第8話霧崎麻述と森田友一①

 森田友一が相良弥生のことを庇った瞬間、私は小学生時代の事件を思い出した。


 自分の書いた作品が原因で、吊し上げられるのは、何も例の一件が初めてと言うわけでは無い。以前にもそういったことが、一回だけあった。

 小学生の時のことだ。無邪気さというのは、大人になればなるほど失われていくものだが、子どもなら全員が持っている、とも限らないというのが持論の私である。作家時代に何度か、小説内に子どものキャラクターを登場させたことは勿論あって、そのたびに私は、編集者から何度も同じお小言を言われたものだった。曰く、『小学生はこんな捻くれた考え方はしませんよ』『こういう斜に構えたキャラクターは大人たちで足りてるので、差別化を図るために無邪気にするのはどうでしょう』エトセトラ、エトセトラ。子供を描くことは、作家、百合屋かおる子にとっての、苦手科目であった。得意分野での技量不足は、私に深い羞恥を抱かせていた。そのことに気がついた編集者の一人が、こんなことを言ったのを、覚えている。

『うーん、確かに、普通だったら、自分の子どもの時の感じとかが、参考になるはずなんですけどね』

 その言葉に、私は確か苦笑いで答えた。彼女の頭の中の、ランドセルを背負った私というのは多分、内向的で、本ばかり読んでいる少女に違いなかった。

 その時初めて、私は、なぜ自分が小さい子供の描写がうまく出来ないだろうかと、疑問に思った。

 だって、彼女の弁を借り、かつその裏を返せば、絵に描いたような幼少時代を送りさえすれば、それが一番の資料になる、とも言えるはずで。

 そして、小さいころの私は、とても陽気な少女だったから。

男子たちの不真面目さを指摘することで、自分たちを大人っぽく見せる少女グループの一員でありながら、雨が降った翌日は、男子たちに混じって、泥団子をより照り輝かせる方法を研究したりもしていた。

 性の垣根が地面から数センチの高さしかなかった頃、男でもあり、女でもあることが、ある程度許されていた。少女であり、同時に少年のようでもある私に付きつけられる矛盾など、存在しえなかったのだ。目に入るもの全てと分かり合えるような全能感を、あの頃の私は、確かに持っていた。

 手を繋げば、指先から相手に伝わる温もりが、相手の中にある自分と分かり合える部分を勝手に検索して、それを表に引き出してくれるはずだと信じていた。相手の温もりが、相手を受け入れるための想像力を自分の中に創りだしてくれることを、疑わなかった。

 そんな、宝物のような時代を持つ私が、どうして、子どもを書けないのだろうか。今も、あのころのことを思い出せば、同じ様に振る舞うことはできずとも、共感することは出来るというのに。その謎の答えに思い至ったのは、三日三晩思考し尽くした後だった。

 結局、『合って』いなかったのだ。

 無邪気さと言うものが、私と言う人間に、合致していなかった。

 別に、あの頃の私が、嫌々明るく振る舞っていたとか、そういう話ではない。だが、無邪気以上に無知であった。自分の本質について、欠片も理解していなかったのだ。理解せぬまま、楽しいから、過ごしやすいからという理由だけで、自分の本質を知らない間に無視していたのだ。

 本質。人間の中の、決して変化しない芯のようなものは、いつ決定づけられるのだろう。私に限って言えば、きっと、物心つく前だったとしてもおかしくない。

 そう私に思わせた出来事が、他ならぬ小学六年生の時の、あの事件だ。

 国語の時間でのことだった。

 その日の授業は、45分丸々使って、先生が、先日皆が提出した読書感想文を講評付きで読み上げる、という内容だった。二か月に一回ほどの頻度で、その手の授業は行われたが、私はこの時間が好きだった。分からない問題を答えろと指名されることも、板書の必要もなかったからである。友人たちの感想文を聞きながら、いつ自分のそれが読み上げられるのか胸を高鳴らせ、さながら、ラジオ番組に耳でも傾けているかのような、ゆったりとした時間を、私はその日も、堪能していた。

 私の感想文が、読み上げられ始めた。私は、「来た!」と思った。提出した作文について、会心の出来だと自負していたので、気持ちいつもより高揚していた。異変に気がついたのは、読み上げられ終わった後のことだ。いつの間にか空が曇っていた時に感じるような、漠然とした不安が、私を襲った。

 クラスメイト達が、私を、まじまじと見ていた。その段階ではまだ彼らの表情の中に、恐怖も、受容も、含まれてはいなかった。人というのは、大抵の事象に対し、どういった反応をするべきなのか、自分にとっての正解を把握していて、それは子どもであっても例外ではない。その正解を、誰もが一瞬で引き出すことに長けていて、それはもう、殆ど反射じみていると言ってもいい。だがこの時、クラスメイト達は、私を見て、どう思うのが正解なのかを引き出せず、それを確定させるために、分析しているようであった。

 正解を確定させるのは、社会的な良識であり、それを決定づけるのが、大人による教育である。

 この場に大人は一人だけだ。先生は、範を示す義務を、追い立てられるように果たした。

「これは、ちょっと……」

 先生は、途中で読むのを止めなかった自分を責めるかのように、そっと、呟いた。幼い生徒達にとっては、それで十分であった。

 クラスメイト達は、私の作文に対して、「拒絶」という反応を、確定させた。

 補足として、大人になった百合屋かおる子の視点から、感想文の題材となった物語と、当時の私が、そんな感想文を書いた意図について、解説を入れておこうと思う。

感想文の題材として選ばれる物語は、常に、小学生でも数分で読めるような短くて簡単なものばかりであり、A4で数枚程度にしかならないそれらを、彼女は二か月に一度、クラス全員に配布する。

あの時の感想文の為に読まされた、物語のさわりは、こうだ。

 ある森に、悪いネズミがいた。優しい森の生き物たちから奪った食べ物を食べ、働かずに生活していた。ある時、そのネズミの家に泥棒が入った。隣の森の、蛇たちだった。ネズミは周りに助けを求めるが、勿論相手にしてもらえず、一人で蛇のねぐらに、盗まれたものを取り戻しに向かった結果、自身が蛇に食べられてしまう。以上。

 自分勝手に生きていると誰からも助けてもらえない。テーマとしては良くある物語である。

恐らく、先生が生徒達に求めていた反応は二通り。

 一、ネズミの自業自得である。仕方のないこと。こういう風にならないようにしよう。

 二、ネズミの自業自得である。だが少しかわいそう。

 だが、私の感想は、そのどちらでもなかった。『ネズミの自業自得』という前提を、私は持たなかった。全ての原因は森の住人たちであると、私は考えていたのだ。

 冒頭では、森の生き物たちが共生している様がこれ見よがしに、助け合いという言葉に魅力を感じずにはいられないタッチで描かれていたのだが、そもそも大勢の生きものが平和に暮らしている中で、なぜそのネズミだけが悪行を働く様になってしまったのか。ネズミ自身の、生来の性質だけにあるとはどうしても、当時の私には思えなかった。私の『努力すれば誰とでも仲良くなれる』という思い込みが、その発想を後押しした。『周りが、意図的に仲良くするのを避けたから、ネズミは歪んだのだ』と。そしてそのような行いは、勿論、示し合わせてなされたに違いないと、私は確信した。ネズミの方から周囲の関係を絶ったとは、考えなかった。相互扶助が本当に素晴らしい物であるなら、一対多数であるにもかかわらず、森の住人たちがネズミを啓蒙できないなどということが、あってはならないからだ。

 物語の裏に、ネズミ以外の登場人物たちの残虐性が、差別的な背景が、透けて見えた気がした。

 するとどうだろう。

 途端に、真の悪人は村人たち自身という、物語の本質(勿論、私にとってだけの)が浮き彫りになってきたではないか!

 私が、暴露してやらねばならない。

 そう決心して、鉛筆を取ったつもりだったのだが……。

 失敗の原因は、構成力不足と、ひらがな混じりで迫力のない文章のせいだろう。当時の私は、極論に説得力を持たせるような技術を持ち合わせていなかったのだ。

 多分、書きだしもいけなかった。小学生のくせに、結論から先に書きだすなんて言うテクニックを、使うんじゃなかった。『のこった森のみんなも、ネズミさんと同じ目にあうべきだと思います』みんな、鳥肌ものだったろう。明るい森の動物たちの方に、感情移入して読んでいたに決まっているのだから。

 私の感想文が読み上げられてから、しばらくの間、みんなの視線が、冷たく私を差していた。

 私は、防災訓練の時のように、机の下に隠れたい衝動に駆られた。

 無邪気だろうが陰気だろうが、こんなときに子供が考えることなんて一つだけだ。『いじめられたらどうしよう』。

 泣きだす一歩手前だった。

 だがヒーローは、いつだって降って湧く。

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