Count down.9
メールは明彦からだった。
昴はゆっくりと、時間をかけてそれを読んだ。
***
昴へ
元気ですか?
父さんはまた最近、マウナケアの山頂に登って数日間観測をしてきました。
大分慣れたつもりだったけど、また高山病にかかってしまいました。
頭痛がひどく、休憩時は酸素マスクが欠かせません。
昼間はすばる望遠鏡の調整業務に参加しますが、望遠鏡のドーム内は常に零度に保たれていてとても寒いです。望遠鏡の内部や床は暖まると、温度差から空気の揺らぎができてしまうのです。揺らぎは星像を乱してしまい、観測条件が悪くなります。なので巨大な冷房装置で冷しているのですが、長時間作業をしているとやはり身体に堪えます。夜になると観測棟に入って観測を開始しますが、その時点で疲労困憊なこともしばしば。歳のせいか、大学院生や若い研究員ほど動けないのがもどかしいです。日米の文化や常識の壁にぶつかることもあります。
さて、朗報が二つあります。
少なくとも、父さんにとっては喜ばしいことです。
一つめは運よく休暇が取れました。
十二月の三週目に、日本へ二週間ほど一時帰国します。
もう飛行機のチケットも取ってしまいました。そのまま日本で年越しできたらいいけど、それは仕事次第かな。少し早いけど昴へのクリスマスプレゼントも注文しました。天体望遠鏡です。去年、一緒に流星群を観た時に昴が欲しがっていたのを思い出したので。
日本を出る時、昴とは悲しい別れ方をしたけれど、これを機会に仲直りができたらいいなと思っています。今年の締め括りとして、また一緒に流星群を観て、仲良くできたら嬉しいです。
二人で同じ星を観るには、望遠鏡を交互に覗くしかありません。
でも、各自で持っていれば同時に観ることができます。昴と望遠鏡を並べて星が観たいです。観方も教えます。
二つ目の朗報は、もしかしたら昴にとってはショックなことかもしれません。
けれど、父さんにとっても昴にとっても新たな一歩だと信じています。
父さんは母さんと離婚することにしました。
このことに関して、父さんもとても悩みました。
まず母さんと別れる理由がなかったし、父さんの側には非がないと思っていました。(注・これは傲慢な意見かもしれません。父さんが無実潔白であるとは言いきれません)突然に母さんに別れを切り出されて、あまりにびっくりしました。
昴に母親がいなくなってしまうのも避けたかった。戻ってきて欲しいと願いましたが、母さんの心は決まっていました。別の男性と、これからの人生を共に歩むと言うのです。父さんはひどく混乱して、とうとう心の整理がつかないままハワイへ来てしまいました。おばあちゃんは、マウナケアへの赴任を現実逃避だと言いましたが、確かにそうだったと思います。大人の事情に振り回された昴には本当に申し訳ないと思っています。
正直にいえば、今でも離婚は辛いです。なんで自分がこんな目に? と思います。理不尽だとも思います。ですが、現実は現実として受け止めなくてはなりません。母さんには母さんの人生があります。人は責任を負えるならば、いかなる選択も自由です。あの人は強い。何があっても、何を言われても、自分の道を切り開いてゆくでしょう。
一時帰国した際に、父さんは母さんと話し合いをします。
もし適うのであれば、そのまま離婚届を提出するつもりでいます。
それでも、これだけは断言しておきます。父さんは昴の親権は死守するつもりです。決して母さんのもとへは行かせません。母さんに取られるのが嫌だからではありません。昴ときちんと向き合って、真の父親らしい父親になりたいからです。
父さんは、昴をできるだけ早くハワイに呼び寄せるつもりでいます。
職員の中には家族ごと赴任してる人もいるし、こちらの学校や転入のことなども調べ始めました。
ハワイはアメリカの州です。アメリカは日本とは全く違う国です。
海外での生活は最初は戸惑いますが、ヒロは日系人も多く、日本人が暮らしやすい街だと感じます。英語も今からなら、すぐに覚えられると思います。
急なことで驚いたでしょうが、昴の考えを聞かせてください。
返事を待っています。
明彦
***
メールを読み終わってから、昴は深く息をつき、パソコンデスクの脇に積んだ絵葉書を見た。
自由の女神や星条旗、青い海が眩しいハワイアンビーチの絵葉書も明彦が送ってきたものだった。
三回目に来た絵葉書には、メールアドレスと「パソコンを立ち上げるように」との指示が書いてあった。その通りにパソコンを立ち上げ、メールソフトを開くと明彦からメールが届いていた。
メールには、主にハワイでの仕事、観測のことが書いてあった。
普段はヒロにあるハワイ大学内の国立天文台ハワイ観測所にいること、4200メートルのマウナケア山頂にあるすばる望遠鏡での観測は、毎回高山病にかかって頭痛や鼻血に苦しむこと、英語には不自由ないが日本とは違う生活習慣に戸惑うこともあること、仕事はハードだが充実していることなどが几帳面に綴られていた。
メールは一週間に一回のペースで来た。
毎回、すばる望遠鏡が撮影した星や、マウナケア山頂から見える日没や、青天の下たなびく雲海の画像が添付されていた。どれも目が覚めるような美しさだった。
昴はメールを読み、画像も保存したが、一度も返事を送らなかった。
彼の中には、明彦に対しては激しい怒りが燻ぶっていた。自分は父に嘘をつかれ、裏切られ、捨てられたのだと思った。今更連絡を寄越しても、絶対に返事はしないと心に決めていた。
自宅には、明彦から国際電話もかかってきた。春子が対応したが、やはり昴は頑として出なかった。昴は頑なに明彦を拒んだ。許せなかった。
しかし時間が経つにつれ、悲しみと怒りが徐々に薄れていくのも感じていた。
明彦を恨んだものの、憎みきることはできなかった。届いた絵葉書を捨てることはできず、メールも削除できず悶々とするしかなかった。
転機があったのは、十一月に入ってからだった。
明彦が今暮らしているのはヒロのアパートだが、隣人一家はとても親切な人たちのようだった。明彦が帰宅すると、よくスープや肉料理を分けてくれた。
ある日、家族のことを聞かれて日本に十歳の息子がいることを話すと、「何をしている。家族は一緒に暮らすべきだ。早く息子を呼び寄せろ」と、とんでもない剣幕で怒られた。「ハワイでは隣人もまた家族。お前が留守の間は息子の面倒を見てやるから」とも言われた。
当初は面喰らったものの、それをきっかけに明彦も色々と考えたようだった。
これからの生活、自分の在り方、家族の在り方。「遠く離れてみて初めてわかることがあった」と書かれていた。
明彦の悔恨らしきものを知って、昴は胸につかえていたものがスッと取れたような気がした。
昴はおもむろに引き出しを開け、中から電子辞書を取りだした。
これも書斎で見つけたもので、電池が切れていたのを入れ替えて使っている。
明彦のメールは、昴がまだ読めない漢字や単語が多用されており、ざっと読んだ限りではよくわからなかった。気を使った文章だが、十歳の子の読解力を考えて書くまでには至らない。昴自身も全く期待していなかった。腹が立つ以前に、そういう人なのだと達観している。
電子辞書を開いて、画面上にタッチペンでわからない漢字を書くと、読み方と意味がわかる。昴は丹念に辞書を引き、再び時間をかけてメールを読み返した。やっとのことで内容を理解すると、大きく息をついた。
両親の離婚によって家族はバラバラになる。いや、とっくにバラバラになった。
元通りになることはないだろう。
それでも、明彦の決心は前向きに思えた。
今度こそ、昴は父と一緒に暮らす。
あの性格だから、ハワイへ行っても前途多難な気もするが、それでも――。
昴は意を決して、返信ボタンを押した。新しいウインドウが立ち上がる。
ところがキーボードを打ちかけたところで、昴の手は止まった。
急に半年前のことが思い出された。
「どこへも行かない。ずっと一緒にいる」と約束したのに、身勝手に自分を置いていった父……。
結果的に昴は嘘をつかれたのだ。
今回のハワイ行きの話だって、実現するのかどうかはまだわからない。
昴の中に、激しい葛藤が渦を巻いた。
明彦は昴からの返事を欲している。
時間は大分かかったが、彼もまた覚悟を決めた。
妻と離婚しても、息子の昴は決して手放さないと言う。
その言葉を一字一句信じたい。信じたいけれど……。
昴は散々迷った挙句、返信のウインドウを閉じた。
甘えに似た意固地が、むくむくと頭をもたげてきた。
メールの内容自体は嬉しかった。
アメリカへ行くことにもさほど抵抗はないが、それでもまだ父のことを完全に許してはならないと思った。
返事をしないことで、明彦が寂しい思いをすればいいと思った。
もっと自分と同じような孤独を味わえばいい……。
そうすれば、もう二度と置いていこうだなんて思わないだろう。
画面には、「開封確認メッセージ」の要求が来ている。
あまりにも返事が来ないので、息子が読んでいるか不安になったのだろう。
十月あたりからはメールのたびに確認が来るようになった。
昴は、「はい」のボタンを押した。
これくらいはしてあげてもいいと思った。
パソコンの電源を切ると書斎を出た。
ずっと画面を見ていたせいで目がしょぼしょぼする。
目を擦りながら階段を降りていくと、リビングから春子の声が聞こえてきた。電話をしているようだ。
「……はい、はい。わかったよ。十四日だね。あんたの好物を用意しておくよ。え、熱いお茶やお菓子も? 炬燵って何さ。昴と流星群を観る? ああ、そうかい」
昴は耳を澄ませた。どうやら口調からして、明彦と話しているようだ。
ハワイからの国際電話も、当初は深夜や早朝にかかってきて、春子はプリプリ怒っていた。そのうち学習したのか、今では明彦からの電話も昼から夕方にかけてかかってくる。色々問題はあるが、春子にとっては大事な一人息子である。今ではすっかり明彦を許しているように見えた。それも昴にとってはあまり面白くない。
春子が電話を切るのを待ってから、昴はリビングへ入った。
そ知らぬ振りをして尋ねる。
「今の電話だれ?」
「お父さんだよ。お休みが取れたので、十四日の便で帰ってくるってさ。良かったね。お父さんに半年ぶりに会えるよ」
「ふーん、本当?」
「本当だよ」
「……たぶん、それ嘘だよ。おばあちゃん騙されてる」
昴も、何故そんな憎まれ口を叩いたのかよくわからなかった。気がついたら声に出してしまっていた。言ってしまった以上は引けない。
案の定、春子は呆れた声をあげた。
「昴、なんでそんな意地の悪いことを言うんだい。お父さんは帰ってくるよ。おばあちゃんに約束したんだから。あんたと星を観るんだって楽しみにしてたよ」
「……僕は全然楽しみじゃない。でもいいんだ。どうせ仕事が忙しくて帰ってこないから」
「昴、お父さんはね」
「わかってるよ!」
昴は乱暴に言い捨て、叱る春子から逃げるようにソファにダイブした。
クッションをぎゅっと抱きしめ、隠れるように顔を埋めた。わかっていた。自分はとても恥ずかしいことを言っていると。
春子はやれやれと嘆息しながら、キッチンへ入っていった。昴の気持ちはわからないでもなかった。自分を置いてハワイへ行ってしまった父が、また突然帰ってくるというのである。心穏やかならぬものがあるだろう。
「とにかく、十四日は早く帰ってくるんだよ。友達と遅くまで遊んじゃだめだからね」
昴は返事をしなかった。わざとらしく鼻を鳴らしただけだった。
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