第10話霧崎麻述と森田友一③

 廊下を歩く二人分の足音だけが聞こえる。五限目はとっくに始まっている時間だったが、私と霧崎君は、保健室に向かって足を進めていた。通り過ぎる教室の中では、進学校らしく、生徒達は一人残らず、真面目に授業を聞いている。窓際の生徒から、私達は注目されてしまうんじゃないかと思っていたが、そんな心配は無用だった。水族館を歩いているみたいだった。水槽の中を気にしているのは人間だけで、魚の方は、ちっともこっちに関心を向けないのだ。

先を歩く,霧崎君の背中を眺めながら、1-Aの教室はどうなっているだろう、と思いを馳せた。今は、なんともないだろう。霧崎君が森田君を告発―――霧崎君自身は、そんなつもりは毛頭ないのだろうが―――したすぐ後に、授業五分前の予鈴が鳴ったからだ。五限目が移動教室だったことは、本当に幸いであった。みな、思い出したように、授業の準備に追われ始めたのである。森田君は、ゴングもといチャイムに救われた形になった。

 予鈴のすぐ後に、霧崎君は私を連れ出し、教室を出た。保健室の先生が不在だったから、教職員の利用許可サインを代わりに書いて欲しいだのなんだのと言っていた気がする。一も二もなく、私は彼の後についていった。

 あの空気から脱出できる大義名分に、飛びつかない訳は無かった。

「……一生帰ってこなければよかったのに。ぷり」

「きゅ、急になんだよ。先生。あと、さすがに『ぷり』は厳しい……」

「すごくいい話でまとまりかけていたのに、君のせいで台無しです。森田君はすごく頑張ったのに、その努力を君は水の泡にしてしまったのです」

 分かっているのだ。こんな大事になっていたなんて、霧崎君に想像もつくはずがないのだ。

 彼はただ、正直に答えただけだ。騒がせてしまったという負い目から、嘘をつく余裕なんてなかったのだ。

 森田君が、親友であるということも裏目に出ていたのかもしれない。

 もし、霧崎君の嘔吐の原因が、女子のお弁当だったとしたら。

 霧崎君は、自分が大抵の女子から好意を寄せられているのを自覚している。女子達のことを大事にする彼のこと、『恋してる相手に、自分の弁当がゲロを吐かせた』などというトラウマを、女の子に植え付けるような真似は、決してしなかったろう。

 だが、森田君は、あくまで『親友』だった。

 こういうことを、笑い話で済ませられる間柄だと、霧崎君は、いわば甘えてしまったのだろう。下手に誤魔化したら、女の子たちがいつまでたっても、『もしかして自分が』と気にし続けるかもしれないのだ。

 色んな要素が複合していたにも拘らず、一番重要な判断材料が、彼に関知されようがなかったからこその、この決着だ。自然の成り行きだ。

 それでも、私は、森田君のことが不憫で仕方なかった。

 特に、真相を知った直後の相良さんの視線は、森田君にとって相当堪えるものだっただろう。それまでの相良さんが森田君を見る目は、少女マンガのヒーローをみる目だった。だが、最後に彼女が森田君に向けた視線には、申し訳なさそうでいて、しかし確かな、幻滅がこもっていた。

 それもまた、無理もない。

 この昼休み、彼女に降りかかった災難の全ては、森田君のせいなのだから。

彼女は天宮さんに恫喝された挙句、知られたくない秘密を、公表される羽目になった。その全ては、森田君が軽率に、新商品のパンを霧崎君に与えたりしたからなのだ。

 森田君が英雄的な人間なのは事実であったが、相良さんは彼を、恨んでも恨み切れないだろう。

 彼のやったことは、結果的に、マッチポンプのヒーローごっこに過ぎなかったのだから。

「もともと森田君の所為、自業自得って言えばそれまでなのかもしれませんが」

「それまで、にも拘わらず、あいつに同情しちゃうのはさ」

 霧崎君が言った。

「先生も……あいつのこと、ちょっとかっこいいって、思っちまったからか?」

 彼が今、どんな顔をしているのか気になったのは、彼のそんな口調を、これまで聞いたことが無かったからだ。苛立ち、とも少し違う、どちらかと言うと、嫉妬に近いような。

 それを聞いた私は、新鮮な気持ちになった。人生で初めて覚える感情だった。思えば、年下の異性なんて、これまでの私の人生において、何の関わりもなかった人種だ。だからきっとこの気持ちは、他の人から見れば、さして珍しいものでもないのかもしれない。

 私がこの時感じたのは、年上として、無条件に何か教えてあげたくなるような、少し特殊なときめきと、それに伴う悪戯心であった。捻くれた私の心に湧き上がるには、余りにユーモラスなそれに、私は素直に従った。

「そうですね。頼りがいのある男の子というのは、何歳になっても魅力を感じずにはいられないものです」

 嘘であった。私は男性に対し、好意を持つことはあっても、『好み』を持つことは無かったからだ。『頼りがい』『包容力』『知性』『筋肉』。異性のもつ、特定のステータスに対する興味の偏重を、私は持っていなかった。

「……気に食わない」

 恐らく彼は今、唇をとがらせているのかもしれない。

「人の価値ってさ……行動とか、外見とか、そういうの以前に、性格とか、心で決められるべきだって思わないか? 特に行動なんて、いくらでも下心乗せられるだろ? 人の株を上げられるのってさ、純粋に、そいつの雰囲気だけであってほしいんだよな。急にあげられたり落とされたりするようじゃ、ダメだと思うんだよ。世間じゃ思いっきり、逆のことが言われてるけど」

 いまいち、彼の文句の出所が分からなかった私は、続く彼の言葉に、度肝を抜かれた。

「モリがいくら、勇気を出して天宮に立ち向かい、身を挺して弥生を庇ったからって、あいつの評価が上がるのは、いただけないってことさ」

まるで、ずっと教室の中を見ていたかのように、そう言った。霧崎君が、私の心中を見透かしているように、短く笑う。私が霧崎君の表情を読んでいたように、彼もずっと、振り返らずとも私の表情を把握していたのかもしれなかった。

「別に、教室のどこかに監視カメラがあるとか、そういう話じゃない。隠しカメラで、登場人物たちの活躍を裏で見ているなんて、それは黒幕の仕事だろ? 俺の領分じゃない。校長の出番だな。……俺はいつだって、みんなと同じフィールドで、フェアにやってるよ。俺は、あの教室のリーダーなんだぜ? 何が起こっていたかなんて、教室に一歩入れば、大体わかる。狭い教室、狭い社会、狭い世界。全部見通せるさ。雲の上からじゃなくても、俺は、ピラミッドの頂点にいるんだから」

 彼の言葉は、どこかシニカルだ。

カーストの頂というものに、誰もが人生で一度は憧れを抱く。一生かかってたどり着けない人間がほとんどだが、十代の内にたどり着くものいる。霧崎麻述は間違いなくその一人だったが、彼は自分の手にしている、誰もが手に入れたがっている栄華に虚しさを覚えているのかもしれなかった。社会的な栄光自体に、彼は、なんの興味もないのかもしれない。

「それに、俺は女の子が大好きだ。だから、女の子の悲しみには、敏感なんだ」

 続けてそう言った彼は一転、ビールの王冠を誇る少年のように、無邪気に見えた。私が、この時の彼に覚えたのは嫌悪感だった。

「報い、ですか?」

「ん?」

「事情を察知していたというのなら……君は、自分が嘔吐してしまったことが、どれだけ大事として取り扱われたか、そして犯人が誰であれ、笑い話で終わることは無いと、分かっていたということでしょう? つまり、平穏なままに終わるやり方も、同時に君は、選択肢として得ていたということですよね? 明日から、あの場にいた全員が一人残らず、これまで通りの学校生活を送ることの出来る方法を、君は選ぶことが出来たはずです」

『朝食の、賞味期限切れヨーグルトが今ごろ効いてきた』みたいな、適当な暴論でよかったのだ。いい話でまとめることなんて、彼には造作もなかったはずだ。容易に、平和をもたらすことが、出来たはずなのに。

「君はあえて、それをしなかった。森田君だけを平穏から締め出して、この一件を終わらせました。君の大好きな女の子に、リスクを背負わせてしまった彼を、許してはおけなかったから、そうしたのですか? 事情を察知してから、行動を選択するまで、猶予は一瞬しかなかったと思います。それを承知で言わせてもらいますが……森田君に、情状酌量の余地は無かったのでしょうか。確かに、この一件で、一番責任があるのは森田君なんでしょう。でも、そもそも事故じゃないですか。悪意があって、森田君は君に、嫌いなものを食べさせたわけでは、決してないですよね。彼は君が来るまで、天宮さんの魔の手から、相良さんを守り切りましたよ。それに彼は、相良さんの抱える悩みに対して、真剣に向き合ってもあげたんです。あまり話したくなかったでしょうに、自分の昔のことを、皆に話したりして……」

「……そうなのか。へえ、そんなことまで……」

 霧崎君は、意外そうだった。私の語った内容のいくつかは、さすがに教室を一瞥しただけでは知りようもないことのはずだったので、そのせいだろう。

 私はその反応に、期待してしまった。もしかしたら、彼が、自分の選択に対し、少し、考えを改めるのではないか、と思ったからだ。だが、それは、裏切られた。

 霧崎君が、くぐもった笑い声を出した。なんとか抑えようとしているのが分かったが、それでも、こらえきれなかったようだった。

 私は最初、私の言った『情状酌量』という言葉が、彼にとっては滑稽だったのだろうかと思った。車で人を跳ねて死なせてしまったとして、故意か事故か、なんて気にするのは、人間の、もっと言えば裁判所の事情だ。彼は、教室という世界の神なのだ。神とは、事情に関係なく、ただ事実に基づいて、損害にふさわしい報いを与える存在だ。無論、どこまで言っても彼も一人の人間なのだが、大きな権力を持った人間が、時にそういう風に力を振るうと、私達小市民は、いつもそれに驚かされる。超常的な力とは、得てしてそういうものだ。

「……そう、ですよね。君は、そう言う人ですもんね」

 私はそう、一人ごちた。これ以上、森田君庇う気にはならなかった。霧崎君に何を言っても無駄だと思ったのもあるが、誰かを庇う、という行為が久しぶりすぎて、精神的な負担になっていることに、今気がついたのだった。柄にもないことをしてしまったな、と思うと同時に、その理由を探った。霧崎君が振り帰ったのは、私が、森田君の姿を、小学生時代のあの子に重ねていたからだと気づいたのと、同時だった。

「違う、違うよ、先生!」

 くくっ、と、逆撫でするような音を挟んで、それを誤魔化すように、私が何か言う暇を与えず、彼は矢継ぎ早に続けるのだった。

「ごめん、別にばかにするつもりじゃないんだ……先生は、今回の事件……ていうか『話』について、こう思ってるんだろ? 主人公をあえてほとんど登場させず、ヒロインや脇キャラクターにスポットを当てることで、読者を飽きさせない構成になってるって。常套手段だよな。多分その解釈は間違ってないと思うよ。でも、それでも」

 いや、そんなことは欠片も考えていませんが。

そう口を挟もうかと思ったが、やめておいた。霧崎君は、自分の常識や、世界観が、他者に、そのまま通じないのを理解している。だから、天宮さんや森田君に対しては、彼は、自身の異常性を全く悟らせずに、自分の世界に誘拐する、という手法を取る。だが今、霧崎君は、私が自然に、彼と同じような見方で世界を観測していることを前提として、話をしている。私にとっても、いつのまにか、それが自然になっていたことに、気付かされた。この会話を支配する世界観は、私と、霧崎君の間でしか通用しないフォーマットだ。二人だけの言葉は、私と彼を、二人だけの世界に閉じ込めていた。霧崎君に惹かれている天宮さん達を、俯瞰しているつもりでいたのに、彼の世界は、他の誰よりも、私をきつく縛っていたのだった。

「出ずっぱりだった先生より、俺の方が事実を知ってるっていうのが、なんか、おかしくて。はは、はははっ……」

 そして霧崎君は、こともなげに言うのだった。

「モリ、何にも悪くないのに」

 その一言で、全てを悟ったわけでは無い。ただ、今日の昼休みに起こった事件は、私の中で、思っていたより、ずっと邪悪な様相を呈し始めた。真実は、大きな石の裏側にへばりついた、何十匹の虫たちのように、私の目の前に表れかけていた。

「モリも今、わけわかんねーって思ってんじゃないかな。あいつにもらったコロッケパンは、衣がサクッと、中はじゃがいも百パーセントだった。挽肉なんて、全然入ってなかったよ。……最高においしかったけど、嘘がばれない様に、後で校長に入荷やめてもらうように頼まなくっちゃな」

「ちょ、ちょっと待ってください、それって、まさか……」

「ああ、先生の考えている通りだよ。最後に言ったろ? 全部俺が悪いんだって。あいつはただ、何もやってないのに、親友である霧崎麻述から、一方的に罪をなすりつけられただけ。今回の一件に関しちゃ文句なく、モリはヒーローだ。女の子を、身を挺して庇っただけ。この世の全ての人間に尊敬されるべき、まさにあいつは、正義の心の持ち主だったっていうことだな」

 彼は泰然としていた。イカれてる、そう思った。

 彼は私が、真実を知っても、何一つ彼に背かないことを、信じて疑っていないようであった。それは別にかまわないのだ。事実私は、金で雇われた彼の協力者で、彼の殺人鬼事情に片足突っ込んでいる存在だ。裏切ったりはしない。

 だが、彼の行為は、私以外にひとたび知れたら、誰から石を投げられても文句は言えないもののはずだった。なのになぜ、そんな犬畜生に劣る行為を、犯罪自慢でも、懺悔でもなく、ここまで優雅に告白できるのだ? 美談でも語る、テンションで。

「俺が、あいつの活躍の全てを台無しにした」

 そう言ってしまえるのか。

 言いたいことも、聞きたいことも、無数にあった。最初に口からでたその質問が出てきたのは、だから偶然だった。

「……じゃあ、誰が」

 一体、本当の犯人なんですか。

 予想は、ついていた。

「その前にさ……先生の口から、今回の事件について、教えてもらっていい? できるだけ、詳しく」

 私は、今回の顛末を、思い出せる限り詳細に、彼に伝えた。いくつか、彼にも知らない情報があったようで、その一つが。

「ええええええええええええ! 相良って、同性愛者だったの?! ……痛っ!」

 私は思わず、彼の頭をはたいていた。人の秘密を大声で叫んだ人間に対する当然の反応だった。授業中かつ、丁度渡り廊下のところだったので、誰も聞いてはいないと思うけれど。

「まじか……こんな形で、百合要員が確保できるとはな……」

 百合、か。

 相良さんが彼のリアクションを聞いたら、どう思うだろう。天宮さんみたいに、なんでも彼との関係にプラスになればいいと、思うような子ならいいが。

「天宮が相良のことを疑ったのは、そういうのを知ってたからっていうのも、大きいんだろうな」

 それは、どうだろう。振り返ってみると、天宮さんは、相良さんが犯人かどうかなど関係なく、今回の一件を、相良さんの過去を暴露するために、咄嗟に利用しただけのようにも取れる。もしそうなら、この一件は正しく、天宮さんの一人勝ちだろう。彼女は、一体どこから演技をしていたのだろう。思えば、あの魔女裁判を開廷させたのは、彼女なのだ。霧崎君に犯人を聞くのが一番手っ取り早いという判断を、彼女は、平手と恫喝染みた喚きでもって、クラスメイト達から一瞬にして取り去ってしまったのだ。

 彼女が、終始冷静だったと仮定するなら、彼女は一体、どれほどの役者だろう。

 もっとも、霧崎君にとっては、彼女も普通の女の子にしか見えていないようだが。

 霧崎君は、何やらぶつぶつと呟き続けている。何やら、考えをまとめているらしい。やがて、登場人物たちの心の動きに対して、一通り、彼の中で理由をつけ終わったらしく、納得したように頷いて、再び私の方を向いて言った。

「しかしホント、相良も散々だな。何もかもばらされちまって。ドミノ倒しみたいに」

 もはや何も言うまい。

 そして彼はついに、私の、先ほどの疑問に対して答えた。

「しっぺ返しにしても痛すぎるぜ。いくら犯人なんだからって言っても」

 私は、驚かなかった。私も、霧崎君が思考に没頭している間に、予想をまとめ終えていたのだ。

意外な犯人なんて。

 滅多にいるものじゃないのだ。

普通は、「前々から、いつかやると思ってました」なんて言われてしまう人間が、そのまま犯人なのだ。疑わしきは罰せず、なんて言葉がわざわざ流行るのは、疑わしいやつが大抵犯人であることの証左に他ならない。

「なぜ、相良さんは、そんなことをしてしまったんでしょうか?」

「分からないし、知ったことじゃないけど……多分……」

 霧崎君は、ドライだった。自分が危害を加えられたことに対して、相良さんに対する怒りは、微塵もないようだった。動機というものに対して淡泊なのは、彼も殺人を犯すことに対し、それほど強い動機を、持っていないからなのかもしれなかった。

 ……あれ?

 思えば、霧崎君は、一体全体どうして、殺人鬼なんてやっているのだっけ。彼と出会ったころは、少しくらい気になっていたはずだが、いつの間にか、何の興味もなくなっていた。しかし、今更、聞こうとも思えなかった。私の中で、完全に聞くタイミングを逃していた。動機を聞いたところで、私はきっと、彼に対する態度を、何も変えやしないのだから、ならば、聞いても詮無いことだ。しかし、それで納得してしまえるのは、人として正常なのだろうか。私は、自分の中にある、自分の知らない領域に、明らかに、冷たい人間の素質をもっていることに、気付いた。

 私はこれまで、人からどう思われてきたのだろう。

 霧崎君は、私のことを、どう思ってきたのだろう。

『この年上の女性は、自分の犯す、殺人と言う行為に対して、どうしてここまで興味を持たないのだろう』と、霧崎君は、疑問に思ったり、することはないのだろうか。恐らく、彼は私のそういう冷たい性質を、見抜き、その上で、許している。

「多分、あいつが、ストーカーしてたのと同じ理由なんじゃないのか? 頭のおかしいことするのはいいけど、一人の人間の中に、そう何個も理由があってたまるかよ」

 頭のおかしい、と評す口調も、どこか軽かった。彼女の異常性についても、彼は何も、思うところは無いらしい。

 リベラルだ。私はそう思った。

「あいつが、あいつだから。相良弥生だから、そういうことをした。なんだかんだで、それが一番、自然だし、納得いくよな」

 私も、霧崎君と同意見だった。

「人は変われるさ、か」

 霧崎君が嘆息した。彼が口にしたのは、教室で、森田君が相良さんにかけた台詞だった。

「滑稽だよな。正義ってのは得てして、的を外す。俺に踊らされたのは勿論……森田はずっと気づかないままなんだろうな。相良からも、踊らされてたってことに」

 本当の意味での悲劇は、その点に集約されているのかもしれない。

 正義の味方は、弱者を守る。だが、弱者が正義の味方を守ることなど、滅多にない。誰かを守れるような人間は、普通、弱者にはならない。

 相良さんは、森田君が自分を庇った時、何を思ったのだろうか。

 だって彼女は、最初から知っていたのだ。自分の犯した罪が原因で、関係ない困難を抱え込んだ森田君の背中を見た彼女の良心は、何も感じなかったのだろうか。

 いい雨避けが、向こうからやってきた位にしか、思っていなかったのだろうか。私は、森田君の後ろで彼女の浮かべていた表情を、一つ一つ、丁寧に思い出した、彼女が天宮さんレベルの女優なら話は別だが、彼女は、狡猾さとは無縁に思えた。

 ならば、助かりたい一心、それだけだったに違いない。

 おおよそ他人には理解できない理由を身勝手と呼ぶなら、彼女はまさしく身勝手に、霧崎君に、嫌がらせをした。

 だがそんな相良さんには、罰を受け入れるどころか、取り調べに耐える覚悟すらなかった。

 弱者の中には、自分の弱さに対して理由づけさえすれば、弱くあることが、許されると思いこんでいる者たちがいる。そういう人間は、そこからさらに、自分の弱性から派生する損害に対し、ある程度他者は目を瞑るべきだと、理論展開してしまうのがテンプレートだ。自身に対する主観的な許諾が、社会的な許諾と、同義になってしまっているのだ。良心の呵責を、行動を起すためのエネルギーとしてではなく、自分を責めるためだけにしか、消費できない。それも、自分を責めるのは、それと同時に、他人を責めるための免状が手に入るからだ。自分がこんなに辛いのだから、という展開への布石なのだ。悪い意味で、社会と、自分の内面との調和を、完成させてしまっているのである。

 天宮さんと、相良さんの相性が悪かったのとは別の意味で。

 森田君も、相良さんとの相性は、最悪だった。

 悪人以上に、弱者は正義を、食い物にする。

 大好物なのだ。

 相良さんは、森田君の善性を、吐き気をこらえながら、それでもゆっくり、平らげて見せた。

 そして最後に、森田君に決定打を叩きこんだのは、他ならない彼の親友だった。

「……しばらく大変だな。モリには気を遣ってやらねーと。相良にもフォローいれときたいけど……どうしよう。……天宮にはさすがに協力を頼みづらいな……あいつが味方だと楽なんだけどな。何人か、芋づる式に味方してくれるし……」

 自分でとどめを刺しておきながら、心臓マッサージをしなければならないと、悩んでいる。

 矛盾している。

少年たち。友情は永遠だと、言いがちなお年頃だ。永遠は、矛盾を受け入れるのだろうか。多分、大丈夫なのだろう。

 矛盾を強要し、諦めさせてこその、神なのだから。

「……結局君は、森田君のことが、好きなのですか? 嫌い、なのですか?」

 森田君だけじゃない。天宮さんも、叶瀬さんも、それから、相良さんのことも。二か月に一回人を殺しながら生きるあなたが、人間についてどう思っているのか、知りたかった。

「大好きだよ。だから、ルールは厳しく、守ってもらわないといけない。……そういや、最初の方に、先生聞いたよな。モリを陥れたのを『報いですか』って」

「あぁー……ん……」

 よく覚えていなかった。話の内容がいちいち濃すぎて、そんなこと、とっくにどうでも良かった。

「不文律ほど、曖昧であってはならない。霧崎君にとっては、何があろうと、男より女。友情と愛情、どっちが大事か、比較というより、百対ゼロで女の子が大事、ということでいいんですよね。森田君と、相良さん、『親友』と『ヒロイン』―――と言うより、『ヒロイン候補』、くらいですかね―――も同じくらい替えが効かないけれど、大切にするのは、迷わず、女の子。男子は、その糧。シンプルですね。それこそ、人間と食べ物のように」

「そうだな」

 あの場にいた誰もが、自分のルールに従った。その結果、強い順に、決着がついた。つまりは、そう言うことなのだろう。

「シンプルなんだ。俺は、モリに対して、罪悪感とかは、持たないよ。相良とは違う」

「はい」

「でも、人間が牛や豚を食べることを悪いと思わないのとも、違う理屈だ。それとは、違う種類の、シンプルなんだ。……あいつが体を張れるなら、俺だってそれ以上に張れる。それだけさ」

 彼が何を言いたいのか、よくわからなかった。私は、続きを促そうと思って口を開いたが、ふと、今自分たちが歩いている場所のことに気づき、流れとは全く関係ないことを聞いてしまった。

「……あれ、霧崎君、来る場所、間違えてませんか?」

 話に夢中になりすぎて、気付いていなかった。

 途中から、保健室への道から逸れていたということに。いつの間にか、お馴染みのアジト、校長室前に、たどり着いてしまっていた。

「いや、ここでいいんだよ。先生を連れだす時に言った、保健室でハンコ云々っていうのは嘘だ」

「へ?」

 校長室のドアを、霧崎君が空ける。校長先生は不在だった。

「じゃあ、一体、何をしに」

 ドアを閉めながら、彼にそう尋ねた。

 その時だった。

「ごめん、もう」

 霧崎君の膝が、ガクガクと震えはじめ、それは起こった。まるで、昼休み冒頭の再現VTRのように、さながら、トレースしたがごとく。

「もう……限、界……!」

霧崎君が、ぶちまけた。

本日二度目となる、胃の中のお披露目だった。

「きゃ、きゃわわわわあああああああああっ!」

 ロングスカートの裾を膝まで上げ、慌てて彼から遠ざかる。

激しい嘔吐というのは、消化物のみならず、胃液、果てはリンパ液まで戻してしまうものだと聞いたことがあるが、彼の吐瀉物は、水のように透き通っていて、それが逆に不気味だった。人の身体からは出て来てはいけないものが、出てきている気がした。

「どうしたんですか?! 霧崎君! 何か……!」

 咄嗟に出てしまう言葉、というものがある。

『何か悪い物でも食べたんですか?』

私はこの時、彼にそう聞こうとした。そして、思い至った。

 昼休み終了の予鈴が鳴る直前。彼は、相良さんのお弁当から、おかずをつまんでいた。あの時は、気にも留めていなかったが、真相を知った今では、あの行為の重要度と意味が全く変わってくる。

 彼はなぜ、また相良さんのお弁当を、自分から口にした?

 大好きな女の子たちの前で、恥をかかされ、前後不覚になるほど苦しむことになった原因が、そのお弁当にあると、知っていたはずなのに。

「俺……ベジタリアンなんだよね」

 倒れた霧崎君の口もとから、今なお流れ続けるそれは、吐瀉物とは思えないほど、ごろごろとしていた。噛まずに飲み込んだのだ、と分かった。誰だって、大嫌いなものはそうやってやり過ごす。

「最初、豆腐ハンバーグって聞いて、食わされたんだけどさ……口に入れたら、そりゃもうガッツリ、ただのミンチだったわけよ……マジで効いたぜ……」

「い、意味が分からないです! なんでそんな、自殺行為を……!」

「俺は、うぐっ……『親友』を、……おとしいれ、たんだぜ?」

 言葉を発するたびに、喉仏が痙攣していた。

「そこまで、しておいて……証拠隠滅の為に、体張れないなんて、嘘だろう……?」

 彼の目から、光が失われていく。

「青空が、見たい……」

 しまいには事切れる五秒前みたいなことを言いはじめる。

「森田と最初に出会ったころ、俺達は中学生だった。……森田は、性犯罪者だった」

 台詞の後半を聞き間違えたかと思った。彼の言葉に注意が傾いたおかげで、私は少しだけ、落ち着きを取り戻した。

「あいつを見つけた時、俺は衝撃を受けたよ。あいつ程のクズを、俺は見たことが無かった。女子更衣室を盗撮したり、爪先にカメラ付いてる靴で通学したり、挙句、何度もバレて、停学を食らってた。盗んだスク水、体操着、ローファーで家具を作ったりもしてたっけか……」

 さすがに、嘘か、悪い冗談の類だろう、と思った。教室で、霧崎君を差し置き主人公のようだった森田君を思えば、彼の言っていることは、余りにも突拍子もないものだった。だが同時に、地面でのたうつ霧崎君に、虚言を言う余裕があるとも思えなかった。

一年に二、三回、女性のハイヒールや自転車のサドルを盗み、家に何百点も隠し持っていた男が逮捕される、というニュースを目にすることがある。霧崎君は、森田君がかつて、それを遥かに凌駕した変態だったと言っているのだ。家具て。

「……それ本当なんですか? いくらなんでも、あの森田君が……」

「中学の頃、荒れて悪さしてたって、言ってたんだろう……?」

「言ってましたけど」

 校舎裏で煙草とか、カラオケで飲酒とか、てっきりそんな感じだとばかり。私だけじゃなく、クラス皆がそう思っていたはずだ。

「あいつを、一目見て思ったんだ」

 失われた日々を懐かしんでいるのか、霧崎君の瞳は濡れていた。

「逸材だって」

 彼自身の語った内容の、どこをどう評価すれば、そんな風に思えるのか。

「『親友』役に、ぴったりだと思ったんだ。更生させて、知性を持たせれば……中学三年間で育んだ技術は、必ず俺の役に立つだろうって。校内の事情通で、女の子の情報とか教えてくれる便利キャラに、俺が育て上げて見せるって……だから、引き抜いた。『そのエネルギーを正しいことに使ってみないか』って」

「汚いヘッドハンティングも、あったものですね……」

 私は、徐々に、霧崎君の言っていることが、事実ではないかと、感じつつあった。『親友』役すなわち男とは、彼のラブコメ的主観世界に置いて、不可欠でありながら、イレギュラーな存在である。選定は、もしかすると、ヒロインたちよりずっと、デリケートに行う必要があったのかもしれない。『親友』は、唯一『主人公』の男性的特権を、脅かすことが可能だからだ。ならば『親友』は、好漢でありつつ、女子から一線を置かれるような、男としての致命的な欠陥を持っていなければならない。森田君が、霧崎君の言っているような過去を持っていたとするならば、まさしく彼は、『親友』役たる資格を持っている、と言えるのではないか。

「だがあいつは、俺を裏切った。……反社会性は直せと、確かに言ったよ……だが、変態を辞めろと、誰が言ったっ!!」

 不良が、社会的には引きこもりやニートよりも害ある存在であるにもかかわらず、その更生がより美談として受け入れられやすいのには、理由がある。人間は、0よりは、マイナスに希望を見出すものだからだ。かける数値によっては、プラスに転ずることもあるだろうというわけである。とすれば、『変態』は、無気力な人間より、不良に近い性質を持っているのかもしれない。森田友一は、霧崎君との出会いにより、マイナスをプラスに転ずる機会を経た。彼は、誰からも誇られるべき人間に成長した。

 しかしそれは、霧崎君が、彼に望んだ、正しいエネルギーの使い方では無かった。

「ラブコメ十戒……その三」

 聞いたこともない単語が、彼の口から飛び出した。ラブコメ作家だった私が知らないのだから、彼の造語なのかもしれない。

「『主人公以外の男性キャラは、精神的に去勢されていなければならない』……つまり、分かりやすい例を上げると、お調子者で女子から相手にされてないとか、そういうキャラじゃないと、主人公の親友にはなってはいけないんだ……そうじゃなきゃ、男キャラにヒロインを取られるんじゃないかと、主人公に自己投影している読者が、不安がるから……読者に劣等感を覚えさせるような男性キャラは、いらないんだ……そんなの、現実だけで、十分なんだから」

 森田君は、格好良くなりすぎた。

『それは、モリのこと、良いって思ってるから?』。霧崎君は、さっき私にそう聞いた時でさえ、嫉妬をにじませていた。他の『ヒロイン』達が、森田君のことをどう思っているのか、霧崎君は前々から、不安だったのかもしれない。

 霧崎君が、森田君を陥れた、理由。

 それは、彼の大切なヒロインを、危機に陥れた罰、報いなどでは無かった。

 私怨であった。

 天宮さんが、犯人捜しに便乗して、相良さんの過去を告発したように。霧崎君も、この件を、森田君の株を下げるため、利用したのだった。

 親友に、ピエロのままでいてもらうために。

「俺はお前のことが大好きだった……なのにどうして、恩を仇で返す……!」

 森田君が、頑張って更生したのは、霧崎君の為であるので、仇で返したのは、どちらかと言えば霧崎君のような気もするが、そんな理屈は彼には通用しないらしい。

「俺は、他人が何と言おうが、昔のお前のほうが、好きだったんだぞ? 更生なんて、しなくてよかったんだ……もうこれ以上……変わらないでくれ……!」

 独りよがりな彼の願望には、しかし確かな、友情が滲んでいた。

 殺人鬼だからって、情が無いわけでは無く、大切な人、死んでほしくない人もいる。霧崎君は以前、私にそう言っていた。霧崎君にとって、森田君は、まぎれもなくそういう存在なのだ。

 霧崎君が、激しく咳き込む。力のない、意識の混濁が感じられる声で、彼が言った。

「せ、先生……医者、よんで……専属の、闇医者……今から番号、いうから……」

「ひゃ、はいっ!」

 これほんとにアレルギーじゃないのか、といった疑問すら挟みこむ余地すら無く、視界から観測する状況はシビアだ。

 彼が、保健室に行く、と言っていたのに校長室に来たのは、保健室で処置をすると、彼が再度嘔吐したことが、誰かの耳に触れるかもしれなからだ。人の口に戸は立てられない。他に保健室の利用者がいればそれまでだし、お喋り好きの保健室の先生が帰って来でもしたら、ゲームオーバーだ。だから、居ても校長先生しかいないはずの、校長室にやってきたのだ。

 それから、私を連れてきた理由。

 それは、道中で力尽きた時に、校長室まで運んでもらう為であり、自分で医者に連絡し、事情を説明する体力がなくなったときの為の、代役としてだったのだ。

 今こそ、給料分の仕事をする時だった。

 だが、私はスマートフォンを握りしめたまま、固まってしまった。ある選択肢が、目の前に表れたからだった。

 ここで私は、彼を殺すべきではないのか?

 私の細腕では、男子高校生に喧嘩なんて、普通は無謀だ。例え相手が、殺人鬼では無かったとしても。

 しかし今、私の目の前にいる霧崎麻述は、目から光が消え、半死人のような状態なのだ。

 百人以上をその手にかけた、稀代の殺人鬼、霧崎麻述。ここで彼が死ねば、何人の命が助かることだろう。ラブコメで更生なんて、悠長なことをしている間にも、まだ犠牲者は増え続ける。ならここで、この場にいる唯一の人間として、私が始末をつけるというのは、ありなのではないか?

 そうするべきだ、と、身体の中で何かが叫んでいた。確かに私は、生徒を殺した教師として、罪を背おうことになるだろう。だがそれがどうした? どうせ、目標を奪われた、何の価値もない人生だ。その人生一つで、何百人の命を救う英雄になれるのなら、なるべきだ。例え、誰から評価されなくとも、それは素晴らしいことだ。森田友一、あるいは、小学生の時、私を助けてくれた彼女のような存在以上の誉れになる。

 だが、同時に。

 彼を助けなければならない、という使命感にも駆られていた。殺人鬼であれ、人の形をしたものが目の前で苦しんでいるのを見捨てるのは耐えられないだとか、道徳心からでは、全くなかった。

 彼が何のために、殺人を犯しているのか。

それを今まで考えたことが無かったのは、彼の連続殺人が、私の中にある、社会に対する破壊願望を、満たしてくれていたからなのだった。

 社会は、私の、小説家としての夢を滅茶苦茶にした。

 心のどこかで、社会が、私の夢と同じように、滅茶苦茶になることを望んでいた。

『報い』、だった。

 私を守らない社会を、どうして私が守らなければならないのか。彼の殺人を許している限り私は、個人ではとても太刀打ちできない、社会という怪物相手に、優越を感じながら、八つ当たりが出来るのだった。

 終わらせていいのか、この、夢を。

 死にかけの彼の姿に、小学生の時のヒーローの影が、重なった。

 森田君の時より、もっと、鮮明に。


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