまったら、続きを言わない方が、禍根を残すよね』。天宮さんが、いかにも仕方なさそうな口調で、解説を始める。森田友一が、霧崎麻述にもっとも近い男子であるなら、天宮愛は、霧崎麻述に最も近い女子。それは言うなれば、パッケージヒロインのごとき存在である。ひと手間かければ、免罪符など、思うがままなのであった。
「前に、先生が話してるのを、たまたま聞いちゃったんだけどね……」
そこから語られたのは、相良さんの来歴であった。
相良弥生は、高校からの転入組であり、天宮さんが言うには、以前は隣の県の、進学校に通っていたそうだ。真面目な学生として、教師たちからの評判も上々だったそうなのだが、彼女には裏の顔があった。相良弥生が、中学生として三年の時を過ごす間に、彼女のいた学年では、三名、生徒が登校拒否になっていた。原因は、相良弥生にあった。彼女は、好きな相手をストーキングするという悪癖を持っていたのである。意中の相手を追い回し、結果、心労によって破滅させていたのだ。
天宮さんは、そんな内容を、回りくどく装飾し、言い辛そうに言葉を詰まらせながら、訴えた。まるで自分が糾弾されているかのような立ち振る舞いだ。
以前私は校長室で、彼女の異常性の欠片を初めて目にした。手ごわい少女だと思っていたが、今私が目にしているのは、もっと強かな性質であった。
だが私が本当に彼女のことを恐ろしいと思ったのは、この後だった。
「でもさ、おかしくね?」
男子生徒の一人が、呟いた。それに、彼の友達が反応する。
「何が?」
「その、相良が通ってたっていう学校、確か女子校じゃん」
「え、まじで?」
「そ。ここみたいな中高一貫だけど、あそこは女子だけ。結構有名なお嬢様学校」
男子生徒に罪はない……というには、いささか彼は無神経すぎたかもしれない。無知が罪、なのかどうかは私にはよくわからないが、想像力の欠如は、確実に、いつか人を傷つけてしまうのだから。
彼に悪気があったわけでは無いだろう。
だが、彼の言葉を聞いた、察しの良い何人かは、即座にその可能性に思い至り、真偽を探るべく、相良さんの方へと視線を向けた。
彼女は、もう顔を伏せてはいなかった。男子生徒達の方を向き、口を開けた状態のまま、一時停止ボタンを押されたように固まっていた。何かを言いかけたが、すんでのところで思いとどまった人間を、そのまま標本にしたみたいだ。
一番触れられたくないところに触れられたから、彼女は何か、衝動的に言い返そうとしたのだろう。
相良弥生が同性愛者であることを疑う余地は、欠片も残されていなかった。霧崎麻述のことを、彼女が好きなのだとすれば、レズビアンではなく、バイセクシャルだが、そんな細かいこと(少なくとも、彼女以外のクラスメイト達にとっては)を気にしている人間は、一人もいないだろう。
彼女自身の様子と、周りの態度から推察するに、彼女はこれまで、この学校の人間の誰にもカミングアウトしたことなどなかったのだろう。きっと、これからもするつもりなどなく、隠し通しながら生きるつもりだったのではないか。少なくとも、高校生の間は。
急に発覚した、身近なクラスメイトの真実に対し、反応は人それぞれだった。
反射的にバツの悪そうな顔をするもの。思わぬゴシップに、『知ってた?』『知らなかった』と、目で確認し合うもの。そして、嫌悪感をあらわにするもの。
私は不意に、冷静になって、子どもたちの様子を観察できた。
セックスやジェンダーについて、理解を深め、リベラルな立ち位置を取らねばならない、という文言が声高に叫ばれるようになったのはいつからだろう。少なくとも、私が子どものころには、そう言う風潮は、もうあったように思う。男らしさや、女らしさを押し付けるのは傲慢であり、押し付けられるのは不当のものだから、反発しなさいと、私も教え込まれてきた。私たちはみんな、自由な生き方を保障されるべきである、と。性の平等、自由のための変革。革命は、私が生まれる前からずっとなされ続け、未だに終わってはいない。社会や経済に対する折り合いまでしっかりと踏まえたうえでのビジョンを語れる人間が少数で、『被害者の会』的な活動しか出来ない人達の便乗が、足を引っ張り続けているのだから、仕方がないのかもしれない。私も一人の女だが、そこまで熱心に自分の性にこだわってきたわけでは無いので、偉そうなことを言えた口では、勿論、無いのだけれど。
ビジョンなんて。
そもそも、持てるのだろうか。
理屈で言えば、今の時代の子どもたちは、私達の世代なんかより、よっぽどリベラルなはずだ。
女性化した男性と、男性化した女性というものに、慣れきっているはずの世代だ。私よりずっと、性の定義について、寛容なはずなのに。
相良弥生の性質について、『へえ、そうなんだ』とだけ、思った人間は、この場に存在していなかった。反射、反応の段階まで、偏見を除去することに成功している人間なんて、いるわけない。
この学校は、学費が高い。きっと、保健の授業だって、いい加減に教えたりはしなかったはずだ。保健室の前の掲示板にも、『いろんな形の、愛があります』と、同性愛に対して理解を求めるポスターが貼ってある。
長い戦いの歴史の集大成が、今、この教室内に凝縮されていた。
世の中は少し、生きやすくなったかもしれないが、人の心の中というものは、何も変わってなんかいない。
この場を見れば誰だって、性に対する教育も啓蒙も、本質的には意味なんてなかったのだと悟るだろう。
みんな彼女に、多かれ少なかれ、嫌悪を抱いていた。彼女が、ストーカーをしていたことに対する嫌悪であり、人として、社会の一員として、それは持ってしかるべき感情であった。だがそれは、『男性が女性をストーキングすることに対する嫌悪感』でも、『女性が男性をストーキングすることに対する嫌悪感』とも違う、特殊な嫌悪感であった。リベラルが根付いているのなら、相良弥生に対する嫌悪感は、特殊であっては、ならないはずであった。
もしかすると、この中の何人かは家に帰ってから、自身の反応を軽率だったと考えなおすかもしれない。だがその現象をして、長年の意識革命の成果だと主張するのは、無論、愚かだ。
例えば、私は普通自動車免許を持っているが、教習所で交通ルールを学ぶのは、事故を未然に防ぐためだ。交通事故を起こした後、家に帰ってから後悔する為では無い。『何か』を未然に防げなければ、教育も啓蒙も無価値なのだ。
相良弥生の性別(ジェンダー)はマイノリティだ。人生経験の浅い彼らは、マイノリティと接する機会が少なかったから、不器用にしか振る舞えなかっただけだ、という人もいるかもしれない。これを機会に学べばいい、という意見もあるかもしれない。くだらない。『失敗から学べばいい』なんて、恋愛経験のない男性相手くらいにしか、通用しないアドバイスだ。
確かに、彼ら彼女らは、同性愛者と言うものに対し、長い人生のどこかの時点で、慣れることがあるのかもしれない。
しかし先ほどの、車の例えで言うなら、慣れるための交通事故など、あって良いはずがない。
相良弥生は、今日のことを一生引きずって生きていくだろう。大人になってからも、この『特殊な嫌悪』を、夜な夜な思い出してしまうのかもしれない。
残酷なる、心の慢性痛。
天宮さんがきっかけで、相良さんにもたらされたのは、そう言うものだった。
天宮さんは、相良さんの通っていた中学が女子校だったということを、知らなかったように見える。彼女は自分が情報の発生源であるにもかかわらず、ゴシップに驚く、周りの女子たちに完全に同化して、一緒になって狼狽えていた。
私は、一つの疑問を抱かずにはいられなかった。
相良さんの中学が女子校であったことを、天宮さんは知っていたのではないか、という疑問だ。天宮さんが、目的のためならいくらでも狡猾になれるということを、私は先日知ったばかりだ。
もし天宮さんが、相良さんがお嬢様学校に通っていた、ということを、知っていたのだとしたら。
天宮さんは、相良さんのことを、痛めるだけ痛めつけた挙句、最も罪深い部分を、大衆という、形を持たない、責めづらいスケープゴートに、自然な流れで転嫁したということになる。クラスメイト達は、知らずのうちに、共犯者に仕立て上げられたということになる。
なんと日常的で、実用的な完全犯罪であろうか。彼女はさながら、ミステリーの犯人が鮮やかに密室を作り上げるがごとき手腕で、責任の所在を、鍵の付いたドアの向こうに、置き去りにして見せたのだ。
私の疑問が、確信に変わるのに、時間はかからなかった。
天宮さんと目があった。偶然では、無かった。天宮さんの眼だけが、笑みの形に歪んだ。
この学校で唯一、彼女の内面を知っている私に対し、威嚇をするわけでもなく、その目に湛えられていたのは、純粋な愉悦であった。ゲームを、楽しんでいる目だった。私と言う『敵』の存在を、歓迎している。次のマップのボスに対し、心を躍らせているような。
運命が、彼女という勇者の通り道に、私を放り投げた気がした。
天宮さんと視線が通っていたのは、一瞬の間の出来事だった。だが、その体験は、残響のようになって心を乱し、私を縫い止めていた。私の時間だけが止まって、天宮さんの時間だけが、前に進んでいくかのような錯覚を覚えた。
「それがどうした! 人は変われるさ!」
森田君の、悲鳴のような主張。普段の彼は、陽気な、お調子者だ。そんな彼の怒声は、天宮さんのもたらしたショックと、立派に、タメを張っていた。
「悪い、大声なんか、出しちまって、キャラじゃねーよな。でも我慢できねーよ、こんなの。……皆も知ってのとおり、俺も高校からの編入組だ。たまたまだけど、相良と同じ、隣の県から、こっちにきた。それで……その、」
森田君は、そこで言いづらそうに言葉を詰まらせたが、一瞬だけ相良さんの方を見ると、使命感に駆られた表情で、再び、話し始める。彼の中で、何か踏ん切りがついたのか、堰を切った勢いを得ていた。
「こんなこと、言うのも勇気がいるけど……俺、中学の頃すごい荒れてたんだ。馬鹿ばっかやって、人に迷惑かけてた。ほんと、最低のクズだったよ。……でも、そんな時、たまたま麻述と出会って、友達になって……あいつは、俺が、小さな世界に引きこもって、いきがってるだけだって、教えてくれたんだ。そっから、頑張ることが出来たんだ。馬鹿だったけど、真面目に勉強して……麻述と、友達と一緒の学校に通いたかったからさ。それで今こうして、皆と同じ学校で楽しくやれてて……それで……」
人を引き付ける悲痛さが、彼の声には宿っていた。彼の話す内容もまた、クラスメイト達にとっては、自分達の知らなかった身近な人物の真相であった。相良弥生のそれと、同質のものだ。にも拘わらず、受け取られ方は、全く違っていた。相良弥生のそれは、拒絶でもって迎えられたが、森田友一の真相は、周囲に共感と同情を呼び起こさせていた。
「ずっとさ、俺みたいなやつが受け入れられていいのかなって……悩むこととか、あったんだ。相良もきっと、俺と同じなんだ。……相良は、昔の自分のことを、すごく、後悔してる。ほら、相良って、引っ込み思案なところ、あるだろ? 自分なんかが受け入れられていいのかって、悩んでるんだ」
自分と同じものを、彼は相良さんに感じていたのかもしれない。言葉の端々に、前々から相良さんのことを気にかけているようなニュアンスが滲んでいた。
「大事なのは、過去じゃなくって、今なんじゃないのか?」
その問いかけは、クラスメイト達に対してだけでなく、相良さんに対しても向けられているようだった。
「今、問題になってるのはさ、麻述に、誰かがわざと嫌いな物を食わせたんじゃないかってことだろ? それで、みんなは、前科のある相良を疑ってる。でも、昔がどうであれ、俺達の知ってる相良は、そんな陰湿なことするやつらじゃないだろ? ちょっとおどおどしてるけど、それってつまり、他の人の気持ちを考えてるってことの、裏返しじゃねーか」
周囲のほとんどが、森田君の意見に賛同しているように思えた。
クラスメイト達は、森田君に対し『明るくて、友達思いのいいやつ』という評価を下していた。不良の更生というのは、昭和の時代から続く、オーセンティックなドラマの形態である。霧崎麻述の側近であるところの森田君が、そういった分かりやすいドラマの住人であることを、1-Aの仲間たちは、好ましく受け止めざるを得なかった。
そんな森田君が、相良弥生を、「自分と同質だ」と言ったのである。
これ以上の加護があるだろうか。
「俺、みんなのこと、大好きだから……だから、人を、過去で判断してほしくねーんだよ」
その訴えかけに、何人もが、頷きを返した。安易に相良さんを疑ってしまった自分を、恥じているようだった。もともと、仲のいいクラスなのだ。人として、合う合わないはあれど、誰も相良さんに対し、悪感情までは抱いていなかったというのも、大きいだろう。
「勿論、お前もだぞ。天宮」
「……うっさいわね」
こうなってしまっては、さすがの天宮さんもお手上げのようだった。
「悪かったわよ」
感情的に相良さんを責めてしまったことに、恥じ入った様子を演出しながら、天宮さんは、相良さんに謝罪した。私はさっき、天宮さんと目が合ったときに、彼女が浮かべていた表情を思い起こしながら、一人、苦笑いした。社会的に表出した天宮さんの非は、確かに感情的になってしまったことだけなのだろうが、彼女の思惑はもっと残酷で、周到な計算によって築ける場所に存在していたからだ。
なのに、この単純な落とし前ときたら。
まさに、森田君とは対極。この一連の騒ぎの主役でありながら、彼女は徹頭徹尾、リスクを負わなかった。
「あ……」
森田君が、照れた様に息を漏らした。実はずいぶん前から、相良さんが森田君のことを、彼の後ろから熱っぽく見つめていたのだが、そのことに初めて気がついたのだった。
「……ま、ざっとこんなもんさ」
頬を人差し指で掻きながら、森田君は言った。
「相良は、これからきっとうまくいくよ。自分が変われば、人も絶対、受け入れてくれるんだから」
相良さんが、笑った。なぜか私はそれが、自分のことのように嬉しかった。
その時だった。
「うぃーす、ただいまー」
ノックもせずに。
突然訪れた。
「保健室のお世話になったのなんて、初めてだったけど、意外だったよ。ベッド結構良いの使ってんだな。寝心地、悪くなかった」
霧崎麻述が、帰ってきた。いや、勿論教室に入るのにいちいちノックなんて必要ないのだが、それでも今だけは、何か前触れが欲しかった。
私も含め、全員が、息を飲んだ。
皆が心の底から心配していた、愛すべきクラスメイト、霧崎麻述の帰還。
にも拘わらず、場が凍りついたのは、彼の登場が、皆に、忘却していたことを、一気に思い出させたからであった。
事態は何も解決していなかったということを。
この教室の主である霧崎麻述に醜態をさらさせた犯人は、この教室内で、まだ、のうのうと息をしているのだった。
「みんな、さっきはほんとごめんな! せっかくの昼休み、台無しにしちまって! 綺麗になってるけど、誰が掃除してくれたんだ? 放課後、マックでもスタバでも、なんでも奢るよ。ゲロ掃除の礼に、飯っていうのもなんだがな。ははは」
教室を見渡す、彼の表情は、呑気なものだ。彼は、自分のテンションが、クラスの空気と乖離してしまっていることに、欠片も気づいていない様子だった。
霧崎君は知らないのだ。自分が弁当を戻してしまったことで、どんな魔女裁判が行われていたのかを。
天宮さん、叶瀬さん、それから森田君など、霧崎君と特に親しい何人かが、目で合図を送り合った。
「麻くん……大事が無くて、本当によかった」
結果、その役目を請け負ったのは、叶瀬さんだった。
「それで……その……誰かのお弁当に、嫌いなものが入ってたんじゃないかって……みんな今まで……」
義務だった。誰かが、人柱になって、この、一件落着の空気に水を差す、汚れ役をせねばならなかった。
そう、犯人を突き止める上で、重要な手がかりを知っている可能性が一番高いのは、被害者である、霧崎麻述本人に他ならない。
天宮さんは、ムキになって、すぐに犯人を見つけようとした。だが、それは本来、この一件を解決するための、合理的な手順とは言い難い。何事にも順序がある、霧崎麻述に、原因を訪ねて、それで分からなかったとしたら、行われるべき手順のはずだったのに、天宮さんが、彼の帰還を待てず、暴走してしまったばかりに、今回のようなことが起こったのだった。
『ちょっと胃の調子が悪かったんだ』『嫌いな物? みんなから手当たり次第もらいすぎて覚えてないよ。俺の不注意、不注意』
そんな答えを誰もが期待していた。いつもの笑顔で、彼が、本当の意味での一件落着をもたらしてくれると信じていた。彼らの予測は、霧崎君が、いつも通りの笑顔で口を開くところまでしか、当たらなかった。
「いやー、参ったよ。まさか、コロッケにひき肉が入ってるとは思わなかった」
コロッケ、というキーワードに、ある人物が肩を震わせた。
「確認もせずに新発売なんて食うんじゃなかったぜ! お前にも、放課後、何か奢るよ」
霧崎君が、親友の肩を叩きながら、謝った。
「全部、俺が悪いんだ。」
それは全く意味のない、謝罪であり、どちらかというと、死刑宣告であった。
「それにしても参ったぜ、胃が空っぽだ……お、相良、それ、またもらっていいか? 俺好きなんだよな、豆腐のハンバーグ」
返事を待たず、広げたままの弁当箱に、手が伸びる。
手づかみを咎めるものは、一人も居はしなかった。
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