第6話霧崎麻述と叶瀬さくら②
向かいの窓のカーテンが開かれ、さくらがそこから顔を見せた。窓を開けると、いつもの優しい笑顔を、俺に向ける。
「おはよー、麻くん」
「おはよう、さくら」
麻くん。小学校時代の俺の仇名であり、今はもう彼女以外に、俺をそう呼ぶ者はいない。幾分子供っぽい仇名であり、彼女が俺をそう呼ぶところを初めて目撃した人間は、例外なくからかうが、それでも彼女がその仇名で俺を呼び続けるのには、あるからくりがある。というのも、からかわれているさくらを、『こいつ、俺と幼なじみでさ、小学校からの付き合いなんだ。今更呼び方変えられても困るから続けてくれって、俺から頼んでるんだよ』と俺が庇うまでが、一連の下りになっているからだ。これによりさくらは、彼女と俺との関係を知らない人間、とりわけ女子に、自然な流れで親密な仲を見せつけ、牽制することが出来るというわけなのである。
「今度、特別実習で、ディベートやるだろ? あの授業の資料プリント、スマホで写真撮って送ってくれないか? 無くしちまって」
「はい、わかりました!」
さくらは、部屋の奥へと引っ込んでいった。プリントを探しに行ったのだろう。すぐに、机に置いてあったスマートフォンが震えた。さくらから、画像の添付されたメールが、送られてきていた。俺が、画像に映ったプリントの内容に目を通していると、さくらが窓の側に戻ってきた。
「届きました?」
「ありがとな、ばっちり読めるぜ。……夫婦別姓、か。そういやこんなお題だったな」
良いお題だ。
ディベートのテーマとしては知ったことではないが、今この場の、俺とさくらの雑談のネタとして、このプリントは、偶然にもうってつけだった。
俺は、さくらからは死角になっている部屋の隅で、おとなしく体育座りしている百合屋先生を一瞥する。先日天宮を相手にしたときには、彼女に醜態をさらしてしまったので、評価を挽回するいいチャンスだと思った。
男の価値とは、最終的に、女から何を許してもらっているかという尺度で測ることになる、というのが俺の持論だ。例えば、俺はさくらから、窓越しに会話できるほどの近さの部屋に住むことを許されている。現実的な問題として、俺がもし、太った醜男だったら、さくらは断固として、それを許しはしないはずだ。今のさくらの部屋は、彼女の自室ではなく、物置小屋か何かとして使われていたはずである。否、それどころか、そもそも大前提として、彼女は俺と『幼馴染』でいてくれすら、しなかったろう。家が隣であるだけの他人としての距離を、貫いたはずだ。
勘違いしてはいけない。さくらは俺と、昔よく遊んでいたから、幼馴染なのでは無い。俺が、社会的に価値のある男であり続けたから、幼馴染でいてくれているのだ。よく親友から、『麻述が羨ましぜ、あんな可愛い幼なじみがいてよー。あーあ、俺も美少女と家が隣だったらなー』といった趣旨のことを言われるが、やつは全く、事の本質を理解していない。美少女と家が隣だからと言って、己を鍛え、研鑽することを忘れてしまえば、偶然なんて、色のついてない塗り絵みたいなものなのだ。
今こそ、百合屋先生に匠の技を見せつける時。
この俺が、ラブコメを人生に体現することを、『許される』べき男かどうか、その目で確かめてもらうことで、親睦会の土産としてもらおう。
「懐かしいなぁ……俺達もガキの頃、よく周りから、『夫婦、夫婦』ってからかわれてたっけ。ずっと一緒にいたから」
「そ、そうですね……」
夫婦。嫌でも性を意識させる単語。男女の恋愛の、いわば終着点。もう何年も片思いしている相手の口から、そういった単語が出て無意味に浮き足立つのは、初心ならば、男でも女でも、同じこと。
だが、思わせぶりなことを言うのにも、テクニックがいる。天宮からノックアウトされた時に、学んだ。こういうやり取りは、一歩間違えば男をただの、無神経な馬鹿にしてしまう。相手によって、どこまでふざけていいのか見極めなければならない。
「さくらは、どう思う?」
「えっ……そ、それはその、私はそんなに、嫌じゃ、ありませんでしたけど……いつも、麻くんが、庇ってくれましたし、だから私は……」
「……夫婦別姓の話だぞ?」
「ええっ? あ、だからその、嫌じゃないっていうのはその、夫婦が別姓でも愛があれば大丈夫、と言いますか、私は、別に、夫婦で名前が違っても、その……嫌じゃ、ない……」
さくらが頬を赤らめ、僅かに涙ぐんだ。彼女が何を考えているのか、手に取るようにわかる。
『嫌じゃない』、わけないのだ。
小学生のころ、ノートに書かれた結婚届を彼女から突き付けられ、それにサインをしたときのことを思い出す。彼女の名前の欄には、『霧崎さくら』と、大きな丸い字で、そう書かれていた。やけに書き込まれたリアルな結婚届や、綺麗に押された印鑑から、彼女の執念を感じたものだ。
あの時のノートを、さくらが密かに隠し持っていることを、俺は知っている。
さくらの、結婚に対するステレオタイプな憧れが変わっていないことなんて、分かり切っていた。
だからそんな彼女が、夫婦別姓についてどう思っているのかなんて、本当は考えるまでもないのだ。
「麻くんの、意地悪……」
その通りだ。
だが、俺は、自分がなぜ意地悪なんて言われるのか、見当もつかない、という風を装いながら、言った。
「なんだよ、変なさくらだな」
純朴なる主人公に相応しい台詞も、心得ている。さくらが、頬を膨らませた。
俺の全身に、痺れるような満足感がかけ廻った。
これだ! この快楽こそ、ラブコメ主人公の醍醐味! さくらは、俺と、夫婦だと呼ばれることが嫌では無い、と言った。これ以上の好意があるだろうか。だが俺は、あえてそれを受け取らない。ああ、これ以上の贅沢があろうか!
男にとって最高の喜びとは? それは、誰もが涎を垂らして欲しがる美少女を手に入れることでは無い。こちらがその美少女を粗末に扱うにも拘わらず、相手の方から寄ってきた時初めて、男は自分に、絶対的な価値を見出すことが出来るのだ。異性からの好意を、湯水を浴びるように消費する。しかも肉体関係を用いない、というハンデつきでだ。セックス無しで、俺は学園中の女子を、惹きつける。さくらにいたっては、小学生時代から何年もの間、二心持たせずに、ここまでやってきたのだ。
これほどの振る舞いが許される人間が、あの学校に他にいるだろうか。
だが、勿論これで終わりでは無い。『片づけておきたい問題がある』と言ったが、それは別に、ディベートの資料が欲しかったというだけで無く、むしろ本題はこれからなのだ。
「そうだ、昨日貸したCD、もう聞いてみたか?」
「はい、聞きましたよ。アニメソングって初めてでしたけど、とてもよかったです」
「あのヘッドホン……」
音質良いから羨ましいぜ。そう続けるのが、CDの貸し借り後における、お決まりのやり取りだった。だが俺はここで、あえて、うっかり配慮の足りないことを言ってしまった自分を、恥じるかのように装いながら、口を噤んだ。
数日前。俺がたまたま教室にいなかった時のこと。さくらは、いつも首から下げているヘッドホンを、クラスの一部の女子達から馬鹿にされたらしい。そのことを気にして、トレードマークだったヘッドホンを、安物のイヤホンに変えていたのだった。女子達からも慕われる天宮とは違い、さくらの人気は、異性からだけに偏っていた。女子というのはどうも、同性に対しては、男が近づき難そうにしている美人に、友達としての魅力を感じるらしく、いかにも三歩後をついて行きそうなタイプは、時に嫌悪の対象にすらなるらしいのだ。
男でも、女でも、同性から嫌われるというのは、その逆より遥かに堪えるもの。
だが恐らく、さくらはまだ愛着あるヘッドホンを手放してはいない。
傷ついたさくらの心を癒し、彼女の首元にヘッドホンを取り戻す。
それが本日の、『本題』なのであった。
さくらは、表情に影を落としていた。やはりあの一件を、彼女はまだ吹っ切ってはいないようだった。
「もう……あのヘッドホン、つけないんだな」
「……だってみんな、からかいますから」
「俺は好きだったけどな、ヘッドホン首にかけてるさくら」
「す、好きっ……?!」
「宝物、なんだろ? 中学入った時から、ずっと使ってたのに、周りからちょっと何か言われたぐらいで使わなくなるなんてもったいないぜ」
演技とは、嘘を心の底から信じることである。自分自身の言葉に影響を受け、俺の弁舌に、感情の昂ぶりが表れ始める。
「……昔から、さくらって面倒見がよくて、周りに気を遣ってばっかだっただろ? 俺の今の趣味だってさ、最初は結構周りからキモイって言われてたけど……そんな時、最初にかばってくれたのも、さくらだったよな。そんなお前が、周りのせいで、自分を曲げなきゃいけないなんて、そんなの間違ってるって、思うんだ」
声が自然に大きくなっていく一方、頭の片隅で、近所迷惑にならないかどうかを、冷静に考えている俺がいる。
「周りの目なんて、気にする必要ない。もしまた何か下らないこと言うやつがいたら、俺がなんとかしてやる。……何があっても、俺だけはさくらの味方だから」
「麻くん……でも……」
さくらは、躊躇しているようだった。
しかし、彼女が俺の言葉を受け入れない道理はない。言うなればこれは天秤だからだ。クラスメイトからの言葉と、俺からの励まし、どちらが彼女にとって意味があるのかということを、問うているも同然だからだ。
「わ、わかった……ちょっと待ってて」
さくらが再び、窓のそばから離れて行った。
そして、戻ってきたとき、さくらはその手にヘッドホンを持っていた。ごつごつとしたヘッドホンは、さくらの腕が細いからか、それとも彼女があまりにも大事そうに抱えているためか、ともすればダンベルのようにずっしりとして見えた。
「本当は……捨てられずに、まだとってあるの」
さくらはヘッドホンを、頭に装着する。久しぶりの、俺の見慣れたさくらだった。
「本当は、私もこっちのほうが落ち着くんだ」
そう言って、彼女はヘッドホンの上から、手のひらをかぶせる。音楽は何もかかってはいないはずだが、そのまま聞き入る様に、瞳を閉じた。その様子はどこか安らかで、そのヘッドホンからは果たしてどんな音楽が流れているべきか、俺は想像をめぐらせずにはいられなかった。
だが。
「……きゃ」
その声は小さかったが、一瞬にして、二人の間に流れていた暖かい空気を、雲散霧消させた。
二人の間に流れていた、聞こえない音楽が制止する。まるで、イヤホンジャックが抜けたかのように。
「ご、ごめんなさい麻君、ちょっと、しゃっくりが、ですね」
俺はさくらの言葉を、一瞬だけ訝しんだ。
俺には彼女の声が、『しゃっくり』でなく、小さな悲鳴に聞こえていたのだ。助けを求めているようなニュアンスを、感じたのだ。だが、彼女が、しゃっくりだというのなら、俺の勘違いに過ぎなかったのだろう。さくらは、悲鳴を器用に堪えるような女じゃない。とりわけ、俺が目の前にいるときに、さくらが助けを求めなかったことがあっただろうか。
「そうだ、麻くん、私、ちょっとやることがありますから、これで、失礼しますね」
俺は彼女の様子を注意深く観察したが、どこにも、不自然なところはないように思えた。
「私も、何があっても、麻くんの味方ですから」
窓が、閉じられた。
「完璧だ!」
窓を閉じ、カーテンを閉めた俺は、百合屋先生の方に向き直り、Vサインを繰り出しながら、言った。
「どうだ先生! 俺だってやればできるんだ! あの美しい一連のやり取りをみたか! 確かに、幼馴染同士の関係には、刺激は少ないのかもしれない。だが、勝手知ったる間柄で行われるやり取りの中に、長年の関係で培ってきた、心地よい信頼がある! そして、その信頼は、二人の間に横たわる問題を乗り越えるたびに強まっていき、その信頼から一歩踏み越えた先を、読者に期待させるんだ! まさに幼馴染イベントって感じだったろ!」
百合屋先生も、俺に百点をつけてくれるに違いないと思っていたが、彼女の反応は、どこか芳しくなかった。
「叶瀬さんの様子、ちょっとおかしかったですね」
俺は、中学最後の全国模試を思い出した。あの時も、自己採点と実際の点数がなぜか大きく食い違っていて、今と同じような衝撃に襲われたものだった。
「最後の、『しゃっくり』のくだりだろ? あれで少々、ムードが崩れたのは認めるけど、その程度の減点、かすり傷にもならないはずだぜ。もしかして……」
意地になって、俺を褒めたくないだけなんじゃないか、と続けそうになったが、止めた。中空を見詰め思案する百合屋先生が、俺よりずっと、建設的に物事を考えているようにみえたから。
「彼女のこと、もっとちゃんと、見ておいた方がいいかもしれません」
「見てるさ。あいつとは古い付き合いだし、何だって分かってるつもりだ」
百合屋先生は、窓に目を向けた。カーテンの向こうにある、さくらの部屋を見ているように、俺には思えた。
「近いようで、意外と遠いものですからね」
百合屋先生が、カーテンの上から、窓を優しく撫でた。
「てめえ、どこ触ってんだ殺すぞ」
私の剣幕を受けた日下部は、にやついた笑みを浮かべた。
「麻くん、麻くんって……くくっ、私だけは……麻くんの味方……ハハッ……!」
「黙れっ!」
憎らしくて、堪らなかった。麻くんと会話をしている時は、ちょっかいを出さないように、言い含めていたにも拘らず、こいつ、死角から手を伸ばしてきやがった。
「落ちるところまで落ちたな」
日下部は、急に笑みを消し、ため息とともにそんな言葉を吐きだした。お前みたいな下らない男にしみじみ言われる筋合いは無い。そう言い返そうとしたが、日下部の失望を感じ取った私は、なぜか言葉を詰まらせてしまう。
「まさかお前が、自分を偽ってまで、あんな男に媚びるようになるとはね。人間って、まじで分かんねーな」
「……偽ってねーよ。麻くんの前じゃ、あれが自然体なだけ」
「あの男の言ってたCDってなに?」
私の言葉を無視し、CDラック代わりになっている、本棚の一段を、日下部は物色し始めた。
私は、ある不快な事実を思い出した。私の部屋に隠されたものを見つけるのが、そう言えばこいつの得意技だった。
「おい、やめろクソが!」
「……まさか、これじゃねーよな?」
日下部は、私の方に振り帰ると、取り出した一枚のCDケースを、まるで汚い雑巾を扱うみたいに指でつまんで、突き出してきた。
私は答えない。だが日下部も、私が答えるのを期待して聞いたわけじゃない。私の顔に出るイエス、ノーくらいなら、こいつは容易く読みとってみせるのだ。
「うえー、マジでか! これお前、オタクってやつじゃねえの?」
CDジャケットには、アニメ絵の女の子が四人、こっちに手を差し伸べながら微笑んでいる様子が描かれていた。
「ありえねー……よりによってこんなキモい趣味の……」
「麻くんのことを、悪く言うなあっ!」
感情が、突沸した。声帯に切れ目が入るんじゃないかと思うほど、喉が震える。泡立った涙でも吹き零れてきそうなくらいに、涙腺が痛んだ。
「麻くんはあんたなんかより、ずっと格好いいんだっ! 小学生のころからずっと、あたしのことを守ってくれる! 優しくって、思いやりがあって…………!」
日下部に言葉をぶつけるたびに、私の中の臆病が、悲鳴を上げた。私は、これまで何度も、彼に汚い罵り言葉をぶつけてきたが、それは、本当の意味で、彼に刃向っていたことにはなっていなかったのだということに、気がついた。刃向う、刃を向ける、相手に血を流させる。こんなに憎たらしい日下部が相手でも、本気で傷つけようと思えば、こんなにも良心が痛む。
だが、やらねばならなかった。麻くんの名誉を傷つけた相手を、私は絶対に、許すわけにはいかない。
「外見だけ格好つけてるようなあんたなんかじゃ、絶対勝てっこないっ! 麻くんは、みんなから好かれてて、女子からも、人気が、あって……」
少し気を抜くと、覇気が抜け、言葉が萎んでいく。こんな大声を出して、麻くんに気付かれるかもしれない、という不安も、私の勢いを削いでいく。だが、それだけならまだよかった。
麻くんのいいところを、挙げていくたびに、なぜか、麻くんの姿に、昔の日下部の姿が、重なって、ちらつくのだ。
その隙を突くことなんて、日下部にとっては、赤子の手をひねるより容易かったにちがいない。
「昔からミーハーだったよな、お前。俺のこと好きだったのも、俺が、周りからキャーキャー言われてた時だけだったし、お前は、他の女が褒めてなきゃ、男の価値なんてちっとも……」
私の右手が鞭のようにしなり、日下部の頬を張った。
「ぐぁっ……!」
傾く日下部の顔を見詰める私の口から、息が漏れた。
ビンタなど、人に食らわせたのは、初めてだった。にも拘らず、自分でも驚くほど、上手に決まった。顔の芯を捉えたような、余りにも力強い感触に、日下部だけでなく、私まで呆けてしまう。私はよく、クラスメイトの女子達から、『いかにも女の子ですって感じに振る舞うのがウザい』と言われたりする。これまでは、その言葉を笑って受け流していたが、これからは、笑って受け取る様にしよう、と思った。感情的になってビンタなんて、いかにも女の子らしいじゃないか。私の中の『女』のおかげで、今、日下部に一撃ぶちかませたのだとしたら、ブス共からの誹りなんて、消費税と同じくらい気にすることもない。
「あんたの言うとおりだよ。あたしは変わった。あんたに依存してたころとは、何もかもが違うんだ。……それ持って、とっとと帰れよ。で、二度とくんな」
机の上、万札の入った封筒を顎で指しながら、私は言った。
「全部忘れろ。あたしも、惨めになるだけの思い出なんて、もう全部捨ててやる」
「……嘘つけよ」
まだ未練がましく、食い下がるつもりか。金も情も、こんな手段でずっと手に入れ続けられるわけないのに。
「捨てられるもんか。お前は心の底じゃ、まだ俺とつながっていたいって、思ってるんだから」
つくづく、情けない男。この期に及んで、まだそんな負け惜しみじみたことを。
「それに、俺やお前が忘れても、
「それ、は……」
「忘れるなよ……俺のこと。それから、覚えとけ。ずっと一緒にいたいって気持ち自体、一瞬の感情だってこと」
今となっては、はるか昔の記憶。彼から与えられる言葉は、どんな何気ないものも、呪いであり、糧であり、私を大人にした。日下部は最後に、かつての彼の手管を取り戻したようだった。
「もう縁も所縁もない……ていうか、
日下部が、封筒を手に取り、部屋から出て行った。来た時とは違い、ドアノブを回す音も立てず、静かに。玄関から出て行く音を聞き漏らし、私は、しばらくの間、日下部がまだ家の中にいるのでは、という空想に耽りながら、ヘッドホンを耳に当てる。
『私だって―――』
声が、聞こえた。
『金で情を繋ぎ止められると思ってたんだよ。本当に愚かなのは、誰……?』
私は、カーテンを開け、愛する幼馴染の暮らす、部屋の窓を見詰めた。怒鳴り声はきっと、彼の耳にも届いたに違いなかった。
優しい彼は何も聞いてこないかもしれない。それでも、明日、学校で、彼に全てを打ち明けてみようと思った。
そんな女だと思わなかったって、がっかりされるかもしれないけど……麻くんにだけは、知っておいてもらいたい。
私と言う女の、浅ましさを。
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