Bygone days.6



 年が明けて、2010年になった。

 商店街や家々の玄関には大小さまざまな正月のしめ飾りが飾られていたが、高木家は殺風景なままだった。毎年飾っていた人間がいなくなったからである。

 クリスマス後から冬休みに入った昴は、毎日退屈していた。

 昼間は一人であるし、明彦は相変わらず仕事が忙しく夜も遅い。

 大晦日から正月にかけては家にいたが、論文執筆のためか三階の書斎に篭りきりである。これは麻理子がいた時からそうだった。明彦は家族の団欒よりも、常に自分の研究を、仕事を優先した。

 昴も折角の正月休みなのだから、どこかに連れていって欲しいと思ったが、口には出さなかった。言っても無駄だろうという、諦めの気持ちがあった。

 外出したのは近所の神社へ初詣が一回、それから年中無休のスーパーへ買い物に行った程度だった。

 昴は買い物には必ずついていった。何故なら、明彦だけで行かせると毎回同じものを買ってくるからである。母親がいた時のような、美味しさであるとか、栄養バランスだとか、彩りだとかの細やかな気配りは期待できない。食べたいものを自分で選んで買ってもらうしかない。それでも、正月のご馳走は詰め合わせのパックのおせちとインスタントの雑煮がせいぜいで、実に味気なかった。

 一つ良かったことは、毎年恒例で明彦の実家がある長野から、お餅やみかんが送られてきたことだった。昴はおやつ代わりに、それらをせっせと食べた。

 餅を海苔で巻き、レンジで温めて砂糖醤油をつけて食べるのにはまっていた。これは簡単な上に食器を洗わずに済む。キッチンのシンクは、相変わらず食器が山積みだった。

 皿洗い、洗濯やゴミ捨てなどの家事は週末にしか行わず、掃除に至っては全くしないため、家の中はますます汚れていった。

 家のあちこちにゴミ袋が積み上がり、玄関にはポストに突っ込まれたチラシやDMが散乱していた。リビングの床や、テレビには埃が積もっている。

 風呂場は入浴後に換気扇を回さなかったため、天井と壁面に黒カビが生えた。浴槽も汚れてぬめっていた。

 本にせよ、衣類にせよ、家具にせよ、出したものを片付けないので、室内はどこもかしこも物であふれ、今や足の踏み場もない。明彦はあまり気にしていなかったが、子供の住環境としては良くなかった。

 

 正月も終わってしまい、あと数日で学校が始まるという夜、また明彦はコンビニの海苔弁当を買ってきた。

 昴は何十回食べたかわからないそれを見て、大きく溜息をついた。

 ここまで来ると、呆れを通り越して笑ってしまいそうだ。箸をつける気もおきない。

「お父さん、またこれ? どんだけ海苔弁当好きなの?」

「いや、別に好きなわけでもないんだけどなあ……」

「だったら、別のにしようよ。もうこれ飽きたよ」

「うーん、どうしようかな……」

 明彦は別のことを考えているのか、どこかうわの空だった。

 息子のことはあくまで二の次な態度に、昴はむらむらと腹が立った。

「給食みたいじゃなくてもいいけど、ご飯くらいちゃんとしてよ。僕は作れないんだし」

「父さんにも作れないなあ……」

「もう、頼りないなあ!」

「うーん、すまん……」

 語気を強めると明彦は素直に詫びたが、昴にはその場凌ぎに聞こえた。我慢していた不平不満が口をついた。

「お父さん、家にもあんまりいないし、帰ってくるの遅いし……。うちも汚いし。ずっとこのままなの? もう嫌だよ!」

「いや……」

 いつになく昴が強気なのに、明彦も驚いたようだった。

「まあ、うん。このままではいられないだろうなあ……」

「だろうなあ、じゃないよ。どうするの?」

 明彦の煮えきらない態度に、昴は叫ぶように言った。

 明彦も困ってしまったようだった。

 うんうんと唸った後、消沈した声で言った。

「……仕方ない。長野のおばあちゃんに頼むか」

「おばあちゃん?」

「ああ。しばらくの間応援に来てもらうよ。お前にとってもその方がいいだろ」

 予期せぬ人物の名に、今度は昴の方が面喰らった。

 明彦の母である長野の祖母に応援を頼むというが、その意味がよくわからない。

「おばあちゃんが来てどうなるの?」

「そりゃ、家のことをお願いしてお前の面倒を見てもらうよ。父さんだけじゃどうしても手が回らないからな」

 と言いつつも、明彦の声はあまり乗り気でない。しぶしぶ立ち上がり、電話機の前まで行ってもまだ躊躇っている。昴の目には、なんだか情けなく映った。

 それでもやがて決心したのか、明彦は受話器を取った。

「ああ、母さん? 俺だけど……」

 少しして繋がったのか、受話器の向こうから落ち着いた女性の声がする。祖母の春子だろう。

 明彦は、電話で自分たちの状況の説明を始めた。

 昴は少し呆気に取られながらも、じっと父の背中を見つめた。

 父には、もっとしっかりして欲しい、自分のことを考えて欲しい、という意味で抗議したのだが、祖母を頼るという予想だにしない方向へといってしまった。

 少し前屈みになった明彦の背はどこか小さく見えた。

 

 

 それから二週間ほどした二月のある日、明彦と昴は東京駅へ春子を迎えに行った。

 祖母の春子は六年前に夫を見送り、今は長野の松本で一人悠々自適に暮らしていた。明彦は一人息子である。今年で還暦だが、外に働きに出たことはなく、長年専業主婦をしている。何かと時間に融通が効くゆえに、今回息子にも頼られたのである。

 昴は覚えてないが、小さい頃は月に一度は東京に出て来て、数日間面倒をみてくれていたらしい。

 大きなボストンバッグを持った春子が改札口から出てくると、昴は「おばあちゃん!」と叫んで駆け寄った。祖母が来てくれたことが純粋に嬉しかった。

 春子も荷物を取り落しそうになりながら、昴をぎゅっと抱きしめた。

 明彦はバツが悪そうに頭を下げ、黙って荷物を持って歩き出した。

 三人で家に帰ると、春子は開口一番、室内のあまりの汚さに呆れ果てた。

「なんだい、これは? 汚部屋ってやつかい? こんなゴミ溜めみたいな家によくも暮らせたもんだね」

 とひとしきり怒った後、到着したばかりだというのに、すぐに掃除を開始した。

 明彦はさっさと書斎に逃げてしまった。母親の怒りが収まるまで部屋から出てくる気はないらしい。

 とりあえずはと、春子はまずキッチンに入った。食事を作ろうにも、キッチンが使えなくてはどうしようもない。

 昴には、洗った食器を拭くように言った。元からすることもないので、昴は素直に従った。

 シンクに山と積み上がった食器をせっせと洗いながら、春子はあーあとぼやいた。

「昴、お前も大変だったねえ……。お母さんがいなくなって困っただろ?」

「うん……まあね」

「おばあちゃんも仰天したよ。まさかこんなことになってるなんてさ。てっきり、みんなで元気にやってると思ってたのに……」

 それには昴が驚いた。思わず、皿を取り落しそうになった。

「えっ、おばあちゃん知らなかったの? 僕がお父さんと二人きりなこと」

「知らないよ、知るもんかね。お前の父さんは何も言ってこないしさ。この前、みかん送っただろ。なのに、麻理子さんからは電話も年賀状も来ないんで不思議に思ってた。ほら、お前の母さんはそういうことはきちんとしてたから」

 どうやら春子は、明彦から電話が来るまで一切の事情を知らなかったようだ。

 孫の手前、声こそ荒げないが、二ヶ月以上も黙っていた息子に実は怒り心頭の様子である。

「昔っから、何考えてるのかよくわからない子だったけどね。あと、肝心なことも言わないし。麻理子さんとも一体どうなっているのやら。全く情けないよ……」

 尚も春子はぶつくさと文句を言った。

 実の息子ながら、明彦に対して全く容赦しない。

 昴は、父が祖母を呼ぶことに乗り気でなかった理由がなんとなくわかった。

 頼れる人ではあるが、頭が上がらないのだろう。

「でも、お父さんも頑張ってたよ? 毎日お弁当を買ってきたし……」

 昴は、なんとなく庇うようなことを言ってしまった。どうしてそんなことを言ったのか、自分でも不思議だった。

 

 

 春子は文句を言いつつも、三日ほどかけて家じゅうを掃除し、溜まりに溜ったゴミを全て捨てた。三階の書斎以外の部屋は、麻理子がいた頃と同じように綺麗になった。

 昴も学校から帰ると家事を手伝った。

 一人でテレビをぼーと見ているよりも、祖母と話しながら身体を動かしている方が楽しかった。今更だが、お母さんがいた時も手伝えば良かったと思った。毎日仕事に追われていた母は、とても助かったに違いない。

 玄関に散らばっていた広告チラシはなくなり、脱ぎ捨てられた靴も摩かれた。

 キッチンも片付けられ、異臭はしなくなった。

 ゴミは分別して捨てるようになった。洗濯もほぼ毎日されるようになった。

 風呂場は、専門の清掃業者を呼んでカビ取りをした。

 春子は面倒な家事に関しては、プロに頼んだ方が早いという考えの持ち主だった。

 食事も三食手作りになり、昴はコンビニ弁当を食べなくてもよくなった。

 男二人の生活は落ち着き、明彦も再び仕事に没頭できるようになった。

 昴の母を失った寂しさは、春子のおかげで多少は紛れた。

 学校から帰っても、一人ぼっちの時間を過ごさずに済むのがありがたかった。

 

 その穏やかな日々が、ゆるゆると続けば良かったのだが――。

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