Bygone days.3
結局、昴がシャワーだけ浴びて就寝したのは午前三時近くだった。
ベッドに入って、瞼を閉じた次の瞬間には朝になっていた。
目覚まし時計をかけるのを忘れていたが、七時ぴったりに目が覚めた。
眠いことこの上なかったが、もそもそと起きだして学校へ行く準備をする。
病気でもない限り、休むことはあり得ない。家に一人でいても仕方ない。
いつ家を出たのか、明彦の姿は既になかった。
リビングのテーブルの上に、昨夜買って来た菓子パンと千円札、明彦のメモがあった。今日は地方の大学で講義があって遅くなるから、ごはんを先に食べて寝るようにと書いてあった。
昴はメモをくしゃくしゃに丸めると、ゴミ箱に投げ入れた。
昨夜の明彦の言動を思い出すとむらむらと腹が立ってくる。
「お前がいなけりゃ」という一言さえなければ、流星群を観た感動のまま一日を終えられたのに。
傷ついたというほどではないが、引っかかるものを覚えながら、昴は干してあった洗濯物を直に取って着替え始めた。
今日という一日が始まった。
何の変哲もない一日だ。
昨日と同じく学校へ行って、授業が終わったら学童へ行って、家に帰ったら一人で食事して寝る。
昴の行動範囲は狭く、生きる世界は小さい。
子供は子供ゆえに、大人が与えるありのままを受け入れて暮らすしかない。
その日の三時間目はローマ字の授業だった。
視聴覚室でパソコンに向かって、画面上に表示されたひらがなの文をローマ字入力した。
最近は小学生でも、携帯やタブレッドを持っている子が多い。様々な理由で親が電子機器を買い与えるのだ。そういう子はメールを使ったり、SNSを利用したりするので、ローマ字入力をかなり早い段階で習得している。
昴は携帯もタブレッドも持っていないが、すぐにローマ字を覚えてしまった。
アルファベットの書き取りや、パソコンの操作は楽しかった。
Aを入力すると「あ」、SとIを入力すると「し」と出るのだ。
なんだかちょっとした魔法を見ているような気分になる。アルファベットはカクカクしているのに、そこから変換されるひらがなは丸っこくてどこか優しい気がした。
周囲からは、カチカチとキーボードを叩く音がする。
入力が早く終わってしまったことをいいことに、昴はこっそりインターネットを開いた。
検索サイトが出て来たので、「すばる 意味」と打ち込んでみる。
完了ボタンを押すと、ずらっと検索結果が出てきた。
一番上に星の名前があった。
昴は迷うことなく、そのページをクリックした。
「牡牛座にある、肉眼では六つ見える星。プレアデス星団。二十八宿の一つ。六連星。すまる。すばる星」と書いてある。
昴は、自分の名が星と同じであることは知っていたが、その詳細は知らなかった。明彦に聞けば答えてくれるだろうが、今夜は仕事で会えない。インターネットの方が早くわかると考えた。
どうやら、すばるは一つではなく複数の星らしい。
英語だと「Pleiades」である。
プレアデスという響きが、何かかっこよくて気にいった。
アニメやゲームに出てきそうな名前である。
「何々、何見てんの? エロサイト?」
おちゃらけた声がしたのに振り返れば、隣りの木戸亮平が覗き込んできている。
クラスメイトの亮平は、今現在昴の一番の友人だった。
一年生の頃からクラスは一緒で、いつもつるんでいる。
性格は明るいお調子者だが、お坊ちゃんらしく品のいい顔立ちで、女子の間ではイケメン認定されている。実家は総合病院で、将来は絶対医者にならなくてはいけないらしく、今年から私立受験に向けて週三回の塾に通い始めた。親にねだればなんでも買ってもらえる環境もあってか、とても物知りだった。
昴はおとなしそうに見えて、元来人と話すのが好きなたちである。
亮平と休み時間や放課後に、だらだらと益体のない話をするのが何より楽しかった。麻理子が家を出て行ってからは尚更だった。
「そんなわけないだろ」
声を顰めながら返すと、亮平はわざとらしく溜息をついた。
「だよなあ。ていうか、元々ヤバイのは全部ブロックされてっしな。つまんねえ。おりゃあ、バインバインなおっぱいがいっぱい見たいのよ。よよよ!」
口ではふざけつつも、亮平の目は注意深く画面に注がれている。すばるの項目を速読していた。頭の回転はとても早く、成績もいい。
「……あ、何? すばる? お前、星に興味あんの?」
亮平の的確な指摘に、昴は少し恥ずかしくなった。声が自然と小さくなった。
「ん、まあ……名前の由来を知りたいと思ってさ」
「あー。そんなん、あれだろ。自動車のメーカーだろ」
「……違うと思う」
「じゃ、あれだな。さらばぁ~すばるよぉ~のやつ」
「何それ」
「え、知らねえの? なんだっけ、有名な演歌だよ。森進一だか星新一だかの持ち歌」
「知らないよ」
昴が素っ気なく返すと、亮平は大袈裟に嘆いてみせた。
「ああ、あの名曲を知らないなんて……。さらばすばる、さらば九年の人生。一度聞いてみろよ、マジ泣けるから」
「違うよ、絶対それが元じゃないから」
それだけは確信を持って、昴は言い切った。
自分の名前の由来は、星のすばるだと思った。
プレアデスなのだ。自動車メーカーでも、演歌でもない。
ちなみに、「昴」が演歌ではなく歌謡曲で、歌っている歌手は森進一ではなく谷村新司で、星新一がSF作家であることを知ったのは大分後のことである。
「コラ、そこ何を騒いでいるの。静かにしなさい」
突然、若い女の声がして、亮平の頭がペンで叩かれた。
二人が振り返ると、担任の中浜君江だった。叩かれた亮平に、周囲の児童がくすくす笑う。
君江は大学を卒業してまだ二年の若い教師で、産休に入る教員の代行で二ヶ月前に担任となった。それまでは良い就職口がなく臨時の教員をしていたが、念願の正職員になれたことをとても喜び、毎日張り切って授業をしている。真面目で勉強熱心な良い教師だが、若さゆえか児童に些か舐められてもいた。舐めている筆頭は亮平である。
「なんで俺だけなんだよ。昴だって話してただろ」
自分だけ叩かれたことに、亮平が不満の声を上げる。
「話しかけてるのは、木戸くんでしょ。全く、目を離すとすぐにこれなんだから。……って何見てたの? 危ないサイトじゃないわよね?」
そう言いながら、君江も画面を覗きこんでくる。
昴は亮平に加え、君江まで割りこんできて窮屈になったが何も言わなかった。
何故か亮平が、説明だか言い訳を始めた。
「フィルターかかってんのに、危ないサイトなんて見れるわけないだろ。昴の意味を見てたんだよ。星のすばる」
「へえ、そうだったの。まあ、これならいいわ」
画面を視認すると、君江はあっさりと顔を離した。
早々に入力が終えた暇な児童が、学術的な検索をして知識を深めるのは構わないらしい。
「昴くんは、星に興味があるのねえ」
感心したように呟く君江に、昴は頷いた。
「僕の名前は、星のすばるから来たと思って」
「うん、素敵な名前だね。星といえばすばるだもんね。一番の星」
「そうなの?」
一番と言われて昴が照れると、君江は腰に手を当ててにっこり笑った。
「そうよぉ。すばるは別格なんだから。清少納言が書いた枕草子にも、『星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし』って書かれているもの。千年前から愛されてる星よ」
「それ、どういう意味?」
「『星といえば、すばる。そして、彦星。金星もいいね。流れ星も趣きがあって美しい』っていう意味」
「星といえばすばる……」
昴は反芻し、すばるという星へ向けられた称讃を噛みしめた。
彦星とは、七夕でいう織姫と彦星のことだろう。清少納言は、すばるは彦星と同等か、それよりも上だと言ったのだ。
「彦星ってアルタイルだろ。わし座の一等星」
「わ、木戸くん。よく知ってるね。じゃ、すばるの本来の意味は知ってる?」
「それは知らね」
昴は、君江と亮平の会話に耳を澄ました。
「すばるの語源はね、昔の言葉の『すまる』よ。集まるっていう意味なの。星が一つあるんじゃなくて、沢山の星が集まっているの。賑やかなのよ」
「賑やか……なの?」
そういえば、サイトにもプレアデス星団と書いてある。
昴は星団という文字を食い入るように見つめた。星は一つきりで輝いているのではなく、集団もあるのだ。
「そう。昴くんの御両親は、昴くんは多勢の人に囲まれて、楽しく暮らして欲しいと思ってつけたんじゃないかなあ」
亮平がひゅーと口笛を吹いた。
「昴先生、かっこいい。反対に、先生の名前はだっさいよな。今時、君江なんていねえよ。昭和かよ。さすが一〇〇〇年代の生まれ!」
「コラ! なんてこと言うの。人の名前を馬鹿にしたら許さないんだから」
茶化す亮平の頭を君江は再びペンで叩き、昴は呆れながらも笑った。
亮平が、本心から君江を馬鹿にしてるわけではないことを知っていた。
この年頃の少年の常で、何かと大人の女性の気を引きたいのだ。
君江は、何かを思い出したのか神妙な顔になった。
「そうだ。昴くん。実はちょっと話があるの。放課後、職員室へ来てくれる?」
「あ、はい……」
昴が素直に了解すると、君江はどこかホッとした表情を浮かべた。
「何々? 先生、いい年して年下の彼氏? 昴くん、モッテモテ!」
と亮平は相変わらずふざけている。君江はまたペンを振り上げたが、その顔は笑っていた。
入力が終えた児童が増えたのか、教室内はガヤガヤとうるさくなってきた。
「先生、来て~」と女子が手を上げたのに、君江は「はーい」と明るく返事し、昴たちの席から足早に立ち去った。
放課後になり、三年一組の教室から徐々に人が減っていく。
昴はこの時間が密かに好きだった。
亮平と二人であれこれ話す中、周囲は少しずつ開けていく。
静かにはなっていくが、騒がしくない程度に、誰かの声が聞こえるのが心地いい。
亮平の塾は五時からで、それまで少し時間があった。
昴は亮平に、昨夜流星群を観たこと、そこで明彦から聞いたことを話した。
「人は星である。星と同じ成分でできている」というと、亮平は机に肘をついて怪訝そうな顔をした。
「はあ? 人が星だって? そんなん嘘だろ」
「……嘘じゃないよ。父さんが言ったんだ」
少しムキになって言い返すと、亮平は疑わし気に鼻を鳴らした。
「お前の父ちゃん、何してるんだっけ?」
「天文学者……だと思う。天文台に勤めてるし」
「え、マジで?」
そこで亮平は飛び上がった。
いちいちリアクションが激しいが、そういうところも見ていて飽きない。
「そっか、じゃ本当かもな」
「何だよそれ。今、嘘って言ったくせに」
「いや~だって学者さんが、それも星の専門家が言うならマジだろ。つうか天文学者なんて、父ちゃんめちゃくちゃ頭いいんだな。ひえ~」
「そうなの?」
「そうだよ、数学と物理ができないと天文学者にはなれないんだぜ。まあ、医者もそうなんだけどさ」
「数学と物理って何?」
「算数と理科の難しいやつ。でも医者は医大出て免許取ればなれるけど、天文学者はそうじゃない。まずは東大とか京大を出るくらい頭良くないと」
「そんなに難しいんだ」
昴は内心、意外に思った。
父の職業は、世間で難関と思われる医者よりもなるのが難しいらしい。
天文台で星を観測しているだけと思っていたが、実際はもっと違う仕事なのかもしれない。
亮平は大仰に息を吐いた。
「人が星ねえ……。だったら逆に、星が人間になるってこともあるのかなあ」
「あんまり想像がつかないけどね」
「んー、でも構成する原子は一緒なんだろ。地球が四五億年かけて人間を作り出したのは、星がすっげー細かい部分で人間になったってのと同じかも。植物とか動物も同じだろうけど、今のところ人間にしか宇宙や星について思考する力はないわけだし。俺たちは、星として最初からいたのかもしれないし。とんでもない知的生命体だったけど、星としての意識を失っただけかも。それこそ頭打って、記憶喪失になった的なノリで」
「星としての意識? 最初からいたってどういうこと?」
「最近ネットで知ったんだけど、ダーウィンの進化論てあるだろ」
「人は猿から進化したってやつ?」
「厳密に言うと、『人と猿は共通の祖先を持っている』ていう仮説だけど。あれって、今は違うという説が主流らしいんだよ。進化している過程の生物の化石が見つからないし。進化論は証拠がなく、科学的にも説明できないんだとよ」
「えっ、違うんだ……」
昴は思わず身を乗り出した。
ダーウィンの進化論について詳しく知っている訳ではない。
宇宙が神としか言いようのない「偉大な存在」に突然作られたとするよりは、猿から人になったと言う方が信じられる気がする。あくまでその程度だ。
ただ、神の存在を証明できないのと同様に、人の進化の過程も証明できない。要するにわからないのだ。
人は、人が何者であるかわからない。
人は自分の正体を知らずに生まれ、わからないまま次世代に繋いで死んでゆく。
今までも、おそらくはこれからも――。
「医療現場では当たり前だけど、完全殺菌したところに自然に菌は発生しない。絶対にな。生命は生命からしか生まれないし、複雑な遺伝子構造も変わらない。鳥は何万年も前から鳥でしかなく、人は最初から人でしかなかった……って話だ」
「だったら、人はどこから来たんだろう……? 突然に誕生したのかな。今の所、地球にしかいないようなのに」
「うーん、謎だよなあ。それをお前の父ちゃんが探っているのかも。星が人、人が星であるっていうのも含めて」
「そうか……」
亮平の話は興味深かったが、昴には摩訶不思議すぎて頭がくらくらしてきた。
自分の生きている狭い世界をはるかに飛び越えて、あまりにスケールが大きすぎた。まさか名前の検索一つで、このような話になるとは思わなかった。
その後も、亮平は昴に星に関する色んなことを教えてくれた。
人類の最期はわからないが、地球の最期は既に決まっていること。
地球は星としての寿命が尽きる前に、膨張する太陽に呑み込まれて終わるらしい。当然、地球にいるありとあらゆる生命体も運命を共にする。
現在、地球以外で知的生命体がいる可能性が高いのは、木星の衛星であるエウロパ。エウロパの厚い氷の下にある海には、魚のような生命体が存在する確率が高いという。
楽しい会話が続いたが、四時を回ったあたりで二人は急に、地球上の、日本国の、東京の、とある小学校の一教室という狭いコミュニティに戻ってきた。
亮平が塾へ行く時間が迫っていた。
もっと話していたかったが仕方ない。
亮平を見送った後、昴はのろのろとランドセルを背負った。
この後、行く場所は決まっていた。
君江に呼ばれたので、職員室へ行かなくてはならない。
用件はわからないが、少なくとも星の話ではないだろう。
昴は内心、まだ用事が残っていることが嬉しかった。
できるだけそれを、一分でも一秒でも引き伸ばしたかった。
誰かと一緒にいるということは、一人になる時間が遠ざかるということでもある。
いずれはまた孤独な夜が来ると知っていても、今だけは違う。
そう、進みゆく時間の中で、今だけは――。
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