第5話霧崎麻述と叶瀬さくら①
少しは申し訳なさそうに入ってきたらいいのに。
一階をあの男が歩き回っている音が聞こえていた。踵を強く床に打つような、あの独特の歩き方が脳裏に浮かぶ。ツーバスの心地よい重低音の合間を縫うように割り込んでくるその音が不快で、私は真新しいイヤホンを耳から外した。
買い替えなきゃよかった。苛立ち混じりに、ジャックをパソコンから引き抜き、イヤホンを、ベッドの上に投げ捨てる。
元々、ヘッドホン派なのだ。いつも首にかけているのをブスどもにからかわれるからって、気にしてしまった私が馬鹿だった。こんなもの、耳が圧迫される感触がイライラするし、安物に誘惑されてしまったせいで、音質も幾分、犠牲になってしまった。音楽を聞き始めてから、これまでずっと使っていたヘッドホンは、もらい物だ。自分で選んで買ったわけじゃない。その値段や性能が、平均を大きく上回っていたことも知らなかった私は、こんなのどれも一緒だろうとの素人判断で、近場のレンタルショップのレジ前に陳列されていた、三千円のイヤホンを購入したのである。安物買いの銭失いとは、よく言ったものだ。
首元がさびしいような気分。もう一度ヘッドホン派に返り咲こうか、という、今週何度目かの衝動に、私は駆られた。
元のヘッドホンは一応、捨てきれずとってはある。だが、再びあのヘッドホンを首にかけるのには、正体不明の抵抗があった。
ならばいっそ、別のヘッドホンを思い切って購入するのも、一つの手のように思えてきた。お金が、無いわけでも、ないのだ。
椅子に座る私の目の前、小学校から使っている学習机の上に置かれた、白の封筒。
階段を、一段飛ばしで駆け上がる音がする。時間がない。選択のため残された僅かな猶予を、しかし私は、ただ天井を見詰めることだけに浪費した。
「……ベッドにイヤホンが寝てる」
ドアを開け、部屋に入ってきた日下部が言った。
「いきなり勝手に入ってくんな」
「は? 足音聞こえてたろ? ノックとか必要ねーだろうが」
「部屋にだけじゃねーよ。家そのものに入ってくんな」
「てめーが合鍵くれたんだろーが。ならいつ来ようが、俺の自由だろ」
日下部の発した、意味の分からない理屈に、私は舌打ちで答える。日下部は、部屋の床に、わざと音を立てながら座り込んだ。
落胆している自分に気がつく。こんな光景、とっくに見慣れたと思っていたのに。
私が愛した人は、もう、かつての姿はどこにもなく、綺麗に様変わりしていた。
昔は、音で女を威圧するような人間じゃなかった。外見だって、別人のようになってしまった。性格は容姿に滲み出ると言う。しかし、こと日下部の場合は、自分から絞り出している、と言った方がしっくりとくる。安い染料を使って染めた、金色の人工芝みたいな髪。ピアスだらけの顔。それが今となっては、彼のスタンダードなのだった。
人は外見じゃない、と言う人がいる。おっしゃる通りだと、私も賛同する。
外見なんて、家の門みたいなものだ。少しぼろっちくても、中が綺麗に掃除されてさえいれば、何も問題は無いと、私も思う。
だが世の中には、門をわざわざ悪趣味に飾り立てる者も少なからず存在していて、日下部も、今となっては、そんな人間の一人なのだった。
胸が、締め付けられる。こんな人間との繋がりはとっとと断ち切るべきだと思い続けているのに。
それでも、彼の存在を、心のどこかで強く望むのを、止められない。
「何聞いてたんだよ」
日下部が立ち上がり、パソコンの画面を覗き込もうと近づいて来る。
学習机の上の封筒は、もう目に入っているはずだった。日下部が、とっととそれをひったくって帰らないことに、私は少しだけ安堵していた。
「……イヤホンとお揃で、趣味まで安くしたわけだ」
日下部が、鼻で笑う。椅子に座る私の後ろから、肩に手をかけ、身を乗り出して画面を覗きこむ。日下部の顔が、私の顔のすぐ隣に。髭の気配の全くない、つるつるの顎のラインが目に入る。
思わず顔を背ける。日下部の言葉が不愉快なのもあったが、どちらかと言うと私は、彼の首もとから漂ってくる匂いに堪えきれなくて、鼻を背けたのだった。汗の匂い。別に、嫌なわけじゃなかったけれど。日下部の首筋からは、バクテリアだとか、老廃物だとか、そう言った言葉とはまるで無縁な気さえするような、ある種の清々しさを感じさせる、優等生な汗の匂いがしていた。安易な香水より、時にずっと効果的な、思わず甘えたくなるような香り。
やめて、と叫び出せたらどんなに楽だろうか。
屑と化した男の身体にはまだ、私の愛した部分が形を変えずに、あちこちに残っている。
「……いつまでこんな関係続けてくの? あたし達」
「あ?」
「もう終わりにしようって、あたし、何度も言ってんじゃん」
「知るかよ」
日下部は、封筒を一瞥して、ニヒルぶった笑いを見せた。
「黙って、俺の言うとおりにしとけ」
「……じゃあせめて、突然来るのだけは止めて。あんたとママが鉢合わせなんて、考えただけで吐きそう」
「いいじゃん、別に。いたらいたで、俺は構わねーけど。……実はずっと、一度会っときたかったんだよな。義務感っつーの? そろそろ挨拶くらい」
「……本当、あんたって気持ち悪い。昔の女に、ねちねち付きまとってる暇があったら、新しい曲でも書いてれば。日下部さん」
「く、さ、か、べ、さん」
名を呼ばれた日下部の歯の間から、笑い声が漏れた。
「他人行儀に呼んどけば、俺から離れられると思ってんのか? ……お前は一生俺のことは忘れられないよ。お前もほんとは分かってんだろ? なぁ、さくら」
煽る様に、彼が私の名を呼んだ。私は椅子から飛びのき、ベッドの上に置いてあったイヤホンを掴むと、彼に投げつけようとした。
その時だった。
「さくらー、いるかー?」
遮光カーテンに遮られた、窓の向こうから、声が聞こえて来た。
日下部が目を見開いた。私は、内心ほくそ笑む。日下部に限らず、調子に乗った男のメッキが剥がれ落ちる様というのは、いつみても愉快なものだ。
それまでの、胸中の複雑なうねりは一時鳴りをおさめ、日下部の慌てる顔と対照的に、私の心が甘く凪いだ。
色とりどりの背表紙。一瞥して、彼女はこう言った。
『サイリウムの群れみたいな、本棚ですね』。
俺はその言葉の中にある、鼻で笑うようなニュアンスに、確か気を悪くしたのだった。彼女は自分のことを読書家だと言っていたが、人の部屋に入って開口一番に本棚を侮辱する奴なんて、本物の読書好きじゃないと、俺は思う。
彼女は今、俺の足元に倒れ込んで、ぴくりとも動かない。
部屋の中には、彼女の他に、もう一人、ベッドに倒れ伏す三十路がいるのだが、俺は彼女達には何一つ感心を向けず、本棚から一冊の本を取り出した。
本棚を占めるのは、俗にライトノベルと言われる、マンガ調の挿絵の入った小説ばかりだ。
俺は、ライトノベルの中でも特に、ラブコメばかりを愛読していて、そのジャンルに日夜、熱狂してやまないのだった。
今手に取ったのは、最近読み始めたばかりのお気に入りだ。しおりを挟んだところから、読み進めていく。
主人公が、鈍感故に、ヒロインを傷つけてしまい、雨の中、ヒロインが部屋から飛び出して行ってしまうシーンだった。主人公は追いかけ、二人の思い出の公園で、ずぶ濡れたになっているヒロインを発見する。その身体を抱きしめながら誤解を解いたのち、主人公は気まずそうに、ヒロインのブラが雨で透けていることを指摘する。ヒロインは羞恥のあまり、主人公にビンタを食らわせる―――。
「……すばらしい」
俺の頬に、熱い涙がつたった、その時だった。
「あんまり、寝たって気がしないわ」
ベッドの上で、校長先生が体を起こしていた。
「そりゃ、あれだけ飲めばね」
俺は本から目を離さず、『今いいところなのに』オーラを語調に込めてみるが、人付き合いの秘訣を、『他人の事情は小数点以下切り捨て』だと語る彼女のこと、全くお構いなしだった。
「夢の中でも仕事をしてたからよ。教育者の鑑よね」
「いい先生は、生徒の家で飲んだくれたりしないよ」
俺は諦めて校長先生の方に振り向いてから、ぎょっ、とした。
寝ゲロで、彼女のブラが透けていたのだ。黙って指差すと、口の端に残ったゲロを袖で拭きながら、彼女は出て行き、吐瀉物の付着したシャツと下着の入ったごみ袋を手にしながら、戻ってきた。さすがに上半身裸で、青少年の前に戻ってくるようなことを、教育者の鑑たる彼女がするわけもなかったが、それでも、彼女の小数点以下は、かなりの大味なのである。
よりによって彼女は、俺のワイシャツを羽織って、帰ってきたのだった。
「麻述君、こういうの好きでしょう」
「時々そういうのやってくれるのは嬉しいんだけどさ、俺にとって校長先生って、全体的になんか違うんだよ」
ため息交じりに、本を棚に戻し、涙を頬から叩き落とす。
「シャワー、借りるわね」
「俺のそのシャツはハンガーに戻すなよ!」
その背中に呼びかけた後、俺は慌てて口を閉じる。足元ではまだ、百合屋先生が寝ていたのを、思い出したのだ。本棚に背中を預け、座ったまま熟睡している。器用なのはいいが、猫背になるぞと、少し心配になった。彼女の姿勢の良さと、柔らかい足取りを、俺は気に入っていたから。
彼女のいる学校生活に、俺は慣れ始めていた。
百合屋先生は、二学期からコマを受け持つ予定の新任教師として、いつも、俺のいる1-Aの授業風景を後ろから、見学している。
だが百合屋かおる子にとって、教師とは仮の姿であり、その正体は、校長のスカウトしてきた、俺の専属アドバイザーなのである。
殺人鬼、霧崎麻述を更生させる為のエージェントなのだ。最初校長から紹介された時は、校長の眼を疑うわけでは無かったが、どれほど頼りになるものかと、タカをくくっていた。だが彼女は、俺が抱え込んだ天宮愛との問題を、容易く解決してくれた。
百合屋先生のアドバイスが無ければ、貴重なツンデレヒロインを失い、ハーレムから一歩遠ざかるところだった。
彼女は、俺の味方だ。それは間違いない。俺が殺人鬼であると知っているにもかかわらず、『鉄槌』を食らっていないのが、その証拠だ。彼女は、少なくとも自分の意思で俺の秘密を漏らすことは無い、と言うことだ。
そんな人間は、校長以外では初めてだ。
だから余計に気になる。
彼女は、百合屋かおる子は、一体どこの誰で、何者なのだろう?
校長が、『気にするな』と言う以上、詮無いこととは、分かっているけれど。
「……いつまで、じっと見てるんですか」
百合屋先生の声に、俺は、視線を上げた。視線を上げる、という動きをしたことで、俺は、無意識のうちに、百合屋先生の胸を凝視しながら考え事に耽っていたことに、初めて気がついた。
百合屋先生は、後ずさりしたいかのように、本棚に背中をこすり付けながら、言った。
「い、いつまでも、起きられないじゃないですかぁ………」
可愛いリアクションだな、と思う。大人びているけど、どこか子供のようだ。
「私の身体を見て、一体何を考えていたのか、正直に答えるのです」
「無心かな」
「むすぅ」
ふくれてしまった。相手のプライドを傷つけずに性的な興味がないことをアピールするのは、誰が相手でも、やはり難しい。俺はさりげなく、百合屋先生の身体から、目を逸らした。本当にやましいことなどなかったとはいえ、実のところ、そう言う聞き方をされると、どうにかなりそうなくらいには、彼女の身体は魅力的だった。
悟られないうちに、話題を切り替える。
「歓迎会はどうだった? 俺は子どもらしく早寝したけど、二人は……遅くまでやってたみたいだな」
今は日曜日の朝だ。今週末は、丁度三人とも予定が空いていたので、少し遅くなってしまったが、親睦会でもやろうじゃないかと、校長が前々から企画してくれていたのである。場所は、俺の家で、ということになった。もともと校長から貸し与えられている家なので、断る理由や権利もなかった。かくして、昨日の夜から、一人暮らしにはもったいない一軒家に、人の賑わいが戻ってきたわけである。昨夜、午前を回った頃、俺は一人、宴会場たるダイニングから、二階の自分の部屋に寝に戻ったのだが、なぜか目が覚めると、二人とも、俺の部屋に転がっていて、今に至るというわけだ。校長先生の様子から察するに、一階には何本の酒瓶が転がっていることやら。
「頭痛とか、大丈夫か? 校長先生の酒量、すごかっただろ」
「通はストレートだって言いながら、ジョッキにウィスキー注ぎ始めた時は、度肝を抜かれましたよ。しかもそれをチェイサーにバルカンをキメ初めますからね。二度びっくりです」
「それってすごいのか?」
「普通なら絶対死にます」
「まじか。あれが普通だって、ずっと思ってたよ……酒、好きなのか?」
「……どうしてそう思うんですか?」
「『あ、こいつ詳しいな』ってやつの話し方だったぞ。さっきの」
「校長先生に雇ってもらう前は、やさぐれた引きこもりだったんですよ。その間、割と飲んだくれたりもしてましたから」
「なんか、意外だな」
「何がですか?」
「全部。先生って、ぱっと見、お嬢様タイプだからさ。酒なんて一滴も飲めないっていうイメージだったよ。苦労とかとも無縁のイメージだったから、引きこもってたっていうのにも驚いたし。でも、一番意外だったのは、プライドの高そうな先生が、引きこもりだった過去を俺なんかに教えてくれたことかな」
「……人は見かけに寄らないということです。何もかも」
憂いを帯びた目を、彼女は伏せる。年齢の割に幼稚な印象の彼女だが、悲しげな表情をする時だけは、年齢相応の大人を感じさせる。彼女は、喜怒哀楽の内、こと悲しみに関してだけはどこか擦れていて、八歳年下の俺の共感が届かない場所に、それは仕舞われてあるようだった。途端、俺は年相応に、明るく振る舞って慰めることしか出来ない少年に成り下がった。
カーテンのかかった窓に目を向ける。
そういえば、今日中に解決しておきたい問題が、一つあったのを思い出した。
「さーて、と。校長が戻ってこないうちに、済ませとくか。あの人シャワー長いし、大丈夫だろ」
わざとらしいくらい、明るく、俺は言った。
「何をするんです?」
百合屋先生が乗ってきてくれて、安心した。空気を換えようとする心遣いを無下にするほど、不貞ていたわけでは無いようだ。
「うちのクラスに、さくらっているだろ。
「よく、首からヘッドホンをかけてる子ですね。君の取り巻きの一人、天宮さんに並ぶトップランカー」
俺は、少し感心した。意外と、彼女は俺の身の回りを、よく観察してくれているようだった。百合屋先生の言うとおりだ。天宮とさくらは今のところ、俺の中で甲乙つけがたい存在。容姿なら、天宮は他のクラスメイトの追随を許さないが、さくらには、そんな天宮とも、立派に戦える武器があるのだった。
「あいつ、隣りの家に住んでるんだ。幼馴染なんだよ」
「幼馴染! 王道ジャンルじゃないですか」
百合屋先生も、ピンと来てくれたようだった。彼女はラブコメが嫌いらしく、彼女から俺の趣味に合わせた話題を振ってくれることはまずないが、こちらから降ると、他の誰よりもスムーズな返しをしてくれるのである。ラブコメに詳しいオタク友達なら、学年に何人かいるが、彼らは得てして、二次元と三次元を区別して考える。俺の、現実にいる女を、キャラクターのように愛したいという欲求を話題に出せるのは、今のところ、校長と、百合屋先生しかいないのだった。
「そ。あいつとは、あいつが隣に越してきたときからだから……小四からの付き合い。ほら、俺って両親いないだろ?」
百合屋先生は、曖昧に頷いた。どうやら初耳だったらしい。気まずくなりそうだったので、それ以上返事を待たず、会話を先に進める。
「さくらもさ、父親が日本中飛び回る仕事してるらしくて、母親も働いてるから、家に独りぼっちになりがちだったらしくてさ。自然に二人で遊ぶようになったんだ。今となっては唯一の、小学校時代から続く友達。あの頃は全然ラブコメなんか知らなかったし、別段さくらとも、長い付き合いしていくつもりとかなかったんだけど、結果的にあいつの存在は、かけがえの無いものになったよ。幼馴染なんて、今から作ろうと思って作れるもんじゃないからな」
「ウィスキーみたいなものですか」
「あー……そう、そんな感じ」
彼女の例えの意味を、子どもながらに考察していると、百合屋先生が、不穏なことを呟いた。
「でも、ちょっと不憫ですね」
「え? なんで」
不憫とは、さくらのことが、だろうか。俺はなぜ、彼女がそんなことを言うのかわからなかった。まさか今更、俺が女子たちを、キャラクター的に捉えていることを、人間味が無いなどと抜かすわけでは無いだろう。
「いえ……ただ、有名な言葉にもあるじゃないですか」
彼女は、後ろの本棚を、指しながら、言った。
「『幼馴染は負けフラグ』」
俺は、言葉に詰まった。彼女は確かに俺の、『ラブコメのような生活を送りたい』という夢を、肯定してくれている。彼女が指摘しているのは、記号的なキャラクターとして、幼馴染である叶瀬さくらを捉えた際の、不憫さなのであった。
百合屋先生が、人差し指を立てる。長い講釈の合図だった。
「ゲームと違い、ストーリー分岐という手段の使えないライトノベルにおいて、幼馴染が、他の女性キャラとの競争に勝利し、主人公とくっつくことはほとんどありません。なぜ、ラブコメ黎明期からの王道ジャンルにも拘わらず、ここまで幼馴染だけが不利なのか。私はこう考えます。『結局、作者が面白く見せ辛いんだろうな』と。どんな物語であれ、基本的な形式は、『壊れていたものが再生するプロセスを描く』というものです。つまりは、一種の奇跡を描写するわけですよね。その奇跡が、読者に深い感動を与えるのです。そういう観点から見ると、幼馴染の弱点というのは、主人公との関係性が、物語最初の段階で、ある程度整ってしまっていることに尽きます。『毎朝起しに来てくれる』だとか、『家ぐるみの付き合いがある』というようなテンプレートに代表されるように、です。読者に感動を与えるための前提として、『壊れていない』のですよ。恋愛劇において、これは致命的です。罵り合いから始まる、じゃじゃ馬っぽい女の子との恋愛のほうが、読者にとって魅力的になってしまうのは、仕方がないと言えるでしょう」
俺は、反論できない。事実、本棚の中では、何人もの幼馴染たちが失恋しているのだ。
「ぶっちゃけ、どうなんですか? ハーレムに決着をつけ、誰か一人を選ぶことになった際、叶瀬さんが選ばれる可能性は、無いんじゃないですか? ルールを破って勝利するより、ルールを守って楽しく遊ぶことの方が、君にとって重要なはずです。いえ、それどころか、ルールを守ること自体が、君にとっては最高の喜びなのでしょう? 君は王道信者ですからね。絶対に、幼馴染を勝たすことはない」
先生の言うとおりだった。
さくらが、どれほど俺のことを思っていてくれようと、もしくは、俺の気持ちが、誰よりも強くさくらに傾いたとしても同じこと。恋が成就すること以上に、俺にとっては、『お約束』を破らないこと、それ自体がたまらない快楽なのだ。
先生が触れてきたのは、俺があえて、考えないようにしていたことだった。
「誰か一人を選ぶときなんて、想像もつかないよ」
つい、不貞腐れた声を出してしまう。
「将来の夢だってまだ、決まってないのに」
「未来の話では無いです。一巻の表紙は誰なのか、という話ですからね」
百合屋先生が、なだめるように、優しく笑いかけた。こういう子は拗ねたら長い、と思われたのかもしれない。それか、対人における打算が不得手に見える彼女のこと。もしかしたら、その笑顔は、素の包容力なのかもしれなかった。
「それで、叶瀬さんがどうかしましたか」
さっきと、立場が逆だった。今度はこちらが気を遣われる側だ。意趣返しのつもりでもなさそうだったが、例えそうだったとしても、ありがたく乗らせてもらうしかない。
「ああ、ちょっとあいつと話しておきたいことがあってさ」
「わかりました。静かにしておきますね」
先生は、俺がさくらに電話でもかけるのだと、思っているようだ。
「そうじゃない。……そんな味の無いやりかたはしない」
俺は、昨日からずっと締め切っていた、窓のカーテンを勢いよく開いた。銀のディナープレートから蓋を取り去るがごとく、自慢げに。
「幼馴染と言えば、やっぱこれだろ」
俺の部屋の窓からは、さくらの家がすぐそばに見える。彼女の家が見える、というよりは、彼女の家の壁が見える、と言った方が正確なくらい、近くに。物干し竿を使えばノックできそうな位置に、カーテンのかかった二階の部屋の窓があった。
「ほら、あそこ、さくらの部屋」
「え? 直接話すんですか?」
「ありがちだろ」
「『部屋の窓と窓を通じて、隣家の幼馴染と会話する』……確かに、良くあるシーンですが……実際こうして見てみると、やっぱりああいうのは、フィクションならでは、と言う気がしますね。……これだけ近くて、生活音とか、気になりません?」
「窓二枚と、これだけ距離があれば、意外と気にならないもんだぞ。叫んだりしない限りな。……てなわけで、ちょっと隠れてて、先生」
俺は先生の背中を押し、窓の外から見えない死角に、移動してもらってから、窓を開けた。そして、さくらの部屋の窓に向かって呼びかける。
「さくらーいるかー?」
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