第16話霧崎麻述と桐島怜⑤

 海は、相変わらず、どこまでも青く美しかった。

 後ろにいる霧崎君に目配せをすると、どうぞ、と、彼は呆れ半分に笑っていた。

 私は靴と靴下を脱ぎ棄て、膝を曲げて大きくジャンプし、砂浜へと繰り出した。初めの一歩、だ。

「気持ちいいいいいいいっ! えへっ!」

 臨海学校から、数週間後。

 私は、霧崎君と二人だけで、再びこの地を訪れていた。

 前来た時には、生徒の手前、遠慮なく発散できなかった無邪気を、ここぞとばかりに発散させてもらう。やはり、スカートが正解だった。清涼であるにもかかわらず、どこか、砂の熱の残滓を含んだ風が、ふとももまで這い上がってくる。

「そりゃよかった」

 パラソルを抱えた霧崎君が、砂浜に乗り込んでくる。

「先生、テントで着替えてきなよ。その間に、色々準備しとくから」

 霧崎君は、下に水着を着こんでいるらしいので、ここはお言葉に甘えさせてもらうことにする。水着に着替えて戻ってみると、ビーチのど真ん中に、パラソルとビニールシートがセッティングされていた。

 その隣にいる、霧崎君の元に駆けよると、彼は目を見開き、鼻を手で覆いながら、迎えてくれた。

「何も言わなかったのに、ビキニとは……さすが先生、良くわかってるぜ!」

「そ、そうなんですか……? 気に入っていただけたのなら、それは、まあ」

 少し派手、だったろうか。これでも、店員に見繕ってもらった中から、一番おとなしめなものを選んだつもりだったのだが。私自身は、水着の流行など分からなかったが、きちんと店員には、男の子と二人で遊びに行くのにふさわしいものをと、お願いして選んでもらったのだから、そぐわないものの訳がない。霧崎君が、過剰に反応しているだけだろう。

 それより気になることがあった。

「……なぜ、ビニールシートを敷いているにも関わらず、砂の上で正座しているのです」

 彼は、私がテントから出て来た時から、なぜかその体勢で待ち構えていたのだった。

「お願いがあります」

 主君に最後の忠言を残さんとする、切腹前の武士のような気迫だった。

 この海にもう一度来たい。お願いしたのは、私からだった。霧崎君は、なんでも一つ私がお願いを聞く、と言う条件で了承してくれたのだった。

「サンオイルを、塗らせてくれ!」

「……はい?」

「いや、今度、天宮達と、海に行くことになったんだけどさ……ラブコメで海って言ったら、やっぱヒロインにサンオイルだろ? ビニールシートにうつぶせになったヒロインが、ビキニの上だけ外して……ってやつ。俺、どうしても天宮やさくらの背中にサンオイルを塗りたいって思ってるんだ。イメージトレーニングだけじゃ、心許なくって。俺には実技が必要なんだよ!」

「また。ありがちな……」

 私も、かつてライトノベル作家だったころ、勉強の為に読んだラブコメに、何度もそう言ったシーンが登場したのを覚えている。私だったら、肩が脱臼しても自分で背中まで塗るだろうな、と思っていたけれど。

「……分かりました」

 やった、と、霧崎君がガッツポーズを作った。彼は、ラブコメに夢中になっていくほど、殺人回数が減っていくらしい。そして私は、彼にラブコメのような生活を送らせるための、エージェントなのだ。ならばこれは通常業務の内、でもあるだろう。

「じゃあ……うつぶせになって」

「はい」

 ビニールシートの上で、彼に言われた通りの体勢になる。胸とお腹があったかくて、気持ちがよかった。

 そのままホックを外そうとするが。

「俺やりたい!」 

 霧崎君が目を輝かせながら、私の手を止めさせた。

「仕方ありませんね」

 許しを得た霧崎君の指が、私の水着の紐に触れた。指先から、彼の意気揚々っぷりが伝わってくるようだ。

 だが、なかなかうまくいかず、サンオイル・トレーニングは早くも壁にぶつかってしまった。馴染みのない男性にとってビキニのホックとは、少しコツのいる構造をしているのかもしれない。彼の指は、焦っているのか、何度も肌をひっかいていくだけで。じれったい感覚に、そろそろ教えてあげようかと思った頃に、ようやく外れた。私は完全に油断していた。一気に自分が無防備になった気がして、心臓が跳ねあがったけれど、うつむいていたおかげで彼には気取られずにすんだ。サンオイルのキャップの開く音が聞こえ、肩甲骨の辺りに、サンオイルがたれてくる。

「……なんだか、くすぐったいな」

「それは私の台詞です」

「俺の、指だって」

 マッサージに近い感覚。オイルから、ココナッツの優しい香りが漂ってきて、私は浮遊感に包まれていった。瞼が、自然に下がっていく。

「これって、もうちょっと、腰の辺りとか、脇腹の辺りとか、攻める感じで、大丈夫なのかな? 手、抜いてるって思われたくないけど、エロいって思われたくもないし……って、あれ、先生? ……せんせーい!」


『待ってましたよ。霧崎君』

 あの時、霧崎君は、私の後ろで強まっていく朝日に、目を細めていた。

『どうして、先生がこんなところに……いや、それよりも……』

 体の力が抜けたように、彼は、私がさっきまで腰掛けていた椅子に、座り込む。日の光が、彼の力を吸い込んでいるみたいだ。夜が浄化され行く水平線上と、同じことがこの場でも起こっている。

 彼は恐らく昨日から、私に聞こうと思っても聞けなかったであろうことを、尋ねた

『どうして、先生が、桐島怜のことを知ってるんだ?』

『彼女の幽霊に、すべて聞きました』

 茶化されていると思ったのだろう。彼は私を睨んだが、私にまともに説明する気が無いことと、それ以上語りたくないという意思を認めると、諦めた様に頭を振った。

 霧崎麻述が、桐島怜を殺害したという可能性がよぎったのは、『彼女』が、桐島怜の死体が発見されなかった理由を、離岸流に関連付けた時だった。あまりにも突飛だ、という感想を、彼女の考察に対して抱いた時、私は、それよりさらに突飛であるにも関わらず、この世に確かに存在している、『死体が発見されない現象』について思い至った。

 殺人鬼、霧崎麻述による殺人は、何があっても露見しないという性質を持つ。死体が発見されなかったり、もし発見されたとしても、それは彼と関連付けられることは無い。私は、彼と会ったその日に、その力を見せつけられている。

 桐島怜を殺したのが、霧崎麻述だったとしたら、普通なら発見されているはずの死体が見つからなくても、不思議ではないのではないか。

 彼の『不条理』が行われたのだとすれば、『彼女』や警察の、至って論理的な考察は、全て無意味となり、彼が殺したから、と言う理由だけで、桐島怜の死体が見つからなかった原因は、解決してしまうのだ。

 そして、最後に残された議題としては、さすがに霧崎麻述と桐島怜が出会ったということだけは偶然であらねばならない、と言う一点だが、その確率も、決して低い物では無い。

 なぜなら、桐島怜にとってこの崖は特別な場所であり、霧崎君は、校長先生と縁のあるこの場所を、何回も一人で使用しているのだから。

 もし、彼が桐島怜を殺していたとすれば。

 合宿最終日である今日、霧崎君が、誰も目が覚めないうちに、この崖に来るのではないかと言う予感があった。

 私は昼間、彼に、桐島怜について知っているか、と尋ねた。あの時の、彼の少し困ったような顔が、引っかかっていた。もし来なければ、それはそれでよかった。私から、彼には何も聞かず、桐島怜に対する一連のエピソードを、私の中だけで終わらせてもよかったのだ。

 だが、彼は来た。

 私が、『彼女』のことを気にして寝付けなかったのと同じくらいの動揺を、彼もまた、私の口から桐島怜という言葉が出たということに対して、感じているということだった。

 これもまた、一種の興味だった。私が『彼女』に抱いたのと、同種の。

 十代にして死体の山を築いてきたことに、良心の呵責を全く感じていない霧崎麻述が、一つの殺人にこだわるとすれば、それは一体、どんな時だというのか。

『君は、なぜ……』

 桐島怜を殺したのですか、と聞こうとした。だが、すんでのところで、それは別の言葉に置き換えられた。

『人を、殺すのですか?』

 結果的に、それは正しい選択だったのかもしれない。幽霊から全部聞いたんじゃなかったのかと、茶化し返されるようなことにならずにすんだからだ。だが、この時、私の唇が知っていたのは、そう言った打算ではなくて、聞くべきことを聞いておく、タイミングに過ぎなかった。

 出会って数か月。私が初めて、霧崎君に関する核心を尋ねたことに対し、彼は、マニュアルでも作っていたのではないかと言うほどあっさり、答えて見せた。

『そうしないと、俺が死ぬから』

 そこに葛藤は何もない……ように、見えた。

『理由はわからない。ただ、分かってるのは、そうしないと、俺がのた打ち回って死ぬってことだけ。今は二か月に一回だけど……前は一か月に一回人を殺さないと、必ず発作に襲われた。肺に何か詰まってるみたいに、息苦しくなって、咳き込んで……暴れ回りたいのに、自分の手足をどう動かしていたのかも忘れて……目とか、耳とか、五感とか、全部から来る刺激が、刺すみたいに痛くなるんだ。何回かピンチになった時があったんだけどさ、本当に、酷いもんなんだ』

 悪びれる様子もなく。だからと言って、生きるために動物の肉を食らうのと同じだと開き直る風でもない。

『桐島怜を殺したのも、その、何度目かのピンチの時だった』

 以前、校長先生が、彼の為に殺される人間を選定している、というようなことを言っていた気がする。どういった基準で、どんな気分で彼女が選別しているのかは知らないが、安定した供給が難しいであろうことは予想できる。必要なときに、用意ができないことも、ままあるのだろう。

『二年前だ。俺は、校長先生と二人で、ここに遊びに来てたんだ。そして、俺は朝早く……丁度今くらいの時間に、発作の初期症状に襲われた。二日後に、俺に殺されるための人間が来るはずだったんだけど、その月は、発作が予定よりたまたま大分早かったんだ。俺は、歩けるうちに何とか、宿舎を急いで抜け出した。このままじゃ校長先生を殺すことになると思ったからな。……それで俺は、もがくみたいに走って、この崖についた。そして』

 驚きである。ここら一帯は、校長先生の所有する土地と建物、ということだが、元もとの用途は、彼の殺人欲処理場だったのだ。林から、頭一つ出て見える、宿舎の屋根を見詰める。今あの中では、何も知らない生徒達が眠っている。

『幻でも見てるのかと思った。崖の縁に、女の子が立ち尽くしてた。右手にペン、左手に便箋をもって』


『桐島怜』

 少女は一言だけ、そう名乗ったという。霧崎麻述は、彼女を目に入れた瞬間、自分はこの少女を殺すだろうことを確信した。彼には時間が無かった。しかし、彼女の名乗りは、なぜか彼をその場に縛り付けたという。

『こんなところで……何をしているんだ?』

 お互い様だったが、聞かずにはいられなかった。

『死ぬ』

 単刀直入にして、単純明快な一言だった。自殺志願者。それを知った霧崎麻述が考えたのは、ならば校長も事後処理がしやすいだろう、という安堵だった。

 だが、彼女が自殺志願者であるが故の懸念も残っていた。

『落ち着いて聞いてくれ。俺はお前が死ぬのを止めるつもりはさらさらない。急にここから走り去って、人を呼びに行くようなこともしない……だから、頼む、今すぐ飛び降りるのだけは、やめてくれ……俺が、近づくまで、待って……』

 彼女に、自分の足で飛び降りられては、発作を止めることが出来ない。あくまで死は、霧崎麻述自身の手によって、与えられなければならないのだ。

『嫌』

 霧崎麻述は、彼女が死ぬのを嫌がっているのかと思った。自殺志願者を殺すのは、何も初めてのことでは無かった。これまで、校長の手によって用意され、霧崎麻述によって殺された人間の中にも、彼女のような人間は何人かいた。ネットのコミュニティなどで、自殺志願者を装い、『一緒に死にましょう、楽に死ねる薬を手に入れたんです』といって呼び出すのだが、彼らはいざ、死ぬのが自分だけだとわかり、かつ、見ず知らずの他人に殺されるのだと知るやいなや、例外なく、激しく抵抗した。霧崎麻述も別段、苦しめて殺すわけでは決してなく、むしろ素人の自殺などより苦痛の少ない手段で、毎度逝かせてやっているのだが、ウィンウィンの関係とやらになったことは、これまで一度もない。

 普段ならば殺意など気取らせないが、発作に対する恐怖が、自分の脇を甘くしているのは、重々承知だった。桐島怜は、俺からの害意に気付き、これまでの自殺志願者たちのように抵抗するつもりなのではと、彼は思ったのだ。

 だが、桐島怜の『嫌』、は、彼の考えていたのとは、別物だった。

『死ぬ。でも、失敗』

『失敗?』

『死ぬの、誰にも、知られたくなかった。でも、見られた』

 霧崎麻述には彼女が、これまでの殺してきた自殺志願者たちのように、自分で死を選ぶという権利に縋っているだけには、どうしても見えなかった。

『死ぬのにも失敗。全部に、失敗。見つかりたくないはずなのに、死ぬのにこの場所を選んだ。誰にも知られたくなかったのに、いつか、誰かに知ってもらいたいって、思うようになってた』

『知るって……何をだ』

『正体』

 霧崎麻述は、一歩、彼女に近づこうとして、何かに躓いた。それは、本だった。自身の体調と、桐島怜に気を取られて気がつかなかったが、崖のところどころに、本が無造作に、散らばっていた。

 強い風が吹いた。本がぱらぱらと捲れあがり、音を立てた瞬間、風に足を取られたか、彼女の身体が大きく傾いた。

 身を委ねるように、彼女は目を閉じようとしていた。

 時間が無かった。保身のために、反射的に体が動いていた。霧崎麻述は足元の本を手に取ると、大きく振りかぶり、こともあろうか、崖の向こうに消えゆく桐島怜に向かって、投げつけようとしたのだった。

 人が、身内以外の弱者を労わるときと言うのは、往々にして、自分がそうならないという根拠のない自信があるからだ。無責任な立場からなら、人はどれだけでも、優しくなれる。だが、彼は今、死にかけているのだ。情けは無用。

 何が何でも、彼女を自分が殺したことにしなくてはならなかった。

 しかし、本を持つ腕を振り上げた瞬間、霧崎麻述の腕が、止まった。驚きのあまり、発作さえ、一瞬吹き飛んだ。彼は、石のように動かなくなった自分の右手を凝視する。

 そして再び、視線を戻した時、桐島怜の姿は、どこにもなかった。

 崖の下を覗きこんでも、桐島怜の死体は、見つからなかった。崖の途中に引っかかってもいなかったし、海に浮いてもなかった。

 桐島怜の存在が夢幻だったような錯覚を覚え、霧崎麻述は、彼女の痕跡を探し、周囲を見回した。

 離れたところに、彼女の持っていた空っぽの封筒だけが、風に飛ばされたものの、海には落ちずに残っていた。霧崎麻述は縋る様にそれを握ると、持っていた本を重石にし、再び飛ばされないようにしてから、その場を去った。桐島怜の痕跡が消えるのは怖かったが、それを持って帰るのはもっとごめんだ、という気持ちから来た、彼らしくもない、中途半端な判断だった。

 自分が、生まれて初めて、殺人を躊躇したのだと気付いたのは、宿舎のドアを閉めた後だった。

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