Bygone days.8


 

 四月に入ると、日毎に暖かくなっていった。

 昴は四年生に進級した。

 クラス替えは二年ごとなので今回はなく、担任も変わらなかった。

 教室が二階から三階へ移った程度だった。

 亮平は相変わらずお調子者で、君江にちょっかいをかけては怒られていた。

 

 新学年の空気に慣れるころ、亮平が待望していた観望会がやってきた。

 生温かい風が肌をざわりと撫でる金曜の夜、昴は亮平と共に三鷹市大沢にある国立天文台三鷹キャンパスへとやってきた。

 駅からバスに乗る方法もあったが、昴たちは自転車で行くことにした。

 両親に黙って来た亮平は、悪びれもせず「塾はサボった」と言った。

 外から見ても、木々に囲まれた天文台の敷地は暗く、しいんと静まり返っている。本当に中に人がいるのか不安になるほどの静けさだった。

 正門から入って、自転車を止める。

 誘導灯のとおりに真っ直ぐ道を進んだが、誰ともすれ違わなかった。

 昴は、ここで本当に合っているのか不安になった。

 やがて大きな建物が見えてきて、二人は観望会の受付がある中央棟へと入った。

 広いロビーは、星を観に来た沢山の人がひしめいていた。

 世代は様々で、老若男女まんべんなくいる。子供の姿もちらほらと見えた。親に連れられてやってきたようだ。

 あまりにも一気に人が増えたので昴は面喰らった。一体、今までどこにいたのだろうと思うほど、ここには人が集まっている。観望の魅力に引き寄せられてきたのだろうか。皆、モニターや展示物を熱心に見ている。

 大学生らしき若いスタッフが何人かいて、案内をしていた。

 亮平が受付に行って、名前を告げた。

 受付の女性から番号札を貰ったが、そこで机の脇に立っていた角刈りの青年が声をかけてきた。背がとても高く、亮平と昴は見上げる形になった。

 彼だけはスーツを着ていて、名札をつけていた。須田と書いてある。

「あれ、きみたちだけで来たの?」

 保護者はどうしたのかと続けそうなのを、亮平が間髪入れず答えた。

「あ、大丈夫です。こいつのお父さんが天文台に勤めてるんで。その関係で」

 一体何が大丈夫なのか、どういう関係なのか、さも知った風な顔でぬけぬけと言う。

 昴は内心呆れたが、肘でつつかれてはしょうがない。

 すかさず亮平をフォローした。

「高木です。高木昴といいます。父がお世話になっています」

「えっ、もしかして高木先生の……? なんだ、職員の関係者か。なら初めからそう言ってくれればよかったのに」

 高木明彦の家族と知って、須田はたちまち破顔した。にゅっと眉が曲がる。

 どうやら明彦を知っているらしい。

 須田は気安く自己紹介をした。大学四年で、国立天文台にはよく来ている。准教授である明彦の下で、天体物理学を学んでいるという。

「会うのは初めてだけど、昴くんのことは知ってるよ。ハワイにある、すばる望遠鏡と同じ名前だしね。一度聞いたら忘れようがない。昴くんはお父さんに会いに来たんだろ?」

「いえ、そういうわけじゃ……」

 昴は慌てて手を振った。明彦には、観望会に行くことを言っていなかった。

 黙っているつもりはなかったが、伝えそびれてしまった。

「高木先生なら今、すばると通信しているよ」

「すばると?」

「そう、夕方くらいからかかりきり。ハワイと、テレビ会議でつながっているんだ。観測が始まっててね。すばる望遠鏡から、簡易データが送られてくるんだ。それを見てると思う」

 すばる望遠鏡の名を聞いて、すかさず亮平が割りこんできた。

「すげえ! もしかしてここから遠隔操作してるの?」

「それは無理だな。すばるを動かしているのは現地のオペレータだ。ただこちらからも指示を出せるので、観る天体を変えたりはできるよ」

「星をリアルタイムで観れるの?」

「リアルタイムではないかな。それは現地でないと無理だ。解析にも時間がかかるしね」

「そっか。解析かあ。SF映画の科学者みたいでかっこいいなあ」

「いや、フィクションじゃないから。これはリアルだから」

 亮平の感嘆に、須田が声をあげて笑った。

 明彦は今、すばる望遠鏡を通して星を観ている。

 日本とアメリカ、海を越えて遠く離れても、空は繋がっているのだ。

 昴も須田に尋ねた。

「観測って、いつも何時くらいから始めるんですか?」

「基本的には夜じゅう。ハワイだと、夜の九時くらいから明け方くらいまでかな。時差が十九時間あるからね。日本の方が時間が早く進んでいる。こっちだと夕方から午前一時くらいまでだ」

「そんなに長く? その間、ずっと星を観ているんですか?」

「そう、ずっと。天気が悪くて上手くいかないこともあるし、ひたすらに根気と忍耐だよ。短気な人には務まらない」

「大変なんだなあ……」

 亮平が呟いたのに、昴も頷いた。

 これでは父も、家に帰れるはずがない。

 昼は会議や授業に追われ、夜は夜で文字通り星にかじりついているのだ。

 須田は尚も乞われるままに、大きな望遠鏡は全て予約制でそう頻繁に観測できるわけではないこと、研究者にも観測当番があって、当番の日は朝まで交替制で観ていることなどを話した。

 その季節、その時期にしか鮮明に観れない星や、流星群、日食などの天体イベントもある。それらは一度逃すと、また来年まで待たなくてはいけない。聞いているだけで、気が遠くなるような話だった。

 

 亮平は尚もすばる望遠鏡からの観測について聞きたがったが、そこで観望会が始まる時間になった。参加者が多いので、何回かに分けて行われるようだ。

 スタッフが番号札を読みあげて、セミナールームに入るように言った。

 まずは今日観る星の説明をしてから、実際に50センチ公開望遠鏡で観るという段取りらしい。

「先生に言っておくよ。昴くんが来たって」

 と、須田が手を振りながら言った。

 昴たちは、同じ番号札を持った数十人と共に、セミナールームへ入った。

 わら半紙の資料を受取って、前から着席していく。

 二人はよく見えるようにと一番前の席に座った。

 須田と同い年くらいの女子大生の講師が、スライドの前に立っていた。

 全員が着席するのを待って彼女は挨拶をし、早速観望天体の説明を始めた。

「本日の観望天体は、『北天一美しい連星』と言われている『しし座γ星、アルギエバです」

 説明は子供にもわかるようにと、とても簡単なものだった。

 まずはギリシャ神話のしし座についての説明があった。

 しし座と聞いて、亮平がひゅうと口笛を吹いた。彼は八月生まれで、星座がしし座だった。

 しし座のししとは、ネメアの森に住み、英雄ヘルクレスによって退治された人食いライオンのことである。人を食べるので恐れられたが、退治に向かった若者は誰一人戻ってこなかった。このライオンは怪物テュフォンの子で、皮膚は鉄よりも硬かった。

 ある時、この話がティリュンスのエウリステウス王の耳に入った。

 ちょうどそのころ、王のもとには、妻子殺しの大罪を犯したヘラクレスが身を寄せていた。王は「罪の償いにちょうど良い」と考え、ヘラクレスにこの怪物の退治を命じた。

 こうしてヘラクレスはネメアに向かい、三日三晩戦った挙句、とうとうライオンを退治した。女神ヘラは、ヘラクレス相手に戦ったライオンを褒め称え星座にした、というものだった。

 スライドを見ると、確かにしし座の星の配列は獰猛なライオンを想像できなくもない。

「しし座といえば、有名なのはしし座流星群ですね。この流星群は、三十三年周期で流星雨を降らせます。記録では、一八三三年、一八六六年には一晩で二十万個の流星が流れました。ちょっと想像できない数ですよね」

 説明を聞いて、昴は去年の十二月に明彦と観た流星群を思い出した。

 あの流星群も綺麗だったが、しし座の流星雨の方がよほど沢山星が降るようで、ちょっと観てみたいとも思った。

 しかし、しし座の流星雨は三十三年周期である。

 一番最近では二〇〇二年に来たので、次まではあと二十五年待たなくてはならない。二十五年先とは、全く想像がつかない。

 亮平も素早く暗算したのか、

「二〇三五年かよ。俺たち、三十五歳だぜ? 何やってんのかな?」

 と小声で囁いてきた。

 昴は、さあ? と曖昧に笑ってみせた。

「ししの頭から胸付近にかけて、εイプシロン星、μミュー星、ζゼータ星、τタウ星、γガンマ星、ηエータ星、αアルファ星とあります。順番に星をたどると、『?マーク』を裏がえしたような形になります。この部分を『ししの大鎌』と呼んでいます。しし座γ星、アルギエバは、『ししの大鎌』の一部にあり、レグルスの左上、獅子の首の付け根のところに光る二重星、則ち連星です」

 講師は、連星なるものの説明もしてくれた。

 連星とは二つの恒星が、両者の重心の周りを軌道運動している天体で、双子星とも呼ばれる。

 二つあるうち、明るい方の星を主星、暗い方を伴星と呼ぶ。

 また、三つ以上の星が、互いに重力的に束縛されて軌道運動している星もある。

アルギエバは、春の二重星のなかでも一、二を争うほど明るくよく見える天体で、主星はオレンジ色、伴星は黄色、肉眼では一つの星のようにしか見えないが、大口径の望遠鏡だと分離して見ることができる。

 二つの星がお互いの周りをまわっているが、その周期は約619年である。

 六百年以上かけてまわる軌道とはどういうものなのか。

 途方もない数字で、昴は想像がつかなかった。

  

  

 説明が終わった後、昴たちはセミナールームを出て、外にある50センチ公開望遠鏡があるドームまで歩いていった。

 開けた原っぱの中央にドームがあり、その前に長蛇の列が出来ていた。

 二人はその列に粛々と並んだ。

 やっと順番が来て、昴はドームの中へ入った。

 中も真っ暗で、高さ五メートルほどの望遠鏡の全体像はよくわからなかった。

 望遠鏡の接眼レンズのところのみ明かりがあって、スタッフに言われるままにレンズを覗いた。生まれて初めて天体望遠鏡から星を観た。

 ……不思議な光景があった。

 深い深い闇の中に、ぽっかりと金色の星が二つ浮かんでいた。

 とても美しく、燦然と輝いている。

 アルギエバは二つで一つなのだ。

 生まれてこのかた、何億年もの間お互いを回っている、決して離れることのない星のきょうだいだった。仲良く寄り添っているようにも見えた。

 わあ……と思わず声が漏れた。

 昴はアルギエバの神々しい金色の輝きに魅入られた。

 このままずっと眺めていたいと思ったが、多くの人が順番を待っている。

 観望は僅か十秒ほどで、呆気なく終わった。

 名残惜しく身体を離すと、今度は亮平が飛びついた。

 彼は望遠鏡を覗くと、「すげえ、すげえ」とうるさいくらいに連呼した。

 もっと観ていたいようだったが、昴同様数秒の観測だった。

 

 二人は他の人の邪魔にならないよう、ドームの外に出た。

 亮平は原っぱに出て周囲に人が少なくなってから、今し方の感動を一気にまくしたてた。

 この望遠鏡の口径は50センチだが、それでもアルギエバの二つの星がはっきり見えた。

 すばる望遠鏡の口径は8.2メートルである。もっともっと大きく、鮮明に見えるに違いなかった。すばる望遠鏡から直接観てみたいとも言った。

「さっき聞いた、しし座の流星雨とかさ、すばるで観たらどうなるんだろうな。一晩で何十万個も星が降って来るって意味わかんねえよな。空から隙間なく矢が降ってくるかんじなのかな? 怖くね? でも観てみたいな」

「といっても、二十五年後だけどね」

 冷静に突っ込むと、闇の中、亮平はわざとらしく肩を落とした。

「そうなんだよなあ……。その頃は俺は医者になってて、バリバリ働いてて、結婚して子供だっていたりするよな。星どころじゃねえか」

 亮平はまだ見ぬ未来を夢想し、勝手に嘆いたが、やはり星降る夢を諦めきれないようだった。

「なあ昴。もし二十五年後にさ、タイミングがあったら、しし座の流星雨を一緒に観ような。その頃には俺らもおっさんだけどさ、今より金はあるだろうから天体望遠鏡も買えるだろ。なんなら俺が買うから付き合ってくれよ」

「……いいよ」

 特に深く考えず、昴は承諾した。

 二十五年後に、自分たちがどうなっているかはわからないが、亮平との友情が続いているなら嬉しい。

「絶対だぞ」

「うん」

 昴は大きく頷いた。暗闇の中、二人は約束した。

 暗くて表情はよく見えないが、亮平は笑ったようだった。

 不意に、観望待ちの列の方から見知った声がした。

「……昴? 昴なのか?」

 亮平が呼んだ名前を聞きつけたのか、誰かが大股で近づいてくる。

 昴はすぐに誰かわかった。明彦だった。珍しく白衣を着ていて、つっかけサンダルでよたよたと歩いてくる。

「……父さん」

「ああ、なんだ。やっぱり昴か」

 おそらくは須田から聞いたのだろう。

 息子が観望会に来ていると知って、探しに来たのだろうか。昴はそう期待した。

 明彦は感心したように言った。

「まさか観望会に来るなんてな。お前が星に興味があったとはなあ……」

「父さんこそ、今ハワイのすばる望遠鏡と交信中なんでしょ。ここへ来てていいの?」

 すると明彦はポリポリと頭を掻き、落胆の息をついた。

「ああ、それも聞いたのか。それが……マウナケアの空が曇ってしまって。観測は中断だ。晴れれば再開できるが、どうなることやら」

「そうなんだ……」

「半年待ったのになあ。天候だけはどうにもならない。残念だ」

 明彦は空を見上げ、悔しそうに呟いた。

 今夜は、ここ一番と挑んだ観測だったらしい。

 釣られて昴も空を見上げた。東京のど真ん中なのに、珍しく星が沢山見えた。

 天文台の敷地が広く、人工の明かりが少ないからかもしれない。

 現在の三鷹の空は雲がなく、無数の星々が見えるが、マウナケア上空はそうではないようだ。

 明彦は、昴に会いに外に出てきたわけではなかった。

 ハワイの観測が中断してしまったので、観望会の様子を見に来たらしい。

 しきりに嘆くだけ嘆くと、他のことは何も言わず、ドーム近くにいるスタッフの方へ駆けていった。きっとスタッフも教え子なのだろう。

 明彦が慌ただしく去った後、黙って様子を見ていた亮平がぼそりと言った。

「なんていうかさ……お前の父ちゃん、変わってんな」

「うん……」

「お前のことは何も言わねえのな。普通はもっと色々心配しそうなもんだけど。帰りのバスとかさ。俺に至っては、一切眼中入ってねーし。空気のような扱いだし」

 亮平は存在を丸っきり無視されて、少し憤慨しているようである。

 仕方なく昴が代わりに謝った。

「ごめん、悪気はないんだ。本当に。宇宙とか星のことならよく話すんだけど、それ以外のことは全然……」

「……へえ」

 亮平は、乾いた笑いを洩らした。

 昴の心も晴れなかった。

 観望で感動したアルギエバの光が、急に色あせていくような気がした。

 星のことは純粋に美しいと思う。明彦や亮平が夢中になるのもわかる。

 けれど、ほんの少しだけ憎い。

 星は父の興味・関心を全てさらってゆき、他をなおざりにさせる。

 すばるは愛しても、昴は見えていない。そんな気がした。

 

 

 

 昴が亮平と別れて、帰宅したのは午後九時過ぎだった。

 玄関でただいまと言うと、すぐに春子が出てきた。

 靴を脱いで顔を上げたところで、昴は気づいた。

 何かあったのか、春子の顔は青ざめていた。お腹の前で組んだ手が軽く震えていた。

「昴……」

「おばあちゃん、どうしたの?」

 気丈な祖母が、珍しく動揺している。昴も気になった。

 春子は大きく息を吸った。

「実はさっきね、お前のお母さんから電話がかかってきたの。昴を出してくださいって言われて」

「お母さんから……?」

 昴の声は震えた。家を出て行った麻理子から家に電話が来たのは、これが初めてだった。実に半年近くがたっていた。

「お前は留守だと伝えたら、伝えておいて欲しいと。今度、直接会って話がしたいって。お前をこちらに引き取りたいと思ってるって……」

「……え?」

 昴は凍ったように玄関に立ち尽くしてしまった。

 自分を捨てたと思っていた母が、自分を引き取りたがっている。

 あまりに唐突な申し出だった。

 

 

 

 

 

 

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