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 二〇一〇年十二月十三日 ハワイ

 

 

 この宇宙に地球という星が誕生してから、何千万回何億回と繰り返したように、夕刻の空は燃えるように真っ赤だった。

 明彦はハワイ・オアフ島にある、ホノルル国際空港の国際線、東京・羽田行きの搭乗口前にいた。

 彼の足もとには黒いビジネスバッグと、大きな紙袋が置かれている。紙袋の中には、昴へのクリスマスプレゼントである天体望遠鏡が入っていた。

 ニュートン反射式で主鏡有効径は100mm、天体の自動追尾機能がついた子供が持つには些か高価な望遠鏡だった。忙しくて街に探しに行く暇がなく、ネット通販で買い求めたものだった。他の荷物はカウンターで預けてしまったが、これは機内持ち込みするつもりだった。

 急いで出国審査を済ませ、搭乗口前に来てからは座ってノートパソコンを開き、一心不乱にメールを打った。このメールは仕事関係のものではなかった。日本にいる昴へ向けたものだった。

 飛行機はハワイ時間で、十八時ジャストに発つ。

 日本へのフライト時間は気流の影響もあるが、およそ八時間から九時間。

 ハワイを夕刻に発ち、日本時間で十四日の二十二時頃に羽田に到着予定だった。

 帰国次第、春子と昴が待つ自宅に直帰して三階のテラスから流星群を観るつもりだが、流星群のピークは十四日の午後八時との予報が出ていた。この分だとギリギリになりそうだ。その前に、一応にも観望のレクチャーをしておこうと思いパソコンを開いた。ここ二週間近く、仕事が忙しくて昴へメールが送れなかった。そのことの詫びも兼ねていた。

 返事こそ来ないが、昴からは毎回既読メッセージが届く。

 しかもそれは決まって、メールを送ってから一日以内に来た。

 息子はパソコンを頻繁にチェックし、メールを読んでいる。おそらくは自分の気持ちも通じている。明彦はそう信じていた。

 

 十七時五十分。

 既に搭乗開始時刻になり、英語、日本語での搭乗案内が始まっていた。

 ファーストクラス、ビジネスクラス、介添人が必要な優先搭乗の次に明彦の乗るエコノミークラスが来る。

 急いでメールの文面を作成し、最近すばる望遠鏡で撮影した恒星の画像を添付した。もう時間がない。確認もそこそこに送信ボタンを押したが、どういうわけかそこで送信エラーが起きた。

「あれ?」

 思わず独り言が出た。ネットワークを確認するが、空港のWi-Fiには確かに繋がっている。画像データが大きすぎたのかもしれない。添付画像を削除して、送信ボタンを押したが結果は同じだった。

「スタージェット航空SJ120便、東京羽田行きにご搭乗のお客様。只今からエコノミークラス、ご搭乗の案内を開始いたします」

 日本語でのアナウンスを受け、近くに座っていたツアー客やカップル、家族連れが一斉に立ち上がった。

 皆、粛々と並んでゲートを通っていく。

 航空会社のスタッフが定刻通りの出立を呼びかけていた。

「……困ったな」

 尚もぶつぶつと呟きながら、明彦はパソコンのキーボードを叩いた。が、何度送信を試みてもエラーになってしまう。思わずため息が出た。

 俯いた視界に、赤いものがころころと転がってきた。

 子供用のゴムボールだった。明彦は手を伸ばしてボールを拾い上げた。

 顔を上げると、持ち主らしき少女がこちらへパタパタと走ってくる。

 ゴムボールと同じ赤いワンピースを着て、リボンで髪を結わえている。六、七歳くらいに見えた。ボールを見て少女は言った。

「それ、私の」

 突き出されたもみじのように小さな手に、明彦はポンとボールを置いた。

 途端に少女は満面の笑みを浮かべた。丸い両頬にくっきりとえくぼが出た。

「おじさん、ありがとう」

「どういたしまして」

 明彦もノートパソコンをパタンと閉じた。残念だが、メール送信は諦めるしかなさそうだ。

希美のぞみ、何してるの。列から離れちゃだめじゃない!」

 少女の母親らしき若い女性が、免税ショップの土産袋を幾つも下げながら走ってきた。

「ボール落としちゃったの。おじさんが拾ってくれたの」

「あら、そう……。うちの子が迷惑をかけてすみませんでした」

 母親は明彦に丁寧に詫びた。日本語は流暢だが肌の色が浅黒く、彫りの深いエキゾチックな顔だちをしている。

「さ、行きましょう。飛行機出ちゃうわよ」

 母親は希美の手を取ると、急いで列へと戻った。明彦も荷物を持って、彼らの後に続いた。

 列の最後尾には、父親らしき壮年の男性が待っていた。どうやら両親と希美、家族三人でハワイへ来て、その帰りのようだった。

 列に並ぶと、母親が振り返って気さくに話しかけてきた。

「羽田から就航するようになって便利になりましたね。前は成田のみでしたから。空港へ行くのが大変で」

「ええ、まあ……そうですね」

 明彦は曖昧に答えた。別に羽田着にこだわったわけではなかった。これが一番早く日本へ帰れる便だから選んだ。それだけだった。

「ご旅行ですか?」

「いえ、仕事でこちらに住んでいて一時帰国です。家族が日本にいて……」

「あら、逆ですね。私はこっちに実家があるんです。日本のお住まいは?」

「東京です」

 希美たち一家は、持っていたチケットも見せた。明彦の席の三列後ろの中央席だった。問われるままに淡々と答えているとゲート前に来た。明彦はホッとした。

 

 

 スムーズな搭乗の甲斐あって、スタージェット航空SJ120便は定刻通りに、ホノルル国際空港を出立した。

 明彦の席は、エコノミー席の前方一番前の右の窓側、ちょうど主翼の辺りだった。前に席がないため他に比べて広くなっている。足も伸ばすことができた。

 隣りの席は空いていた。

 上の棚がいっぱいだったので、天体望遠鏡の入った紙袋は足もとに置いた。

 周囲は赤ん坊や小さな子供を連れた家族が多かった。フライトアテンダントが数名、介助をしている。

 見回すと日本に行く便だけあって、乗客は日本人ばかりである。

 当然日本語が飛び交っている。職場でも英語一辺倒の生活だった明彦には、新鮮に感じられた。機内は既に小さな日本だった。

 

 そうこうしているうちに、ジェット機はゆっくりと動き始めた。

 やがて一気に加速し、地上を飛び立った。ふわりと身体が浮き上がる心地がする。

 鮮やかな離陸を経て、真っ赤な夕焼け空の下、背後のオアフ島はどんどん小さくなっていった。

 後ろの席からしきりに歓声が上がったが、明彦は窓の外は見なかった。

 ハワイはすぐに戻ってくる場所だった。いずれは昴もこちらへ来るし、からりと晴れた青空も燃えるような夕焼けも二人で観たい景色だった。

 離陸してから五分後、高度一万フィート(約三千メートル)まで達するとシートベルトの着用サインが消えた。明彦はシートベルトを外すと、トイレに立った。

 すぐ近くのトイレは家族連れに譲り、一番後ろのトイレまで行った。

 既に何人か待っていて列が出来ていた。十五分ほどかかって、明彦は自席に戻った。

 席のすぐ後ろまで来て、そこで彼は気づいた。

 自分の席の隣りに、誰か座っていた。

 これはおかしなことだった。

 飛行機に搭乗してから離陸するまで、そこには誰もいなかったはずだ。

 座っているのは、十四、五歳くらいの細身の少年のようだった。

 Tシャツにジーンズ、その上に青緑の薄いパーカーを着ている。髪は茶色い。

 備えつけのコントローラーを握り、パズルゲームをしていた。明彦は少し唖然として、ゲームのチカチカする画面を眺めた。

 一瞬席を間違えたのかと思ったが、自席はエコノミークラスの一番前である。

 少年の隣りには、持ち込んだ紙袋が置いてある。ここで間違いない。

「ああっ、くそっ! なんだよこれ」

 少年が悔しそうに叫んだ。

 画面に消せなかったパズルが次々積み上がっていき、とうとうゲームオーバーの字が踊る。そこで彼も、明彦の胡乱気な視線に気がついたようだった。

「ああ、ごめんごめん。入って入って」

 笑いながら、当たり前のように窓側の席を指差す。

 明彦は言われるがままに席に座り、改めて少年を見た。

 肌は抜けるように白く、細面の端正な顔だちである。黙っていれば冷たく不愛想に見えるが、笑うと愛嬌がこぼれた。

「きみは……この席だったかい?」

 明彦が尋ねると、少年は愉快そうに膝をパンと叩いた。

「やだなあ、おじさん。俺、ずっとここにいたよ?」

 そんなはずはない。自分の隣りは、確かに空席だった。

 明彦はそう思ったが、あえて口には出さなかった。

 トイレに行ってわかったが、この飛行機は満席ではなく、特に後部座席は空席が目立った。中央の三席が丸ごと空いているところもあって、早速毛布をかぶって横になっている人もいた。

 席が空いている場合、飛行が安定すると、前方の席へ移動してくる乗客も多い。

 前の方が、フライトアテンダントのサービスを受けやすいからだ。食事や軽食も種類があるうちに選べるし、早く受けとれる。この少年もまた後部座席に座っていた一人と思われた。明彦がトイレに並んでいる間に、ちゃっかり前へ移ってきたのだろう。

 そのことを特に咎める気はなかった。「ずっとここにいた」と言うのも、嘘とも呼べない冗談だと思った。

「俺はギンロー。よろしくね」

 茶目っ気たっぷりに笑って、ギンローはすっと右手を差し出した。

 仕方なく明彦も右手を差し出し、ぎこちなく握手を交わした。

 ギンロー、漢字なら銀郎だろうか? 

 名前の響きからして、日本人のようだ。いや、この茶色の髪や顔だちはハーフかクォーターかもしれない。明彦は突然隣りにやってきた珍客をまじまじと見つめた。未成年のようだが、保護者も同乗しているのだろうか。

「……ギンローくんは一人? 一人で日本に?」

「ううん、不本意ながら弟と一緒。ったく、何しに来たんだか。ついてくるなって言ったのにさあ」 

 不満げに唇を尖らせながら、ギンローは後ろを振り返った。

「おーい、キンジ!」

 明彦も後ろを見ると、遥か後方の座席からぴょんと手が上がった。

 ギンローの呼びかけに応えるように、ひらひらと振っている。どうやら弟は後ろの席に残ったようだ。

「席、代わってあげようか? 兄弟二人で並んで座った方がいいだろう。僕が後ろへ行くよ」

 明彦が提案すると、ギンローは即座に首を振った。

「いいよ、そんな気を使わなくても。バラバラでいいし、むしろその方がいい。元々そんなに仲良くないし」

「そうなの?」

 兄弟仲が良くないのに、弟は兄についてきたのだろうか。よくわからない関係だ。からかわれているだけかもしれないが、明彦はこの不思議な少年に興味が涌いてきた。歳の頃はギンローの方が上だが、昴のことが思い出された。

 ギンローは、忌ま忌ましげにチッと舌打ちした。

「あっちは俺のこと慕ってくるけど、俺はそうでもないっていうか……。ちょっと色々めんどくさいんだよ。ドライすぎるし、味気ないし、話してても色々噛み合わなくて。ある程度距離おいた方が精神衛生上いいんだよね。実際、いつもは離れてるんだけど。でも悪い奴じゃないよ、たぶん」

「そ、そうか。きみたちは日本へは何をしに行くの?」

「バカンス」

 ギンローがあまりにもあっさりと言ったので、明彦は一瞬言葉に詰まった。予想だにしない返事だった。バカンスというなら、温暖なハワイの方が余程いいはずだ。

「バカンス……。今の時期に? 寒いよ?」

「いーのいーの。寒くてもオールオッケー。おじさんは?」

「僕は里帰りだ。日本に息子がいてね。今年で十歳になる」

「ふーん、息子さんとは仲いいの?」

 ギンローが不意に明彦の顔を覗きこんできた。口もとは少し緩んでいる。何か面白がっている節があった。

「いや、そうでもないかな……」

 痛いところを突かれた明彦は、もごもごと口を動かした。

「どれくらい会ってないの?」

「半年以上……かな」

「そりゃ寂しいね」

 明彦は、ハハハと力なく笑った。

「そうだな。寂しいね。今となってはつくづくそう思うよ。手紙やメールも送ったんだが、返事がなくてね。どうやら嫌われてしまったみたいだ。帰って仲直りできるといいんだが……」

 明彦は足もとに置いた紙袋をちらりと見た。視線に気づいたギンローは、紙袋を指差した。

「さっきから気になってたけど。それ、何?」

「天体望遠鏡だ」

「天体望遠鏡……」

「ほら、海外じゃ平気で荷物を投げたりするだろ。手荒く扱われて壊れたら大変だからね。念のため機内持ち込みにしたんだ」

「……もしかして息子さんへのお土産?」

「ああ、去年から欲しがっていたからね。帰国したら、これで一緒に星を観る予定なんだ。喜んでくれるといいんだが」

 明彦は袋から天体望遠鏡の箱を取り出し、少し得意気に見せた。

「へえ、これでねえ……。随分小さいなあ」

 ギンローはそう呟くと、興味深そうにぺたぺたと触れた。

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