第15話霧崎麻述と桐島怜④

「誤解されてるかもしれないけど、私は一学期も夏休みも、怜にばかり、べったりだったわけじゃないんだよ? 色んなグループの子と友達だったからさ、平日はローテーション組んで遊んでて、実は怜とは、休みの、それも午前だけだったんだから。夏休みだって、怜以外の子と遊ぶことの方が多かったし。だからショックだったよ。二学期になってから、クラスの女子みんな一斉に、怜のことを目の仇にし始めたのは。いつ示し合せたのか、私は全く、気がつかなかった。だけど、理由は簡単に割れたよ。自分達との付き合いの時間を減らしてまで、私が怜に時間を割いてたのが、気に食わなかったんだって、問い詰めたら、ゲロってくれた子がいたから」

 色んなグループの子と付き合っていたと、『彼女』は言っていた。だがその、色んなグループも、言い方を変えれば、『彼女』と親密な者達という、一つのグループとカテゴライズすることが出来る。そう言った形で、誰も気がつかないうちに、連帯感が形成されていたのだとすれば、彼女の言っているようなことも起こりうる。その巨大なグループ内に相応しくないと判断された桐島怜は、不意打ちのような一体感で以て、弾かれてしまったのだ。魅力的だから誰とでも仲良くなれるのか、誰とでも仲良くなれるから魅力的なのか。強引すぎる嫌いがあっても、なおも『彼女』は、周囲の人間にとって、それほどまでに重要な存在であったということだろう。

 試しに、我が校のジョックス代表、霧崎君が、彼の取り巻きでなく、ぽっと出の女子に、これ見よがしに夢中になる未来を空想してみた。考えるだけで、頭が痛い。最悪血を見るほどの権謀術数が飛び交うだろう。それほどでは無かった(と信じたい)ようだが彼女の教室も、どうやら大変なことになってしまったようだった。

「私が見てるときなら、やめなよ! って、庇ってあげられたんだけど……さすがにボディーガードみたいに、四六時中一緒にはいられなかったし。……先生って、教師何年目なの? ずいぶん若く見えるけど」

「五月から赴任してきたばかりの、一年目ですが」

「そっか……長い人になら、一回聞いてみたかったんだけどな。どんな人でも、ふとした拍子に、人を傷つける発想を、次から次に思いつくようになるのは、普通なことなんですかって。もう、すごかったよ。一通り、怜はやられたけど……特に見てて辛かったのは、本に、噛んだ後のガムが挟まれてた時かな。しかも、後から聞いたんだけど、それ、女子のグループが自分たちでやらないで、男子にやらせたんだよ? そのグループの中に、好きな女子がいた、男子に。……世界が一変して、私の好みじゃなくなった瞬間だったね」

 力強かった『彼女』の現実を、数の暴力は裏返した。だが、もっとも彼女を失望させたのは、おそらく。

「でも、一番悪いのは、私だ」

『彼女』は、顔をしかめた。『私』。その単語が汚い罵り言葉であり、それを吐き捨てるかのように。

 桐島怜がいじめられるようになってしまった直接の原因は、『彼女』が桐島怜に構うようになってしまったからだ。もし『彼女』が、桐島怜に熱烈な興味を向けなかったとしたら、桐島怜は、本ばかり読んでいる嫌われ者のまま、中学生活を終えられたかもしれないのに。

「最後に怜を追いつめたのは、きっと私だったんだよ。いじめられてる時も、全然表情崩さなくってさ。もっと悲しいとか、怒ってるとか、自分を表現した方がいいって、何度も言った。無理難題を突き付けられて、逃げ場が無くなって……だから怜は、誰にも、何も言わず、失踪したんだ。私と出会って、一年後。そして、二年前の今日から数日前。学校にも来ず、家にも帰らず、失踪した」


「怜がいなくなってから、怜がどうして自分の世界に引きこもるようになったのか、初めてわかったよ。誰にも相手にしてもらえないから、誰にも相手にされないような人間になったのか。誰にも相手にされないような人間だったから、誰にも相手にされなくなったのか。そのどっちかだったとおもうんだけど、最初に言った方だとしたら、こんなひどい話って、無いよね。怜は、見る人によって、色んな人間になった。怜が、自分を表現できないのをいいことに、色んな人格を、押し付けられてた。先生からは、『おとなしくて、真面目な子』。つまり、協調性なんてなくてもいいけど、問題は起こさないでくれっていう欲望の裏返しだよね。クラスメイトからは、『何考えているか分からなくて、恐い子』。つまり、怜に、いじめられて当然なやつになってほしかったんだ。怜の母親は、警察に、『普段から反抗的で、いつか家出でもするんじゃないのかとは思ってた』って言ってたそうだよ。そのどれもが、私の知ってる怜じゃなかった。怜は、この世のどこにも存在していなかった」

 確かにそこにいるのに、実態のない、何か。

「桐島怜は、冷たい幽霊だった」

 見る人によって形を変え、またいかなる形を取っていた場合であっても、嫌悪の対象となるもの。枯れ尾花だと分かるまで近づいたのは、『彼女』しかいなかったのだ。

「私の知ってる怜が、本物の怜だって、信じたかった。だって私は、あの子がどんな時に本を閉じるのか、知っていたんだから。……怜がいなくなって数日たった後、もしかして、と思って、この崖に来たの。最初は、何もないと思った。けど……」

 桐島怜の死体があった……などと言うわけでは無いだろう。もしそうなら、全国区のニュースとして、記録に残っているはずだ。

「本が散らばってた。そして崖の縁には、特別な本が一冊、置いてあったの。……怜の大好きな小説、何回も読み返してたのを、覚えてた。怜がここに来たんだって、私にははっきり分かった。そして、それと同時に、怜がもうこの世にいないことも、認めなきゃいけなかった。本を重石にして、その下に封筒が置かれてた」

「遺書、ですか」

「……そうね。そうだったに、違いないね」

 歯切れの悪い言い方に、私は首を傾げた。

「読まなかったのですか?」

「読めなかったの。……封筒の中には、何も入ってなかった」

『彼女』が唇を引き結んだ。

「どうしてかは分からない……封がされてなかったから、中身だけはみ出て、風で飛ばされちゃったのかもしれない。急に降り始めた雨の中、崖の隅々まで探したけれど、見つからなかった。なんにせよ、怜の遺書は、残されていなかったの」

『彼女』にとって、桐島怜の遺書を読めなかったことは、強い心残りになっているようだった。

「ここで、桐島さんが死んだ、ということ、警察には……」

「言った! ……怜は、この崖で自殺したんだって、そう言った」

「相手に、してもらえなかったんですか」

「……ふふっ。そうだね、せめて警察が杜撰に対応してくれれば、まだ八つ当たりも出来たかもね」

 それが最大の皮肉であるとでも言うように、『彼女』は海の方を見ながら、ため息をついた。

「今思うと、暇だったのかって思っちゃうくらい、真剣に探してくれたよ。何人かのチームで、崖の上から、怜の死体が無いか探して、終いには船まで出してくれたんだから」

 創作上では、権威主義的な無能として扱われがちな警察だが、当然、実際はそうでもないようだ。

「でも、それでも、怜の死体は見つからなかった。あとはお決まり、私の狂言だったっていうことになったよ。私が自分で、崖の上に本と封筒を置いたんだろうって。この辺りは崖ばっかだけど、それでも海は全体的に浅瀬だから、なのに死体が見つからないのはおかしいって。みんな、みんなが……」

『あの子は、崖から飛び降りて自殺したの。失踪じゃない。遺書は無かった。封筒だけ残して』。そう触れ回られた『彼女』の周囲は、どうか、桐島怜の死体が発見されませんように、と、強く願ったはずだ。桐島怜の死体が発見されれば、クラスメイト達や、教師は、いじめ自殺の加害者として、世間の厳しい眼に晒されることは必至。『彼女』の作り話であってくれと、誰もがそう望んだに違いない。

「私が好き放題言われるのなんてどうでもいい。ただ、怜が……あの子が、死んだってことまで、無かったことになったのが、不憫で、仕方なかった」

 死には、その人の生が、反映されるものなのだろうか。桐島怜は、死後も、周囲にとって都合のいい存在で、あり続けた。

『彼女』には、それがどうしても許せなかった。

「怜が死んでから、二つやりたいことが出来た。どちらも、無理だとしか思えなかったけど、挑戦しなきゃ、気が済まなかった。一つは……怜の、最後の気持ちを知ること。私の知っていた怜が、本物の怜だったっていうことを、知りたかった。……ああ、どうして、あの封筒には、遺書が残っていなかったんだろ? せめて、一言……私が、怜にとって、他の人とは違ったっていう証明があれば……少しでも、怜が最後、私を思い出して、逝く瞬間、安らかになってくれていたなら、他には何もいらないのに。……友達だって思ってたはずなのに、私、怜のこと、全然わかってなかったのよ。あの頃怜は、何に怯えていて、本当は何を幸せだと感じていたのか。……怖くなった。怜が、ゆっくり、私の中で幽霊になっていくのが。それが嫌で、怜の好きな本を読みふけっても、何の解決にもならなかった。……二年間悩み続けて、私は今日、この場に来たわ。二年前の今日なのよ。この崖で、怜の本たちと封筒を見つけたのは。私の中で、今日は怜の命日なの。私は去年も、ここに来て、怜の好きだった本を読みふけっていた。……ええ、そうよ。先生がさっき言った通り、喪に服す、つもりでね。でも、二年目で、もう限界だった。本をどれだけ読んでも、怜がその本を読んでた時の気持ちになんて、なれっこなかったのよ。当たり前だけどね。役立たずって叫びながら、本をそこら中にまき散らした。下の方で、先生たちの学校の生徒が、はしゃぎ回ってるのも、癪に障ったのかも。全部が嫌になって……その時、ふと考え付いたの。他人の心を、自分の心のように感じるには、もう、その相手になるしかないんじゃないかって。当然、こんな発想は、いつもの私だったら、すぐに切り捨てたでしょう。だって、他人になるなんて、無理だから。でも、考えがそこまでたどり着く前に……奇跡が起こったの」

 奇跡。完璧なタイミングでの、偶然。私は、昼間、崖の上で彼女に言われた言葉を、反芻した。

「『雨が、降ってしまったから』」

「そう!」

 相手より先に結論を言ってしまう人間は嫌われると聞いたことはあるが、彼女は、まるで理解者を得たように生き生きとした目で、私を見ていた。

「あの雨、急に降ってきてびっくりしたよね? 私もそう。降り始めまで、空が曇ってることに、全く気がつかなかった。様子を見る限り、先生たちも全然気がついてなかったみたいだったね。私は、すぐに、水平線に目を向けた。覚えてる? 水平線の手前で雲が途切れてて、そこだけ、青白い空が見えてて……デジャブ、なんてものじゃなかった。二年前、崖で本と封筒を見つけた日も、こんな風に、追い返すような雨が急に降り始めたの。まるで、二年前から、天気だけコピーアンドペーストしてきたみたいだった」

 昼間、この崖に来て、私に声をかけられる前の、『彼女』の表情を思い出す。熱に浮かされたような表情は、空が、親友の面影を見せたから、だったのだろうか。

「雨が降ったから、何だというのですか? 怜さんが迎えに来た、とでも?」

 心理的に追い詰められた人間は、何かしらに意味を見出したがっているもので、偶然というのは、そう言う人間にとって格好の得物なのだ。『彼女』が空模様を、どのように解釈しようと、不思議では無い。

 だが『彼女』は否定した。

「そんなわけないよ。……オカルトじゃないんだから」

『彼女』の中で、根拠、思考法、行動の、何が合理的で、何が非合理化と言う判断基準は、とっくに崩壊しているようだった。

「怜の身に起こったことについて、私は一つだけ、注目してなかったことがあったの。それは私にとって、『そうなってしまったんだから仕方ない』で終わらせていたことだったけど……今日の昼間、あの雨が、それを一気に、二年越しの一大事に変えてくれたのよ。先生、何か分かる?」

「全く」

「怜の死体は、なぜ見つからなかったのか」

 興奮したレポーターが、自分の顔にマイクを近づけるように、『彼女』は懐中電灯の光を、顎の下で揺り動かした。

「みんなが、私の話を信じてくれなかったのは、怜の死体が見つからなかったからよ。でも、気がついたの。誰かに耳元でささやかれたみたいに、あっけなく」

 理論が、『彼女』の中で、裏返る。

「もう一度誰かがここから飛び降りて、遺体が見つからなければいい。今度ははっきり、遺書を残して。その上で、私がここにいたのを、目撃してくれる人が欲しかったけど、それも、現れた。今日の私は、最高についてるわ」

「そんな……もし、あなたの死体が見つからなかったとしても……桐島さんがこの崖で自殺したことの直接の証明にはなりえません。それに、全てが貴方の思惑通りになろうと、その時あなたは死んでいるのですよ? なぜ、自分の目で確かめることが出来ないものに、命を賭けなくてはいけないことなのですか?」

「賭け、か……確かに、さすがに、命はベットするには、高すぎる。でも、破格の好条件なら、話は別」

「好、条件?」

 私は、『彼女』の言っていたことを思い出した。

「! ……だからあなたは、雨が降ったからって……!」

 私の脳内を、稲妻のように、一つの言葉が駆け、そのまま口から放たれた。

「離岸流?!」

『彼女』は、頷いた。

 離岸流。海岸から沖に向けて、人を連れさるかのように発生する、潮の流れ。

「私もね、この辺りの地形と波のことは、家近いし、元から少し知ってたんだけど……それが仇になっちゃったな。灯台下暗しってやつ? 調べて気付いたんなら、また違ってたんだろうけど」

「そんな……私も、合宿のパンフレットを作る際に、ここらの地形と、雨の日に起こる特殊な離岸流については、調べましたが……一時的な海の流れに、人の死体を、海岸まで戻ってこられないほど遠くへ、追いやるほどの力があるものなのですか? そもそも離岸流は、海面付近に発生する流れで……」

「だから、それを確かめるんだよ」

 好条件なんて、とんでもない。彼女が勝手に、好条件だと解釈したがっているに過ぎない。なのに彼女は、それに気がつかない。

「破格の条件が、いくつも重なったから、私は先生に、桐島怜って、名乗ったの。今日ほど都合よく、桐島怜になれる日は、二度と来ないと思ったから。たとえ無謀でも、怜の気持ちを、今日以上に知れそうな日は無かったから。徹底的に、怜になろうって、思ったんだ」

「待ってください、なら、逆になぜ……」

 その言葉の続きは、余りに直接過ぎて、言うのが躊躇われた。『死ぬんですか』。私は、昼、『彼女』にそう聞いた。あの時、『彼女』は完全に、死ぬつもりだったと思う。崖の縁に揃えられた二足の靴を思い出していると、『彼女』の方から、言葉の続きを拾ってくれた。

「なぜ、まだ死んでいないんですかって?」

『彼女』は、悲しげに、自虐的な笑みを浮かべた。

「そうね。あなたの言うとおり。今私は、死んでいるべきなのよね。」

『彼女』が、その信念通りに行動したとして、理想の筋書きとしては、今、『彼女』は死んでいなければならない。

 私が、崖まで来て、遺書を発見し、昼間会った少女が、飛び降りたことを悟る。その後は、私から、警察へと情報が伝わり、二年前の事件とは違い、遺書が残されている分、飛び降りの信憑性は高くなる。ローカルニュースなら、大きな騒ぎになるだろうし、もしかしたら、全国区でも取り上げられるかもしれない。友人がいじめられて自殺したことを、世に訴えたいがために、命を捧げた女子高生。マスコミにとって、真実は次から次へと湧き出てくるが、刺激的なネタは貴重だからだ。彼らに骨までしゃぶられた時、初めて、『彼女』の自殺は完遂される。遺体が打ち上げられようがられまいが、桐島怜の死を証明できなかったとしても、いじめの加害者たちを糾弾するという目的は、達成されることだろう。

 だが、『彼女』の計画には、タイムリミットがあった。

 雨が止むまでだ。『彼女』は、私がここに来た時、本を読んでいた。その方法では、桐島怜に近づくことはできないと、『彼女』は気づいていたはずなのに、どうしてそんな、時間を潰すような真似をしていたのか。

「……恐かったのよ」

 それは、人を確信犯たらしめる際の、最後の防波堤であった。あまりにも有り触れた、『彼女』におおよそふさわしくない、逡巡の理由に、私は呆気にとられた。

「昼間、崖の縁に立った時、雨を押し返すみたいに、下から強く風が吹いてた。でもそれが、こんな小さな雨すら、海に落ちていくのを止められないなら、私はどれだけあっさり死んでしまうんだろうと思った時……分からざるをえなかった。私は、桐島怜にはなれないって。……どんなに辛くても、私は恐怖を乗り越えて死ぬことなんて出来ないんだって。あの子になりきろうとした挙句、理解しようとした挙句、分かったのは、あの子と私は、どう合っても交われない場所がある、と言うことだけ。それが分かった瞬間、濡れた服が一気に気持ち悪くなって、家に帰って……それでもまだ、未練がましく、戻ってきて、こうして、本を読んでる。自分一人で全部悩んで、自分の所為で全部台無し」

 桐島怜は、『彼女』にとって、どれほど超俗的な存在だったのだろう。『彼女』がまだ、桐島怜を名乗っていた頃、今となっては皮肉な、この世の物とは思えない雰囲気は、私を怯えさせたものだった。

「恐いよ、先生」

 だが今目の前にいるのは、なんの脅威でもない。

それは、特異に振り回されてきた、私のここ数か月、その最後に、初めて私の前に立ち塞がった、どこにでもいる少女だった。

「人も、学校も、社会も、全部いや。死ぬのが一番苦しいから、それよりはましな苦しさを取って、生きるしかないけど……でも……どうして、誰かが絶対、こういう役をやらなきゃいけないんだろう……仕方ないんだけどさ。怜がいじめられる前、怜よりもっと嫌われてた子がいて……私、何にも考えないで、見て見ぬふりしてて……自分がそうなった時にだけ、『そういうものなんだ』で納得できないのは、きっと、ダメなことなんだよね……」

『彼女』もまた今では、周囲からの迫害に晒されているようだった。かつての桐島怜と同じように。それは、『彼女』の言う通り、この世のシステムなのか。それとも、桐島怜に成りきろうとした『彼女』が、無意識の内に引き寄せてしまったものなのか。

 いずれにせよ、『彼女』にとっての本当の崖は、この場所ではなく、日常にこそ、存在していた。

 何か、語りかける必要があると思い、私は咄嗟に頭の中にある、もっとも慣れ親しんだ引き出しに手をかけた。しかし、とっておきを仕舞ってあったはずの引き出しは、空き巣に入られたかのように空っぽだった。

 それでも何か言わなければならなかった。今は、そういう瞬間だった。

「もしよかったら、うちの学校に転校しませんか」

 私はきっと、藁にもすがるような目をしていたに違いない。一番つらい、『彼女』以上に。

「……何それ、意味わかんないし、急にそんなこと言われても困るよ。それに章連でしょ? 私頭悪いから、無理」

『彼女』は、椅子から立ち上がると、ゆっくりと、伸びをした。

「気持ちだけでも、うれしいけどね、先生」

 雨は、小降りになっていた。降り始めとは違い、そこには確かに、もうじき雲の晴れる予感があった。

「本当は、分かってたの。怜の遺書はきっと、私に対する恨み言だらけだったろう、ってね」

『彼女』は、傘も差さず、私の元へ、ゆっくり歩いてくる。

 私は何も言えぬまま、隣を通り過ぎる、『彼女』の影を見送ることしかできなかった。『彼女』の姿は、あっというまに暗い林に飲まれて行き、しばらくは、懐中電灯の光が、落ちる寸前の線香花火のような頼りなさで、ちらついていたが、それも、すぐに消えた。

 崖の上には、ビーチパラソルに、折りたたみ椅子、そして私だけが残された。私は『彼女』の残した椅子に腰かける。『彼女』の体温は残っていなかった。しかし、『彼女』は確かに、ここにいたのだ。

 雨の音が薄れ、海の、穏やかな波音が、勝り始める。

 懐中電灯の灯りを消す。昔の船頭は夜、目的の海岸を見つけるため、あえて灯りを消し、暗闇の中に、ぼんやりと浮かび上がる大地を見たと言う話に倣ったつもりだったが、逆に、大地の上から、水面の様子を確かめることは出来なかった。

 目を閉じても、明けても、全く同じ暗闇が広がっていた。不思議な気分だった。小さな部屋に引きこもっているようでもあったし、宇宙に放り出されたようでもあった。この世全ての暗闇が、ここに集まってきているみたいだった。だけども、不安になることもない。 

 私は、すぐに帰ることをしなかった。

 今度は、私が待つ番だった。

 さすがに、本を読みながら待つ気分では無かったけれど。


 目に鋭い刺激を感じて、目を覚ます。待っているうちに、どうやら私は器用にも、座ったまま、眠ってしまっていたらしい。

 私は、目を細めながら、水平線を見詰めた。今まさに太陽が昇らんとしている。日の入りだった。まだ、水平線から紙一枚分ほどしか顔を見せていないにも拘わらず、それには、視界を一変させる力があった。薄暗い、とは少しも感じず、私には、生まれたての陽光を受ける砂浜も、海面も、木々も、全てが眩しく見えていた。水平線の紫色の明るさは、いまだ私の頭上に残る暗闇が、水平線に向かって吸い込まれ、そこで溶けているかのような錯覚を、私に抱かせる。

 清涼な空気を胸に吸い込んだ時、ふと私は、崖の縁にあるそれに、気がついた。それは恐らく桐島怜が、パラソルや椅子などと同じように、この場に捨て置いたものだ。

 膝の下ほどまでの高さのある、本の山であった。

 私は椅子から立ち上がり、それに歩み寄る。

 恐らく、『彼女』が昼間散らかしていたものを、まとめて積んだのだろう。昨日の雨をたっぷり含み、その質感を、陽光がつつむ様は、私にどこか、死体を連想させた。

 待ち人の到来を、私は、その山を眺めながら迎えることにした。

 さっきから、林の中で、ぬかるんだ地面を駆けているとは思えない、テンポのいい足音が続いている。

 その音が消えた、と思った数秒後。

 私の肩に手がかかった。

「命を……粗末にするなよ」

 それは、この場にふさわしい台詞だったが、おおよそ彼にはふさわしく無い台詞だった。

 苦笑と共に振り向くと、霧崎麻述は驚いた顔をして、二歩、後ろに下がった。彼に触られた肩が、少し暖かい。夏とはいえ、林間の夜は冷える。冷えた身体を抱きかかえるようにして労わりながら、私は彼に言った。

「桐島怜さんを、二年前に殺しましたね」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る