殺人鬼とラブコメ
白乃友。
第1話霧崎麻述と百合屋かおる子
はじまりは、一冊の本だった。
私こと、百合屋かおる子は、人生で二年ほどの間、小説家だったことがある。大学三年の四月から、つい三か月前まで、そうだった。得意技は暴力表現。その猟奇的な作風が認められ、「二十一世紀で最も血の匂いのする女性作家」というキャッチコピーで、出版社は強力にプッシュし、結果、本を出すたびに長い間平積みにされるほど、私の作品は人気になった。もっとも、出版社がつけてくれたコピーだけは、筆を折った今でも納得できていない。だってまるで、生理が止まらない女みたいじゃないか。
「……ふふ、くぷぷ」
気持ち悪い声で、私が笑った。「生理が止まらない女」。全部終わってしまった今となっては、案外そっちの方が、よっぽど気の利いた文句に感じられたからだ。
実際私は、いつもイライラしていた。小説を書くために、ノートパソコンに向かっている間は、特にそうだった。大学まで含め、学校生活には不愉快な思い出しかない。そして、作家の一番のネタは、自分の思い出と、そこからくる感情なのである。私にとって、本を書くということは、トラウマと向き合い続けることでもあった。
しかしながら、苦しんだかいがあったと言うべきか、前述のとおり、私の本はそれなりに売れ、特に、中高生の読者が多くついた。『想定するメインの読者層は~』なんて退屈な思考は、編集に丸投げしていた私だが、それでも、私の本が十代に受けたわけは、何となくわかった。ロックンロールが若者に受けることから証明されるように。若者は、怒りを表現する芸術に敏感なのである。私は、自分より一回り下の子どもたちに本が受けたことで、これまでの人生で味わったことのない幸福感を手にした。思えばあれが、自己承認欲求が満たされる、と言うことだったのかもしれない。思い上がりも甚だしいが、顔も知らないたくさんの人たちが、私の辛い思い出の為に涙を流してくれているかのような気さえしていたのだ。
だが、私と読者の蜜月は、あっという間に、終わりを告げた。
デビューから二年目。私の本の売れ行きは右肩上がり。最新刊、終わりの見えない出版不況をものともせず、五十万部のベストセラー。そして―――。
その小説に出てくる主人公の真似をして、現実の高校生が、人を六人殺した。
電源コードを引っこ抜かれたように、私の作家人生は終わってしまった。世間様から叩かれまくり、実家から勘当され、出版契約は一方的に打ち切られた。
それから二か月。私はろくに何もせず、大学時代から住んでいるアパートの一室でごろごろとしていた。これまでに稼いだ印税を糧にただただ、自堕落な生活を送った。
出版社の最後の温情か、作家としての私の素性や住所は、堅く守秘されたままで、直接私の元にマスコミが来ることはなかった。そして少年の犯した陰惨な事件と、その引き金となった血生臭い小説の話題は、日々更新される新たなニュースのラインナップに埋もれていきつつあった。
部屋で、ひとりぼっちでいる私の頭の中に、ずっと響く声があった。
『凶行に及んだ少年と、被害者の遺族に言いたいことはありますか』
出版社が矢面になってくれたおかげで、私はそんな質問すら受けたこともない。だがもし、誰かにそんな質問をされたとして。どんなに真摯になったところで、言えることは一つだけだ。
『わかりません』
きっと今でも、私はそう答えるはずだ。無責任だと、人から責められるかもしれない。でも、仕方ないのだ。どんなに悩んでも、答えが出てこない問題がこの世にはあって、私にとっては、この質問が、そうなのだ。
小説を書いているときは、話に詰まったことなど一度も無かった私だが、そこはやはり、事実は小説より奇なり、なのかもしれない。
人生初のスランプかも、なんて。
不謹慎かつ、あきらめの悪いことを私は思った。
そんな私に、転機が訪れた。アパートの郵便受けに、一通の手紙が投かんされていたのだ。信じられないようなことがそこには書いてあった。章連学園という、中高一貫の私立学校からの手紙で、この私に、ぜひ、教師をやってくれないか、と書いてあった。たちの悪いいたずらかと思ったが、ネットで調べたところ、その学校はきちんと実在し、電話で何度も確認したところ、人違いでもなんでもなく、本当に、百合屋かおる子に教師をやってもらいたいそうだ。
教育学部卒で、教員免許は一応持ってはいるのだが、いかんせん、話が怪しすぎた。私が電話した際、女の校長が直接応対してくれたのだが、私の素性……著作が、高校生に殺人を犯させたことも、どうやらきちんと知っている風だった。
何が狙いなのだろう。パッと思いつくのが、例の事件の、遺族からの復讐である。だが、こんな回りくどい手段を取る理由が分からない。
あまり深く考えることなく、私はオーケーしてしまった。理由は三つ。一つは、遺族が本気で復讐したがっているのなら、隠れていても意味はないから。二つ目は、破格の給料。送られてきた書類には、フリーターなら半年は働かなきゃ稼げないような金額が、月給として記載されている。どんな売れっ子作家でも、一本のヒットで、一生食うことはできないから、どっちみち私はこれからも何らかの手段で、稼がなくてはならないのだ。そして、三つ目。私は、自分が小説を書くことが罪だったのかを考えることに、飽きはじめていた。
そこで私は住み慣れたアパートを引き払い、都心を離れ、章連学園のある地方で、新生活を始めたのである。
前置きが長くなってしまったが、実は今、その学校に向かっているところで、丁度校門が見えてきたところだ。
章連学園は、中高一貫であり、敷地面積はかなり広く、周囲は住宅地に囲まれている。地方の政策か何かなのか、この辺り一帯は、街路樹にしては骨太な気が何本も植えられており、狭い道路はまるで緑色の洞窟のようなありさまで、少し、薄暗い。今のように、まだ日の高い昼過ぎならまだしも、部活帰りぐらいの時間になったら、帰り道に、不安になってしまう生徒もいるのではないか。
そんなことを考えていると、校門が見えてきた。学校の塀沿いに歩いてきていたので、そろそろだろうとは思っていた。
私はこれからいよいよ、この学校の校長と対面するのだ。「学校のことや、具体的な仕事のことで話がある」と言われているが、『具体的な仕事』という言い回しに、私は引っ掛かりを感じていた。やはり何か、裏がある気がする、と。
不安をなだめるようにため息を吐き、校門を曲がる。
「きゃわっ」
「のわっ」
曲がった瞬間、誰かとぶつかってしまった。私も、その相手も、盛大に尻餅をついて悲鳴を上げる。
「あいたた……ごめんなさいぃ……」
「俺の方こそ……大丈夫? 立てるか?」
一足先に立ち上がって、少年が私に手を差し伸べた。章連学園の生徒だろうか。
私は思いっきり動揺した。生来シャイな上に、人と会うこと自体久しぶり。
さらにその相手が、よりにもよって異性であるという三重苦が、私に言葉を詰まらせた。
「これはご親切に……ありがとうございます」
それでも、何とかそれだけ言うことが出来たのは、その男の子が、あまり性を感じさせるほうではなかったからだろう。イケメンやスポーツマンだったら、私は腰を抜かしていたかもしれない。
目の前の少年は言うなれば、どこにでもいる平凡な高校生といった塩梅だ。強いて特徴を上げるなら、高い身長の割に体重が軽そうなことぐらいか。
差し出された手を握ったとき、ブレザーの袖から手首がのぞいていた。静脈がひょろっちく浮き出ていて、手は掴んだものの、私はなぜか、ほとんど自分の力で立ち上がっていた。
少年が、私の格好を見ながら言った。
「……もしかして、今日昼から来る予定の転校生って、お前か? 全国大会出場経験のあるって言う。廃部寸前の、バスケ部に救世主現るって、もっぱら噂だぞ」
思わず、噴出してしまいそうになる。今日の私の格好は、薄手のシャツに、チェック柄のスカート。確かに、まだ制服の出来ていない、転校したての生徒が、前の学校の制服で登校しているように、ぎりぎり見えないこともないのかもしれない。しかし、自分で言うのもなんだが、女子高生に間違われるほど、若く見られる自信も無いし、これまでスポーツにも縁がない。誰と間違われているのか知らないが、少年の勘違いは、意外の一言に尽きた。
慌てて、訂正しようと口を開く。しかし、言葉を発することはできなかった。
少年の目が、なぜか急に見開かれた。尋常ならざる目つきで、地面の一点を見詰めている。その迫力に押され、私は言葉を飲んでしまった。
彼の視線の先を、私もつられて追った。地面の上に食べかけのアンパンが転がり、口の開いた牛乳パックが中身をぶちまけていた。私とぶつかった拍子に落としてしまったのだろう。きっと、彼のお昼ごはんだ。私の身体に、緊張が走る。
恐らく、彼は、自分の昼食が台無しになったことに怒っているのだろう。きっとこのままだと、「俺の昼飯返せよ」「ちょっと飛んでみろよ」とか凄まれて、挙句の果てには仲間とか呼ばれて、取り返しのつかないことになってしまうのだ。
……昼休みは、もう、終わっている時間のはずなのに、この子は一体、校門前で何をしていたのだろうか。
そんな疑問が一瞬頭をよぎったが、すぐにスルーした。とりあえずは、後数秒後に迫りくるカツアゲに対する対策を講じなければならない。
私が財布の中身について考えていると。
「どうして……アンパンなんだ?」
少年が、良くわからないことを言った。
「は?」
「う……」
そしてなんと、静かに涙をこぼし始めたではないか。
「は、はわわっ!」
つい先ほどまでとは全く別の理由で、私の頭はパニックになった。一体、なんだというのだろう。よりにもよって最初に言葉を交わす生徒が、こんな子だとは、ついてない。きっと、生徒の中でも、ハードモードな部類のはずだ。
「え、ええと、その、ご自分で買われたのではないのですか?」
「え」
「だから、そのぅ、アンパンを」
泣いている理由を解き明かすため、とりあえずは一番の疑問を、彼にぶつけてみる。
「その通りだ。俺が買ったんだ。買ってしまったんだ。誘惑に耐えきれずに、アンパンと牛乳」
「鉄板の組み合わせですもんね。私も好きですよ」
「いつもみたいに、食パンにしておけばなぁ」
「…………」
意味が分からなかった。この子はもしかして、不良とか云々以前に、もっとやばい何かなのではないかと、私は思い始めた。そう言えばアンパンって、怪しいお薬の隠語でもあったような。
どうしたものだろう。話せば話すほど、謎が深まっていく。
「あの、もしよければ、なんであなたがそんなに落ち込んでいるのか、話してくれませんか。なにか、力になれるかも」
目の端にたまった、彼の表情を子供っぽくしていた涙を、彼は人差し指で拭った。拭った後の顔は、それまでよりずっと理性的だった。私は彼と話し始めてから、ようやく一息付けた気がした。
「俺さあ……これまでの人生、買い食いして、食べながら歩くときには、ずっと食パンだったんだ」
「そ、そうですか……こだわってたんですね」
得体のしれない偏執に狂気しか感じなくとも、一応、同情しているふりをしておく。
「すべては、今日のためにあったのに。こんな綺麗な子と曲がり角でぶつかることなんて、もう一生ない」
「……っ?!」
「どうしたの?」
「あ、いえ、なんでも……」
綺麗な、という言葉に、耳たぶまで赤くなるような気分だった。時と場合によっては殺し文句クラスの台詞な気がしたが、彼が平然としているので、私も何とか、ポーカーフェイスを保とうとする。
「そう思うと、悲しくって」
保とうと、するのだが。どきどきが収まらない。男の子に対して、自分でも免疫がないとは思っていたが、まさか、ここまでとは。こんな年下の男の子に、心を揺さぶられる自分が情けなかったし、もし本当に教師になれば、この子だけでなく、他にもたくさんの男の子を相手にしなければならないという事実に、押しつぶされそうになる。
だが。
「……ラブコメの神は死んだんだ」
彼の、小さく呟いたその一言が、私の何もかもを冷ました。
私はその時初めて、地面に転がった彼のバッグから、文庫本が転がりだしていることに気がついた。
女の子二人のイラストが表紙の本だった。二人とも、過剰にキラキラした、大きい、昆虫のような目をしていた。
「もしかして君は……ラブコメにおける、曲がり角で女の子とぶつかったときの定番を再現するために、これまで買い食い歩きの供には、食パンしか選んでこなかったと」
「……まあ、そういうことだ」
その言葉を聞いた瞬間。私の取るべき行動は決定していた。
「もう、結構です」
私は少年の横を素通りし、早歩きで校長室を目指そうとした。
私は今、激しい嫌悪感を覚えていた。この少年と出会った記憶を、全て消し去ってしまいたい気分だった。この学校を目指して歩いている間は、どんな生徒と最初に出会うことになるのだろうかなんてことに、思いを馳せていたが、この少年は、想像を絶する最悪さだ。おみくじを引いたら、大凶のさらにその下が出てきたみたいな気分だった。
「ちょ、待てよ! 話は、まだ……!」
少年が慌てて食い下がってくる。
「な、なんで?! どうしてそんな急に冷めるんだ? あんなに優しかったのに! こういうの、オタクっぽくてキモイから? 確かに友達からもよく、『趣味は理解できるがこだわり方がキモイ』って言われるけど。やっぱこういうのって、女子的にポイント低い?」
無視してそのまま行こうとするが、少年はそれでも、話を止めない。
「……やっぱ君も、食パンは女の子がくわえてなきゃ、何の意味もないと思う派? ああ……やっぱみんなの言う通りそうなのかなぁ……」
子供とはいえ、さすがは男の子と言うべきか。私の早足に、彼は大股程度でついてくる。その余裕な態度も私を苛立たせたが、何より癪に障ったのは、少年が、口では自分のことを『キモイよね』と言いながらも、その実、自分の趣味の素晴らしさを欠片も疑っていないのだろうという点だった。
痺れを切らし、私はとうとう足を止め、少年を睨みつけた。
「知りませんよ、そんなことは」
これから教師としてやっていくかもしれない身であったが、もう分別なんてつけてる場合ではない。
「ただ、もうあなたとは何一つ言葉を交わしたくないだけです。私は、男性向けのラブコメというやつが大嫌いなのですよ。本そのものも、作者も、そして、読者さえも、軽蔑しています。あなたみたいな人は、見ているだけで不快です」
「……はぁ? さ、さすがにそこまで言われる筋合いは無いっつーか」
最初私は、この少年を不良か何かだと思っていたが、外見通りの、争いごとに縁のない人間らしい。少年の声は、怒っているというよりも、急に自分を否定されて面食らっているもののそれだった。まあ、例えこの少年がボディービルダーだったとしても、今の私は一歩も引かなかっただろうが。
「筋合いは十分にあります。私も、物か―――本読みですから」
危ない。うっかり物書きと言ってしまいそうになってしまった。それはもう、私の肩書きではないのに。
「全てのラブコメは害悪です。この世の、あらゆる創作を否定していますから」
「な、なんだと?!」
少年が、驚きの声を上げる。自分の趣味を、強く否定されたことのない人間特有の、敏感な反応だった。温室育ちめ、こんなのはまだジャブだぞと、私は調子づいて、持論を語りだす。
「そもそも全ての芸術……ひいては創作は、人間の本質を描かなければならないもの。しかし、ラブコメというのは、本質の対極にある願望を描くものなのです。なるほど確かに、願望というのも人間の本質の一部ではないのかという視点で問われると、否定はできませんが、ラブコメにおいて描かれる願望とは、『美少女と付き合いたい』というもの。つまり、低劣な性欲に他なりません。勿論、性欲と言うのは、人間の本質を描くうえで十分なテーマ足りえますし、どちらかと言うとホットな部類ですが、ラブコメは性欲に対する哲学を、読者に深めさせるという立ち位置を取らず、読者が……特に未成年の読者が持つ性欲を、浅いところで満たすだけに留まっています。これは、創作の進歩を停滞させる、重大な罪だとは思いませんか?!」
一通り言い切ると、私は深呼吸した。久しぶりにたくさん喋ったせいで息が切れていた。こんなことでチョークの粉舞う教壇に耐えられるのかという不安は増したが、成果はあった。
少年は雷に打たれたような表情で、眼を輝かせている。
少し、大人気なかっただろうか。仮にも小説のプロだった自分が、高校生相手に本気で講釈を垂れるなど。
「せ……」
少年が何かを言いかけた。邪教徒を改心させた釈迦もこんな気分だったのかな、なんて思っている私に、少年は端的な感想を告げた。
「女子が……女子が性欲って四回もいったぁ……」
少年が、熱っぽいため息とともに言った。私の高揚した気分は雲の上から、一気に転げ落ちる。
私は思わず喚き散らしていた。
「せ、せ、セクハラですっ! ……や、やっぱりラブコメなんて、碌なものではないですね! ぷいっ!」
私の売り言葉に少年も、ふしだらに浮かれていた顔をこわばらせ反論する。
「な、なんだと! お前こそ! 日頃、どれほどお高くとまった本を読んでんのか知んねーけど、好き勝手言ってくれやがって! 簡単なことを回りくどく言えば批評家ぶれると思ってんのが痛々しすぎるぜ!」
「なんですって! ……ま、まあ、ここは年上のよゆーで、聞き流してあげましょう。しかし、一言だけ言わせてもらいますが、ラブコメなんて読んでたら、将来まともな人間には―――」
それは、数か月前の私だったら、簡単に吐いてしまえる捨て台詞だったと思う。
だが、今はできなかった。私は、一人の少年に、六人もの人を殺させてしまった人間なのだ。言葉に詰まった私に、かぶせるようにして、少年が言った。
「どうせ、お前の好きな小説だって、絶対に大したことないぜ!」
逆鱗に、言葉の槍が突き刺さる。なのに私は、これ以上怒ることが出来なかった。
自分は落ちるところまで落ちたのだな、と思った。自然に、諦めようと思えた。もう自分は、こんな高校生にさえ、好き勝手言われる身分なのだと。
この少年との出会いは、いい経験になった。きっと私が教師になるための最初の関門は、そういう自分の立ち位置を受け入れることだったから。
背を向けて、再び歩き出そうとする背中に、少年の声が掛かる。
「ちょっと待て、悪かったよ、俺も言い過ぎた」
そのしょんぼりとした声に、申し訳なくなってしまう。最初にあなたの趣味に、身勝手に難癖をつけたのは、私なのに。
少年はそこから一転して、仲直りしたいためか、明るい口調になった。底なしに落ち込んでいく私に比べて、何と立ち直りの早いことか。私と比べて、きっと友達も大勢いるのだろう。
「ごめんなさいね」
私は絞り出すようにそう言った。そのままそそくさと校長室を目指そうとしたが、謝罪だけでは彼に申し訳ない気がしたので、もう一度、振り返る。
「それと、パンのことは、気にしないでいいと思います。さっきから勘違いされているようですが、私、転校生じゃないんです。新任の教師なんです。ですからどっちみち、食パンでも意味なかったんですよ」
慰めるつもりで、もう一言だけ、付け加える。
「きっとまた、いいチャンスがありますよ」
ノックをして、校長室のドアを開けた。
部屋の奥に、校長と思しき若い女性が立っていたので、私は元気よく挨拶する。先ほどの少年との舌戦は、失うものも多かったが、本戦を前に舌が温まったのは、せめてもの救いだった。
「こ、こにゃっちわ!」
「……こんにちは」
落ちついた声で、校長は挨拶を返してくる。
校長は、電話での印象通りの、若い女性だった。多分、いっても三十くらいだろう。吊り上った目から、彼女の教育者としてのスタンスが、滲みでている。きっと、口が滑っても「ゆとり教育」なんて言わないタイプだ。フレームレスの眼鏡が、知的な美貌を過剰演出していた。
私は、勧められるまま、空いているソファに腰掛ける。校長先生は胸ポケットから、煙草の箱を取り出した。
「あなたもどう?」
「わ、私は結構ですので、お気になさらず」
「後悔しない? 煙草が吸えるのは校長室だけって、この間、校則を変えたばかりなのよ」
教育上どうなんですかと、言える空気ではなかった。私が知らないだけで、これも先進教育というやつなのかもしれないし、この校長先生には、どこか有無を言わせないところがあったからだ。
「一服しないなら、後は話すだけね。……仕事に関しては、あなたは一学期の間は実習の延長で、コマを持つのは二学期からってことだけ。具体的な新任指導は、町合っていう先生がやってくれるから、勤務初日に紹介するわ。……何か質問は? 無ければ本題に入るわよ」
教職に関する説明は、かなりざっくりとしていた。不安が残らないわけは無かったが、それ以上に本題とやらが気になったので、私は「ありません」と答えた。
校長先生が、煙をゆっくり吐いた後、言った。
「あなたは察しが付く? 教育に関して何のキャリアもない、大学卒業して何か月もたってる新米以下のペーペーを、仮にも進学校が雇う理由」
私は、首を横に振った。
「貴方の著書は、全部拝読したわ」
「それは……どうも」
「あなたは、本来なら、教育の場に決して加えてはならない人間よ。……なのに、そんなあなたをこの学校に呼んだのは、この学校始まって以来、最悪の問題児を、貴方だけが教育できるから。そしてそれはね、どんな天才や努力家を育てるより、意義のあることなの。百合屋かおる子さん……いえ、百合屋先生」
校長先生の目に、熱がこもった。
「貴方には、ある殺人鬼を教育してほしいの」
殺人鬼。校長先生の口から、その言葉が出たのが、私には聞き間違いのように思えてならなかった。私にとってはなじみ深い言葉であったはずなのに、他人の口からその言葉が出ると、こんなにも胡散臭く思えてしまうことに、驚いた。
「……なんの、冗談ですか?」
「あら、どうして?」
「だって、いきなりそんなこと言われても、現実味がなさすぎますよ。殺人鬼なんて」
「だとしたら、見込み違いかしら。あなたほど現実味がありそうな人もいなさそうだけれど」
校長先生は、自分と同類のものを見る眼をしていた。
「この学校には、殺人鬼の高校生が通っているのよ」
校長先生は煙草を、灰皿に押し付けると、信じあぐねている私に、落ち着いた口調で語り始める。話題は物騒な方向に転がり始めていたが、校長先生は、リラックスしていた。まるで、家族の話をしているかのように。
「百合屋さん。殺人鬼小説を五十万部売ったあなたとしてはどう思う? 一体人を、何人殺せば殺人鬼になれると思う?」
「……六人とか、ですか?」
「そうね、貴方にとっては、その数字だったわね」
校長先生が口の端を歪めて笑った。私の、ここ数か月の苦悩を、ビギナーにありがちなことだと笑っているかのような仕草だ。
「百二十七人」
「へ」
「この学校の殺人鬼は、これまでに、それだけの人間を殺しているわ」
「やめてください……さすがに馬鹿らしすぎです」
私は、いよいよはったりだ、と思って口を挟んだ。
「あら、どうして?」
「だって……何のつもりでそんな話をするのかわかりませんが……フィクションじゃない現実で、人を殺したとして、ですよ? ばれないわけがないじゃないですか。警察だっているのに」
「百二十七人中、発見された死体はないわ。全て、行方不明扱いになってる。年間十万人に上る日本の闇の中に、一緒くたにされて葬られた」
「ありえません」
私は首を振る。
「なんですか、その乱暴な設定の殺人鬼は。フィクションの中でさえリアリティに欠ける存在が、現実にいるわけありません。ナンセンスです……そういうのは総じて、キャラクターとしての魅力に欠けるものです」
最後の一言は、余りにも皮肉っぽかっただろうか。だが校長先生は、気分を害した様子はなさそうだった。
「貴方の言うことは、全てもっとも。だけど、現実のことよ」
「よっぽど、用意周到で、完全犯罪の得意な方なんでしょうね」
「違うわ。むしろ対極的。そこが、不条理なのよ。あの子は、別に、軍人のように鍛えているわけでも、銃が扱えるわけでもない。毒物の知識もなければ、特別頭がいいわけでもない。一応ばれないように、毎度プランみたいなのは考えてるみたいだけれど、それもおそまつ。夏休みの宿題は最後の一週間で終わらせるから、それまでは遊ぶっていうのと同じくらいの、ずさんさ。なのに、彼は仕留め損なわないし、犯行も露見しない……まるで、神様が彼の殺人に賛成していて、守ってあげているみたいに」
校長先生は、話しているうちに、口の滑りがよくなってきている気がする。私のテンションと、反比例しているかのようだ。申し訳ないことだが、殺人鬼がどうとか、この後どれほど口で説明されたところで、私が真に受けることは無いような気がする。
私は、自分の高校時代を思い出していた。あのころの私は、実際に話を書いて完結させる能力もないのに、『私の考えた設定すごくない? 絶対ウケルよね、才能あるよね』と息巻いている、どこにでもいるファッション小説家志望だった。
あのころの私と、目の前の理知的な女性が重なって見えて、なんだかそれは、校長先生にとっても、私にとっても、空しいことのように思えてならなかった。
「やっぱり、簡単に信じてはくれないのね。予定なら、『大の大人が時間を割いて、コーヒーを出してまで与太話をするはずない』って、もう少しまともに聞いてくれるはずだったのに」
まるっきり信じていないことが、顔に出ていたらしい。校長先生は、落胆の苦笑いを浮かべた。
「そうね、じゃあ、今話したことは、全部ウソ話ということにしましょう。それでいいわ。でももし、仮によ? 私の言っていることが真実だとしたら、あなたはどうする? そして、その殺人鬼を、あなただけが何とかできるとしたら? それでも、関わり合いになりたくないと思うのかしら。それとも……願ってもいないチャンスだって思うのかしら」
「……チャンス?」
「贖罪のチャンスだとは、思わない? 」
私の感情が沈黙する。校長の言葉は、私の頭の中の、痛む場所を的確につくものだった。私は、アパートに引きこもっている間、自分の小説と、自分の小説が起こした事件について、あらゆる思考を試した。思考は、雪のように音を立てず、少しずつ私の頭の中に降り積もり、もともと私の中にあった普通の考え方を、冷たく覆い隠している。贖罪という考えは、その雪を更生する、大きな要素の一つだった。
自分で、頭の中に積もらせる分には、もう、いちいち冷たさなんて感じない。
だが、他人から与えられた贖罪という言葉は、まるで氷を思い切り噛みしめた時のような苦しみを、私の頭に与えるのだった。
「贖罪なんて、くだらないですよ」
自分がこんな風に、吐き捨てるような話し方ができることに、私は自分で驚いた。
「分かるんです。これまでずっと、考えてきたんですから。あんな事件を起こすきっかけになった小説を書いた自分が、これからどう生きて行けばいいのかって。……贖罪なんて、下らないです。だって罪って、消えないでしょう? 加害者が罰を受けて、被害者が満足するっていうのなら、まだわかりますよ。でも、人を死なせた償いに、別の誰かが死ぬのを防ぐなんていうのは、何にもなりませんよ。そんなのはただの……自分の感情の、落としどころじゃないですか。罪を犯したっていう事実だけは、ずっと、変わらず、残り続けるんです。刺青を消した後の傷みたいに」
私は校長先生を睨みつけた後、部屋から飛び出した。校長先生の話は、全部聞かなかったことにしようと、思った。校長先生の話が、本当なのかどうか、分からないが、正解はそれしかないと思った。
校舎を出て、正門前に倒れているその少年を見た時、まず、日射病か脳梗塞を疑った。救急車を呼ぶべきかどうか思案しながら駆け寄る途中、その彼の胸に、ナイフが刺さっていることと、その身体を中心に血だまりが広がっていることに気がついた。
馬鹿な話だが、そこまで気づいてなお私は『早く気道を確保しなきゃ』なんてことを考えていたのだから、お笑い草である。
だが本当は心のどこかで、もう手遅れだということは分かっていたのかもしれない。彼に必死に駆け寄る自分の様子は、どこか作業じみていて、不思議なことに、彼に近づけば近づくほど、心が冷静になっていくのがわかった。
彼のすぐそばにたどり着いたが、推理小説の第一発見者のように悲鳴を上げることはなかった。走ったことによる息切れが、いつもと同じペースで引いていくだけだった。
「悲鳴、上げないのね」
心臓が高鳴った。立ち尽くしていた私の後ろに、いつの間にか校長先生が立っていた。私は、自分が、『死体を目にしても動じない残酷な人間』に見られるのではないかと怯えたが、しかし校長の目に私は、そうは映っていないようだった。
「いくつも自分の作品の中で死体をこさえても、実際に殺された死体を見るのは初めてかしら」
校長先生は、私の中にある、死体に対する本能的な恐怖を見透かしていた。
「わかるわ。他殺体って、独特の凄みがあるわよね。呪いじみた」
校長先生の言うとおり。急に、死体の表情に呪いが刻み付けられているような気がした。その呪いこそが、死だ、と思った。小説のテーマとして、恐れ多くも頭の中でこねくり回し続けてきたものが今、目に見える形でそこにあった。私は、衝撃を受けた。まるで、私の小説家としての二年が、自分にメッキを塗りつけていただけの時間のように感じられた。私は今まで、誰の葬式にも出たことがない分際で、人の身体の内側、その中身がぶち撒けられる瞬間にこそ、哲学めいたものがあると信じてきたのである。
「どうして……そんなに、校長先生は……落ち、着いて……」
傍から見れば、私と校長先生の様子は、共に落ち着いているように見えるかもしれない。だが、私は、恐怖のあまり体中の感覚が鈍重になっているだけだ。一方、校長は今にも、煙草でもふかしはじめそうだった。
「たくさん、見て来たから。麻痺してるのよね。あの子が殺人鬼になったときから、こういうのは何度も見てきたから」
彼女の様子から、私は確信した。校長先生の言っていることは、全て真実だったのだと。彼女の言うとおり、この学校には、恐ろしい殺人鬼が通っていて、今まさにその手による殺人が行われたのだ。
「これは、今日も残業ね……。ねえ、帰るなら、早く帰ってくれないかしら。あの子の殺した死体は見つからないけど、その為にはまず、最低限隠す努力はしないといけないの。それと念のために言っておくけれど、死体のことは誰にも言おうとしない方がいいわよ。言ってもいいけど、言う前に偶然、想像もつかない悪いことが起こって、口をきけなくなるわ。……回りくどい脅しとかじゃなくって、これはそのままの意味よ」
この死体は、一体いつからここにあったのだろう。私は、校舎の方を見た。窓際の生徒達なら、ここが見えるはずなのに、誰も死体に気がついている様子がない。
不条理。校長先生が先ほど言っていた内容が、しっくりくる状況だ。私は、死体を跨いででも、正門から出て、この学校のことを忘れるべきなのだろう。
だが、出来なかった。
「どうしたの?」
「……これが、現実ですか」
「そうよ」
「重たい……小説より、ずっと、重たいです」
「……当たり前よ。何をいってるの? ……もしかして、怒ってるの?」
「そうじゃ、ないんですけど」
そうじゃない。別に私は、殺人鬼に義憤を覚えているわけでは、決してなかった。
「さっき校長先生に、私、『自分がどう生きていけばいいか考えてきた』って、いいましたよね」
「ええ」
「でもずっと、分からなかったんですよ。そしてもう、あれだけ悩んだんだから、分からないのが自然だと思って諦めてました。これからずっと『分からない』ってことを引きずって、生きていくしかないんだって。でも、それは違ったんだって、今気がつきました。何も知らない人間が考え込んでも、何もわかるわけないですよね」
私は、校長先生の目を見て言った。
「私は、殺人鬼の少年に会いたいです。私は私のために、『わからない』で済ませるのを止めます」
散らかった部屋で出した結論を捨てて、もう一度、見詰め直そうと思った。このままで終わらせてはいけない。私の人生に纏わる功罪は、まだ『わからない』で終わらせていいものではないと、気がついた。もし、その少年のことを知って、何かが分かれば、罪に対する答えが、見えてくるのかもしれないと、期待した。
私に出来る何かが、見えてくるのかもしれない、と。
「……協力してくれるってことで、いいのかしら」
「はい」
「……! ありがとう、頼りにしてるわ」
校長先生は、少女のような笑みを浮かべた。私は、誰かを喜ばせたのが久しぶりすぎて、思わず頬を赤らめる。
「お、お任せください! ……その少年を、教育、すればいいんですよね。サイコホラーがどれだけ役に立つかわかりませんが、やってみましょう!」
私は、死体の前だと言うのに、ついつい声を大きくしてしまった。だが致し方あるまい。引きこもった果てに、やっと道しるべを見つけたのだから。
意気込む私に、校長が、笑顔のまま言った。
「ああ、そうじゃないわ」
「え」
「だから、そっちじゃないわ。私は別に、貴方が殺人鬼をテーマにした小説を書いていたからとか、あんな事件があったからとか、そう言う理由で、あなたを呼んだわけでは無いのよ? いや、あの事件が貴方をフリーにしてくれたから、そのおかげで呼びやすくなったのは確かだけれど」
……は?
なんだろう、ものすごく嫌な予感がした。私はたった今、生きる目標を見つけたばかりだが、その目標と、校長先生の要求が、どこかずれているかのような。私は恐る恐る、校長先生に質問する。
「あのぅ、それだと一気に話が分からなくなったのですが。じゃあ校長先生は、何をもって、私ならいけるってお思いになったのでしょうか」
私は、元小説家というステータスを取り除けば、ただの凡人以下の存在である。校長先生は、わざとらしい仕草で、二回頷いた。私の疑問ももっともだと言うように。
「ああ、まだ言ってなかったわね。私があなたを呼んだのはね、これが原因なのよ」
校長先生は、胸ポケットから何かを取り出した。
それは一冊の本だった。
ベテラン刑事が警察手帳をちらつかせるような仕草で、私に向かってひらひらとさせている。
校長先生が口を開いた。私には、心構えをする暇もなかった。
「『俺の生徒会がハーレム過ぎて、一体どうすればいいのか分からないからとてつもなく困っている件について誰かなんとかしてくれないかと思っているのに取りつく島もないという
撃ち抜かれた。
途端、私の全身の毛穴から汗が拭きだす。膝から崩れ落ちた。瞳孔が勝手に開き、体の自由と呂律が利かない。このまま死後硬直が始まりそうな勢いで、私という存在が崩壊していく。
「ふ、ふにゃああああああああああああっ! にゃ、な、なんでえぇっ! どうしてあなたがそれをおおお!」
気持ち悪い声で、私が叫んだ。
「言ったわよね。あなたの小説は全部拝読したって」
校長先生の口調は淡々としていて、それが逆に嗜虐性を感じさせた。
「幻のシリーズだものねぇ……発売元の出版社ですら、もはやなかったことにしている。今の作風に変える時に、ペンネームまで変えさせて。……まさかまさか、猟奇的な作風が持ち味のベストセラー作家のデビュー作が、ハーレムラブコメだったなんてねぇ……」
「はわわわわあああ!」
校長先生のおっしゃる通りだった。それは紛れもなく、闇に葬り去られたはずの、私のデビュー作だった。出版史に残る伝説の一冊である。勿論、悪い意味で。売上100部にも届かず、当時の編集部全員がストレスで10歳老け込んだといわれている。出版される前は、『二人三脚でやっていきましょう』が口癖だった当時の担当は、『同人誌じゃないんだから』と、譫言のように呟くようになり、最終的に、緑の多い田舎に異動になってしまった。そんな話以外にも、この小説にまつわる、数えきれない嫌な思い出たちが、間欠泉のように蘇ってくる。溢れ出てくる記憶たちのおぞましさに、私は目の前の死体のことも忘れ、必死に頭を抱えた。
そこから始まったのは、私の脳に対する凌辱に他ならなかった。校長先生は、頼んでもいない感想を、述べ始めた。
「つまらない」
「ぐふぅ!」
「まずタイトルが長すぎる。一息で言えないっていうのが、そもそもどうなの? そのくせ、『生徒会』と『ハーレム』しか、話の内容を具体的に喚起させる単語がない。タイトルを長くして書店で読者の目を引こうという発想は分かるけれど、ただ長くすりゃいいってものじゃないと思う。あと、いくらなんでも、白銀舞踏って書いて、この振り仮名は無いでしょう。パクリだし」
恥ずかしさで、頬から肺の中までが、熱くてたまらない。こんな気分になるのなら、磔にされて、体中をまさぐられた方がまだマシだ!
「内容もお粗末。タイトルから辛うじて拾える『生徒会でハーレムするんだな』っていう要素がそもそも、オリジナリティの欠片もない。話の展開も、テンプレートをなぞるばかりで、話のネタに困ったらとりあえずパロディと、ヒロインの肌の露出に走るのが、短絡的。何よりむかつくのは、白銀舞踏って単語から、話のどこかしらでフィギュアスケートでも絡んでくるのかと思って読んでたら、欠片も出てこないこと。なんで白銀舞踏って入れたのよ? もしかしてこれ、学園祭の後夜祭でフォークダンス踊るシーンのことをいってるの? 何、その首の皮一枚の舞踏要素」
あまりにも隙のなさすぎる指摘の奔流。私は息も絶え絶えに、聞き返す。
「ライトノベル……よく読まれるんですか」
「読まなくてもこれぐらいわかる」
それがとどめだった。哀れ新任教師は、上体を維持することすらままならず、倒れ伏してしまった。今この状況を第三者が見れば、校長先生が二人殺したようにしか見えないだろう。
「こんな下らないものを書いておきながら、さっきは良くも人の実話に、設定に魅力がないだのなんだの言ってくれたものね」
「ぱ、パワハラですっ!」
倒れたまま、首だけを校長に向け、涙目で訴える。
「新任教師の若き日の過ちをほじくり返して、何が楽しいんですかぁっ!」
「本当に下らないはずなのに……この小説は、ある一つの偉大な功績を上げたわ」
「……へ」
「百合屋先生。貴方を呼んだ理由はね、その殺人鬼の生徒が、この小説の大ファンだからなのよ」
「はああああああ?!」
もう一生分の叫び声を、私はこの場で使ってしまうのかもしれない。思いもよらない展開になってきた。
「この小説を読み始めてからね、あの子ちょっと……いえ、かなり、変わったの。それまでは、殺人だけが生きる糧、みたいな感じだったんだけど、この本をきっかけに、色んなラブコメに手を出し始めて、これまで殺人は、きっかり一か月に一回だったのに、今では二か月に一回殺せば、済むようになってきたの。これはすごいことなのよ!」
「わ、私の本を読んで……殺人鬼が、更生……?」
「そう!」
校長先生は、倒れている私に跪き、その手を差し出した。
「おい、誰かいるのか」
その時、声が聞こえた。校門を出たところに植えてある大きな街路樹の影に、誰かがいたようだ。私は、心臓が止まりそうになった。校長先生の話では、第三者に死体が見つかることないはずなのに。私は、声のする方に振り返る。そこには、意外な顔があった。
「あああっ! お前!」
「あ、あなたはさっきのラブコメ少年!」
お互いを指差しあいながら、目を見開く。先ほど校門前で論争を繰り広げた、あの少年だった。
「
校長先生が。死体を跨いで彼に近づき、その頭に拳骨を落とした。
「この死んでる子、今日午後からに来ることになってた転校生でしょう? どうして殺しちゃったの? なんで我慢できなかったの? ていうか授業はどうしたの?」
校長先生が、教育ママのように、ラブコメ少年に詰め寄った。その光景に、私は衝撃を受けた。校長先生のヒステリーに対してではない。この少年が、殺人鬼なのだということにだ。
「授業は、昼からずっとサボったよ。俺は今、保健室にいることになってる。我慢っていうけど、前回からもう、一か月と二十日は足ってるんだから、そろそろやっとかないとやばかった。それと最後に、どうして殺すのをこいつにしたかっていうことだけど、これは先生が悪い。どうしてこいつが、転校してくること、隠してたんだよ」
「あなたとは別のクラスなんだから、関係ないでしょう」
「ある」
少年は、力強く断言した。
「男の転校生は、いらない。しかも、バスケやってるってのは今朝担任が言ってたから知ってたけど、実際見て見りゃ、俺より身長が三センチも高いし、顔もいい。こんなやつ、排除されてしかるべきだ。全く、待ち伏せた甲斐があったってもんだぜ。」
やっかみや嫉妬を、ここまですがすがしく言う人間を、私は初めて見た。彼は、自分の判断で、人の命を奪い取るということに対して、全く疑問を抱いていないように見えた。その様子に思わず、私は口を挟んだ。
「な、何も……感じないんですか? その、罪もない人の命を奪ったとか、その、もしかしたら、友達になってたかもしれない、とか……そういう、色々を」
彼は、ため息をついた。
「ゴキブリを潰した時に、『このゴキブリは家族思いだったのかも』って考えたことある? 地面に落ちた蝉の死体を見て、『こいつの声は蝉の中で綺麗な方だったのかな』って思ったことは? 蠅を潰した時に、『こいつは飛ぶのが早くて優秀な個体だ』って感心したことは? ……まあ俺、虫殺したことはないんだけどな。でもまあ、例えるならそんな感じさ。イケメンは、イケメンっていう生き物なんだよ。そいつらが勉強出来ようが、バスケやってようが、友達になれそうだろうが、知ったことか。こいつらは、ヒロインに二心を持たせる可能性のある、害虫だ」
彼は、最初に言い合いをしたときに見せてくれたライトノベルを取り出し、見せつけながら言った。
「俺が、主人公だ。俺の物語にそぐわなければ、物語に登場すら出来なくて、当然なんだ」
私は空いた口がふさがらなかった。私の様子を意にも介さず、少年は私に質問する。
「ところで、お前はどうして、死体を見つけられたんだ?」
「それは、彼女が協力者だからよ」
彼の質問に答えたのは、校長先生だった。
「安心しなさい。彼女は貴方が、ラブコメみたいな高校生活を送るのを、教師としてサポートしてくれるの。来年、高校二年生になったら、美人の担任教師が欲しいって言ってたわよね? それも彼女にしようと、思ってるんだけど」
ここにきて聞いてない話がぼろぼろ出てきた気がするが、私に反論する気力は無かった。
校長の話を受け、少年は、一瞬顔に喜びの色を浮かべたが、すぐに申し訳なさそうな顔になり、私の顔を覗き込んできた。
「ラブコメ、嫌いなんじゃなかったのか?」
「その、ええと、これから頑張って好きになるつもりですから。色々、教えてください」
「おお、やった! やっぱ話せばわかってもらえるもんなんだな!」
今度こそ、少年は遠慮なく満面の笑みを浮かべ、ガッツポーズを決めた。小さな子供のような喜び様と、「でもこの子は殺人鬼なのだ」という実感。
彼が、手を差しだし、握手を求めてくる。その指先に、僅かに血が付着していて、思わず凝視してしまう。それに気づいた彼が照れくさそうに、手を後ろにひっこめ、はにかんだ。
「俺の名前は、霧崎麻述。先生の名前は」
「私は……百合屋かおる子といいます」美人の上にキャラ立った名前だね、と、殺人鬼の少年が嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ながら考えるのは、やっぱり私も悪いのかなぁ、と言うことだった。
霧崎少年は言っていた。『待ち伏せしていた』と。彼はお昼からずっと、転校生を殺すべく、正門で待ち続けていた。彼の昼食が、アンパンと牛乳だったのはもしかしたら、『刑事ドラマの張り込みのシーン』にあやかっていたのかもしれない。馬鹿げた話だし、そもそも霧崎君は刑事ではなく殺人鬼なのだが、いつもラブコメの為に食パンを買い食いする彼なら、いかにもやりそうなことだ。だが、きっと彼は恐らく、転校生の性別を知らなかったのだ。バスケ選手という情報から、勝手に男だと思い込んでいただけで、私を見た時に初めて、女子バスケ選手という可能性に、気がついたのだろう。こうして彼は私を、転校生だと勘違いするに至った。だがもし、仮にだ。私が彼の勘違いを正していなければ、どうなっていただろう。私のことを転校生だと勘違いしていれば、霧崎君はそのまま授業に戻り、今日のところは、誰も殺されずに済んでいたのではないか。『きっとまた、いいチャンスがありますよ』。そのチャンスを与えてしまったのは、他ならぬ私ではないか―――。
私は深呼吸をした。そしてそれ以上、考えるのを止めた。救いの無いIfの話はやめよう。なんにせよ、この名もなきバスケ少年は、救世主どころか、モブにすらなれずに、死んでしまったのだ。考えることしかできないなら、それは意味の無いことだと、今日学んだばかりだ。無駄なことは止めて、これからのことを考えるべきだと、私は思った。
すがすがしいくらい、私は前向きな気持ちだった。
霧崎麻述と百合屋かおる子・了
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