Bygone days.4




 午前中に視聴覚室で言われたとおり、昴は荷物を持って一階の職員室へ行った。

 君江は自席でパソコンに向かっていたが、入ってきた昴にすぐに気がついた。

「あ、昴くん来た来た。遅いから、探しに行こうと思ってたのよ」

「亮平と話してた」

「そう、本当に仲がいいのね」

 笑いながら、君江は辺りを見渡した。

 職員室にはまだ何人か教員が残っている。

 それを気にしたのか、席から立ち上がり、昴を伴って職員室を出た。

 二人きりで話をするつもりのようである。亮平が冗談で言った告白ではないだろうが、昴はドキッとした。君江はいつも長い髪を無雑作に束ね、化粧気はない。服は大抵地味な紺のスーツかジャージだった。女性らしいおしゃれには程遠いが、清潔感があった。

 昴は君江のことが嫌いではなかったし、若いからといって舐めてもいなかった。

 君江は一年生の誰もいない教室を見つけると入り、きっちりとドアを閉めた。

 窓際の一番前の席に座ると、昴にも着席を勧める。

 身体を横に向けると、椅子の背もたれに両腕を乗せた。雑談でもするような姿勢である。

「あのね……今日呼んだのは」

 と一旦言葉を切ってから、一瞬躊躇うように目を伏せた。

「昴くんのお母さんのこと。そのことで話をしたくて」

「……お母さん?」

「そう。その、今、昴くんの家にお母さんはいないんだって?」

 昴は予期せぬ問いに動揺した。

 母親の麻理子が家を出ていったことは、学校には、則ち担任の君江には伝えていなかった。別に明彦に口止めされたわけではない。ただ言うのはひどく恥ずかしかった。羞恥以上に、ひどく惨めだった。

 誰が、そんなことをあえて自分から口にするのか。

 そもそも、自分は母親に置いていかれた側である。

 麻理子は食器や自分の服や炊飯器は持っていっても、息子の昴は連れていかなかった。夫の、明彦の元に残したのである。

 昴は頬がかっと火照るのを感じた。膝の上に置いた手が微細に震えた。

「ごめんね、先生今まで気づかなくて」

 昴の心情を慮おもんばかってか、何故か君江が詫びた。

 高木家の家庭の問題には、無関係であるのも関わらずだ。

 違うという意味を込めて、昴は一度だけ首を横に振った。

 しかし、君江は君江で、今回のことを大真面目に反省していた。

 思い起こせば、確かにこの一ケ月、昴の様子は以前とは違っていた。

 前は決してそうではなかったのに、何日も同じ服を着てきて、それも皺だらけだったり、襟が薄汚れていたりした。髪は大抵ぼさぼさだった。

 最近は給食をよく食べ、おかわりもしている。単純に食べ盛りだと思っていたが、保護者の世話が行き届かず、給食が一日の主な食事になっている可能性もあった。

 君江も正職員になってまだ二ヶ月、これまで色んな学校で教壇に立ったものの、あくまで期間限定の採用だった。

 担任のクラスを持ったのは初めてなら、児童の家庭の問題に対応するのもこれが初めてだった。彼女自身もとても緊張していた。

「……もっと早く気づいてあげれば良かったね」

「先生はどうやって、お母さんのことを知ったの?」

 何故君江が母のことを知っているのか、昴は不思議だった。

 君江と麻理子に面識はないはずだった。

 麻理子は九月の授業参観の時に学校へ来たが、その時はまだ前の担任がいた。

 君江が担任になったのは十月に入ってからである。

「昨日、お母さんから学校に電話が来たの。毎日一緒だと思ってたから、『昴は元気にしていますか』って聞かれて、先生びっくりしちゃった……」

「電話が来たの? 先生に?」

「うん。夕方頃だけどね。そっちには、これまでかかってこなかったの?」

 昴は勢いよく首を縦に振った。

 家を出ていって以来、麻理子からの連絡は一度もなかった。昴は、麻理子の現在の住所も連絡先も知らなかった。

 このやるせない事実を受け止めるのにも時間がかかった。

 当初は、当然母は帰ってくるものと信じていた。毎晩のように深夜まで待ち続けた。

 事故や病気などありとあらゆる可能性を考え、随分心配して、明彦にも何度も母のことを尋ねたけど、父の反応は恬淡としていた。もごもごと口篭るばかりで、昴が望む返事は返ってこなかった。

 やがて、昴は母が自らの意思で家を出ていったことを知った。

 誰かにはっきりと告げられたわけではない。否応なく悟ったのだ。

 不思議なことに、母を失った悲しみはすぐには襲ってこなかった。

 それが来たのは三日後だった。

 いつものように一人で過ごす夜、自分の部屋のベッドに入って、布団をかぶった後で、彼は唐突に理解した。自分が、母にとって一番ではなかったことを。

 自分は愛されはしても、母の人生に、母の生活には必要ないものだったのだ。つまり捨てられたのだ……。そう思ったら、心配したことも、あれこれ思い悩んだことも何もかもが急に馬鹿馬鹿しくなった。やっとのことで、じわじわと涙が溢れてきた。昴は布団を噛みしめるようにして、声を殺して泣いた。拭っても拭っても、塩辛い水は止まらなかった。

  

「……電話なんて来てない。一度も」

 力を込めて答えると、君江は大きく溜息をついた。

「お母さんもね、何度も昴くんに電話しようと思ったんだって。でも……できなかったんだって」

「なんで?」

「さあ、なんでだろうね……」

 君江は昴の目を見ながら、慎重に言葉を選んでいる。子供の心を傷つけたくない一心だった。

「といってもね、先生も忙しかったし、そんなに長く話したわけじゃないの。詳しいことはわからないんだ。お母さんは元気よ。同じ都内にいて、会社にも行っているみたい。昴くんにも会いたがってて、落ち着いたら連絡するつもりだって言ってた。先生に約束した」

「……そう」

「お父さんもお仕事があるでしょ。忙しくて、目が行き届かないことがあるかもしれない。困ったことがあったら、なんでも言ってね」

「……うん」

 昴は力なく頷いた。

 母親の現状をもっと知りたかったが、君江の話はそれで終わりだった。昴は落胆した。『落ち着いたら連絡するつもり』なんて、具体性のかけらもない。

 がらんとした教室内に、しんみりとした空気が漂った。

 気持ちを切り替えるためか、「よしっ」と掛け声をかけて君江は立ち上がった。昴はじっと座ったままだった。

「どうしたの? 先生の話はこれでおしまい。帰ってもいいよ」

 促されたが、昴は動かなかった。

「……帰りたくない」

 俯いたまま、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で言った。まぎれもなく本音だった。

 君江は心配そうに顔を覗きこんできた。

「……どうして?」

「家に帰っても一人だから」

「お父さん、遅いんだ」

「帰ってくるけど、それまで一人になるのが嫌なんだ」

 明彦が帰ってくるまでの空虚な時間、それが今の昴には耐えがたかった。

 これまでも毎日一人で過ごしてきたのに、今だけは受け入れられそうにない。誰かと一緒にいたいと痛切に思った。

 君江は困ってしまった。

 一人になりたくないという理由で、帰宅を嫌がる児童は昴が初めてだった。

 同時に彼が抱えている深い孤独をも感じた。これまでは、母親が帰ってくると信じていたからこそ、一人の時間を耐えられたのかもしれない。失ってしまった今、昴の精神は不安定になっていると感じた。

「うーん、困ったな。夕ご飯は家にあるの?」

「ない。お父さんが千円くれた」

「そっか。……じゃあ、今日は先生とご飯食べに行く? ファミレスだけどね」

「ほんと?」

 昴は、勢いよく顔を上げた。嬉しそうである。

 君江は開き直ったように、肩を竦めてみせた。

 テストの採点、明日の授業の準備、連絡帳の返信、学校だよりの原稿執筆と仕事は山積みだが、腹が減ってはいくさはできぬ。元から、残業中に抜けだして夕食をとる気でいた。自炊は無理なので外食のつもりだったが、それに昴を伴ってもいいだろう。寂しさから、子供が一人で日の落ちた暗い街をふらついては困る。盛り場にでも行って、もし何かあったら取り返しがつかない。

「今日だけだけどね。みんなには内緒でデートしよう」

 茶目っ気たっぷりに笑いながらも、君江も内心ではこのことが学校に知られたらまずいかもしれないとも思った。デートといっても勿論食事だけだが、昴だけ特別扱いしていると父兄からクレームが来るかもしれない。

 しかし、一度言い出したことを撤回する気にはなれなかった。

 君江にとって、昴の事情は他人事には思えなかった。

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