第4話霧崎麻述と天宮愛③
校長室。
私は一人、くつろいだ時を過ごしていた。
霧崎君が来るのを、待っている所だった。
校長室は、霧崎君との密会部屋として使用してよいと許可を頂いていたので、さっそく使わせてもらっていた。校長先生自身は、他校に用事とかで、本日は不在。そのことを他の先生方も知っている為、私の待ち人以外が、ドアを開けて入ってくる心配も無い。
校長先生の仕事用のデスクに腰掛け、私はふんぞり返っている。
権力者ごっこに興じつつ、デスクトップパソコンに腕を伸ばし、ソリティアタイム。加えてちょっとした調べ物と洒落こんでいる所だった。
どちらも一段落ついたタイミングで、厚手のドアをしならせ、勢いよく開ける者があった。
「上手くいってよかったあー!」
霧崎君だった。
彼が何の事を言っているのか、推し量る必要もない。
彼に授けた、天宮さんとの和解作戦が決行されたのが、昨日の事。
結果が上々であったことだけは、既に携帯電話で知らされていたが、詳しい話は直接話せた機会に、ということで、本日のこの密会である。
私と霧崎君が、授業の合間の休み時間などを使って、大した会話をすることはない。他の生徒達などから、特別な関係だと悟られぬ為に、当然敷かれたルール。
しかしそのせいで、今日一日を、霧崎君が首尾を報告したいあまり気もそぞろに過ごすだろうことは、昨日の時点で予見していた。
昨夜、眠りに着く前に、霧崎君に「明日の放課後、校長室で、結果の報告会をやりましょう」と、私からメールしておいたのだ。年頃の男子が、出会ってまだ一月立たずの年上の女性とアポイントを取ろうとするのは心理的なハードルが高かろうと思い、大人の女性らしく、スマートに気を利かせてみたのである。
霧崎君は目を輝かせ、机越しに身を乗り出し、私の顔を遠慮なく見詰めている。
スマートフォンの前に正座し、二時間悩み、結局彼にメールを送れたのは、午前二時。挙句、その後夜明けまで、「てかラインやってる?」の一言を霧崎君にどう切り出したものか思案に暮れていたせいで睡眠不足であるこの私の酷い顔に対し、霧崎君は賛美以外の感情を、向けてはいなかった。
「先生はすごいな! ほんと、妙手ってやつだった!」
どうやら私発案の作戦は、天宮さんに対し、想像以上の効果を発揮したらしい。
「新しく買ったチケットをビリビリに破いてから、またくっつけるなんて、すごい名案だ!」
天宮さんは、私の思惑通り、霧崎君が必死にバラバラになったチケットを探して、拾い集めてくっつけたのだと、綺麗に信じ込んでくれたようだった。
だが実際は、勿論、そんな気違いじみた面倒を、霧崎君がやってのけたわけではない。
天宮さんが受け取ったのは、私が新しく買い直したチケットだ。
内職よろしく、私と霧崎君の手でビリビリに破いた後、再びテープでひっつけ直し、土で軽く汚しただけの代物に過ぎない。
無垢な感動を浮かべる霧崎君を直視できず、私は膝元でくっつけた二つの小さな拳に視線を落としながら、言った。
「そ、そんな褒められても、照れたりしないんですからねっ……まあ実際、普通は使えない作戦ですよ。この世の99パーセントの女性には、気持ち悪いと、ドン引かれて終わりでしょうね」
私は、花壇で天宮さんの見せた、可愛らしい照れ笑いを思い浮かべながら言った。
「ですが、十年前好きだった男の子に憧れ続けている、夢見がちな女の子なら、こういうやり方も通用するかと思っただけです」
霧崎君は、ますます感心したように頷くと、ソファから立ち上がった。
「マジでありがとーな! これからも頼りにしてるぜ!」
「いいんですよ。お礼なんて。これもお仕事ですからね」
その時だった。
校長室のドアがノックされる。
霧崎君が首を傾げる。視線で、私に訊ねる。『校長先生は学校にいないのに、どうして誰かが今、この部屋を訪ねてくるんだ?』
霧崎君の言う通り。
しかし私は平然としたものだった。
今、校長室に用事が会って訊ねてくる者がいれば、私の待ち人以外にはありえない。
つまり、私の待ち人は、霧崎君一人では無かった、というだけの話だ。
「どうぞー」
私は、パソコンの画面に目を映しながら、ドアの向こうに声をかける。
「
一瞬、良からぬ仇名が聞こえたことは、スルー。
私は笑顔で、彼女に手を振る。天宮さんも、手を振りかえしてきた。その手に、革手袋は無かった。霧崎君から聞いていた通り、彼女の左手の薬指の爪は、年季の入った青黒さに着色されていた。
「どうして、百合屋先生がいるの?」
「私が呼んだのだから、それは私がいるに決まっていますよ」
「てっきり、校長先生からの伝言だと思ってた……。そっか、校長先生は今日、学校から離れてるんだったね」
天宮さんが、リラックスした様子で、ソファに着席する。
一言の許可も取らずに横柄な振る舞いだと、批判することも出来ただろうが、この場唯一の大人である私に威厳が無いのが悪いのだろうと、とりあえず溜飲を下げる。ソリティアのウィンドウを閉じながら、チェアの背もたれに、大きく体重を預け、伸びをする。
霧崎君に、天宮さんと二人きりにしてほしい旨を伝える。
霧崎君は、訝しげな表情を見せつつも、
「天宮、校門前で待ってるから! 一緒に帰ろうぜ」
と、快く席を外してくれた。
霧崎君の足音が、ドアの向こうから遠ざかるのを確認した後、天宮さんに向き直る。
「というわけで。天宮さんに用があるのは、校長先生じゃなくて私なんです、こんな、無駄に厳めしい部屋に呼び出したりして、ごめんなさいでした。それでですね。本日は、天宮さんに一つ、物申したいことが会って、来てもらったわけなのですが……」
私は、息を大きく吸いこみ、その言葉を口にした。
「ふ、不純異性交遊についてですっ!」
天宮さんは、一瞬驚いて肩をすくませた。
だがすぐに、私がただ「不純異性交遊」という言葉を使いたかっただけだということを感じ取ったらしい。「やだー、もー」と可愛らしくはにかんで、女子高生らしいリアクションを、私に返してくる。
私は、自分の女子高生時代を思い出す。
当時は『もっと話しやすい先生がいればなあ』などということを考えていたにも関わらず、大人になった今、臆面も無く『天宮さんが話しやすい生徒でよかった』などと和んでしまう自分を、少しだけ恥じて、みたりしながら。
弁舌さわやかに、私は言葉を続けて行く。
「実は私、この学校に来る前から、霧崎君とはちょっとした知り合いで、割と色々話す仲なんですよね」
「え?! そうなの?」
校長先生からは、みだりに霧崎君との関係を悟られるなと、厳命されている。
しかし、ここから先の話を展開する為にどうしても、天宮さんの気を、十分に惹いておきたかったのだ。
効果は覿面だった。
天宮さんはソファから立ち上がる。そして先程の霧崎君と同じように、デスクの前にまで詰め寄ってくると、私に向かって身を乗り出すのだった。
私は、天宮さんの表情を見詰めながら、静かに、微笑む。
「先日霧崎君から、『あなたと喧嘩になった。どうしよう』っていう相談をされてたんですよ。でも、この調子だと、仲直りしたみたいですね。よかったよかった……霧崎君とは、十年前に一度、会ったことがあるとか」
「う、うん、そうだけど……ちょっと待って先生、まさか麻述とのことを聞きたかったから、アタシを呼んだの?」
「そうとも言えるし、そうとも言えないような。……それでですね。私、結構、二人が仲直りする上で、二人の関係が正常化される為という理由で、大分ハードかつ強かに、霧崎君に肩入れしちゃったんですよね」
「……そうなんだ」
「だから、あなたにも、肩入れしないといけないなと思いまして。フェアじゃないなと、思いまして」
「……何、言ってるの」
「いえね、乗りかかった船ですから、行くとこまで船頭してあげようかな、なんて」
天宮さんが、体をきゅっと縮こまらせる。
理由は、分からなかった。
天宮さんの姿に、初めてこの学園を訪れた際の私の姿が、重なった気がした。
気がしただけだと、私は切って捨てた。
私に、校長先生のような威厳が出せるはずも無し。
こちとら、ここしばらくぶりに上手く笑えている気さえしているというのに、それが天宮さんをリラックス以外の心理状態に陥らせているなどとは、どうして考えられようか。
これからしようとしているのも、身構えられるほどに身の詰まった話ではないのだ。
いわば、要らぬお節介、に近いもの。
私の仕事は、教師の皮を被りながら、霧崎君のサポートに徹すること。
つまり、霧崎君に対する過剰な肩いれは、職業倫理から正当と判断されるべきはずのものであり、私は、そのことに対して恥じる必要など、ないはずだった。
しかし、一個人としての私の心は、今回の一件に対して、納得出来てはいないのだった。天宮さんにアンフェアな態度を貫くことに対して、罪悪感を覚えている。
そこから来る忠言。
すなわち、真心。
猟奇作家だった私が言うと、皮肉にしか聞こえないだろうけれど。
私はただ、天宮さんに関する一連のエピソードを、後味の悪い話にしたくないだけなのだ。
私は言った。
「霧崎君とあなたは、十年前に一度、会っている」
「うん」
「それ、ほんとに霧崎君ですか?」
校長室を満たすのは、相も変わらず連続した静かな空気。
しかしいまや、質は反転していた。
美しく透明な氷を、罅で白く濁らせるがごとき影響、衝撃。
私の質問は、天宮さんに打撃を与えていた。
「ま、間違えるわけないでしょう?」
天宮さんは、表面上では平静を保っているように見える。
「麻述だって、同じ思い出を……」
「左手の、薬指」
とっさの反射だろう。
天宮さんが、左手を腰の後ろに引っ込めて隠してしまう。
私にはどうしようもなく、万引きを指摘された女子高生が、後ろ手で品物を隠しているように見える。
さしずめ私は、娘の無実を疑わず、懸命に何かの間違いだと主張する母親だろうか。
そんな、使命感を掻きたてられる比喩に耽りながら。
私は、自分の唇の端が、気持ち悪く笑っていることに気がつかずに、質問を重ねていく。
「あなたが襲われた犬と言うのは、小型犬か、もしくは子犬だったのではありませんか?」
「……」
「いえね、大型犬、もしくはそれなりの成犬が、器用に、特に薬指より長い中指などを避けて、薬指だけに歯形を残す、という状況が、私にはどうにも想像できないですから……知ってますか、どんなに小さな犬種だって、百キロ超の力で噛んでくることがあって」
「それがどうかしたの?」
「霧崎君からこの間、あなた達二人が、幼少期に出会った際のことを聞いたんですよ。霧崎君は、犬が、『飛び上がって襲ってきて、跳ね飛ばされ、取っ組み合いになった。傷だらけになった』と言っていました。これ、小型犬に使うような表現じゃない気がするんですよね……この食い違いは、どういうことなんでしょう?」
黙り込む天宮さんに、私は自分の推論を垂れ続ける。
「霧崎君は、動物愛護団体に所属し、あの歳で、あなたを助けたときと同じようなことを、何度もやってきたそうです。だから、あなたに『女の子を犬から助けたことない?』と聞かれて、一番あなたの話に合致するケースを想起し、その思い出の相手を、あなただと錯覚しているだけなのではないでしょうか」
天宮さんは、私の言葉に答えない。誰かと面と向かい合いつつ思索に沈んでいるように見える人間というのは、得てして混乱しているだけというもの。
私は、天宮さんが今、この状況で一番考えるべきことを、優しく示してあげようと、言葉を続ける。
「もし、もしそうだとしてですよ。じゃあ、あなたの思い出の相手は、誰なんでしょう?」
年上の女性らしく、リードする。
「空席になってしまった、あなたの『思い出のヒーロー』っぽそうな人に、心当たりはありませんか?」
『お友達教師も、悪くないかもしれないな』
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
赴任してから数日足らずの内にすら再三考えさせられたように、私は校長先生のような、威厳ある大人にはなれないのだろう。また、霧崎君や天宮さんのクラスの本担任であり、私の指導役でもあるところの、町合先生という方がいる。彼女のように、白衣を着たまま、常時両手に竹刀とコンパスを引っ下げているような、熱血シザーハンズになれる気だって全くしない。
私は今この瞬間、初めて教師としての対応を求められている気がした。
すると、自然とビジョンが浮かんできたのだった。
私は、いつまでたっても生徒を叱りつけるうまいやり方は見つけられないだろうが、叱らずに、いい意味でなあなあに物事を勧めるのには向いてそうだな、と。
それが、生徒の為になるかどうかは分からないが。
女子高生だったころの私が感謝することがあったとすれば、もしかするとそんな教師に対してだったのかもしれないな、と思ったのだ。
私は、天宮さんに感謝した。
成績優秀で溌剌としたクラスのリーダーである天宮さんから、こんな教訓を得られるとは思っていなかった。
現実から得られた教訓は、すぐさま自らの血肉へ還元すべきであろうと判断し、私は特に穏やかな調子を保ちつつ、天宮さんに質問する。
間違っても、詰問だなどとは受け取られぬよう、柔らかく、柔らかく。
「天宮さん、先日、ロッカーに犬の死体を入れられたらしいですね」
天宮さんの身体が、震えた。
「その生徒は最後に『言いたいことは言えた』と言っていたそうですね。何を今まで我慢してきたんだと思います? ……もっと楽に、聞いて頂いて大丈夫ですよ、バカげた仮説なんですから。その生徒はもともとクラスで地味な方。美人で明るい天宮さんや、モテモテの霧崎君とは、ほど遠い存在です。もし彼が、あなたの思い出の人だとしたら? 彼はどんな気持ちで、学校生活を送らねばならなかったと思います? あなたは勘違いして霧崎君のことを、昔、自分を助けてくれた相手だと思っている。でも、誤解は解けない、解けるわけがない。思い出の女の子は綺麗になっていたのに、さして自分はというと、パッとしない男。このまま霧崎君と結ばれた方が、はるかに幸せなのは分かりきっているから、割り込む隙などあるわけない。…………私はね、天宮さん。あなたのことを、何て可愛らしい女の子だろうと、微笑ましく思っていたのですよ。十年も前に出会った男の子を、想い続けていられる天宮さんは、何て純情なのだろうと。けれど、けれどね、私は思い当ってしまったのです。体験そのものが、劇的なだけだったんじゃないかって。あなたが、幼少期の純朴さを心に残したまま思春期を迎えたわけでは無く、経験そのものが、誰しもの心に残るほど、印象深い事件だっただけでは無かったのか……って。だとすれば、天宮さん。霧崎君を思い出の少年だと確信した端から、彼にぞっこんとなるほどだった天宮さん。
もし仮に、霧崎君があなたの事を思い出せなかったとしたら、あなたはどうなっていたと思いますか? 霧崎君が、貴方との十年超しの運命に、何一つピンと来ていなかったとしたら? ……その片鱗を、あなたに対してとぼけた態度をとり続けた霧崎君は先日、花壇で味わうことになった。あなたは言っていた……こほん。言っていたそうですね。『おかしくなってしまいそう』と」
私は、自分の様子に関して、いよいよ変だぞと思い始めていた。
舌が、血を吸い膨れ上がっているような。有体に言えば、勃起、ということになるだろうか。
それこそ、舌を投げ出して息を切らす、犬になってしまったかのような、興奮。
「そのifを辿ったのが、『ロッカーに犬の死体事件』の犯人だったとすれば?」
天宮さんは、無表情に聞いている。
「ロッカーに入るほどです。犬の死体はさぞ……小さいものだったでしょうね」
私物用ロッカーは、教室前に全員分設置されているのが良心的な反面、生徒の多さから、一つ一つの容量は、リュックサック並みだ。
「あてつけには、ピッタリではないですか。『言いたいことが言えたから、それで良い』……ロッカーに突っ込まれた死体こそが、メッセージだったのですよ。霧崎君が運命の相手でないことに気が付いていない天宮さんに、先に私が指摘したのと同じ、『矛盾』を突きつけたのです。『霧崎は、お前を助けた相手じゃない』と、天宮さんに気付かせようとしたのですよ。……馬鹿には、出来ないですよね。回りくどいとも言えないですね。世に溢れるストーカー達に、『こそこそ付きまとわずに直接思いを告げればいいじゃない』と言うことが出来ない限り。……うふふ、よほどその少年は、天宮さんのことを、愛していたのですね」
スクールカーストと恋慕の板挟みにされ捻り出された凶行に、思いを馳せる。
口の中が堪らなく湿っているのに、私の喉は渇いていく。
「まあ結局、ただの仮説ですがね。精神の病んだ男の子が、たまたま犬に関連する間違った思い出を持っている天宮さんのロッカーに、たまたま、野良猫とかお手軽な虫とかじゃなくって、犬と言う生き物を殺して入れた、という可能性の方が、高いのですが」
「どんな確率? 有り得ないけど、麻述が、幼いころ私を助けてくれた男の子じゃなかったとして、だよ? 私が、縁も所縁も無いクラスメイトを、昔のヒーローだって勘違いして、しかも同じクラスに、本物のヒーローがいるなんて偶然」
「確率の話を言い出すと、そもそも十年前の思い出の男の子とクラスメイトとして再会している現状から、疑ってかからねばならなくなると思います。現実として、あなたがヒーローと再会できていると言うのなら、私の仮説のようなシチュエーションが成立する可能性も、連鎖的に認め無くてはならないと思うのですが」
「小説家にでもなったら?」
私の舌先が、痺れて止まる。
そして、自覚する。
私は結局、霧崎君や天宮さんみたいなキラキラした子供より……犬をロッカーに詰める男の子の方に共感してしまうのだ。悲しいことに。
そして私の共感は、確率に関わらず「起きうること」でさえあれば容易く、それが殆ど妄想の域に片足を突っ込んだ事象でさえ、現実感の中に引き入れてしまうのだと思う。
とっくに死んだと思っていたはずの、小説家、百合屋かおる子の才能が、知らずのうちに、体中に張り詰めていた。
我が内なる、行動律。
『もし私の考えている通りだとしたら』という範囲での思考を、現実に結びつけずにはいられない。
ロッカーに犬の死体を詰め込んだ、『本当の思い出の男の子』は、もうどうしようもなく、私の頭の中に存在している。
気付いてしまった。
私は、その少年に報われて欲しくて、天宮さんを校長室に呼んだのだった。
本人のあずかり知らぬところであれ、暗い青春は、少しでも報われた方がいいと、私は思っていたのだった。
天宮さんが言う。
「私を噛んだのは、大きな、大きな犬だったわ。私も信じられないんだけど、本当に偶然、薬指しか噛まれなかったのよ」
私は、パソコンを黙って差す。
ソリティアが閉じられた今、表示されているウィンドウは、『調べ物』に関連するものだけになっている。
開かれたフォルダには、全校生徒の略歴データ。私立だからか、かなり細々とした部分まで、記載されている。
「霧崎君はずっとこの町育ちだそうですよ。知ってました? 天宮さんは小学生の頃、思いっきり別の町に住んでいたようですが」
今回に限り。
空想……超低確率は、本来無縁なはずの現実に、補強されてしまう。
それを無粋だと感じるのは、職業後遺症だろうか。
いまだ、頭の中のフィクションのみで、相手を屈服させたいと、願ってしまうのは。
「犬をロッカーに入れた子の情報も、まだ残ってましたよ」
正直な話。
ここらで、天宮さんがデスクに手の平でも叩きつけ、ヒステリックに喚き散らすのではないかと、思っていたのだ。
だが、そうはならなかった。
天宮さんは、一息、小さく吐いて。
なんと、私に背を向け、校長室から出て行こうとしたのである。
詰まらない騒動を遠目から見物した後の如き風情であった。
己が終始、渦中にいなかったことを、欠片も疑っていない様子で。
私は呆気にとられ、引き留める台詞も口にできないまま。
ドアの前で、最後に一度だけ、天宮さんは振り返ったのだった。
花壇で見せた、純情な少女の目で、言うのだった。
「ごめんねぇ。今まで話してくれたこと全部、よく聞こえなかったぁ」
私には天宮さんの笑顔がまるで、この世全ての男を振り向かせんとするような、貪欲なものに見えていた。
……ああ。
私にはこの時、全てが分かってしまった。
閉まるドア。
校長室に、一人残され。
私は、天宮さんの幻影に、震えた声で呟いた。
「知って……いたんですね」
何を。全てを、だ。
彼女が、去り際に垣間見せたのは間違いなく、全能故の余裕だった。
実のところ、私は心の片隅で、私の考えていること全てが与太話に終わるのではないかということを、冷静に受け止めていたのである。
『霧崎君は、幼いころに天宮さんを救った、彼女にとって真実のヒーローである』。
どうせ、それだけが事実だという結論が、最後には校長室に残されることになるのだろうなとも、覚悟していたというのに。
天宮さんの笑みは雄弁だった。
『麻述が思い出の男の子じゃないと気が付いているよ。犬の死体をこさえた子が、昔本当に出会った男の子だって知ってたよ。けどそれがどうかしたの?』。
物語っていた。
妄想であったはずのフィクションが、完全にノンフィクションと一致していることを告げられた私は、みっともなく打ちのめされ、天井を仰いだ。
天宮さんが、霧崎君をデートに誘った道具は、動物園のチケットだった。
彼女はよく知っていた。霧崎君が生粋の動物好きであることを。ならば、かつて霧崎君が野良の獣から救った女子が自分以外にもいたのだという情報だって、掴んでいたに違いなかった。ともすれば、霧崎君本人の口から、雑談の中で偶然聞きだしてしまったのかもしれない。
他人の空似ではないかと勘繰り始めるきっかけなど、日常にごろごろ転がりまくっていたはずなのだ。
かなり早い段階で、天宮さんは霧崎君がヒーローでないことを、悟っていたのかもしれない。
では、ロッカーに犬を入れた少年が、本物のヒーローだったことには、いつ気がついたのだろう?
私から指摘され、今知ったばかり。
そう考えることもできるが、どうにも腑に落ちない。
気になるのは、犬の死体事件の顛末だ。
目撃者はいなかったとされているにも関わらず、犯人である少年は、翌日には特定されてしまっている。
何故か。可能性は二つ。
少年が自首をしたか。
もしくは。
その少年に動機があったことを知っていた人間が、その少年が犯人だという前提で、捜査し、事態を誘導したか。
例えば、被害者本人。
天宮さんには、面倒を犯す理由がある。
もし、犬殺しの少年が、恥を恐れず公然と名乗りをあげるようなことがあればと、焦っていたのかもしれない。
天宮さんは、本物のヒーローの心の叫びを、聞こえないふりし続けていたのだ。
奇しくも、文面上は霧崎君と同じに見えるロジックに突き動かされて。
『好意に気がつくと、物語が終わってしまう』。
下らない、ラブストーリーの鉄則。
乙女が、自分の恋に対するテロリズムに対し、容赦するわけもなかったのだった。
天宮さんは、学年一魅力的な男子との因縁を、勘違いだったという理由だけで捨てられるような女ではなかった。
だから、本物の存在の方を、無視することにした。
『難聴』
自らの青春を犯す騒音を、何一つ耳に入れたと認めることは無い生物。
『俺より残酷な人なんて、いっぱいいると思うぜ』
霧崎君の言葉を思い出す。
椅子にもたれ、天井を仰ぎ、瞼を閉じる。
天宮さんの「ありふれた少女」っぷりに、私は当分、コーヒーも喉を通りそうになかった。
霧崎麻述と天宮愛・了
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