第14話霧崎麻述と桐島怜③
夜になり、宿舎の部屋で布団をかぶった後も、不安は私から離れてくれなかった。時刻は十一時を回っていた。雨はあれから、強くもならず、弱くもならず、降り続いている。町に降る雨とは違い、葉や土、海などによって受け止められるためか、雨音がずっと、柔らかい気がする。
桐島怜は、今、何をしているのだろうか。
考えたくないのに、頭に浮かんでくるのは、そのことばかりだった。
『桐島怜?』
崖から逃げ帰った後、寄宿舎のエントランスで、偶然にも霧崎麻述と対面した私は、その名前に心当たりがあるかどうか、彼に尋ねた。別に、彼が知っていようがいまいが、どうでも良かった。私を不吉な気持ちにさせるその名前を、誰かと共有したかっただけだった。
『誰だそれ。うちの学年にそんな女子いないぞ。高等部にも中等部にも、いなかったとおもうけど』
彼の脳には、全校の女子の名がインプットされているようだった。そしてやはり、彼女は章連とは無関係な少女なのだ。
それが確認できた途端、肩の荷が下りたような気がした。私は、崖の上に妙な少女がいたこと等を、彼や、他の先生たちに相談する必要はないと判断した。学校と関係ない以上、放っておけばいい。そう思った。
だが、時が経つにつれ、恐怖がぶり返してきた。 彼女は、自分のことを幽霊と言っていたが、まさにその通りで、実態を何一つ掴めないことが、恐怖を加速させていた。
少しでも、幽霊の正体みたり枯れ尾花の心境になりたいあまり、私は彼女の名前を、スマートフォンで、ネット検索にかけてしまったのだった。
トップに出てきたのは、ネットニュースの、数行に満たない小さな記事だった。二年前のものだった。桐島怜という名前の中学生の少女が、失踪したと、記されていた。同姓同名だろうかと思ったが、この県の学校の生徒だということで、恐らく、彼女のことに、違いなかった。顔写真や、連絡先などが記載されていなかったが、未成年の失踪の扱いは、存外そんなものだと聞いたことがある。小さな子供の場合や、明らかに事件性のある状況以外は、家出と捉えられがちで、警察も積極的に捜査は行わず、せいぜい、補導に引っかかった際に、親に連絡がいく程度のことだとか、なんとか。
その桐島怜が、二年の内に発見された、という情報は、どこにも無かった。
ということは、二年間失踪していた少女が、なぜか地元に帰ってきて、あんな崖の上に、ぶらりと姿を現したということになる。
まさに、ミステリーだ。
『今日しかない』
彼女はそう言っていた。私は改めて記事を読みなおすと、彼女の捜索届が出されたのが、二年前の、まさに今日であったことに気がついた。
これは一体、何を意味しているのだろうか。
『雨が、降ってしまったの』
彼女は、何をやろうとしているのだろうか。
「ああ、もー……」
明日も仕事があるというのに。
布団から抜け出すと、パジャマの上から直接合羽を羽織り、部屋を抜け出した。見回りの先生に、同じ先生である私が捕まってしまうようなヘマになるのだけはごめんだったが、その心配もないだろう。見回りルートのマニュアルも、私が作ったのだから。
どうせ、寝られそうもない夜だった。二段ベッドの上で、ドアが開くのに気づく様子もなく、町合先生の歯ぎしりが続いていた。
懐中電灯を握りしめ、ゆるくなった足場に足を取られないよう気をつけながら、木々の間を抜ける。地面は最悪だったが、雨は結果的に私の味方をしてくれた。ヘビや虫は濡れるのを嫌い、自分たちの巣に引きこもっているようだ。
ビニールテープを超えると、妙なものが、目に入った。
灯りだった。林を抜けた先に、白い光が見えた。海兵の人魂でも、海の上に浮かんでいるように見えるが、そうではない。足元が見えなくても、私は林の終わりから、崖の上に足場が続いていることを知っている。地面の上にいるなら、少なくとも、海の上にいる幽霊よりは親近感も湧くというもの。
林を抜けた。私は懐中電灯で足元を照らしながら、ゆっくりと、崖の上を歩いて行く。
ここまでくればもう、光の正体ははっきり見えた。
それもまた、懐中電灯の光だった。
固い地面に突き立てられたビーチパラソルと、その下で折りたたみ椅子に座る桐島怜が、浮き上がっていた。
桐島怜は、懐中電灯の明かりを頼りに、読書に励んでいた。
「幽霊さんでも、リフォームなんてするんですね。死んでいても気になりますか、雨風というのは」
驚かせようと思って、急に声をかけたつもりだったが彼女は何の反応も見せなかった。
「昼間は、衝撃の出会いでしたね。私は今日一日中、あなたのことばかり考えて過ごしていたのですが……あなたが本当に幽霊だったなら……あなたを幽霊と思えたなら、またこの場には来なかったでしょう。私が、あなたを気にしていたのは、どこからどう見ても理性を失っていない普通の人間であるあなたが、こんな場所にいることの動機が、さっぱり理解できなかったからです。ですが正直、まだいるとは思いませんでした。幽霊ならともかく、人間なら、雨に打たれ続けるのは耐えられないはずですしね」
桐島怜は、本から視線を上げず、私の言葉が聞こえていないかのようだ。私は勿論責めない。無口な子は嫌いではないし、どちらかと言えば、親しみも湧くくらいだ。
「それを、こんな方法でカバーするなんて」
ある憶測が浮かんだ。
彼女は幽霊では無いし、そして、パラソルも、椅子も、彼女が望めばこの場に表れるようなものでもないはずだ。
つまり彼女は、これらを、どこかで調達してきたことになる。その上、着衣もちゃっかり、昼間のそれとは違っていた。
「あなたは、桐島怜さんではありませんね」
人が断言するときには二種類ある。自信があるか、さもなくば、はったりのどちらかであり、今回はどちらかと言えば後者だった。
桐島怜はこの近隣に住んでいるのだろうか。バスでここまで来た時は、この周囲に家がある気配は全くしなかったけれど。ともかく彼女は、これら一式を、一回この崖から離れて、どこかに取りに言ったということになる。そう言った芸当が、二年間失踪していた人間にそぐわない、という印象だけが、その根拠だった。
彼女は本を閉じ、顔を上げ、私を見た。そして、何か言いかけようとしたが言葉が思い浮かばなかったかのように、あるいは単に興味が失せたかのように、再び、本に没頭し始めた。
「喪に……服しているんですか」
再度の、はったり。最初私は、その言葉も、彼女を動じさせることはできなかったのだと思った。だが彼女の表情を見て、私は怖気立った。
彼女は、笑みを浮かべていた。
彼女の懐中電灯の灯りは、彼女の周囲も仄暗く浮かび上がらせていたが、昼間、野ざらしにされていた本たちは、どこかに片づけられたようで、消えていた。
彼女の読んでいる本は、パラソルなどと一緒に、新しく持ってきたのだろうか。昼間、地面に散らばっていたものと同系統の古書に思われるが、その中に、こんな凄絶な笑みを浮かべさせるユーモアが書かれているようには、どうしても思えなかった。
やがて、耐えきれなくなった彼女が、いよいよ声を上げ始める。最初は、小さく擦れるような音だったが、次第に大きさを増していく。海岸で遊んでいた生徒達の輪に、そのまま加わっても違和感がないような、明るさを宿していた。彼女の口を使って、別の誰かがしゃべっているかのような。錯覚を覚える。腹話術の人形のように。それこそ、幽霊に取りつかれたかのように。
「あなたを見ていると、昔の自分を思い出すよ」
その言葉は、これまでのような、冷たいぶつ切りの言葉とはかけ離れた、馴れ馴れしさに満ちていた。
はったりを二回かましていたのが、いい準備運動になった。おかげで、彼女の様子に臆して、声が詰まるようなことも、無かった。
「桐島怜さんは、二年前のこの季節に、失踪しています。そして、桐島怜さんと名乗ったあなたが、桐島怜さんの幽霊だと自称したことから、推測するに」
彼女の言葉を無視して、私は自分の考えを最後まで披露した。
「桐島怜さんは二年前に死んでいるんじゃないですか? それも、この、崖で」
「色々調べたんだね」
悪趣味を責める響きがあった。私はポケットからスマートフォンを取りだし、苦笑いした。潔さに恐れ入った、というように、彼女はふざけたように両手を上げながら、言った。
「怜も、いつもこんな風に、本を読んでたよ」
桐島怜……否、桐島怜を騙る『彼女』は、愛おしげに、本の背表紙を撫でた。
「話しかけないでっていうオーラを出しながら、自分の席で。みんなからは嫌われてた。誰かが話しかけても、本を読み続けるから。『あなたの世界より、自分の世界が大事だ』って、見せつけるみたいに……ねえ。先生はどうして、また私に会いに来てくれたの?」
「それは……その、あなたがミステリアスすぎて、眠れなくて」
「じゃあ、明日に支障が出ないようにしてあげるね」
恩着せがましい口ぶりだが、どちらかと言うと『彼女』の方が話したがっているようだった。本とは、『彼女』の語った本物の桐島怜がそうしていたように、一人を、孤独を埋め合わせるため、自分の世界に引きこもるための道具でもある。そういう意味では、『彼女』に本は向いていないのかもしれない。見たところ、『彼女』は、一人で耐えるより、人に話して楽になるタイプのようだった。
「私もそう。私も、怜のことが気になって、あの頃は夜も眠れなかった。……百合じゃないよ? 怜とは、中二のクラス替えで、一緒になったんだ。あの頃私は、どんな本でも読むとすぐ眠くなる人だったからさ。怜は休み時間中いつも本を読んでるのに、どうして授業も眠らずに聞いてられるんだろうって、不思議で不思議でたまらなかったの。でも、他の人が怜に感じる不思議とは、絶対どこか違ってたと思う。私だけ、怜のこと嫌いにならなかったのが、その証拠。……先生がまた会いに来てくれたのも、ずぶ濡れの私に、他の人が持たないような興味の持ち方をしてくれたから、だよね?」
『彼女』は、これまでおとなしかった分を取り戻すかのように、饒舌だった。
「怜から無視されても、私は何度でも話しかけたよ。怜のこと、嫌ってなかったけど、教室の中じゃ浮いてたからさ、角を取んなきゃいけないと思って。義務感、みたいな? 今だったらもっと違うやり方で仲良くなってたと思うけど……懐かしいなぁ……怜が、休みの日は市の図書館にいるって聞いたから、待ち伏せしたりしてたんだよ? 信じられる? 友情の押し売り通り越して、完全なストーカーだよね。思えば結構、私もあのころから……」
変わってる、普通じゃない。子供ほど、そういう言葉を、身内で回しあったり、自分に対して言いたがるものだけれど。
「おかしかったんだよね」
『彼女』は自身の特異を、全く鼻にかけない台詞でもって評した。
「怜もおかしかった。結局二人でおかしかったから、私達は仲良くなれたんだと思う……そう、なんだかんだ言って、仲良くなれたんだよね。ある日曜日、いつもと同じように図書館で待ち伏せしてたら、怜がいきなりキレてきたの。『あなたのやってること、犯罪!』って」
「……まあ、当然の反応ですね」
「言い返したわ。『あなたにそんなこと言う権利ない』って」
「いや有るでしょう」
「あの時はそう考えられなかったのよ。教室の規律を乱している彼女が、犯罪がどうとか言うことに、反感を覚えずにはいられなかったの」
中学二年生の少女たち。独善を誰もがこじらせる中、彼女はその最たる部類だったということか。そして、狂信的な季節は時に、一過性と呼ぶにはあまりにも激しい関係を構築する。
「それから、図書館の中で大喧嘩。そのうち司書さんが来て、二人ともつまみ出された。それで司書さんがね、怜にこう言ったの。『もしかして、いつも来ている子の、妹さん? お姉さんはあんなに礼儀正しいのに』。帰り路は二人で大爆笑よ。いや、怜は口もと歪めてただけなんだけどさ。迷惑そうにも見えたし、笑ってるようにも見えたから、私は好きに解釈することにしたんだ。……そうなんだよね。あの時から怜は、そういう子だった」
そういう子。単に冷徹、という以上の意味が、その言葉には含まれている気がした。『彼女』の熱血が、私や、霧崎麻述とその取り巻き達と同じような、特異であったように。
「ともかく私は、怜のその表情に、許しを貰ったような気に、なってたんだよね。例えるなら、一緒の悪戯、後から振り返ったとしても、誰の苦にもならない罪を、共有したようなさ。私が人を好きになるには、十分すぎる理由だった。私が、人から好きになってもらったって勘違いするには、十分な出来事だった」
勘違い、という言い方に、今の『彼女』と、かつての『彼女』の違いが、現れていた。昔の『彼女』は、桐島怜の中に、友情を感じて疑わなかった。だが今の『彼女』が過去を振り返った時、桐島怜との間にあったはずの友情は、不確定的で、『彼女』が一方的に作り上げた産物なのか、それとも、二人の手で高くした砂山なのか、判断のしようが無くなっていた。それを確定できるのは、桐島怜だけだったのに、彼女は、もう、この世の人では無いのだ。
「それから、図書館には二人で行くようになった。私は小学生みたいに、図鑑ばっか見てたけどね。それでさ、仲が深まったと思ったところで、一学期最後の週に、夏休みどこかに遊びに行こうって誘ったんだ。ははは、初恋かっての! ……断られるかと思ってどきどきしてたけど、怜はオッケーしてくれた。いつも遊んでるようなとこでもよかったんだけど、どうせだから、私の知ってる最高の場所に連れて行った。それが、下の浜と、ここの崖。忍び込む度胸があって、宿舎もほとんど無人屋敷みたいなものだって知っている人間にとっては、ここ以上の遊び場は考えられなかったもの。……私たち以外誰もいない浜で、一日中好きに遊んだわ。それで、一日の最後に、この崖の上に、怜を連れてきた。私が最初にこの崖の上から夕陽を見たのは、小学生の頃だったけど……怜と一緒に来た時は、それまでで一番、感動したんだ。碌に海にも入らずに、本ばかり読んでた怜が、はじめて本を閉じてくれたから」
『彼女』は、目を閉じる。万感の思いは、彼女の中で、全く色あせていないようだった。
「怜が死んだのは、一年後、中学三年の夏だった」
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