第13話霧崎麻述と桐島怜②
この季節にしては、細かくて冷たい、雨だった。息を吸うたび、唇の前で雨が霧に形を変え、口の中に入ってくる。
下から、風が吹きあがってくる。私は足元を見た。崖の横幅は、私が想像していたのよりずっと、狭い。浜辺から見上げていた時は、この崖を城壁のようだと思っていたが、いざ自分がその上に立ってみると、まるで、立てた食パンの耳の上にいるみたいに、心許なかった。落ちれば確実に、死ぬ高さだ。濃い赤茶色をした地面は、今立っている場所がまぎれもなく、自然によって形成された足場であることを主張していたが、土の上にいるとは思えない不安感に、私は苛まれた。強い風が吹いたら、吊り橋の上のように揺れてしまうのではないかと、反射的にしがみ付けるものを探したが、当然そんなもの、ありはしなかった。
そんな場所に、彼女は、傘も差さずに存在していた。
「誰」
彼女が、私に問うた。
崖の最前線。空と大地、海と雨が、丁度重なり合う場所。そこに少女は立っていた。頬を上気させ、風邪でないなら、たった今まで恋人と会っていたかのような佇まいだ。私のことをまるで、逢瀬のお邪魔虫を見るような目で、見詰めている。
「私は……百合屋かおる子と言います」、
そう言った後、私は、自分がこの場に来た理由は、好奇心に突き動かされたからだけだということを自覚した。
「何」
だから何?
何をしてる人なの?
ここに何をしにきたの?
桐島怜は、随分、言葉数の少ない喋り方をする少女だった。彼女の質問は、いかようにも解釈することが出来、私には、その中から都合のいいものを選んで答える権利がある様に思えた。
「私は……教師、です。さっきまで、下の砂浜で遊んでた子たちの、引率をしてます。あなたは……章連の生徒さんですか?」
学校に対する、殆ど芽生えたての帰属意識が、私にそんな質問をさせた。彼女は、ジーンズにパーカーというスタイルだ。臨海学校は、章連の生徒達も、いつもの制服ではなく、各自「動きやすい服装」で参加してもらっているので、外見で判断することが出来なかった。もし我が校の生徒だった場合、連れ帰った後、町合先生辺りに、説教をして貰わねばならない。しかし、私は彼女がこの質問に、ノーと答えるであろうことを、ほぼ確信していた。点呼の結果、生徒が全員揃っていたのは確認済みだし、また、学年全員の顔を覚えていたわけでは無いにしろ、桐島怜と言う名前も、目の前にいる少女も、学校で見た覚えが無かったからだ。
彼女は私の質問に、質問で返した。
「先生、百合?」
「…………」
少なくとも、ユリ目ユリ科ユリ属の多年草であるかどうかを聞かれたわけでは無いことだけはわかる。
だがもし、その質問が、私の考えている通りの意味ならば、これほど状況にそぐわなく、聞く必要のない質問もない。
サブカルチャー、特に、マンガ・アニメ系をかじったことのある人間なら知っているだろうが、百合とは、花の名前であるのと同時に、少女同士の恋愛、ひいては、それを描いたマンガやアニメを指す言葉でもある。比較的有名な隠語であり、信じられないという人間はグーグルで百合と検索してみるといいだろう。
百合、という言葉に、これ以上、私の知らない意味がない限り、彼女は私に、同性愛者であるかどうかを、訪ねているという可能性が濃厚になってくるのだが。
……一体なぜ。
私は、隣県くんだりまで来て、崖の上で雨に打たれながら、初対面の少女に、何の言質を取られようとしているのか。
そう言えば、同性愛者はマイノリティ故に、地域ごとに、同性愛者の出会いの場となる店や場所が、自然に出来上がると聞いたことがある。
まさかここが、そうだとでもいうのだろうか。
いやいや、まさかそんなはずはないだろう。
女に飢えた霧崎君でさえ、こんな雨の中、崖の上で盛り合ったりは……するかもしれないが、常人はしないはず。
ならやはり、彼女の質問には、別の意図があるのだろうか。
そうだ、百合の花言葉は、純潔。彼女は、私が処女であるかどうかを問うているだけかもしれないではないか。
…………。
考えている間に、感覚が麻痺して行くのが恐くなったので、この辺りで口を開くことにする。
「私は……ゆ、百合であって、百合ではないものです、はい」
「いけるくち」
「いけませんっ!」
彼女の言う百合は、やはりあの百合のようだった。
「わ、私はですねっ、確かに、幼少の頃はそんな時期もあったような気がしますが、今では男の子が好きなんですっ! ……いえ、まあ確かに、初恋以来、女の子も男の子も好きになったことはないので、正直自分でもよくわかってないっていうか、ジェンダーがシュレディンガーしてる状態なんですけど、それでも! その!」
合羽の上から胸元を抑えながら、後ずさる。もうこうなったら、相良さんを紹介するしかないのかと覚悟を決めた時だった。
「くすっ……」
彼女が笑った。
「冗談」
冗談の時には、冗談を言ってるような顔をして欲しいものだった。年上をからかうのは感心しない、という態度を作りながら、彼女に質問した。
「あなたは、ここで何をしているんですか」
「……」
「それは……」
私は、彼女の周囲に散乱するものに目を向けながら言った。
「それらは、何ですか?」
彼女を中心にして、地面に、本が散らばっていた。いずれも文庫本のようだった。どの本も、カバーはされていない。古書店で、誰にも触られないまま日に焼けたような色合いをしていて、本棚に並べれば、さぞ味わい深い賑やかしとなってくれたことだろう。だが今となっては、無残にも雨と土に汚れ、どこにも帰ることの出来ない死体たちであった。私は、霧崎君の家の本棚を思い出した。地面に散らばる彼らは、マンガやライトノベル達とはまさに対極の、老獪な知恵を与えてくれる、名作ばかりだ。
なぜこんな場所に、本が散乱しているのかと言う疑問の前に、静かな怒りが、彼女に向けられた。本に敬意を払えないのは、私にとって、お金を粗末にする以上の悪徳であった。私の声に含まれた、冷ややかなものを受け取ったからなのかどうかはわからないが、彼女は、私の問いには答えず、沈黙を貫く。
彼女の後ろには、本を入れてきたと思われるリュックサックと、靴が置かれていた。
靴は、二足揃えて崖の縁に置いてあった。それは、あらゆるファクターを抑えて、ある動機を、私に連想させた。
「死ぬん、ですか」
それ以外ないだろうと、言った後、気がついた。
高校生と思しき少女が、平日にこんな場所にいる理由として、これ以上ふさわしいものがあるだろうか。
彼女は、何も答えない。後ろで灰色の海が、数えきれないほどの雨粒を、音も立てずに飲み込んでいる。
「お、おやめなさい。あなたが飛び降りるというのでしたら、私だって飛び降りますよ。私を死なせないでください。ゆーじゃんぷ、あいじゃんぷ!」
「パクリ」
「う……」
慣れない説得に、つい、大作の権威を借りてしまった。
目の前で死なれたら寝覚めが悪い、などと思ったわけでは無かった。むしろ、逆だった。目の前で死なれて、寝覚めが悪くならなかったらどうしようと、思ったのだった。
例えば今、彼女が崖から飛び降りたとして。
自分が激しく動揺するのか、それとも全く気にしないのか、私には分からなかった。どっちにでも転ぶ気がした。宙を舞うコインが、地面に落ちてから初めて、表か裏のどちらかを示すように、彼女が飛び降りた後に、初めて自分の気持ちが確定する気がしたのだ。
霧崎君と初めて会った春の日、他殺体を見た時の私とは、何もかもが違っていた。
なるようになれとは、思えなかった。
私の内心を見透かし、なだめるように、彼女が言った。
「死なない」
私に説得されたから、ではなく、もともとそんなつもりは無かったように見えたのは、私がそう思い込みたかったからだろうか。
「私、幽霊」
だが、続けて彼女が口にした言葉を、私は理解できなかった。
「成仏するなら、今日しかない。どうしようか迷ってた。雨が降った。雨が降って、しまったから」
彼女は、崖の縁、並べた靴の隣に、歩いて行くと、立ち止まって振り返った。誇張でなく、雨脚が一瞬でも強まれば、目の前から彼女は消えるだろう。
「押して、みる?」
近寄る度胸など、あるわけなかった。額に、汗が垂れる。本来、彼女が感じるべき恐怖が、私に流れ込んできているかのようだった。
「い、いや……」
私は耐えきれず、彼女から視線を逸らし、後ろを振り返った。木々の向こうに、宿舎が見える。もう一度、崖の方角をのぞむ勇気は、無かった。振り返って彼女がもしいなかった時、私はどうなってしまうのか。私は、林の入り口に向かって、一歩だけ、踏み出してみた。呼び止める声は無かった。それが、最悪の憶測に、拍車をかけた。
私は後ろを振り返らず、一気に、宿舎の入り口まで駆けた。
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