Bygone days.5




 昴はその後少し待って、六時過ぎに君江と一緒に学校を出た。

 学童の終わる時間と重なって、ちょうどいい時間だった。

 君江も昴のライフサイクルを尊長し、夕食は早めに取ることにした。

 二人は歩いて十分ほどのファミリーレストランに入った。

 君江の行きつけの場所らしい。平日のためか、店内は空いていた。

 昴は上機嫌だった。時間をかけてメニューを眺め、ナポリタンを注文した。

 君江に「野菜も食べなきゃ」と言われて、サラダとスープのセットにした。千円以内に収まりそうだったので、ドリンクバーも頼んだ。

 別に食べるものはなんでもよかった。

 一人ぼっちの夕食を回避できたことが嬉しかった。野菜不足を心配してくれる人がいるのが嬉しかった。ソーダを飲みたかったけれど、それも何か言われるかもしれないと思い、あえてお茶にした。

 料理を待っている間、昴は色んなことをしゃべった。

 最近の学童は下級生ばかりであまり面白くないこと、学童の今村先生が怖いこと、犬か猫を飼ってみたいと思っていること、学校の池にミドリガメが繁殖していること、テレビはお笑い番組をよく見ていること、などなど実に他愛もない話だった。

 昴のとっても、それらはさほど重要なことではない。

 だが、どうでもいいことを話せる相手と、時間そのものが重要だった。

 誰もが持っていそうに見えて、実は誰もが欲しているものかもしれない。

 くだらないことほど、話せる人間は限られる。逆に話せないでいると、発散すべき瑣末なことが、滓のように溜まって鬱屈する一方だ。

 君江はふんふんと相槌を打ちながら聞いてくれた。

 料理が運ばれてきてからも、昴はなるべくゆっくり食べだ。気持ちを悟ったのか、君江もゆっくりと食べてくれた。

 食事が終わると、君江はデザートのプリンを注文してくれた。

 これはおごりだと言う。昴は喜んでプリンもゆっくりと食べた。

 やがて、とうとう話題が尽きた。昴は話すことがなくなってしまった。

 さすがにこれ以上、君江を引き留めるのは無理だろう。

 残念だが、お開きの時間が迫っている。

 沈黙したまま、手持無沙汰にストローを噛む昴を見て、君江が口を開いた。

「あのね、先生、今日は昴くんとお母さんのことを話せて良かった。実を言うと先生は昴くんの気持ちがよくわかるんだ……」

「なんで?」

「先生もお母さんがいないから」

「そうなの?」

 昴は驚いて、ストローから口を離した。

 君江の個人的な話を聞くのはこれが初めてだった。

 君江は肘をついたまま、窓の外をぼんやりと眺めた。大通りを見ているわけではなく、鏡に映った自分に語りかけるように言った。

「昔は、みんなで仲良く暮らしてたんだけどね。お母さんは、先生が高校二年生の時に病気で死んじゃった。癌だったの。どうしようもないね。お母さんがいなくなってからは、お父さんと妹の三人暮らしだった」

「今もそうなの?」

「ううん、それは去年まで。今は家を出て、妹と暮らしてる。正直言って、今の方が楽。ほんと父子家庭は大変だった……。お父さん、家のことはなんにもできなくてね」

 それは昴も同じだった。明彦は家事が全くというほどできない。家は汚れる一方、荒れる一方だ。

「お母さんに全部任せきりで、パンツがタンスのどこにしまわれているかも知らなかったの。笑っちゃうでしょ? 親戚に写真が欲しいと言われても、場所がわからなくて、三人でアルバムを探し回ったりね。途中で妹が泣きだしたりして、お父さんが怒って怒鳴ったりして。受験生なのに受験勉強どころじゃなかったなあ。今となっては笑い話だけど、私も経験者だから、昴くんも大変だろうなって思う」

 でも、と昴は唇を尖らせて反論する。

「先生は妹がいるじゃん。家に帰っても一人じゃないじゃん。寂しくなんてないよ。今だってそうなんでしょ」

「そんなことないよ。妹も働いてるし、休日も合わないしで、話すこともあまりないし。一人暮らししているのと一緒。先生も家に帰れば寂しいよ。だから、学校に遅くまでいるわけじゃないけど」

「……先生も寂しいの?」

 君江はどこか無理に笑ってみせた。痛々しくも誠実さがあふれていた。

「寂しいよ。それも寂しい時は、決まってお母さんのことを思い出すの。お母さんがいれば、この寂しさもまた違うものだったんじゃないかなって。一緒にいれた時間が十七年で止まったからね。といっても、人の記憶なんてせいぜい七歳くらいからでしょ? 実質は、十年よ十年。お母さんと一緒にいれたのは十年。それ以上は増えようがない。それが切ないな」

「それを言うんだったら、僕は九歳だよ? 七歳からだったら、お母さんと一緒にいれたのは二年だよ?」

「ああ、ごめんごめん。今のところは、先生の方が長いか。けど、先生は正直昴くんが羨ましいなあ……。だって今は離れていても、お母さんは生きているでしょ。会おうと思えば会えるし、また一緒に暮らせるかもしれないじゃない。十年、二十年だって時間を共有できる希望がある。先生は、もうそれがないから……」

 君江は、はあと大きく息を吐いた。演技ではなく、心から昴を羨んでいるようである。

 少し間を置いて、彼女はぽつりと言った。

「大人になってからわかった。……悲しみはね、いつもずっと後から来るの。時間がかかるものなの」

「なんで?」

 間髪入れずに昴は尋ね返した。

 しかし、内心では君江の言うことは当たっていると思った。

 自分も母親がいなくなってから、本当に悲しくなるまで時間がかかった。

 いや、本当の悲しみはこれからかもしれない。昴はまだ、完全に喪失しきってはいない。

「先生が本当に悲しかったのは、お母さんが死んで三年後だった。大きくなればなるほど、悲しみの反動は大きいって知った」

「……三年? そんな後に?」

「先生が二十歳になった時。成人式で着る用に、呉服屋さんに着物を借りにいったの」

「着物? 先生、着物着るの?」

「そう。一生に一度のことだから、男の人は袴、女の人は振袖を着る人が多いかな。着物ってね、とっても高いのよ。買っても高いけど、一日借りるだけでも九万とか十万とかするの。先生は頑張ってバイトしたから、お金はあったの。お金を握りしめて、着物を借りに一人で下北沢の呉服屋さんに行った。すぐに店員さんが出て来た。で、その店員さん、私を見てなんて言ったと思う?」

「なんて言ったの?」

「ただ一言、『……お母さんは?』って聞かれたのよ。それだけだった。先生は困って仕方なく『母は来ません』って答えた。だって、死んじゃっていないんだもの。しょうがないよね。そうしたら店には入れてくれたけど、ずっとそのまま放っておかれた。店員さんは、後からやってきた親子連ればかり接客した」

「なんで? どうして? ひどくない? お金持ってたんでしょ?」

「後から知ったことだけど、呉服屋さんはね、七五三にしろ成人式にしろ、親の方がお客なの。着物を着る子供は別にどうでもいいのよ。何を着ても、似合う似合うと褒めちぎればいいだけ。だって、高い着物代を払うのは親なんだもの。お金を出す人が一番偉いの。誰がなんといっても、それが普通なのよ。

 ……あれほど惨めで悲しいことはなかった。女親がいないというだけで、お客扱いされないなんて。なんとかせっついて着物は借りたけど、家に帰ってから大泣きした。お母さんがいないのはどうしようもないことなのに、どうしてこんな悲しい想いをしなくちゃいけないんだろうって」

「成人式はどうしたの? 着物は着たの?」

「着たよ。朝五時に起きて美容院に行って、着つけをしてもらった。成人式にはお父さんも妹も来てくれた。中学の友達にも会えて楽しかった。だから借りにいったことは、後悔してない」

「……お店は許せないね。ひどいよ」

 子供らしい純粋な怒りを込めて昴は言ったが、君江はふふふと笑って流した。

「いいの、あれは商売だから。ただ自分は同じことはしないと思っただけ。昴くんも、自分にとって当たり前のことを、みんなも当たり前とは思わないでね。世の中には色んな人がいるから」

「……うん。わかった」

 昴は力強く頷いた。

 君江が、自分を食事に誘ってくれた理由が少しわかったような気がした。

 自分を元気づけると同時に、他人に対する思いやりを持って欲しいに違いない。

 九時近くになって、二人はレストランを出た。君江は、丸々三時間近くも昴に付き合ってくれたことになる。

 しかもその後、仕事を片付けるためにまた学校へ戻ると言う。

 昴は名残惜しいながらも、レストランの前で君江と別れた。

 とんでもなく寒かったので、家までは走って帰った。

 走っているうちに、身体がぽかぽかとしてきた。

 ふと空を見上げると、星が出ていた。空に泰然と浮かぶそれに、昴の足は自然と緩まった。

 

 

 自宅に帰って、宿題をしたり、風呂に入ったりしてるうちに午前を回った。

 帰ってくるのが遅かったため、いつもの退屈に溺れることはなかった。君江との夕食は楽しく、かつ有意義だった。

 午前一時近くに明彦が帰ってきた。

 夕食用の金を渡したはずなのに、そのことを忘れたのか彼はまたコンビニの海苔弁当を買ってきた。昴は呆れながらも、父親に付き合って半分ほど食べた。

 なんでもいいから、少しでもいいから、明彦との時間を共有したかった。

 それは寂しさからでもあったし、君江が言ったことが気にかかるからでもある。

 親子で共有できる時間は限られているということ。

 昴はこれまで母親の麻理子と共に生きてきた。

 その中で、父親の存在はさほど重要ではなかった。

 しかし、今は違う。

 母が(いっときであっても)いなくなった以上、二人で生活していく以上、昴は明彦と向き合わねばならない。まさに、九歳の今からがスタートだった。

 明彦は、昴に学校生活を聞くでもなく、黙々と食べている。

 疲れているのかもしれないと思いつつ、昴は尋ねた。

 君江から聞いた母のことは言わなかった。父の関心を引ける話題は心得ている。

 星だ。明彦がこよなく愛する宇宙や星しかない。

「父さん、ちょっと聞きたいんだけど」

「ん?」

「今日、授業で調べたんだ。僕の名前は、やっぱり星のすばるからきてるの?」

 そうであることを昴は望んだ。

 父はすばるが一番好きで、だからこそ自分に名付けたのだと思った。

 しかし、明彦の答えは少し違った。

「元をただせばそうなるな。けど、厳密に言えば違うかなあ。お前の名前は、すばる望遠鏡からつけたんだ」

「すばる望遠鏡? 何それ」

「ハワイのマウナケア山山頂にある、世界一の大型光学赤外線望遠鏡だ。一九九九年に観測を開始したんだが、翌年にお前が生まれた。だからちょうどいいと思ってな。すばる望遠鏡の完成は、多くの天文学者の夢だったんだ。今も大活躍している」

 明彦の声はどこか誇らしげだった。

「ほんと?」

「ほんとほんと」

「じゃあ、すばる望遠鏡の名前をつけた人は誰?」

「それは公募だな。無論天体ファンだろうが」

「そうなんだ……」

 意外に思いつつも、昴は悪い気はしなかった。

 天体を愛する多くの人の夢を背負ったすばる望遠鏡に興味が湧いてきた。

 明日学校へ行ったら、早速に亮平に話そう。

 亮平は望遠鏡について知っているかもしれないし、知らないなら二人で図書室に調べに行ってもいい。

 

 

 

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