Bygone days.7




 春子から来てから、二ヶ月ほどが経過した。

 時々所用で長野へ帰ることはあったが、それも大抵日帰りか一泊ですぐ帰ってきた。

 春子は長野での生活を切りあげて、東京に来たわけではなかった。

 あくまで期間限定のつもりで、息子の家に手伝いに来たようだった。

 松本には家がある。親戚や友人もいる。いつまで東京にいるのかはわからなかった。

 昴は春子のおかげで毎日安心して暮らすことができた。同時に彼女の手伝いを通して家事を覚えていった。買い物にもなるべくついていき、風呂掃除なども積極的に行った。

 これからどうなるかはわからないが、父と二人暮らしの生活に戻った時には、ひととおりのことができた方がよいと考えていた。実生活で父が頼りない分、自分がしっかりしなくてはならないと思った。

 

 三月の初め、春子が知人の葬式で長野に戻った時のことだった。

 昴が学校から帰ってくると、家の前に誰か立っている。

 灰色のスーツの上にコートを着た中年男性だった。黒革の重そうなカバンを持っている。

 見知った顔ではなかった。近くに男性のものらしき車も駐まっていた。

 誰だろうと思いながら近づくと、男は昴を見て「あっ」と声を上げた。

「もしかして、この家の子? きみが高木昴くんかい?」

「はい、そうですけど」

 怪しみながらも、昴は返事した。

 去年から学校の周辺で不審人物が目撃され、注意喚起されている。一瞬それを疑ったが、男の身なりはきちんとしている。

「どちら様ですか」

「ああ、すまないね。実はきみじゃなくて、お父さんに用事があって来たのだけど。留守のようで困ってたんだ」

 そう言いながら、男はポケットから名刺を差し出した。

 名前は来栖くるすで、弁護士と書いてある。来栖はコートをはらりと捲り、職業の証として、スーツの襟にとめた金色の弁護士バッジを見せた。

「お父さんはいつも帰りが遅いのかい?」

「はい。深夜になることが多いです」

「そうか……。忙しいんだねえ」

 来栖は消沈したように首を振った。声に疲労が滲んでいる。

「実はお父さんに、何度も手紙を出しているんだけどね。一向に返事がなくて困っているんだ。今日はたまたま近くに来たので寄ったんだが」

「父だったら、天文台にいると思います。天文台もここから近いですよ」

 昴は親切心から言ったが、来栖はそこで大袈裟に手を振った。

「いやいや、それはこちらも知っているよ。でもさすがに職場へ行くのはね……。プライベートの話だし。昴くん、悪いけど名刺とこれをお父さんに渡しておいてくれないかな」

 来栖はカバンからA4サイズの茶封筒を取り出し、昴に手渡した。

 中には書類が詰まっているが、表には「高木明彦 様」以外何も書いていない。

「じゃ、頼んだよ。必ず渡してね」

 来栖は昴に背を向けると、カバンを持ち直し、車の方へ戻っていった。

 その夜、帰ってきた明彦に昴は言われたとおりに名刺と封筒を渡した。

 明彦は来栖の名刺を見るなり、険しい顔つきになった。そのまま何も言わず、階段を登っていってしまった。

 不思議に思った昴は、翌日帰ってきた春子にこのことを話した。

 春子もまた複雑そうな顔をしたが相槌を打っただけで、それ以上は何も言わなかった。

 昴は、大人たちの間で何かが動いているのを感じ、心がざわついた。

 

 

 三月も下旬になると、すっかり春めいて、校庭の桜が少しずつ花をつけ始めた。

 四月になれば、学年が上がって四年生になる。

 昴は三月末で学童を辞めることにした。

 家には春子がいるし、特に続ける理由がなかったからである。

 よく晴れた土曜日のことだった。

 気持ちのよい日だったが、外の気温は低く寒かった。花冷えで桜の開花は遅れるかもしれない。

 土曜の授業は午前中のみである。三時間目の終わりに、先日受けた算数のテストが返ってきた。

 昴は満点、則ち百点だった。算数は得意科目で、最近学力に顕著にあらわれてきていた。三年生になってから、九十点以下はとったことがない。

 授業が終わった後、いつものように亮平がやってきて答案を覗きこんだ。

「あー負けた。ちくしょう!」

 そう悔しがりながら、潔く自分の答案も突き出した。惜しくも九十八点だった。

「くっそ、なんでお前そんなにできんの? たいして勉強もしてないのに。塾に行って必死に勉強してるこっちが馬鹿みてえだ」

 なあなあと絡んでくる亮平に、昴は少し得意気に笑ってみせた。

「亮平も九十八点ならいいだろ」

「は? 良くねえよ。全然よくねえ。百点じゃなきゃ何の意味もない。まーた親にドヤされる」

 木戸家では、九十八点でも怒られるという。

 ブツブツ言いながら、計算ミスで×がついた場所を眺めている。

 普段は馬鹿なことばかり言っているが、亮平は頭がいい。成績はクラスでもトップだ。塾に通い、他の児童よりも多くの時間を勉強に費やしている。その甲斐あって、国語も社会も理科もよくできる。

 しかし、算数だけは昴に勝てない。昴は塾にも通ってなければ、通信教育も受けていない。教科書を読み、毎日宿題をこなしているだけなのに、テストでいい点が採れてしまう。努力では補えない差というものを亮平は感じていた。昴は一番の友人であり、同時にライバルでもあった。

「これって才能なんだろうなあ。いや、センスか……?」

「そうかな?」

「そうだよ。ていうか、その余裕がむかつく。お前の母ちゃんは喜ぶだろうなあ」

 亮平に睨まれて、昴は思わず苦笑した。

 打ち解けてなんでも話す亮平にも、母親のことは言っていなかった。麻理子の出奔を知っているのは担任の君江だけだ。いずれは学校行事等で知れ渡るだろうが、その時はその時だ。

 答案をランドセルに仕舞うと、昴は亮平と共に教室を出た。

 

 道すがらの桜は、遅咲きなのか青い芽だけが露出した。どこか寒々しい。

 下校の途中で、亮平がやや興奮気味に言った。

「そういやさ、来週の金曜日の観望会受かったんだよ。六回目にしてやっと!」

「えっ、観望会に申し込んでたの?」

「ああ。落ちまくってたから、言わなかっただけ」

 昴は驚いた。亮平が星や宇宙を好きなことは知っている。天文学者という職業に憧れらしきものを抱いていることも。付き合いで図書室に行き、宇宙に関する本も何冊か眺めた。が、のめり込むことはなかった。

 亮平は自分のタブレットから、国立天文台のホームぺージにアクセスして観望会に申し込んだこと、しかし月や木星、土星などは人気が高く全て落選したこと、今回「しし座γ星 アルギエバ」というよく知らない星の観望会だけ当選したことを語った。

「二名で申し込んだから一緒に行こうぜ、天文台」

「僕が? 亮平のお父さんお母さんは来ないの?」

「来るわけねーじゃん。うちの親、そういうの一切興味ないし」

「でも、僕たちだけで行って大丈夫なのかな?」

 昴は至極真面目に尋ねた。

 星の観測は夜からが本番で、当然観望会も夜に開かれる。

 夜に子供だけで行って、果たして天文台に入れてもらえるのだろうか。

 亮平はその点は全く気にしてないようだった。あっけらかんと言い放った。

「全然平気平気。大丈夫も何もお前の父ちゃん、天文台にいるんだろ。最初から保護者同伴じゃん。問題なーし!」

「同伴……そういうことになるのかな?」

「つーか、実を言えば最初からお前の名前狙いで申し込んだよ。バリューネーム? ネームバリュー? 大体そんなかんじ。昴たーん、ボクは望遠鏡でお星さまが観たいんだ。お願いだから付き合ってちょ」

 ふざけて抱きついてくる亮平を、昴はなんなく躱した。

「しょうがないなあ……」

 としぶしぶ言いつつも、別段断る理由はない。父が来るなと言うこともあり得ない。昴は亮平に付き合って金曜夜の観望会へ行くことにした。

 その夜、昴は夕食の席で明彦にテストで百点をとったことを話した。

 明彦は「そうか」と言っただけで、それ以上は何の反応も示さなかった。

 普通の親なら褒めたり、さらなる学力の向上を願うものではないだろうか。

 昴は内心がっかりした。百点がとれないと怒るという、亮平の両親の方がよほど親らしいと思った。

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