Bygone days.9




 後日、麻理子から再び電話がかかってきた。

 今度は昴が電話に出た。

「もしもし、昴? 母さんよ」

 麻理子の声は上擦って、およそ半年ぶりの息子の声に感激しているようだった。

 母の喜びとは反対に、昴の心は醒めていた。今更何を……という気持ちがあった。この数ヶ月何をしていたのか知らないが、放置された側からすれば素直に喜べない。自分を置いていったことへの怒りも、沸々とこみ上げてきた。

 麻理子は前回と同じく、会って話がしたい旨を告げた。今現在のことも会ってから話すと言う。明彦や、その母である春子のことを懸念しているのかもしれなかった。

 麻理子にとって昴は息子である。明彦にとっても昴は息子である。春子も明彦を通して、昴と血が繋がっている。

 だが、麻理子と明彦は他人同士だ。二人が家族であったのは、もはや過去である。少なくとも、麻理子の中ではそうだった。

 

 

 母子の再会は、思いのほか早くやってきた。

 翌週の土曜、昴は昼前に指定された駅前のカフェへ一人で行った。

 店は大型デパートの七階、レストランフロアに入っていて、土日でもあまり混んでいない。かつては麻理子と二人で何度も行き、食事を楽しんだ店だった。

 心配した春子が同行を申し出たが、昴は断った。祖母がいては、母も話しにくいだろう。

 明彦は春子から、昴が母親と会うことを知ったようだが何も言わなかった。

 麻理子の話題は、頑なに避けている節があった。

 

 昴が店に入ると、奥の席にいた女性が立ち上がり、大仰に手を振った。麻理子だった。薔薇の模様が入ったショッキングピンクのスーツを着て、細い真珠のネックレスをつけている。化粧もばっちりだった。服に合わせたのか、ピンク色の艶々した口紅をつけている。ピンクは麻理子が一番好きな色だった。服のみならずバッグや小物もピンクで揃えている。明るい茶髪をきちんと内巻きに巻いていた。三十代半ばだが、年齢にそぐわず若々しく見える。

 麻理子の隣りには、見知らぬ男性が座っていた。

 麻理子よりも若く、黒地にストライプのスーツを着て、薄いピンクの水玉模様のネクタイを締めている。昴の視線に気づくと、爽やかに笑った。

 落ち着かないながらも、昴は勧められるまま二人の前に座った。

 直後にウェイターが来て水を置いていったので、遠慮なく飲んだ。喉がからからに乾いていた。

 麻理子は昴の手を握った。

「昴、久しぶりね。元気そうで良かった」

「……母さんも。相変わらずおしゃれだね」

 なんと言っていいかわからず、とりあえず褒めると麻理子は当然とばかりに身を乗り出した。

「おしゃれするのも仕事のうちだもの。素敵な服は、まず自分で着てからお客さんに見せるの。その方がわかりやすいでしょ」

 昴は男の方を見た。麻理子は、ああと声をあげた。

「紹介するわ。彼は森脇さん」

「初めまして、昴くん」

 森脇は軽く頭を下げた。昴は黙って会釈で返した。

 一見するに、麻理子同様におしゃれで誠実そうな青年だった。

「安心して。この子は人見知りはしないの。慣れるとよくしゃべるのよ」

 麻理子が忙しく森脇に説明している。

 さらにウェイターを呼び、メニューを捲りながらてきぱきと注文した。

 自分たちは飲み物だけにしたが、昴のために海老フライのランチとソーダを注文した。息子の好物は熟知している。喜ばせる手段も。明彦にはできない細やかな気の配りようだった。

「本当は弁護士さんも同席するはずだったんだけど、予定が合わなくて」

「もしかして来栖さん?」

 昴は、かつて来栖が自宅まで書類を届けに来たことを思い出した。

「そう。そっちも会ったみたいね。来栖さんはお母さんの弁護士さん。これからのことについて、色々お願いしているの」

「お母さんは、今はどこにいるの?」

 麻理子は森脇に目配せしながら言った。

「今は品川。会社の近くよ。実はね、今……この森脇さんと一緒に暮らしているの」

 そう言われた瞬間、昴は目の前が真っ暗になるのを感じた。

 やっぱりと思った。麻理子は一人ではなかった。男がいたのだ。

 無言のまま、ぎゅっと水の入ったコップを握りしめた。指が、冷たい。

「課長」

 森脇が慌てて言った。直球すぎるのでは、と目が言いたげである。

「ちょっと、課長はやめてよ。会社じゃないんだから」

「すみません、麻理子さん」

 森脇は改めて名を呼んだ。二人の関係がよくわからず、昴は混乱した。

「……どういうこと?」

 やっとのことで出た声は、少し掠れていた。

「ごめん、こんなこと突然言ってもびっくりしちゃうよね」

 麻理子は謝り、森脇との関係を話し始めた。

 森脇は麻理子の部下だった。八歳年下で、麻理子が課長を務めるアパレルの部署にいる。もう五年ほど一緒に働いているという。

「お母さんはね、この森脇さんが好きで……それで、家を出たの。お父さんとは別れるつもりだった。でも昴のことはどうしても諦めきれなくて。だから……」

 後ろめたいのか、麻理子は途切れ途切れに言った。眉間に皺が寄り、少し苦しそうである。

 麻理子には、麻理子の葛藤があった。

 仕事家事育児に追われる日々の中で、夫への気持ちは日に日に醒めていった。

 毎日一緒に働く若い部下に惹かれ、いつしか恋愛関係になった。結婚している以上これは不倫である。この時点で麻理子の方に大いに非があり、本人もそれを自覚していた。

 人は、その人生で様々な岐路に立つ。

 二つ道があれば、どちらか一つを選ばなくてはいけない。

 片方を選べば、片方を捨てなくてはいけない。

 結論として、麻理子は森脇を選んだ。

 明彦と今後何十年も暮らしていく人生は考えられなかった。

 とうとう離婚を決意し、一度は子供、昴のことも諦めた……はずだった。

 しかし、人の感情とは複雑かつ難解である。

 意を決して離れたものの、母親としての情は絶つことはできなかった。むしろ離れてからの方が、昴への想いが募った。

 いけないことだと思いつつも、学校へ電話して昴の様子を確かめた。

 担任の君江から元気だと知ると安心し、同時に心配になった。明彦は家のことは何もできないし、家族への関心も薄い。育児放棄とまではいかないが、きちんと息子の面倒をみれるとは思えなかった。

 森脇との生活が落ち着くにつれ、麻理子は息子を家に置いてきたことを悔やむようになった。拉致同然に連れてこればよかったとすら思った。

 昴へ連絡を取ったのは、その想いに耐えかねてのことだった。

「これまでね、何もしなかったわけじゃないの。家を出てから、お母さんは何度もお父さんに離婚を申し出たわ。でもお父さんは、それを拒否したの」

「離婚……するんだ」

 昴は呆然とした。離婚の意味はわかる。夫婦が夫婦でなくなることだ。家族が家族でなくなることだ。

 わかるけど、信じがたかった。何故、父と母が別れなくてはならないのか。

 自分でさえこうなのだから、突きつけられた父はどんなにショックを受けたことだろう。

「弁護士さんを雇って、話してもらったけどだめだった。このままでは離婚調停、調停が上手くいかなければ裁判になってしまう」

「裁判。そう……なんだ」

「来栖さんにも言われたわ。もし離婚できても、非は私にある。あなたの親権は取れないって……。でも、母さんは昴と一緒に暮らしたいの。あなたの意思でこちらに来て欲しいの。ねえ、昴、お母さんのところへ来てちょうだい。森脇さんはとてもいい人よ。新しいおうちで、三人で仲よく暮らしましょう。引っ越しや転校はあるけれど、母さんが全部うまくやってあげるから。何も心配はないわ。……ね?」

 昴は絶句した。麻理子の言い分は、とても身勝手に思えた。

 好きな人ができたから離婚するなんて、でも息子とは離れたくないから一緒に暮らしたいなんて、そんな虫のいい話があるだろうか。

 あまりに父が可哀想だった。

 父が、明彦が一体何をしたというのだ?

 確かに家事はできないし、お世辞にも家庭人とは言えないけれど、暴力を振るうわけでなし、暴言を吐くわけでなし、仕事をしないわけでなし、酒やギャンブルや女に溺れたわけでもない。色々至らない点はあるが、明彦は決して悪い人間ではない。

「……なんで。なんでなの? 父さんの何がいけないの?」

「それは……」

 麻理子は口篭った。

 どうしたら、十年の結婚生活の間にあった苦しみ、孤独感、虚しさを伝えられるかわからなかった。まだ子供の昴が明彦を庇うのは当然に思われた。

「父さんは悪い人じゃないよ」

「そうね、悪い人ではないわ。でもね、昴、あの人は何にも無関心よ。無関心は、生半可な暴力よりも力があるの。無関心は人を殺すの。母さんは、もうそれが耐えられなかった。心が死んだままで、生きたくなかったの。お父さんは……」

「やめてよ、父さんのことを悪く言わないで!」

 昴は遮り、吐き捨てるように言った。頭の中がぐちゃぐちゃになりつつあった。

「だめだよ。父さんのことを悪く言っていいのは、僕とおばあちゃんだけだ。一緒に暮らしている僕たちだけだ。お母さんは、そうじゃない」

 昴は強く言い切った。

 麻理子に対して、もはや嫌悪感しかなかった。

 自分は母親に捨てられただけでなく、裏切られたのだと感じた。

 母は自分の母であることよりも、女であることを選んだ。何を言い訳しても、年若い恋人を選んだのだ。

 汚いと思った。おしゃれだと思った口紅に、否応なく女の性を感じた。森脇のピンクのネクタイも麻理子が選んだに違いない。けばけばしい、いやらしい色だと思った。

「ひどいよ。母さんは、ひどいよ」

「昴……」

「僕は行かない。お父さんと、おばあちゃんと一緒に暮らすから。その方がいい」

 昴は半ば、意地になっていた。このまま麻理子の思い通りになるのは嫌だった。

 品川での暮らしが、今より快適であろうとも嫌だった。

 引っ越しも転校も嫌だった。君江や亮平の顔が思い浮かんだ。

 麻理子は、昴の拒絶にがっかりしたようだった。

 大きく溜息をつき、腕を組んだまま俯いた。

 海老フライのランチとソーダが運ばれてきた。

 昴は食べたくなかった。早く家に帰りたかったが、麻理子は「食べなさい」と言った。

 仕方なく、昴は口をつけた。以前食べた時は美味しかった海老フライが全く美味しくなかった。紙でも噛んでいるような味だった。

 麻理子と森脇は黙ったまま、アイスコーヒーを啜った。

 重苦しい沈黙が流れた。

 しばらくして、麻理子は諦めたように顔を上げた。

 心のどこかで、息子の懐柔は無理だと思っていたのかもしれない。何せ、自分は不貞を犯した身だ。世間的に見ても、誰もが明彦の方に同情するだろう。

 今度は学校のことなどを尋ねてきたので、昴は言葉少なに答えた。

 母の問いを無視することはできなかった。

 麻理子からの愛情は常に感じていた。母はいつも快活で、社交的で、おしゃれで、仕事も家事も育児も一人で頑張っていた。

 生まれてから九年間、母は昴の生活の全てだった。もう会えないかもと思うと、涙が出そうになった。

 なんとか食べ終わると、昴は立ち上がった。

 帰ると言うと、麻理子はもう引き止めなかった。

 寂し気に笑い、手を軽く振った。

「じゃあね、母さん」

 昴はわざと素っ気なく言うと、店の出口に向かった。

 

 レジの前まで来たところで、背後から声がした。

「昴くん、待って」

 呼び止める声に振り返ると、紙袋を持った森脇が追いかけてくる。

「これ、お土産。渡しそびれるとこだった」

 追いつくと、森脇は昴に紙袋を渡した。

 袋には見覚えのある商社のロゴが入っている。麻理子が勤めている会社だ。

 仕方なく受けとって、ちらりと中を覗くと子供用の衣類がぎっしり詰まっていた。

「社販で買ったんだ。全部僕が選んだんだよ。ピンクはないから安心して」

 森脇はにっこりと笑った。人好きのするいい笑顔だった。

「ありがとう」

 昴は一応にも礼を言った。

 母を奪った憎い相手のはずなのに、どうしてか森脇のことは嫌いになれなかった。

 森脇は店を出て、廊下の端までついてきた。

 階段の前まで来て、彼はその場にしゃがみこんだ。

「……あのさ、信じて貰えないかもしれないけど。僕は正直、昴くんが来てくれるのは大歓迎なんだ」

「嘘」

 反射的に昴は言ってしまった。そんなわけはないと思った。

「嘘じゃないよ。麻理子さんがきみを引き取りたいって言い出した時は嬉しかった。こんな形になってしまったけど、きみのお母さんのことは本当に好きだし、上司としても尊敬しているんだ。好きな人の子供なら、絶対愛せると思ったし。子供を持つなら、息子が良かったし。きみの父親になれたらいいなと思った。でも、さすがにそれは調子良すぎだよね……」

「……僕には、お父さんがいるから」

「そうだね。僕がきみの立場でも、同じことを言ったと思うよ」

 森脇は残念そうに呟き、立ち上がった。

「また会えるといいね」

 森脇の呼びかけに、昴は答えなかった。

 そのまま逃げるように、階段を一段飛ばしで駆け降りた。紙袋が足に当たってガサゴソと音を立てた。

 昴は切なかった。

 森脇が、テレビアニメやドラマで出てくるような、わかりやすい悪人であれば良かった。母は騙されていて、他にも何人も女がいて、いつも暴力を振るい、金を巻き上げるような人間であれば良かった。そうであったら、心置きなく憎めたのに。

 きっと森脇は悪い人ではない。明彦も悪い人ではない。麻理子だって――。

 皆、悪い人間ではないのに、同じところにはいられない。

 昴は、一体何に憤ればいいのかわからなくなっていた。

 自分には明彦がいる。父親は二人もいらない。

 だから、森脇の存在は必要ない。母には必要であっても、自分には必要ない。

 そう言い聞かせた。

 

 

 昂った気持ちが落ち着くには、時間がかかった。

 近所の公園でぶらぶらしてから家に帰ると、玄関には父の大きな革靴があった。

 今日は土曜日だが、明彦は朝から天文台へ行った。

 いつも通りなら、帰ってくるのは夜のはずだ。

 昴は昼間から、父がいることを不思議に思った。

 もしや、自分と母が会うことが気になって早めに帰ってきたのだろうか。それならば嬉しかった。昴は母の申し出を断り、明彦を選んだのだから。

 荷物を置いて居間に入ろうとして、そこで立ち止まった。

 中から言い争うような声が聞こえてきた。

「あんたって子はどこまで……。一体、何を、何を言ってるんだい。私にはわからないよ。理解できないよ」

 春子の悲痛な声だった。

 昴は少しだけドアを開け、そっと中を覗きこんだ。

 テーブルの前で、明彦と春子が向かい合って立っていた。

 春子は、明彦に拳を振り上げている。興奮からぶるぶると震えていた。

「もう志願してしまったんだよ。あっちの観測所に欠員が出るなんて滅多にないことだ。チャンスなんだ。俺は……行くよ。決めたんだ」

「なっ、馬鹿言うんじゃないよ。志願だって? 冗談じゃないよ。お前はどこまで逃げる気なんだい。どうして、目の前の問題に向き合おうとしないんだい。麻理子さんのことも、昴のことも。家族を一体なんだと思ってるんだい!」

 春子は怒鳴り、振り上げた拳で明彦を小突いた。昴は息を呑んだ。祖母がここまで声を荒げ、手まで上げるのは初めて見た。

「なんて勝手な……。これで昴はまた……」

 春子はそれ以上言葉にならないらしく、目頭を押さえた。

 明彦は沈痛な表情で、深く項垂れている。

 昴はドアから離れ、数歩後ずさった。何か嫌な予感がした。

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