Bygone days.2




 夜の十一時を越えようかという頃、明彦はやっと帰ってきた。

 四角い眼鏡のフレームが、街灯の白い光を反射した。

 眼鏡の奥の瞳は見えなかった。

 昴はコンビニの袋を下げた父の姿を認めると、ドアを弾くようにして通りに飛び出した。

 既にバスは終わっている。明彦のことだから、今日も職場から歩いて帰ってきたに違いない。バスがないならないでいい。タクシーを使うこともない。

 明彦に、息子のために急いで帰ろうという気はない。

 むしろ徒歩での帰宅も、晴れた日は星を観ながら帰れるので幸運くらいにしか思ってないだろう。小学生の子を持つ親としてどうかと思うが、別に意地が悪いわけではなかった。だからこそ厄介だった。

 昴を見た明彦は、軽く手を振った。

「おお、ただいま」

 ただいまではない。一体、今を何時だと思っているのか。

 昴はそう問い詰めたいのを堪え、父の元へ駆け寄った。

「父さん! もう、遅いよ」

「おお、ごめんごめん」

「何やってたの。八時には帰るって言ったじゃん」

 ついつい責める口調になってしまう。

 昴の不満を受けても、明彦の声はのんびりしていた。

「今日は観望会があったんだ。だけど、担当の学生さんがインフルエンザで倒れてしまってね。急遽ヘルプに入ったんだ」

「……観望会?」

「星が好きな人たちに、日にちを決めて天体望遠鏡を公開してるんだ。今日も熱心な人が多くて、ついつい話し込んでしまったなあ」

 嬉しそうに話す明彦に昴は黙りこんだ。

 自分は帰宅してから、何時間も退屈に溺れていたのに、父は天体ファンに囲まれて楽しい時間を過ごしていたようだ。それが羨ましくもあり、悔しくもある。

「お前もこんなところじゃなく、中で待ってりゃ良かったのに」

「だって……一人じゃつまんないし」

「……そうだな」

 明彦もやや声を落として、昴の不満に同意した。

 二人は連れだって家へ入った。

 

 

 日付も変わるかという頃、父子の遅い夕食が始まった。

 リビングのダイニングテーブルの上にコンビニの弁当が広げられる。

 レンジで温めた安い海苔弁当だった。不味くはないが、昴はこの味には飽きていた。もっと他のものを食べたいと思う。母の麻理子は食べ歩きが趣味で、週末ともなれば昴を連れてあちこちに出かけたし、忙しいなりに食事も工夫して作っていた。上手く出来ると必ず「美味しい?」と尋ねてきたので、昴はいつも反射的に「美味しい」と答えていた。当時は何も考えなかったが、失ってしまった今となっては、事実美味しかった。昴の味覚は鍛えられていたのだ。

 反対に、明彦は食事は腹が膨れればいいという考えらしく、食べるものに頓着しない。何度かメニューの変更をお願いしたけど、すぐに忘れてしまうようだった。昴も最近では、言っても無駄だと諦めていた。

 明彦が、コンビニの袋からお茶のペットボトルを取り出した。しげしげとラベルを眺めた。

「……これ、鍋であっためるか。レンジだと爆発するよな」

「なんで?」

 唐突に始まった独り言に、昴は食べる手を止めた。

 会話に飢えていた。なんでもいいから、どんなことでもいいから、誰かと話したかった。

「外は寒いからな。あったかいお茶があった方がいいだろ」

 昴の疑問に、明彦はあっけらかんと答えた。昴はわけがわからない。

 明彦の中で、今夜自分が成すべきことは完璧に組み上がっている。

 だが、それを他人に一言二言伝える手間を省いてしまうのだ。決して悪気はない。ふざけているわけでもない。本人は至って真面目だ。昴もそれはわかっているのだが、父の意図を知るには毎回時間がかかる。

「外って……今からどこか行くの?」

 昴は探るように言った。やっと帰って来たのに、また自分を置いて出かける気なのだろうか。そう思うとげんなりする。

「いや。どこにも行かない。でも今夜は屋上から天体ショーが観れるだろ」

 観れるだろと言い切られても、戸惑ってしまう。

 明彦の中では常識なのだろうが、昴にとっては初耳だ。

「天体ショー?」

「流星群が来るんだよ」

「流星群?」

「流れ星だよ、流れ星。星が降ってくるんだ。それも父さんが一番好きな星からだ。絶対に見逃せないぞ」

 と言われても、やっぱり昴にはよくわからない。

 「よーし、準備するか」

 息子の疑問を解消することもなく、明彦は弁当を放り出して、立ち上がった。

 お茶を温めるためか、ペットボトルを持ったままキッチンへ入っていく。

「待ってよ!」

 昴は慌てて明彦を追いかけた。特に誘われてはいない。が、天体ショーとやらを観るなとも言われていない。

 だったら、もう少し誰かと一緒にいて、とりとめのないことを話していたい。

 

 

 家の三階は、明彦の書斎と十畳ほどの広いテラスがあった。

 テラスには書斎を通らないと出られないし、滅多に使われない。昴も三階には用がないので、あまり行かなかった。そこが今夜の舞台になるという。

 書斎にはパソコンが置かれた大きなデスクと天井に届く本棚が幾つもあり、大量の本や雑誌が詰め込まれていた。本は宇宙関係のものが殆どで洋書もある。

 昴は部屋を突っ切りながら、見るからに難しそうなそれらをちらりと見た。自分には甚だ縁のないものに思える。

 手にはキッチンの戸棚を漁って見つけた菓子と、学童でもらったミカンを持っていた。ダウンコートにマフラーに帽子に手袋と、防寒の身支度も済ませた。

 書斎からテラスへ、長い電気コードが伸びている。

 テラスの中央には古い毛布が敷かれ、その上に即席の炬燵が設置されていた。

 明彦が天体観測のために、急遽物置から引っ張り出したのである。

 炬燵の上には、懐中電灯、温かいお茶を詰めた水筒と、口径二十五センチのドブソニアン型天体望遠鏡が置かれていた。

 ドブソニアンは経緯台式架台を持つニュートン式望遠鏡の一種で、主にアマチュア天文家の間で愛用されている。大口径が特徴で、都市部から離れた暗い土地からであれば星雲、星団、銀河の細部まで鮮明に観ることができる。

 ドブソニアンは、明彦の私物だった。昴が生まれる前の学生の頃に苦労して買ったものだった。久々に取り出して、これで星を観るつもりらしい。とても大事にしていて、昴はこれまで一度も触らせてもらえなかった。

 明彦も既に厚着をして、炬燵に入っていた。

 昴がなけなしの菓子を炬燵に置くと、望遠鏡を覗き込みながら、「電気を消してくれ」と言った。昴は戻って書斎の電気を消した。

 手探りでテラスへ出ると、真っ暗だと思っていた世界は案外明るかった。

 昴が暮らす地域は都内でも自然の豊かなところだが、それでも街灯や家屋の明かりが、星の光を打ち消してしまう。

 炬燵に入ってじっとしているとじきに目も慣れてきた。足先もぬくまってきて、眠気も出てくる。けれど二階の自室へ行って寝るのは嫌だった。

 今更ながら、昴は明彦に尋ねた。

「僕も流星群を観ていい?」

「ああ」

 返事は簡潔明瞭だった。

 もし、麻理子だったら「明日も学校だし、もう寝なさい」と言っただろう。

 「こんな寒い夜に外に出たら風邪を引く」とも言っただろう。

 しかし、明彦はそういうことは一切言わなかった。

 子供が夜更かしして、流星群を見てもいいらしい。

 昴は空を見上げた。

 雲はないようで、満天とはいかないまでも白々と薄らいだ星々が見えた。

 釣られたように、明彦も望遠鏡から顔を離して見上げた。

 二人の間に沈黙が降りた。

 しかし、いくら待てども何も起きない。

 星はただ、真っ黒な空に無数に浮かんでいるだけである。

 何千年も何万年もそうであったように、微々たる変化もない。

 見上げて三分ほど経つと、首が痛くなってきた。

 炬燵のおかげで身体は寒くないが、昴は焦れたように言った。

「お父さん。まだ?」

「うーん、そろそろのはずなんだが」

 明彦の声は落ち着いていた。仕事柄、待つことには慣れきっている。

「もう眠たいよ……」

「寝てもいいぞ」

「……やだ」

 大きく欠伸しながら、昴は拗ねたように首を振った。

 肩にもたれかかるようにして、前に置いてある望遠鏡を覗き込んでみた。

 青白い点が映っていた。それだけだった。つまらない。

「流れ星さん見えないよ……」

「まあ、そう焦るなって。根気のない男は女の子に嫌われるぞ」

 明彦が笑いながら言ったが、妻に逃げられた男が言ってもあまり説得力がない。

「いいよ、別に嫌われたって。……ねえ、この望遠鏡さ、僕にちょうだい」

 本気で望遠鏡が欲しいと思ったわけではない。

 ただ、子供らしく甘えてみたかった。かつて母親には遠慮なくしていたことを、今度は明彦に求めた。親の愛情を試したといってもいい。

 ぺたぺたとドブソニアンに触ると、明彦はそっと手先で望遠鏡を押して遠ざけた。息子であっても、あまり触って欲しくないようだ。

「駄目だ、これは父さんのだ」

「けち! 流星群が見えないじゃん」

「流星群は望遠鏡じゃなく、肉眼で見た方がいい」

「なんで?」

「その方が綺麗だから」

 昴はぷうと頬を膨らませた。

 望遠鏡を触らせてもらえないが不満だった。アマチュア向けの製品であっても、天体望遠鏡が高価であることは知る由もない。

「これはお前がもっと大きくなったらな。……ん?」

 そこで明彦はパッと目を輝かせ、東の空を指差した。

「おい、あれを見てみろ」

「え、何?」

 昴は慌てて明彦が指差した方を見た。だが、意図した方とずれていたらしい。

 特別なことは何も見えなかった。

「何もないじゃん……」

 ぼやくと一分ほど経ってから、明彦がまた言った。

「ほら、あそこだよ」

「えっ、えっ」

「よおし、横になれ!」

 明彦の掛け声に、昴はぺたんと寝た。二人並んでバタンと横になる。

 言われるまま東の空を見つめていると、視界を右から左へ、何か細いものが横ぎった。

 一瞬の光、だが点ではなく線である。

 しかもはっきり目に見えて動いたのだ。

 何も変化もないと思われた空に、確かに躍動するものがある。

 昴は思わず叫んでしまった。

「あっ! もしかしてあれ?」

「そうだ」

「すごい……」

「これからいっぱい来るぞ」

「ほんと?」

「ほんとほんと」

 明彦の声も子供のようにはしゃいでいた。

 昴も、父のこんな嬉しそうな声は初めて聞いた。

 

  

 ――一時間後。

 昴は疲れてぐったりと横になっていた。

 あれから流星は幾度か見れたものの、そう多くはなかった。

 本当はもっと多いらしいが、肉眼で見れたのはせいぜい二十から三十である。

 どうやら流れ落ちる花火のように、一斉に降ってくるものではないらしい。

 けれど、昴は素直に感動していた。

 それは一瞬の光ゆえに鮮烈に瞼に焼きついた。ひたすらに美しくて、儚かった。

「父さん……」

 昴が呼びかけると、暫くして暗闇から返事が返ってきた。明彦は起き上がって熱心に望遠鏡を覗き込んでいる。

「なんだ?」

「流れ星ってさ、お空が泣いてるみたいだね」

「……そうか?」

 思いきり疑問形で返されたのに、昴は少し口を尖らせた。

「だってさ、涙みたいに落ちてくよ」

「はは、お前もロマンチストだなあ……。あれは母天体から放出される流星物質が、地球にぶつかってそう見えるだけだ」

「流星物質?」

 そこで明彦も、息子の感動を壊してはいけないと思ったらしい。

「ん、まあ、そうだなあ……。もしかしたら、お前の言うとおりかもしれんな」

 昴はむくりと起き上がった。

 冷えきったコンクリートに横になっていたせいで、背中が痛い。

「やっぱり泣いてるの?」

「うーん、星も生きているからな」

「生きてるの? 星が?」

 星が生き物であるとは意外だった。

 あんな漠然とした、地上から見れば輝く点でしかないものが生きているとは。

「寿命は全然違うけどな。広大な宇宙に生まれて、めいっぱい輝いて、やがて爆発して死を迎える。人と同じで、悲しいことがあれば泣くのかもなあ」

「じゃあ今夜は……大泣きしてるんだね。その涙が流れ星になるんだ」

「ああ……」

 昴は再び空を見て、それから明彦を見た。

 明彦は、望遠鏡を通して星を観ている。

 素朴な疑問が口をついた。

「父さんは、なんでそんなに星が好きなの?」

「……うーん、なんでだろうなあ。星には人の起源があるからかな」

「どういうこと?」

「そもそも、人間は星なんだよ。人類の最も根本にあるものが星なんだ」

「え?」

 一体、明彦は何を言いだしたのだろう。わけがわからない。

「星? 僕や父さんが? なんで?」

「人の中身は、肉とか骨とか内臓でできているだろ。それを突き詰めていくと、元素になる。小さな小さな物質だけど、大抵は目に見える。元素は全ての源なんだ。一三七億年前に宇宙が誕生した際、まず水素ができた。人はこの水素をはじめ、炭素、窒素、酸素、カルシウム、リン、鉄などでできている。これらの物質は、全部星の内部で作られた。人と星は全く同じものでできているんだよ。むしろ、それ以外の構成をしたものには、何億年かかっても進化できないだろう」

「……そんな。だって全然違うよ?」

「そう、違う。でも人は星なんだ。『星の子』と言った方がいいのかな」

「星の子……」

「星には、我々人類の謎を解く鍵が隠されている。父さんは星を観ることで、人の起源や宇宙の謎を解きたい。といっても、まだまだわからないことだらけでね。謎を解くための謎も掴めない状態だ。でも科学は日々確実に進歩し、前進している。それを信じて星を観ている」

 昴は、明彦の熱弁に呆気に取られた。

 この空に輝く星々が自分たちと同じであると言われても、にわかには信じがたい。明彦の熱意は確かに素晴らしく、観測が仕事であるからには真摯に取り組まなくてはならないだろう。

 けれども、それは昴にとって寂しいことに感じられた。

 父の星に対する熱意は、結果として現実の家庭を疎かにした。

 今は二人で空を観ている。三人ではなく、二人で。

「だから毎日観てるの? 家に帰ってまでも? 三鷹の天文台でも毎日観てるんでしょ?」

 無意識のうちに、どこか責める口調になっていた。

 明彦は昴の想いに気づくことなく、どこまでも呑気にいった。

「ん~毎日ではないな。他にも先生は沢山いるし、望遠鏡も予約でいっぱいだし。あらかじめ決められた観測日でない限りは無理だ」

「今夜は天文台でも、流星群を観測してるの?」

「それが仕事だからな。父さんの専門分野だし、お前がいなけりゃ今夜も残ったんだけどなあ……」

 明彦は職場に残って観測できなかったのが残念なのか、ふうと溜息をついた。

 それを聞いた瞬間、昴は心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような気がした。

 それから、ふつふつと悲しみがこみ上げてきた。

 『お前がいなけりゃ』と、明彦は確かにそう言った。

 悪気はないが、あまりに自分の夢に正直に過ぎる発言だった。

 正直であることが、時に人を傷つけることに彼は気づかない。

 明彦は以前、望遠鏡を通して、星を観ている。星だけを観ている。

 現実の、同じく星の名を持つ息子のことは見ていなかった。

 それもまた、確かに生きていて、幼いながらに思考を続けているのに。

 昴は、闇の中、恐る恐るその名を呼んだ。

「……父さん?」

 今度は返事がなかった。

明彦は、昴の呼びかけに気づかなかった。

 観測に集中するあまり、意識が空の彼方に飛んでしまっている。

 その注意力も忍耐も、体力も全てはるかな宇宙に奉げてしまっている。

 星に夢中な父の横顔を、昴は黙って見つめた。

 ひたすらに寂しかった。

 誰かの近くにいても、それが父であっても、寂しいものは寂しいのだった。

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