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十二月十三日 東京
月曜日、週の始めから昴は憂鬱だった。
週に一回は来ていた明彦からのメールが、ここ最近は来ていなかった。
土日もパソコンをたちあげてチェックしたが新着メールはなかった。
どうせ仕事が忙しいのだろうし、明日帰ってくるのだから……と言い聞かせるが、どうにもそわそわしてしまう。
何せ父と会うのは七ヶ月ぶりだ。何を話せばいいかわからない。
どんな顔をして迎えればいいかわからない。
今更ながら、別れ際に「首が折れて死んじゃえ」と言ってしまったことも気にかかる。やはり謝るべきだろうかと悩んでいた。明彦は忘れているだろうか。願わくば、忘れていて欲しい。
春子の話では、飛行機は今日の夕方発のはずだった。
もしかしたら搭乗前に電話が来るだろうか。「帰ってこない」と憎まれ口を叩いた手前、春子には聞きにくい。困った。そんなことを考えていたら、また君江に「ボーとしちゃだめ!」と注意されてしまった。
五時間目が終わり、日直だった昴は教室に残った。
ガヤガヤしていた教室は次第に人が減り、静かになっていく。
黒板をのろのろと掃除していると、図書室へ行っていた亮平が戻ってきた。
本を何冊か持っている。昴は横目で確認し、掃除を終えると亮平の席へ行った。
「何借りてきたの?」
昴が何げなく尋ねると、亮平は待っていたようにひょいと本を突きだした。
表紙には、壮麗な凱旋門とパリという文字が見える。フランスの観光ガイドブックや歴史の本だった。
「……パリ? フランス? なんで?」
「正月に家族で行くんだよ。どうせ行くなら調べようと思ってさ」
「すごいね。フランス語わかるの?」
「いーや、さっぱりわかんね」
亮平はあっけらかんと言い放ち、ハハハと豪快に笑った。
「言葉わからないのに大丈夫なの?」
「大丈夫だろ。団体ツアーだし、ガイドもついてるし。ルーブル美術館に行ってみたいんだよな。レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』、本物観てみたいだろ」
亮平はパラパラとページをめくり、ニヤリと笑った。
子供ながらに贅沢に慣れた顔だった。裕福ゆえの余裕が滲み出ていた。
日本を出たことがない昴にとっては、海外の国やツアーがどういうものなのかもわからない。日本語が通じない地域は、まさに未知の世界である。
昴は明彦からのメールを思い出した。
毎年、海外旅行へ行く亮平ならハワイの、アメリカのことを知っているかもしれない。
「あのさ、ハワイは行ったことある?」
「あるよ。五歳くらいまでは毎年行ってた」
当然のように言われて、昴は目を丸くした。
小学校入学以来、四年ほどつき合いがあるが初めて聞く話だった。
「……そうなの?」
「親も、子供が小さいうちはビーチリゾートくらいしか行けないんだよ。ハワイは日本人多いし、安心なんだろ」
そう言われると、昴は心がすっと軽くなるのを感じた。
思っていたより、ハワイは身近だった。
だったら、話してしまっても大丈夫かもしれない。
亮平は親友だ。自分のこれからのことを知って欲しかった。
「だったら、驚かないでね。僕、実はハワイに行くかもしれないんだ」
「……へ?」
「旅行じゃなくて、あっちで暮らすことになると思う」
「えっ、マジで? はあ?」
亮平は素っ頓狂な声を上げ、持っていた本を取り落した。
まさかそんなに動転するとは思わず、逆に昴が驚いた。慌てて腰を屈めて本を拾った。
「そんなに驚かなくても……」
「暮らすって……日本を出るのか。転校かよ」
「うん、まだ決まったわけじゃないけど。でもたぶんそうなる」
「なんで?」
「父さんがあっちにいるから。明日の飛行機で帰ってくるんだ」
「明日……」
亮平は絶句し、黙ってしまった。昴から視線を外し、俯いて鼻を擦った。
昴もわかっていた。おそらく亮平は、自分を取り巻く事情を知っているだ。
以前はよく口うるさい親の文句を言っていたくせに、去年の夏に入る前あたりからぱたりと言わなくなった。気を使って、家族の話題を避けているのだろう。
昴は、現在両親は別居しており、祖母と一緒に暮らしていること、父は仕事でハワイにいることなどを話した。ずっと黙っていたことが心苦しかった。
亮平は昴の両親の離婚を聞いても驚かなかった。薄々気づいていたらしい。
昴は努めて明るく言った。
「うちのこと、やっぱり亮平は知ってたんだね」
亮平は困ったように溜息をついた。
「……まーな。この一年、うちの外来へ来る時も、一人かばあちゃんと一緒だっただろ? 母親の姿を全然見ないって噂になってた。看護師のおばちゃん、おしゃべりだからな」
まさか木戸総合病院の小児科で噂されていたとは露知らず、昴は微苦笑した。
昴は亮平に背を向け、窓の桟に手を置いて外を眺めた。
校庭でサッカーをして遊ぶ子供たちが見えた。
その様子を眺めながら、昴は自分に言い聞かせるように言った。
「僕は、父さんのいるハワイに行く……ことになると思う。僕の親権は父さんがとるだろうし」
「もう決まってんのかよ」
どんな顔をしたのか、亮平の声は些か険があった。
「うん。というより僕が決めた。母さんのところには行かない。だったら、父さんと暮らすしかないだろ。亮平と離れるのは辛いけど、でもさっきの話でちょっと安心した。ハワイへ行っても、亮平ならまたすぐに会える気がする」
深い沈黙が降りた。しばらくして、ふうっと息を吐く音がした。
「まあ、飛行機で七時間だもんな。なら会いに行くかな」
「ほんとに?」
「ほんとにほん……いや、なんでもない。あー来年の夏休みはハワイかあ。親に頼んで根回ししとかねーと」
昴は亮平に振り返った。
窓から差し込む西日に照らされて、亮平は笑った。きりりとした眉が垂れ下がって見えた。妙に大人びた哀愁を漂わせていた。
太陽の方を見て、眩しさに目を眇めながら彼は言った。
「なあ、本当に行くのかハワイ」
「……うん」
「そうか」
「ごめんね」
あまりに残念そうな声に、昴も思わず詫びてしまった。
少し先走った気もするが、いずれ来る親友との別れは辛かった。
少しして、また亮平が口を開いた。
「日本とハワイの時差は十九時間……。日本の方が、十九時間早く進んでる。お前の人生は、俺より十九時間だけ増えることになるんだな」
亮平が何を言いだしたのかわからず、昴は戸惑った。
「どういうこと?」
「そのまんま。日本に帰ってこない限り、お前はハワイに十九時間だけタイムスリップするんだよ。ほぼ一日、余分に時間を持つことになる。日本から電話をかけても、俺が話すのは十九時間前の過去のお前になるんだ。でも俺がいるのも過去だ。両人ともに、現在進行形にはならない」
「……意味がわからないんだけど」
「これもちょっとしたSFだ。俺は飛行機に乗るたびに不思議だった。ほんの数時間飛んだだけなのに、到着したら突然、明日になったり昨日になったりするなんてさ、タイムスリップだろ。二十四時間を限度として過去や未来へ飛ぶ。時空を超えてるんだよ。科学の叡智によって、その人が本来持つ時間が増えたり減ったりする」
「そんなこと言われても……。十九時間増えたって、できることは限られてる。日本に戻ってくれば元通りだし」
そこで亮平はひらひらと手を振った。
「ああ、別に嫉妬しているわけじゃねえから。人がつくった時間の概念もいい加減だし」
「いい加減なの?」
「昔の人が星を読んで一年を三百六十五日、一日を二十四時間にした。分も秒も決めた。けど厳密にいえば、一日は二十四時間じゃない。季節やら地震やらでも変動するけど、大体二十三時間五十六分四秒だ。最初から、与えられる時間も誤魔化されている。一日のうち、はみだした約四分の行方はわからない。どこへいくんだろうな。やっぱり過去になるのかな。いや、元々過去しかないのかな」
「……過去しかないの? 時間が進まないってこと?」
「最近思うんだよ。地球は、そのものが巨大な過去のタイムマシンかもしれないって。空にある星だって、あれは過去の宇宙を見てるだけだろ。五億光年離れている星なら、五億年前の姿を見ているにすぎない。今現在どうなっているかは全くわからないし、光の速さを越えて追いかけたとしても、この宇宙が終わるまでに未来に追いつけない。俺たちはきっと宇宙の過去を、今と錯覚して生きてるだけなんだ」
悲観しているわけでもないのに、亮平の声はどこか悲しげだった。
昴は呆気に取られ、言葉を失った。何と返していいかわからなかった。
またしばらくして、亮平はぽつりと言った。
「悪い。たぶん、俺……寂しいんだ。お前が外国へ行ってしまうことが寂しい。だから変なこと言っちまった」
「……いいよ。僕も寂しいから」
昴も頷きながら、しんみりと言った。
亮平は元々過去しかないと言ったが、そんなことはないと思った。
もし『今』というものがあるなら、人の場合、同じ国の、同じ地域の、同じところで誰かと一緒にいる時のみ、一瞬間に発生するもののように思えた。
瞬間は、同じ瞬間に過去になる。
他者がいれば確認し合えるが、一人だと孤独ゆえに時間が測れない。
『今』が生まれない。今がなければ、未来はない。だから、人は群れて生きる。
誰かと一緒にいなくては、膨大な過去に押し潰されてしまって悲しい。亮平はそういうことが言いたいのだと思った。
この昴は、そう思ってしまった。
きみは愛の星 八島清聡 @y_kiyoaki
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