第7話霧崎麻述と叶瀬さくら③

 信号待ちに、いちいち神経質になってしまうのは、叶瀬さくらとの会話が、未だ尾を引いているからなのか、それとも単に、この4WDが、ほとんど家代わりであるにもかかわらず、さっきから、危ない飛ばし方をする車が隣の車線に目立つからだろうか。

 安全運転を心がけてほしい、などと当然に思ってしまう自分が滑稽だった。

 日下部は、もうずいぶん長いこと、バンド活動に人生を費やしてきた。一時期は、プロとして活動し、色んな土地のライブハウスに顔を出したり、海外でレコーディングしたりと、それなりに羽振りも良かったし、ファンの女たちとの激しい恋愛を経て、一人の女とも、永遠を誓い合った。だが今となっては、その全てを失い、後部座席にマイギターを残すのみで、かつての、全てが彼の元にあった時代の栄華など、どこにも残っていなかった。

「栄華、か」

 そう言って日下部は、過去を皮肉って笑った。

 金も女も名声も、本当はどうでも良かったのだ。自分の人生で、本当に守る価値のあったものなんて、振り返ってみればただ一つだけだった。それを見失ってしまったから、破滅した今がある。

 日下部が、バンド活動を始めたきっかけは、社会に対する反発だった。金持ちを喜ばせるため、大勢の人間が奴隷のようにこき使われ、消費される。悪が栄え、本当に価値のあるものが淘汰されている。その怒りを原動力にして、曲を作り続けてきたのだ。

 だが、彼の怒りに、水を浴びせたのは、他ならぬ彼自身の成功だった。

 ライブハウスに、彼目当ての女性客が増え、デビューシングルが快調に売り上げてきたころ。憧れだった長寿音楽番組に出演し、そのステージへと続く階段を、ギターインストのBGMを聞きながら下って行ったとき、気がついてしまったのだ。

 この世の中も、そんなに悪くないじゃないか、と言うことに。自分の羽振りが良くなった途端、社会の良い部分しか、見えなくなってしまったのだ。

そのことに気付いた時、彼のロックはただのハッタリと化した。

 曲が、作れなくなった。否、作ることには作れたが、手癖で書ける域をどうしても脱せず、歌い方も、どこか演技染みたものに変わっていった。それでも、技術に頼って数年は粘れたが、やがて業界からも剥がれ落ち、今はこの様だ。ギターを弾くしか能のなかった男が、社会的な能力が欠如したままに、反社会的精神は去勢され、常識人として、世界に放りだされてしまったのだ。その結果が、この現実だ。

 惨めなのは、ここまで落ちぶれても、自分の中の『社会に対する肯定』が、消えてくれないことだった。

 今だってそうだ。

 他の車に、安全運転を守ってほしいと願うこと。事故にあった際に、法律よ、自分を守ってくれと、期待すること。道路が整備され、車で走れること。都市が発展し、ライブハウスがその中に存在できること。

 無限にも等しいルールを、社会が作りだしているおかげで、日下部は、夢を見ることが出来ていたのだ。

 社会無くして夢を見ることなど出来ないのだ。

 だとすれば、社会というシステムが生み出す、一見無慈悲な犠牲や、一部の悪が栄えることに怒りを覚えるなんて、何の意味があるというのか。

 日下部はずっと、何も考えず親に当り散らす、反抗期の子どもに過ぎなかった。

 それを自覚したせいで、自分がバンドマンであるために守り抜かねばならなかった、唯一の財産であった反社会性が、日下部の中であっさりと溶けてなくなってしまった。

 日下部は、滅多につけないカーラジオのスイッチに手を伸ばした。

最初に流れてきたのは、ドラッグ中毒の患者が、歩道に突っ込んで、何人もの重傷者をだした、という陰惨なニュースだった。

 それを聞いた日下部が、感じたのは、羨望だった。

 こんな、大きな事件を起こせる人間が羨ましかった。自分にはとても、そんなことをする度胸はない。日常が思う通りに行かない苛立ちを、社会への怒りに転換し、大きなものを相手に戦っている昂揚感で、自分を誤魔化してきただけの日下部には、本当の意味で『反社会的』な人間達が、とても眩しく思えたのだった。

 そういう考え方をするようになったのは、いつからだったろうか。

 そうだ、確か一年前のことだ。

 こことは遠く離れた地で、高校生が六人もの人間を殺したというニュースを、目にしたときからだ。特に、動機が印象的だった。小説に影響された、と、その高校生は取り調べで供述したらしい。その小説の著者は、一体どんな気分になっただろうか。日下部は、この二者間に、自分の目指した、アーティストとファンの関係の、理想を見たのだった。

 ふと、助手席の封筒が目に入る。

 そうだ、せっかく金も手に入ったのだし、その小説でも探してみようかと、日下部は思った。生まれてこの方小説など読んだことは無かったが、かつて自分を奮い立たせた『怒り』を、もしかしたら、取り返すきっかけになるのではという気がしたのだ。

 ひとたび思いつくと、それはどうして、これまで考えつかなかったのかと言うくらいの、建設的なアイデアに思えた。

 あの小説自体も、社会からかなりの非難を浴びせられていたので、普通の本屋では取り扱っていないだろうが、かといって全てが焚書にされたわけでもあるまい。

 時間ならある。ゆっくり探せばいい……。

 そう思いながら、何度目かわからない信号待ちに引っかかった、その時だった。

「確かに、最初から、おかしいなとは思ってたんだよ」

 突然、誰かの声がした。声の発生源は、誰もいないはずの、後部座席からだった。

 日下部は、驚きのあまり、飛び上がりそうになった。信号待ちの途中で、足を駆けていたのがブレーキペダルでなければ、大事故は免れなかっただろう。

「さくらは確かに、気が弱い……だが、クラスメイトから馬鹿にされたくらいで、自分のお気に入りのアイテムを手放すほど、ヤワでもない。……なのにどうして、あんな安物のイヤホンを使うようになった? ……俺より大事な誰かからもらったものだとすれば、確かに説明はつく」

 バックミラーで、後ろを確認すると、そこに少年が座っていた。少年は、日下部のギターケースの中身を、物色している最中だった。

「このギター、あのイヤホンと同じ色だな」

 黄色と白で彩られたギブソンのボディを、少年が、わざと指紋を残そうとしているかのように、ねっとりと撫でた。

 日下部は、信号待ちをしていることなど忘れ、跳ねる鼓動を抑えながら、今、何が起こっているのかだけを、必死に考えた。

 性質の悪い、悪戯か?

 この少年はいつ、車に上がり込んだ?

 運転の都合上、当然、何度も後方の確認はしている。こんな少年が座っていれば気がつかないはずはないのに。

日下部は、運転を始めてからの、あらゆるタイミングの記憶を辿っていく。すると、信じられない事実に直面した。

 この少年は、確かに、いた。この車を日下部が発進させた時からずっと、後部座席に座っていた。日下部は、今初めて少年の存在を認知したにもかかわらず、記憶の中の映像には、その少年が何度も映り込んでいた。エンジンにキーを差し込んだ時も、一旦コンビニにコーヒーを買いに降りた時も、ラジオをつけた時も。彼はずっと、そこに存在していた。

日下部は、バックミラーを視界に入れるたびに、彼の姿をしっかり捉えていながらも、何一つ気に留めず、ここまで運転してきたのだ。

「さくらには、俺の他に男がいた……さくらは俺にずっと、そのことを隠してた」

 さくら?

 日下部は、少年の言葉など全く頭に入ってきていなかったが、辛うじて、彼が何度か、叶瀬さくらの名前を出していることに気が付いた。

 なぜ、お前が、さくらの名前を。

 その疑問が、日下部の口から、発せられることは無かった。

「うぐ、が、かはっ!」

 日下部の身体が、シートに打ち付けられる。首に、激痛が走った。反射的に首元に手をやると、何かが巻き付けられているのが分かった。

「俺はもう、さくらを愛せない。さくらを愛せなくしたお前を、俺は絶対に許さない」

 それは、ギターの弦だった。予備のストリングスを、ケースからくすねたのだろう。少年が後部座席から、自分の首を絞めているのだと分かり、日下部は、激しく抵抗した。

「よっと」

 少年が、鮮やかな動きで、助手席に体を滑り込ませてくる。しかし、日下部の首は、後ろから絞められたままだ。

 日下部は気づいた。少年は、日下部の首を絞めて殺そうとしていたわけでは無く、あくまで首をシートに括りつけて固定しただけなのだと。

「な、なに、を、し、しやが……ぐうぅ!」

 首は、ストリングスできつく椅子の背に縛られていたが、何とか気道は通っていた。にもかかわらず、日下部は最後まで、言葉を発することが出来なかった。

 日下部が口を開くタイミングを見計らっていたのか、少年が流れるような手際で、持っていた何かを、日下部の口に、突っ込んだからだった。

「うううううううう!」

 途端、激痛が、日下部の内臓を襲った。少年が、日下部の喉の奥にまで突き立てたのは、ガラス瓶の口だった。そこから何か、液体が流し込まれている。それは口の中から胃の底まで駆け廻り、まるで焼けるような熱さを持っていた。濃硫酸。どんなに化学に疎い者でも、名前だけは知っている劇薬。一度頭に浮かんでしまえば、そうとしか思えなかった。日下部は、少年が何故自分にこんなことをするのか、理由を問う気にもならなかった。そんなことより、ただただ、助かりたい一心で、日下部は、車の窓ガラスに、手を打ち付けた。少年は、そんな日下部の抵抗を、止めることはなかった。

 幸運にも、日下部の車と同じように信号が変わるのを待っていた、隣の車の運転席に座る女が、こちらに気付いた。

 彼女と、目があった。

 はっきりと、運転席で拷問を受ける日下部の姿を、彼女はその視界に入れた。

 これで、この地獄から救われる。

 そう思った。

 だが、彼女は、日下部の姿を一瞥したのち、再び、視線を信号に戻してしまった。希望は、一瞬で、消滅した。日下部は、信じられなかった。嘘だと思いたくて、ウィンドウを、力任せに再び、何度も叩き続ける。だが、彼女はもう二度と、こちらに注意を向けることは、無かった。

 日下部は、愕然とした。

 こんなことがあり得るのか?


 窓二枚隔てただけで、人間はその向こう側に対し、これほどまでに無関心になれる生きものなのか?


 もし、究極的に事なかれ主義の傍観者がいたとして、今の日下部の現状を、見て見ぬふりすることは、もしかしたらあり得るのかもしれない。だが、例えそうするにしても、この状況を見て、何の反応も示さない人間なんて、果たして存在するのか。

 そもそも、日下部がウィンドウを叩くまで追いつめられている、この現状そのものが、異常なのだ。

 なぜ誰も、車中の異変に気付いてくれない?

 日下部の真後ろにつけている車の運転手は? 歩道を行く通行人たちは? 皆、何をしているのだ?

 集団心理で説明がつく問題では、もはやない。

 可能性は二つしかない。町中が少年の共犯者なのか、少年がこの世のものではないかだ。どちらにせよ、目の前の少年が自分に与える運命から、日下部は最後まで、逃げることは出来なかった。

 少年が、瓶を日下部の口から引き抜いた。瓶の中には、まだ半分ほど、中身が残っていて、少年はその中身を日下部にふりかけた後、後部座席に放り投げる。

 少年が、日下部の首に、手刀を繰り出した。それは、何の躊躇もなく放たれた、無慈悲なとどめだった。

 首の中心、一番深い場所から、してはいけない音が鳴るのを、日下部は聞いた。

 少年が、車から転がる様に飛び出していく。

 その様子を目の端でとらえながら、日下部は、体中から痛みと感覚が消え失せているのに気がついた。それは神が、もしくは人間の身体のシステムが、最後に日下部に与えた、好きなことを思考するためだけの空白だった。

 その一瞬を使い、日下部は、永遠を誓い合った女の、ある望みを聞いてやれなかったことを、懺悔した。

 許してくれ。

 俺は君と幸せになりたかった。でも、幸せになればなるほど、自分の才能が枯れていく気がしたんだ。

 君が正しかった。

 俺だけが、愚かだった。

 完全に力の抜けた日下部の身体が、ハンドルに向かって倒れ込む。足は暴れている間に、いつの間にか、アクセルの上に、投げ出されていた。


 どんぴしゃりだ。

 目論み通り、俺が車外に飛び出した瞬間、4WDは急発進した。

 すぐに殺してやりたかったのだから仕方ないとはいえ、久しぶりに、骨の折れる殺人になった。

 あの、金髪にピアスだらけの間男は気づかなかっただろうが、俺は助手席に滑り込んだときからずっと、あの男の代わりにブレーキペダルを踏み続けてやっていたのである。左足でクリープ発進を防止し、右足で自分の体を支えつつ、右腕は酒瓶を奴の口に差し込み、左腕で、男の抵抗を御し、最後の瞬間、ストリングスの拘束を解いた。手刀は一撃必殺。その上で、事切れた奴の足が、アクセルペダルにかかるよう、誘導する。

 我ながら神業だったが、それ以上に、容易くもあった。

 地面に転がった際についた汚れを叩き落としながら、周囲を見回す。カラオケやパチンコ屋の並ぶ地区だけあり、この辺りも決して、人通りが少ないわけでは無かったが、ハリウッドよろしく車から飛び出してきた俺を、気にかけているものは誰もいない。

 殺人の技術は手に染みついたものだが、この力だけは、天性のものだ。

 俺の手によって行われた殺人は、決して、俺と結び付けられること無く、解決される。俺と殺人を関連付けさせる要素を、なぜか誰も、認知することは出来ないのだ。

 俺にも理由は分からない。だからむしろ、俺の力と言うより、誰かの能力で守られているような感覚さえする。

百メートル程先で、車が、電柱に衝突し、炎上するのが見えた。

 轟音の為か、たまたま隣を通りがかった主婦の押すベビーカーの中で、赤ん坊が泣きはじめる。俺はすれ違いざま、赤ん坊に向かって柔らかく微笑んで見せた。

 泣き声が少しだけ、小さくなった。


「麻くん、今時間いいですか?」

「おう、大丈夫だ」

 さくらから話しかけられるのが、随分久しぶりのことのような気がする。だが、あれからまだ一週間しかたっていないとは信じられない。

 さくらと俺の関係が決裂した、あの日。さくらの部屋から、彼女の、聞いたこともないような大声を聞き、駆けつけようと、家から飛び出した俺は、信じられないものを見た。金髪にピアス、日曜の住宅街にこれ以上そぐわないものがあるだろうかという程、不健全な空気を纏った男だった。そいつが何と、さくらの家の玄関から堂々と、姿を現したのだ。

 吐き気を覚えた。

 俺はあの日、さくらと会話している間、夢の中にいるようだったというのに。

 俺との会話が終わり、窓を閉めてからすぐ、さくらの怒鳴り声が聞こえた意味を、俺は容易く察することができた。

 きっと、俺とさくらが会話している間中ずっと、あの男はさくらの部屋にいた。なぜか。さくらと、そういう関係だからだ。日曜の昼間、部屋で二人きりで会うような。そして恐らく、さくらは、俺という幼馴染との仲を、あの男に教えていなかった。何度、あの男と逢引していたのかは知らないが、少なくともあの男が、俺の存在を知ったのは、あの日曜が初めてだったに違いない。そして、男とさくらは口論の末、男の方が部屋から飛び出した。そんなところだろう。

 今日もまた、日曜日だった。

 俺とさくらは今、お互いの家の前に立っている。

 俺は手に小さなコンビニの、さくらは大きなスーパーの袋をそれぞれぶら下げ、向き合かいあっている。

「最近どうしたんだ? みんな心配してるぞ。……もしかして、この間の女子達に、またからかわれたのか?」

「……ううん。そうじゃない」

「そうか……でも、辛いことがあったら、なんでも相談しろよ。この前言ったろ? 俺はいつでも、さくらの味方なんだから」

 彼女は、あの日からもずっと、ヘッドホンをつけないままだった。

 さくらを元気づけるような言葉をかけつつも、俺はそのやりとりに、味気なさを感じずにはいられなかった。

 この一週間も、俺は決してさくらを無視したりしていたわけではなく、傍から見れば、相変わらず仲睦まじいままだっただろうが、実質は、俺達自身にしかわからない形で、どこか、無味乾燥だった。俺の、彼女に対する言葉の全ては、あれからどこか演技染みていた。昔の俺だったら、さくらにこう言うだろうという思考を台本代わりにしていることが、原因だった。

 皮肉なものだ。

 壊れかけた天宮との関係は、簡単に復活したにもかかわらず、何もかも順調そうに見えていたさくらとの関係は、知らない間に裏切られ、終わっていたなんて。

 立ち話もなんだから、さくらの部屋で、と言う話になった。さくらの部屋に、入るのは随分と久しぶりのことだった。ちゃぶ台を挟んで向かい合い。出された麦茶を俺が一口飲んだタイミングで、さくらが切り出した。

「麻くん、この間の、交通事故のニュース覚えてますか? この近くであった……泥酔した運転手が、車を電柱にぶつけて……死んじゃって……火傷で、その死体は、見ただけじゃ誰かわからないくらいぼろぼろで……っていう事件を」

 当然、覚えていた。むしろ、俺ほど記憶に新しく思っている人間もいまい。俺が罪を犯したことは露見しなくとも、車が電柱にぶつかり炎上し、その中で人が死んでいたことはさすがに、隠されようもなく、あの事件は、さくらの言った通りの内容で警察からは処理され、報道に乗るところとなっていた。

「……それが、どうかしたのか?」

「はい、実は、その事故を起こしたのは……」

 俺は、さくらが何をするつもりなのか察し、目を逸らした。

 まさか、今更俺に、あの男との関係を吐露するつもりなのか? 何の意味があるというのだろう。けじめのつもりだろうか。

「私の、お父さんだったんです」

 さくらがその単語を口にしたとき、俺はベッドの方へ視線を逸らしていた。さくらの個人的なけじめ、いわば心理的決着に付き合わねばならないことに、退屈を覚えていたのだ。

 気を抜いていたことも相まって、俺の中で、さくらの言葉は、まるでテロリストの爆弾のように、炸裂した。

「お……お父、さん?!」

「はい。麻くんは、会ったことないと思いますけど」

 そうだ、俺は確かに、さくらの父親を見たことは無かった。『日本中を飛び回っている』らしい父親に、俺は会ったことが無い。

 だが俺は、信じられなかった。悪い冗談だろうという気さえしていた。

 ……あれが、お父さんだって? 

 確かに、あの男は随分、俺達よりは年を喰っているように見えたが、それでも随分若く見えたし、少なくともあの金髪と、ピアスにまみれた外見は、授業参観で後ろに並んでいいそれではなかっただろう。そしてなにより。

「名字が……!」

 しまった。

 失着に気付いた俺は、すぐに口を閉じた。あの男が日下部と言う名だと知ったのは、あの事件が報道に乗った後だった。自分に関係のない事故に関わった人間の名字をいちいち覚えているのは、あまりにも不自然だろう。

「そう。名字は別なんですよね」

 だが幸い、さくらは、勘付かなかった。

「……離婚、してたのか。おばさんと……その、さくらのおじさん。……いつ?」

「麻くんの家の隣に越してきて、半年後に別れました」

 それは、衝撃の告白だった。

 小さいころから一緒で、なんでも知っていると思っていたのに。だが続くさくらの言葉は、事態が、俺の予想を悠々と超え、複雑であることを、予感させるものだった。

「……別れたといっても、離婚したわけじゃ、なかったんですけどね。そもそも、結婚してなかったんですから」

「結婚して、いなかった……?」

「内縁関係って言うやつです。……流行りの」

 流行り。さくらがその言葉を、困ったような笑みと共に付け足したのは、今度のディベートの授業を想起したからだろう。さくらの表情は、どこかうらぶれたものだった、そこにあるのは、現実的な問題を机上で議論し、運よく、構造上解決できるように出来ていると結論付けることが出来たところで、何の意味もないということを知っている、当事者の倦怠だった。

 さくらの両親は、結婚することなく、さくらをここまで育ててきた。その事実からさくらが抱え込んだ問題は、彼女だけの、世界に一つだけの、症例なのだ。

「だから元もと、あの人はずっと、日下部だったんです。叶瀬は、私と、母さんだけ。私も、あの人と母さんが別れた時、初めて聞かされて、びっくりしましたよ。滅多に家に帰ってこなかったところで、あの人も、他の家と変わらない普通の父親だって、思ってましたから」

 さくらは、情の深い女だった。情が深い人間というのは、その分、相手も同じ情を返してくれるという期待を持つ。自分が父親を愛するのと変わらない愛を、父親も自分に向けていると、子どもの純粋さも相まって、思わずにはいられなかっただろう。

「昔、聞いたことがあるんです。『お母さんは、お父さんが全然家に帰ってこないのに、寂しくないの』って。母さんは、言いました。『あなたがいるから大丈夫。パパは人気者だから、色んなところに行って、大勢の人に愛されなきゃいけないけれど、この世で、パパの子どもはあなただけ。あなたが存在しているっていうこと、それ自体が、パパが、最後には私とあなたを選んでくれるっていう証なのよ。……ママはそれだけで幸せ』」

 さくらはきっと、母親のその言葉に、大きな喜びを覚えていた。だからこそ、子どもの頃に聞いた話を、こうも鮮明に覚えている。

 さくららしい、と俺は思った。

 さくら自身、父親に対し、強い屈託を覚えているのが、俺にはわかった。なのに、まず口にするのは、自分が裏切られた怒りより先に、母親を不憫に思うことからの義憤なのだった。

「そんな母さんを……あの人は裏切った……いえ、裏切り続けてたんです。後で知ったんですが、私の知らないところで、母さんは何度も、籍を入れようって、切り出していたのに……あの人はお茶を濁し続け、ある日急に、『お前たちがいたから、俺はだめになったんだ』って言って、母さんと、小学生の私を残して、逃げたんです」

 日下部はなぜ、さくらの母親と、籍を入れず、内縁の関係であり続けたのだろうか。父親としての責任を負う勇気が無かったから、なのだろうか。

「それから、あの人のバンドは、段々、うまくいかなくなって、行方も碌に分からなくなって……」

 バンドという言葉に、俺は、日下部の車の後部座席にあったギターを思いだした。事故を扱ったニュースでも、日下部は昔、一曲だけ飛ばしたミュージシャン、として、何かの音楽番組の映像と共に紹介されていたのを思い出す。

 俺があの男に無理矢理飲ませたのは、校長先生愛飲の、バルカンウォッカだった。さくらの家から出てきたあの男を殺すために、急いで家に戻ってから咄嗟に選んだ凶器としては、期せずしてベストな選択となった。アルコール度数、90%。車を運転する男に飲酒運転疑惑をかけるのに、あれ以上はないだろうし、死体が炎により激しく損傷するというおまけまでついた。ロックな死に方をさせてやれたのは、せめてもの贐となっただろうか。

 不良少女のような笑いを、さくらは浮かべた。日下部の失墜を喜んでいる、というより、憎んだ男の自業自得を心の底から笑えない自分に、呆れているかのようだった。

「麻くん、私は、本当に浅はかな女なんです」

 さくらは、両手の平を、首元に当てた。最近、ヘッドホンを掛けていないさくらは、時々学校でも、こういう仕草を見せることがあった。

「一年前のことです。あの人が家に来ました。お母さんのいない時です。玄関前で右往左往してて、帰ってきた私と、ばったり。どの面下げて来たんだって私が言う前に、金の無心、されました……本当に、屑ですよね。どんな屑でも、愛だ恋だって適当に叫んでいればいいんだから、ミュージシャンなんて、本当に楽な商売です」

 さくらの口調が、徐々に荒れたものになっていく。自分で付けたメッキを、自分で剥がしているかのようだった。

「断れませんでした。心の底から憎んでたはずなのに、嘘だってくらい簡単に、情が湧いたんです。気がついたら家に上げて、家計用の、お母さんの二つ目の財布からお金を抜いて渡してました。で、それから何回かそう言うことがあって、何度目かで母さんにバレて……怒られると思ったら、なぜかお父さんが来たら、これ渡してって逆に、封筒にお金入れて、渡されるようになって。私、本当は怒ってほしかったんですよ? なのにそんなことされたら、本当に止められなくなっちゃうじゃないですか。止めたくて止めたくて、仕方なかったのに。次来たら殺してやろうって、何度も、何度も言い訳みたいに繰り返してる間に……本当に死んじゃいました。……自分が望んでたことなのに、すごく、虚しくて」

 さくらの瞳に、涙が浮かんでいた。

「……辛かったな」

 俺はかろうじて、その言葉を口から捻り出した。いつものような、調子のいいことなど、何一つ言えなかった。

 複雑に絡まった事情を解く公式は、さくらの中にしかなくて、俺はただ、優しい言葉をかけてやることしかできなかった。だがそれは、相手に対する理解を放棄し、ただ同情の一括払いに逃げただけでもあった。

 無力感と、激しい後悔が俺を襲った。

 本来なら俺は、さくらに何の言葉もかけてやる権利は無いのだ。

 なぜなら、ただでさえ苦しんでいたさくらを、ここまで追い詰めたのは、俺だからだ。俺が、さくらの父親を殺したからだ。それも、下らない嫉妬と、勘違いで。そのせいで、さくらは、一人で抱え込むことすら、出来なくなってしまった。

 日下部を殺す権利があったのは、さくらだけではなかったのかと思う。もし、さくらが日下部を殺したいと願っていたなら、もっと前に、今日の話を、聞かされていたなら。俺は、彼女の望みを叶える形で、いくらでも影から協力しただろう。しかし、俺は、さくらの意思を全く介入させることのない形で、彼女の家庭を、決定的に修復不能にしてしまった。俺が日下部を殺さなかったところで、さくらの家庭環境が、健全な状態に戻れていたかどうかはわからない。だが、俺が勝手に終わらせていい問題でなかったことだけは、疑いようがないのに。

 さくらが、座布団から立ち上がった。

俺は、彼女から失望されたのかと思った。

 さくらは、俺の言葉を頼りにしていたのかもしれない。ヘッドホンのことで、俺が力強く、彼女を慰めたときのように。さくらは俺が、今回も、力になってくれると信じていたのかもしれない。

 だが、俺はどうしても、一週間前のように振る舞うことが出来なかった。

 さくらに気を遣えば使うほど、心情を慮ろうとする程、罪の意識が、首を絞める力を強くしていくのだ。

 さくらは、勉強机の上に置かれていたノートを、開いた。

 ディベートの授業で使用するための、資料をまとめたノートのようだった。

「日本では、内縁関係も、戸籍上の夫婦と同様の権利が認められてはいますけど……でも、そういう問題じゃないですよね。本質が同じなら、名字の違いなんて些細なことだって、主張する人もいますけど……どこもかしこも、的外ればかり。全く同じものを、簡単に別物にしてしまう、すごく怖い『些細なこと』が、この世界には、きっといくつもあるんですよ。逆に、ものすごく違うように見えるものでも、それを違うものに見せているのは、ほんの小さな問題、小さな隔たりなんです」

『叶瀬さんの様子、ちょっとおかしかったですね』。百合屋先生の言葉が、なぜか思い出された。あの時、さくらの何をして、彼女はそう言っていたのだろう。俺はてっきり、しゃっくりじみた悲鳴のことを言っているのだと思っていた。だが、もしかすると百合屋先生は、内縁関係の話や、昔から夫婦みたいだとからかわれていたという話をしていた時の、さくらの様子を言っていたのではないか。

 今更、先生に確認をするなんて、とてもできないけれど。

「麻くんにとって、私って、何ですか?」

 こちらを見ずに、さくらが言った。

「これまでずっと、一緒にいて、私、他の誰よりも、麻くんと仲、良いですよね。学校の花壇に、最初に植える花は二人だけで決めたし、麻くんの嫌いな食べものを全部正確に言えるの、きっと私だけですよ。これまでずっと、麻くんは私が支えて来たし、麻くんは、私を守ってくれる。恋人みたいって、何度もみんなに言われて来ましたよね。私、ずっと幸せでした。いつまでも、このままでいたいくらい。でも、もうだめなんです」

 さくらがノートを閉じ、出窓の方に近づくと、カーテンを開いた。俺の部屋の窓が見えた。カーテンがかかっている。不思議な気分だった。あそこは俺の部屋のはずなのに、さくらの部屋から見るとなぜか、そこが俺の知らない他人の部屋で、あのカーテンの向こう側で、あったこともない人が、生活しているような気がする。

「窓から顔をだして話すのもいいけど、それだけじゃさびしいです。いつか一緒に暮らして、ダイニングでコーヒーを飲みながら、二人だけで会話を、してくれますか? それで、声を聞いた子どもが起きてきて、麻くんが優しく、『遅いから、もう寝なさい』って、ベッドに連れて行って……そのころになっても私はまだ、麻くんって呼び方変えられなくって、それで……それで……」

 さくらの持つ、ステレオタイプな結婚への憧れ。綺麗に押された印鑑。『霧崎さくら』。彼女の、執念。さくらから結婚届を突きつけられたのは、俺とさくらが出会って、半年後の出来事だった。

「恐いの。私のこの気持ちと、麻くんの気持ちが、あの人と、母さんみたいに、本当は、ずれてるんじゃないかって。……家を出て行く時、あの人が、引き留める母さんを突き飛ばした時の一言が、頭から離れないんです。『子どもが出来たから、仕方なく一緒になった。お前よりだいじなものなんていくらである。お前は俺の中で―――」

 うるんだ目を、拳銃のように突きつけ、さくらは言った。

「―――最初から負けてる』。……そんなこと、麻君は言いませんよね?」

 拳銃なんてこわくない。でも今の俺の状態は、まるで脳天を打ち抜かれたみたいだった。『恋人みたい』でなく、『恋人』そのものになってほしい。彼女はそう、言っているのだ。

 さくらは、俺との関係に、はっきりとした名前を欲しがっている。

 俺は、どうしていいのか、まるでわからなかった。

 彼女の望みに答えたい。そう強く思った。だがその一方で、心の中に疑問があふれた。

彼女の欲しがっている証にも、安心感にも、何の意味があるんだろう。彼女が信じたがっていたものは、どこで確かめられるのだろう。確かめたところで、それが永遠に続くという保証がないのなら、確かめることに何の意味があるんだろうか。何があっても、俺の味方だと言っていたさくら。だが彼女は、俺が彼女の父親を殺したと知っても、俺の味方でいてくれるのだろうか。

 さくらの期待に応えることが、さくらを裏切ることになる。俺にはどうしてもできなかった。

 日下部を殺したあの日、俺はさくらを二度と愛せなくなったと嘆いた。

 全く、予想していなかった。

 もう一度、別の意味で、同じ嘆きを繰り返すことになるなんて。

「あのヘッドホン、日下部からのプレゼントだったの」

沈黙を破ったのは、さくらからだった。いつも通りの笑顔を、さくらは浮かべていた。俺は、さくらが俺からの答えを諦めたことを、悟った。

「頭に当たる部分の感触が、好きだった」

 さくらは、両耳を手の平で覆う。あのヘッドホンは、多分もう、どこにもないのだろう。

 俺はゆっくり立ち上がり、さくらの頭に、優しく手を乗せた。


                        霧崎麻述と叶瀬さくら・了

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