第11話霧崎麻述と森田友一④

 ヒーローはいつでも、降って湧く。

 私は、空想の中の、小学五年生の教室に、引き戻された。

「百合屋さんは悪くないと思います」

 異質な感想文のせいで、吊し上げられていた私は、その声がした方に、縋るように振り向いた。最初、誰が、私を庇ってくれたのか、分からなかった。

 先生が、どういうこと? と、その女子に向かって質問して、私は初めて、私を庇ったのが、自分の仇敵だということに気がついた。

 その女子は、いつも私を目の仇にしている女の子だった。

 大人から見れば、同じ年齢の子どもなど、似たり寄ったりなのだろうが、子どもたち同士にとっては、実はそうではないのだ。子供の群れの序列は、大人の性質をより多く持つもの

が上に立てるようになっていて、女子は特にそうだ。ドッジボールをする男子たちを冷めた目で見ながら、「なんで日本の学校って、グラウンドが芝生じゃないのかしら」とか言えてしまう、彼女のような女の子が、とても、同性には魅力的に思えるのだ。今思うと、あのセリフは多分、親の受け売りだったのだろう。母親はきっと、彼女がよく穿いていた、動きにくそうなベルトの巻かれたデニムに、砂埃がつくことを、快く思っていなかったに違いない。身近な大人の口にする言葉から、センスのいいものを切り抜いて自分の台詞に出来る子どもに、カリスマは味方するのだ。

 その魅力に加えて、背の順に整列した際、彼女は後ろから二番目だった。男子の行動に堂々と意見するには、十分なポテンシャルであった。

 彼女は、男子が隠れて持ってきた携帯ゲーム機を嗅ぎつけて先生にそれとなく告発するスペシャリストであり、どちらかというと男子サイドだった私は、彼女と必然、敵対することになった。もともと私は、彼女のことを好きでも嫌いでもなかったのだけれど、彼女は男子が嫌いで、嫌いなものの味方は嫌い、という理屈になるのが、子どもというものだ。男子とのケイドロの後、手を洗い終えた私の爪を見た彼女が「まだ黄色いよ」と煽り、彼女のツヤツヤの爪を見た私が「ニスでも塗ってるの?」と言い返し、取っ組み合いをしたことがあるが、あれが、私達の関係を、憎みあいに昇華させた。私は、男子以外では初となる、彼女のターゲットリスト入りとなった。服を汚し、親から叱られた恨みからだそうだ。

 そんな彼女がいま、私を庇ってくれている。

「色んな考え方の人がいるのは、当たり前だと思います。大事なのは、なんでいけないのか、皆で話合って、百合屋さんにちゃんと教えてあげることじゃないでしょうか」

 彼女の発言は、効果覿面だった。確かにそうだな、と、クラス中から声が上がった。こうもあっさり、流れが変わったのは、私を庇ったのが、私の友達ではなく、私を嫌っている彼女だったからだろう。

 嫌っている相手の意見も、正しいと思えば受け入れる度量の大きさ。子供たちはそこに、確かに大人の影を見た。いや、実際は大人の中にもそんな器量を持つ人間はごく僅かしかいないのだが、子どもと言うのは得てして、大人が、自分たちの想像を絶する立派な存在だと信じているのである。

結果、公正な討論会が始まった。

公正とはつまり、多数派が勝つというシナリオに他ならない。状況的には、多数決は討論が始まる前には終わっていて、つまり、議論が始まる前から、私が間違っている、と言う結論が決定づけられている、ということだった。一人でクラス全員と対峙して、大衆を寝返らせる権利を、私は与えられこそしたが、そんなことが出来る子どもは、子どもじゃない。言うなれば、禊のようなものだったのかもしれない。クラスに禍根を残さず、『いつも通り』に直すための、儀式だ。誰も私が、人の心を動かし、新たな価値観を与えることを期待していなかった。その能力が私にあると思っている人間も、一人もいなかった。それが無性に、私は腹立たしかった

「今日の金賞は、いい議論のチャンスをくれた、百合屋ちゃんでいいと思う人―」

 授業の最後に、みんなから拍手を貰っている間も、私は何か言わなきゃいけないとおもいつつ、何も言えなかった。

 家に帰る途中も、ずっと、授業のことを考えていた。

 何かがおかしかった。あの時、皆の手を鳴らす音が、私の心に蓋をかぶせていた。その蓋を吹き飛ばすには、勇気の圧力が必要であった。

 他人の心に訴えかけるには勇気がいる、ということは私でも知っている。

 しかし本当にそれは正しいのだろうか? 弱い人間の心中に、誰よりも素晴らしいアイデアがあるとして、勇気というパスコードが無いばかりに、それが世界に表明されないのが、損失以外の何だというのか。

 私には、どうしても我慢ならなかった。

 何かが、必要だと思った。弱い人間でも、世に何か問うことのできる道具がないものか。

 そんなことを考えながら、歩道橋の階段を上りきった時だった。

「泣いてんの?」

 歩道橋の真ん中に、彼女がいた。

「せっかく助けてあげたのに」

 泣いてない、と言うと、そうだよね、と彼女は簡単に納得した。先生に対する時などは、礼儀正しく振る舞う彼女だが、普段はどちらかと言うと斜な方で、今の私には、それが心地よかった。身体の中に、彼女の声を聞くと安心するシステムが、出来上がりつつあった。

 横を素通りしようとすると、彼女が通せんぼした。

「ウチに遊びに来なよ」

「……え」

「今日。母さん、帰って来るの遅いし、丁度いい」

 急な誘いに、驚いた。友達の家に遊びに行くときには、数日前から、誘う方も誘われた方も、親の了解を得ておくことが、私の常識だったから。

「いいよ」

 だが、私はすぐに了承した。二つ、理由があった。一つは、その日は私の両親も、帰って来るのが遅くなる、と言っていたので、ちょっとクラスメイトの家に寄って帰っても、お咎めなしだろうと思ったこと。もう一つは、純粋に、彼女と仲良くなりたかったからだった。当時、私の対人関係に対するスタンスは、「誰とでも仲良くなれるし、なるべきだ」と言うものだった。その考えは、散々喧嘩した相手であっても、変わらなかった。仲良くなるのに、今日以上に適した日は、もう来ないだろうし、誘ってくれたということは、彼女にもそういう意思があるということだと思った。

 彼女の家は、駅の近くにある三十階建てタワーマンションの、十五階の一部屋だった。玄関から上がると、すぐ右の部屋が彼女の部屋だった。

「お茶と、おかし、持ってくるから」

 そう言い残して彼女が部屋から出た後、私は部屋の中を見渡した。特に目を引いたのは、大人の身長ほどはあるだろう、大きな本棚だ。子ども部屋に設置するにはいかにもオーバーサイズな品で、案の定、棚の半分ほどしか、本は詰め込まれていなかった。それも、少女マンガが、殆どだった。棚の、本が入っていないスペースも、有効活用されていて、サボテンの鉢や、有名な外国のアニメキャラクターフィギュアなどが並べられていた。可愛らしい雑貨屋のようだった。私には、この本棚が彼女そのものだと感じた。クラスの、他の子たちの家には、こんな本棚は無いに違いない。私の部屋なんて、カブトムシが死んだ後も土を入れっぱなしにしている虫籠なんかが、まだ放置されているのだ。

「それ、気になるの?」

 彼女が、盆を持って戻ってきた。その上に乗っていたのは、ティーカップとクッキーだった。麦茶とポテトチップスを期待していた私は、落胆した。

 彼女が、それ、と言ったのは、棚の、丁度私達の身長と同じくらいの高さに陳列されている、ガラス瓶たちだった。発色の良い液体で満たされていて、宝石みたいだった。私は特に、注目してそれらを見ていたわけでは無かったが、「そうだよ」と、彼女に返した。私がガラス瓶を気にしている、と思った彼女が、何だか嬉しそうに見えたからだ。

「試作品」

「しさくひん?」

「お母さん、香水をつくる仕事をしてるの。会社で、試しに作ったのを、時々、持って帰ってくれるから、それを飾ってるんだ」

「綺麗だね」

「本物の香水瓶は、もっと綺麗なんだよ……興味ある?」

 彼女は、本棚から雑誌を引き抜くと、そのままベッドに腰掛けた。私が、彼女の隣に座ると、少し、驚いた顔をしていたが、彼女はすぐさま、香水の講釈に映った。

 私はもっぱら聞き役だった。彼女の口から出てくるのは、ファッションの話や、少女マンガの解説など、普段の私からは縁遠い話だったが、それでも私は聞き入った。彼女の話し方がうまかったのかもしれないし、私の中に、私が思っていた以上に女の子としての自我が、育っていたのかもしれなかった。

「……百合屋さんさ、今、好きな子いる?」

 その質問をされた時、私は酷く驚いた。そんなことを私に聞いてくる女子は、これまでいなかったからだ。

「いないよ」

 彼女は、信じられないものを見る目になった。

「すごい、百合屋さんみたいな子、はじめて」

「え、そう?」

「うん。『いない』って答える子は多いけど、多分本当にいない子は、クラスに百合屋さんだけだよ」

 感心されて、悪い気はしなかった。どうして褒められているのか、理由は分からなかったけれど。

「私は、いるんだ」

 彼女はそういった。

 私は合点が言った。今日彼女が私を庇い、その流れから家に招いたのは、この話をするためだったのだ。私は、男子との付き合いが多い。大して彼女は、女子とばかりつるんでいる。私に売った恩が有耶無耶にならないうちに、間を取り持たせようというのだろう。

 彼女の打算を知っても、私は落ち込んだりはしなかった。助けてもらった時に嬉しかったのは事実であり、彼女側の動機がどうであれ、私の感謝が薄れるわけはない。

「……だれ?」

 私は、仲のいい男子たちの顔を、一つ一つ思い浮かべていった。みんな、よく、彼女のことを、おせっかいだとか、告げ口女だと言っているが、何人かは、本音のところでは彼女のことを気にしているのを、私は知っていた。

「私が、何とかできる相手だったら、力になるよ」

「……ほんとに?」

「うん!」

 私は、彼女がすぐに、私の耳に口を近づけてくるだろう、と思った。家の中に誰もいなくとも、小学生の女の子が、好きな相手の名を誰かに教える時に、いつも通りの声量を出すわけがないというのが、私の常識だったからだ。

 だが、私の予想に反し、彼女は、ベッドから腰を浮かせ、本棚へと近づいて行った。

「香水、興味あるんだよね」

「え? うん、多分……」

「好きな香りとか、ある?」

「ええ? そ、そうだな……」

 好きな香り。雨の匂いや、猫の体臭は好きだが、そんな香水が無いことぐらいは、知っていた。苦し紛れに、私は解答した。

「ラ、ラムネの、匂い……?」

 彼女が可愛らしく笑う。ブルーの液体で満ちた瓶を、手に取り、私の方へ歩いてくる。

「使い方、知ってる?」

「う、ううん……知ら」

「こう使うんだよ」

 彼女は、瓶を持った手を、私の服の裾に滑り込ませた。胸が急に、ひんやりとした。思わず飛び退こうとしたが、服の中に入り込んだ彼女の腕が邪魔でバランスを崩し、ベッドに倒れ込んでしまう。

 気がつけば、天井のライトを背にして、彼女が私に覆いかぶさっていた。

 服の中で、彼女の爪が、香水を振りかけた場所を、掘り起こすようにひっかいた。痛みで声を上げる隙さえ与えず、

「好きよ……百合屋さん」

 彼女は、私から考える力まで、奪い去った。私の胸で温められ、揮発した香水の香りが、二人の間に漂っていた。そのヴェールを取り去る様に、彼女は私に体を密着させる。

「跳ね除けないの……?」

「あ……」

「暴れて、抵抗して、いいのよ?」

 その言葉を聞いた私は、彼女の下から逃れようと、身体をよじらせた。ここで嫌がらなけば、彼女を受け入れることになると思ったからだった。同性に密着されることに対する嫌悪感よりも、人の身体を受け入れることに対して、拒絶感が湧き上がってきた。

 うまく、行かなかった。首を動かして、顔を背けることや、肘から先をばたつかせることは出来たが、それ以外は、ぴくりともしなかった。

 前にも、こんなことがあった気がした。そうだ、爪がきっかけで、取っ組み合いになった時だ。あの時も、身長の高い彼女に、私は先生が来るまで、上から抑え込まれていたのだった。私は、彼女の顔を見た。あの時とは全然違う顔をしているにもかかわらず、彼女もあの時のことを思い出しているのが、何故かわかった。

 次第に、私は抵抗できなくなっていった。体力はまだ残っていたが、呼吸が追い付かなかった。

 学校でケンカした時は、ここでお終いだった。だが今私たちがいるのは、彼女の部屋で、家の人もいない。

 彼女から、『この後』を奪う権利を持つ者は、誰もいない。

 彼女の唇が、私の頬に添えるように優しく触れた。彼女の息に合わせ、右頬の熱が、上昇、下降を繰り返す。

「ずっと……ずっと、好きだったの」

 彼女の熱い体の重さを、私は全身で感じている。彼女は、頬に唇をつけたまま口を開くので、漏れた吐息が、耳にかかり、経験したことのないむず痒さを、私に与えていた。

 彼女の体中が、脈打っていた。彼女の柔らかい身体の中では、血潮が、嵐の夜の波のようになっていた。

「これまで……たくさん、いじわるしてごめんね……本当は、だいすき……ずっと我慢しようって、思ってたのに……ケンカしたとき、涙目の、百合屋さん見てから、私、もう……」

 彼女は、私から、紙一枚分ほど、身体を浮かせる。それだけで、二人の間に寒気が滑り込んできたが、それが私を現実に引き戻す前に、彼女が再び、身体を密着させる。体勢を、立て直したのだ。彼女が、何をするつもりなのかわかった。

 私は、自分がどうするべきなのか、分からなかった。

 彼女は、私の動揺を全く汲まず、強引に、私の唇を奪った。

 長い、キスだった。

 快楽も、相手に対する思いやりもない、ただただ一秒でも長く相手とつながっていたいという、欲求を満たすための、口づけ。

 教室で庇われた時、彼女に感じた安心感。それを何百倍にも濃くしたような気持ちが、耐えることなく、湧き上がってくる。身を委ねて、心を許すのが、とても心地よかった。これまでずっと、誰とでも仲良くすれば、最高に楽しく過ごせると思いながら生きてきた。友達とは皆、限界まで、仲を深めてきたと、信じていた。でも違った。人と人との繋がりあいには、未知の領域がたくさんあって、彼女はそれを、私に教えてくれたのだった。

 それから、私と彼女の仲は、目に見えて良くなった。敵対していたもの同士の友情に、皆は何も疑問を挟まなかった。誰とでも友達になりたがる私と、思慮深い大人びた彼女とのことだから、理由なんて、何とでも想像できたのだろう。

 彼女と、恋に落ちていることは、誰にも露見しなかった。

 女の子と関係を持つことがいけないことなのかどうか、私には分からなかった。ただ、周りに言っていいことじゃないのは、分かっていたので、私も、誰にも相談しなかった。

 そういう関係になって、一か月が過ぎたある日のこと。彼女の部屋で、二人で布団にもぐっていた時、彼女が言った。

「作文のことだけど」

 私と彼女が、こういう関係になるに至った、あの作文のことだった。自分の表情が、僅かに翳ったのが分かった。

「……まだ、納得してないんでしょう?」

私は、あの時のことに対しては、彼女とこうなるきっかけをくれた、という感謝のみを持とうとしていたが、どうにもうまくいっていなかった。あの一件で表象された、私の持つ、他人との相違は、今では全くなかったことにされ、クラスメイト達は温かい友達のままであり続け、クラスの輪は存続している。あの授業が私に教えてくれたのは、私が、自分を表現さえしなければ、平和な日々が続く、ということだったが、そんな教訓はくそ食らえだと思っている自分も、確かに存在していた。

 彼女は、ベッドの外に出ると、本棚に近づいた。

「これ」

 本と本の隙間に挟まっていた一枚の紙きれを、私に手渡す。 彼女の本棚から引っ張り出されるにそぐわない、安っぽいビラだった。

 子供でもわかる適当なフォントで、県主催・小学生作文コンクール、と書かれていた。

「出してみたら?」

 彼女曰く、あの時題材となった物語は、有名な作家の短編集の一作らしく、このコンクールには、短編を題材にした部門もあるそうだ。

 そこに、あの時の作文を応募したらどうか、ということらしい。私は、彼女の意図が分からなかった。このコンクールに受かったからと言って、あの教室での評価が覆るとは思えない。

それに、恐かった。一度否定されたものを、もう一度評価の場に出す、ということが。

 だって、あの作文は。

「あれは、百合屋さん自身なんでしょう?」

 ぴたりと、言い当てられた。

「私、百合屋さんの作文、好きだったわ。世の中の基準で、良いとか悪いとか、分からなかったけれど……とにかく、好きだったのよ」

そう言われた時、初めて私は、クラスメイトの女子達が彼女に感じるのと、同じカリスマを、彼女に感じることができた。それと同時に、クラスの男子たちと一緒にいるうちに芽生えていた、私の持つ少年の心が、激しく、同い年の少女を求めているのが、分かった。

 私の内側で、その二つが混じり合った。テレビから流れてくるような、恋とか、愛とか、そういうものの意味が、今なら理解できるような気がした。

「百合屋さんなら、世界の方を変えられるよ」

 彼女に捧げられるものは、なんでも捧げようと、心に誓った。手っ取り早く、その日私は、初めて、自分から彼女にキスをした。

 作文は、規定上もう少しボリュームを増す必要があったので、私はその日から毎日、放課後は彼女の家に行き、感想文の続きを、思うままに書いた。数日の後、アップグレードとブラッシュアップを繰り返し、渾身の一作に昇華されたそれを、二人でポストに入れた。親にも内緒だった。結果は、四か月後だった。その間ずっと、秘密を共有し続けられることに、無邪気に胸を高鳴らせていた。四か月。小学生の私たちにとっては、永遠に一緒にいられるのと同じ意味だった。

 しかし、時間は、私が思っていたよりずっと残酷だった。あっという間に過ぎ去った、という意味では無い。永遠は終わらなかったが、私と彼女の関係は、その間に、融解したのだ。永遠の中で、全ては自然に帰っていく。私たちにとって、自然とは、成長のことであった。

 四か月。そんな短い間に、と、今となっては思えるけれど。

 その短い間に、色んなことが起こったのだ。

 最初の変化は、私について、気持ち悪い、と一部の女子たちが陰口をたたき始めたことだった。特に親しくしていた男子が、私に教えてくれたのがきっかけで、知った。

 私は多少、ショックを受けたものの、平気だった。女子同士では、よくあるレベルのものであったし、何より、私には彼女がいたからだった。

 だが、次第に、その彼女が、私を家に上げてくれる頻度が減った。作文を応募するまでは、家に上がるのを断られた日などなかったのに、そういう日が加速度的に増えていったのだった。

 そしてある日、忘れ物を取りに、教室の前に返ってきたときのことだった。教室の中から笑い声が聞こえて来た。女子のグループがまだ残っているらしかった。何となく嫌な予感がして、耳を澄ますと、案の定、彼女たちの会話は、男子に交じって遊ぶ私を、からかうものだったので、筆箱は諦めて帰ろう、と思った時だった。

 その輪の中の笑い声の中に、彼女の声も混じっていることに気がついたのだった。

 私は教室の前から走って逃げて、学校の外に出た。あの日彼女が、私を待っていた歩道橋を、泣きながら走り抜けた。

 私は、酷くショックを受けていた。

 彼女は見えないところでも、私を庇ってくれると、信じていたからだった。私が彼女と同じ立場だったら、絶対そうしただろうし、実際、私はこれまで、他の男子が彼女のことを悪く言っていた時は、注意するようにしてきたのだ。

 こんな裏切りがあっていいのか。脈が速くなるにつれ、血が、熱い悲しみを頭に運んでくる。

 ある疑念が、浮かんだ。

 最初に、私の陰口を言いふらし始めたのは、彼女だったのではないかいう推測。だがどうしてもその発想を、捨てることができなかった。

 彼女はずっと、大人のようで、子どものようでもあった。

 私が、少女であり、少年のようでもあったように。

 だが、最近の私の身体からは、少年らしさが徐々に消え失せ、代わりに全身から女の特徴が萌芽しかけていて、私はそれを恐れていた。このままいけば、胸は、絶対彼女より、目だって大きくなってしまう。

 きっと、彼女も、自身の変化を感じていた。彼女の場合、きっと変化は体だけでなく、心も強く襲っていた。

 私の胸が、他の子よりも早く膨らんでいくように、彼女の心の中にあった、子どもの部分が他の子より、誰よりも早く、すり減っていったとしたら。その過程で、私との関係、女の子同士の恋を許容できなくなることも、十分にあり得る話ではないのか。

 許容できなくなったからと言って、私をいじめることが、解決策になるわけではない。

 だが、例えば、私の、「自分を表現したい」と言う問題に対し、彼女は、「文章で書いて示せばいい」という、明確な回答を提示したが、「彼女が私に抱くべき気持ち」というテーマに、明確な解答なんて、あるのだろうか。秘密の関係が裏目に出て、誰にも相談できず、結果中途半端な手段で、感情を解決してしまうのも、致し方ないことなのではないか。

 事故にあったみたいに、何もかもがぐちゃぐちゃになったような気がした。

 あの時の彼女が、何を考えていたのか、正確にはわからない。

 翌日から私は、彼女に接するときは努めて、他の女子達と同じように振る舞った。その日からの彼女が、どこか心安らかな空気を纏いはじめたのを、私は見逃さなかったが、彼女のほうは、私が自分を偽って過ごしていることに、気付くことは無かった。

 それ以来、私の陰口をたたく者は消えたが、彼女の家に呼ばれることも、二度と、無くなった。

 中学が別になってから以降のことは、知らない。

 彼女は、あの頃のことを、子どもだった時のことを、思いだし、恥ずかしがることがあるだろうか。

 私はというと、今でも時々、少年の顔が出てくるときが、あるのだけれど。


 それが、今だった。

 息絶え絶えの霧崎麻述を見下ろしている、この瞬間だった。

私はもう、主張したいことを主張し、好きなものを好きとは言えない人間になってしまったけれど。

彼には、それができるのだから。霧崎君は、あらゆるものに対して、「変わらないでくれ」と、叫ぶことを、まだやめないでいる。

そんな彼を、少年の私が、指をくわえて見ている。

 遠い昔、同じ様に出来ていたならば、彼女を失わずに済んだだろうかと、後悔している。

 作文は、コンクールに落ちた。

 百合屋かおる子には世界なんて、プロになったって変えられなかった。

 もう二度と女の子を愛することもないだろう。今の百合屋かおる子は、同性愛者でも、バイセクシャルでもなく、ありふれた異性愛者だ。でも、彼を見ていると、とても懐かしい気持ちになる。もう一度、女の子を愛してみたくなるような、気分にさせられる。

 そういえば彼は、私の書いたラブコメがきっかけで、恋愛に興味を持つようになったのだっけ。まったく、縁と言うのは、摩訶不思議だ。

 愛にあふれた、霧崎君の人生に敬意を表して、私は彼の口にした闇医者とやらの番号に、ダイヤルした。

 彼はこの学校で、自分の夢をかなえるだろう。私も、彼の望みを叶えるだろう。

 きっと、うまくいく。

 ネズミは、二匹いるのだから。


                         霧崎麻述と森田友一・了


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