Bygone days.10
昴は何も持たず、再び外へ出た。
祖母と父が諍っている中、居間に入っていくことはできなかった。
家にも居場所がない気がした。
自転車に乗ると、全力でペダルをこいだ。
どこでもいいから、遠くへ行きたかった。
父と祖母の争う内容はわからない。わからないからこそ不安だった。
お金がないので、できることは限られている。
土曜も開館していることを思い出し図書館へ行った。
ぐるぐると無意味に館内を歩き回り、適当に絵本を手に取った。
子供向けのギリシャ神話の本だった。
椅子に座って開いたが、話の内容はちっとも頭に入ってこなかった。
午後五時を過ぎると、児童は帰らなくてはいけない。
合図のチャイムが鳴ると同時に、昴はのろのろと立ち上がった。足が鉛のように重かった。
結局、家以外に帰る場所はない。
どこにも行けない。何もできない。自分は子供だから……。
無力感が胸をついて、微かに痛かった。
家に帰ると、今度はすぐに気づいた春子が出迎えてくれた。
年相応の皺を刻んだ顔には、濃い疲労が滲んでいた。目が充血していた。
それでも春子は昴の前で、努めて明るく振る舞った。
明彦は三階の書斎に篭ってしまったようだった。
春子はいつものように夕食の支度をし、昴はそれを黙って手伝った。
夕飯の時間になり、テーブルに料理が整ったので、昴は三階に明彦を呼びにいった。ドアの前で「夕飯だよ」と言ったが、返事はなかった。
階下で暫く待ってみたが、明彦は一階に降りてこなかった。
春子は「仕事が忙しいのさ」と言い、二人での夕食が始まった。
昴は春子に聞かれるままに、駅前で母と会ったことを話した。
母の恋人まで一緒にいたと言っても、春子はさほど驚かなかった。薄々わかっていたのかもしれない。
昴は怒りを込めて、麻理子が自分を引き取って一緒に暮らしたがったこと、しかし自分はそれを拒み、明彦との生活を選んだことを語った。
春子もそれを喜んでくれると思った。嫁である麻理子は男をつくり、一旦は子供を捨てて家を出て行った。姑ならばこそ、自分よりも憤慨すると思った。春子に母を責めて欲しかった。
けれど、春子の反応は昴が思っていたものとは違った。
「そうかい……。でも昴、あんたはお母さんと暮らした方が幸せかもしれないね。自分の息子を悪く言いたかないが、あちらの方がよほど誠実に思えるよ」
「……どうして?」
昴の箸が止まった。
「どうしてって。そりゃ、お父さんはあんなんだしね……。あんたにも少しはわかるだろう?」
「……。わからないよ」
少し間を置いて、昴はゆるゆるとかぶりを振った。
半分は本当で、半分は嘘だった。父の全く悪意がない、純粋無垢ともいえる無関心さには薄々気づいていた。母がそれに傷ついていたことも。
「おばあちゃんも理解できないけどね。最近少しわかってきた。お前のお父さんは、興味が極端なんだ。本当に好きなものしか愛せない人なんだよ。それ以外は見えず、見ようともしない」
「好きなものを愛するのは、いいことなんじゃないの?」
「いいもんかね。その他は全部ほったらかしなのに。少なくとも、あの子の関心は私たちにはない。そもそも、人そのものに興味がないのかもしれない」
「……昔からそうだったの?」
「そうだね、変わった子だった。勉強はすこぶるできたけど、友だちはいなくてね。欲しがりもしなかった。暇さえあれば八ヶ岳の野辺山電波観測所へ行って、宇宙からの電波だなんだって……。今思えば空ばかり見て、周囲のことは何も見てなかった。麻理子さんはよく我慢したもんだよ。明彦が関心を持たない全てを押し付けられて、負わされて……」
春子はぱたりと箸を置き、やるせなく溜息をついた。
「結婚なんてさ、面倒なもんだよ。家族なんて面倒なもんだよ。人と関われば関わるほど面倒ばかりだし、いうなれば人生そのものが面倒だよ。それでもみんな面倒と思いながら、現実に必死に向きあって、闘ったり諦めたりして乗り越えていくんだ。それが普通なんだ。なのに、明彦にはできない。できなくても、これまでなんとかなってしまった。単なる我儘だと思ってたけど、そうじゃなかった。あの子は人として、何か大事なものが欠落しているんだ。おばあちゃんは育て方を間違ったよ……」
春子は、エプロンのポケットからハンカチを取りだした。
目に当てるのを見て、昴は慌てて言った。
「泣かないで」
春子が泣く必要はどこにもなかった。
祖母は、本当に何も悪くないのだ。
突然に長野から呼ばれて、昴の家庭の問題に巻き込まれているだけだ。
誰も悪くなかった。ただ家族が壊れていく悲しみだけがあった。
迫りくる崩壊の前に、人らしい悲しみだけが――。
その日は、胸が透くような蒼天だった。
大通りの街路樹には初夏らしい、青々とした若葉が生い茂っていた。
買い物帰りに、昴は明彦と手を繋いで通りを歩いていた。
手を繋いだのは昴からだった。
ぎゅうと強く握ったまま、明彦の横顔を見上げた。
「父さん。……父さん!」
「ん?」
考えごとをしていたのか、明彦はハッと我に返った。
昴は買い物中も、帰り道の今も色々話しかけていたが、どうやら聞いていなかったらしい。
昴は早々に自分の話を諦めた。
星の話をすることにした。父の気を引きたい一心だった。
自分に興味関心がないなら、父がこよなく愛するものを愛して、同志になるしかない。そうなれば、自分たちは親子である以上に、星を通じて繋がることができる。自分をも愛してくれるだろうと思った。
「あのさ、次の観望会っていつなの?」
「うーん、来月の中ごろかな」
「僕も行っていい?」
「ああ、いいぞ。天文台のホームページで予約を受け付けている」
「じゃあ、申し込んで行くよ。一人で申し込むね。今度は父さんが説明してよ。望遠鏡から一緒に星を観ようよ」
「それは……」
明彦は声を詰まらせた。
昴は、勇気をふりしぼって尋ねた。
「……ねえ、父さんはどこにも行かないよね?」
明彦はもごもごと口を動かすだけで答えなかった。
「父さんは、ずっと一緒だよね? ずっと僕とおばあちゃんと暮らすんだよね? お母さんに会った時に言ったんだ。僕はお父さんと暮らすって」
「昴……」
明彦は足を止めた。
左手を繋いだまま、右手を昴の肩に置いた。
「……あ、ああ。勿論だ。当たり前じゃないか」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
そう言われても、昴は信じきることができなかった。
尚もしつこく尋ねた。
「ほんとにほんと?」
「ほんとにほんとにほんと」
「ほんとにほんとに絶対?」
「ほんとにほんとに絶対にほんと」
まるで呪文のような言葉の応酬が続いた。明彦も辛抱強く答えた。
「嘘じゃない?」
「嘘じゃない」
「ほんと?」
「ほんとほんとだって」
「……良かった!」
そこまで言われて、昴はやっと安堵した。
荷物を持ったまま明彦に抱きつくと、二人してよろめいて倒れそうになった。
昴は笑った。明彦も笑った。
父子の気持ちは一つになったかと思われた。
しかし、状況は好転しなかった。
その後も、明彦と春子は顔を合わせるたびに衝突を続けた。
彼らの争う声を聞くたびに、昴は胸が締めつけられる思いがした。
とうとう、次の観望会を迎える前に、出立の日がやってきた。
早朝の五時、昴はパジャマのまま階段の途中で、壁にもたれかかっていた。
その顔はひどく沈んでいた。
下の玄関で、尚も明彦と春子が何か話している。
昴は忍び足で降り、玄関の二人を盗み見た。
明彦は春子に背を向け、ボストンバッグを横に置き、座って靴を履いていた。その横顔は緊張に張りつめて険しかった。
春子の声には、抑えきれない怒りが滲んできた。
「明彦、どうしても行くのかい」
「……ああ」
明彦ははっきりと答えた。昴は唇をぎゅっと噛みしめた。
父は行く。行ってしまう。自分を置いて家を出て行ってしまう。
かつて、母がそうしたように――。
「ああって、あんたは父親の自覚はあるのかい。昴はどうするんだい。まだ九歳なんだよ」
「すまないとは思っているよ。けど、この仕事は転勤がつきものだし、昴には……母さんからよく言って聞かせてくれ」
「自分で言いな。お前の子だろうが」
声を荒げる春子に、明彦は振り返った。
「母さん、これはチャンスなんだ。ハワイのマウナケアに行けば、すばる望遠鏡から星を観測できる。新しいプロジェクトも始動している。第二の高精度の望遠鏡の建設が始まるんだ。まだまだ時間はかかるけどこれが完成すれば、すばるを越えた、けた違いの観測が可能になる。その一歩に俺は立ち会いたいんだよ。マウナケアでなら、新しい星を、更に遠くの銀河系を、第二の地球をも発見できるかもしれない。宇宙の謎の一端が解明できるかもしれない」
「そういって、いっつもあんたは星、星、星のことばかり。じゃあなんだい。私はお前の単身赴任のために、長野から呼ばれたわけかい」
「そうじゃないよ。そうじゃないけど……」
はあ、と春子は大きく息を吐き、声を落とした。息子との平行線な会話にほとほと疲れたようだった。
「……ねえ明彦、家族より大事なものって何さ。凡人の私には理解できないよ。麻理子さんだってそうだっただろうよ。何度も言わせないでおくれ。あんたは夢を追っているんじゃない。ただ、目先の面倒なことから逃げているだけさ。いつまで、どこまで逃げ続けるつもりなんだい。離婚の話はどうなるんだい。アメリカへ行ったって、時間を置いたって、麻理子さんは帰ってきやしないのに」
「……母さんには本当に悪いと思っている。昴にも寂しい思いをさせて。最低でも五年は帰ってこれないと思うけど」
五年と聞いて、昴はとうとう耐え切れなくなった。
冗談じゃないと思った。
階段を飛び下りて、明彦の背中に取り縋った。
「父さん!」
昴は叫んだ。心の限りに叫んだ。
「お願い。行かないで。アメリカになんて行かないでよ!」
明彦の目が大きく見開かれた。
「お前……起きてたのか」
「なんで? どうして。そんなに星の方が大事なの? 僕やおばあちゃんよりも大事なの?」
明彦は、決意が揺らぐのか、昴から顔を背けた。
「すまない。仕事なんだ」
「嫌だ!」
昴は思わず明彦の背中を強く叩いた。一つ、二つ、三つ。力の限りに叩いた。
叩きながら、涙が溢れてきた。今まで堪えてきたものが、我慢してきたものが一気に溢れてきた。感情の洪水だった。
「なんだよそれ。いつも仕事仕事って……。ひどいよ。星じゃなくて、僕たちを見てよ。僕を見てよ!」
「ごめんな。本当にごめんな」
「ごめんじゃないよ。ごめんじゃない! 嫌だ。嫌だよ。ひどいよ。そんなんだから……父さんがそんなんだから、お母さんも出て行ったんじゃないか」
「そうだよな。本当にごめんな昴……。許してくれ。三階の部屋はお前にやるから。パソコンもお前にやるから」
「いらないよ、そんなの。言ったじゃないか。どこにも行かないって。ずっと一緒にいるって。ほんとにほんとに絶対って言ったじゃないかよ。嘘つき! 大嘘つき!」
「ごめんな。父さんは父さん失格だ」
明彦も涙声になっていた。
それでもなんとか縋りついてくる昴の手を剥がすと、荷物を持って立ち上がった。飛行機の時間が迫っていた。息子にかかりきりになって、便を逃すわけにはいかなかった。
「落ち着いたら手紙を書くから。メールも出すから」
昴は泣きながら叫んだ。
「いいよ。いらないよそんなの!」
「またすぐに帰ってくるから」
「帰ってこなくていい! 馬鹿。父さんの馬鹿! 死んじゃえ。星を観すぎて首が折れちゃえ!」
ドアを開けかけた明彦が振り返った。昴が見たこともないような悲しい顔をしていた。しかし、そのまま何も言わず出て行った。
パタンと音をたて、扉は無情にも閉まった。
「昴……」
春子が、背後から昴の肩を抱いた。
「う、うっ……あうっ。ひどい……ひどいよ」
昴は毛織のマットの上に両手をついたまま、嗚咽を洩らし続けた。
拭っても拭っても、涙が止まらなかった。次から次へと怒涛に溢れてきて、マットへ幾つもの染みを作った。
父は行ってしまった。自分を置いて行ってしまった。
その冷厳な事実が、昴の小さなからだと心を打ちのめした。
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