最終話
その日の夕食は、一口も食べられなかった。
もう何も出てこないのに胃が捩れ、夜中まで何度もトイレに駆け込んでは激しく
眠気も訪れない自室の暗闇の中で、優希は茫然と机に座っていた。
僕は、独りだ。
どれだけ歯を食いしばって耐え、努力を重ねても、抱きしめてくれる人は誰もいない。
これから先も、自分はあの白と黒の鎖に——母に、縛られ続ける。
がんじがらめの地獄から救い出してくれる人は、誰もいない。
ふと思いつき、机のライトを灯すと、引き出しの鍵を開けてノートとペンを取り出した。
苦しさに耐えきれなくなる度に、いつもしてきたこと。
『Dear Frederic』
少し迷ってから、拙いアルファベットを並べた。初めて、誰かの宛名を書いた。書き出しだけでも英語にすれば、ひょっとすると彼に届くかもしれない。
これまでは、ただ自分の中に澱み腐っていくものを吐き出したくて、独りきりで言葉を書き殴ってきた。気づけばノートはもう二冊目だ。鍵の付いた引き出しの中で、誰にも読まれない苦悶の言葉は積み重なった。
けれど、宛名を書いたところで、今はもう何の言葉も浮かばない。
「優希」
囁くようなその声に、優希ははっと顔を上げた。
仄明るい机の傍らで、彼が静かに優希を見つめて微笑んでいた。
「今日の君の演奏は、素晴らしかった。
予選を通過したのは、君の音の力が聴衆に届いたからだよ」
優しく肩に触れるフレデリックの手をギリギリと握り締め、優希は堰を切ったように涙を溢した。
「——そんなの、どうでもいいんだ。
僕は、ピアニストになりたいなんて一言も言ったことはない。これっぽっちも望んでなんかいない。
ただ、音楽が好きなだけなんだ。
でも、僕にはピアノを続ける道しかない。そうしなければ、僕は生きられない。ピアノをやめたら、母さんは僕を捨てる。
助けて、フレデリック。——僕は、どうしたらいい?」
しばらく黙ったまま優希を見つめていたフレデリックは、静かに窓辺に寄ると、厚い遮光カーテンをすいと開けた。
もう、夜明けが近いのだ。窓の外は、薄明るく白みかけている。
「気持ちいい朝になりそうだ。外の空気を吸わないか、優希」
フレデリックは、柔らかな笑みで優希を誘った。
涙を拭い、優希はベランダへ出るサッシを開ける。ふわりと秋の爽やかな朝風が薄暗い部屋へ流れ込んだ。
ベランダの手すりに手をかけ、二人並んで立つ。眼下の街はまだ夜の重い暗さの中に沈んでいる。それらを視界から排除するように、優希は空を仰いで澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「見て、優希。太陽が昇るよ」
建物の間から僅かに頭を出した太陽が、周囲の空を濃い朱色に染め始めた。
夜の余韻の残る空は、不思議な濃紺から淡い灰青色のグラデーションに染まっている。
「この、空の色」
静かに空を見つめていた優希が、小さく呟いた。
「朱色と紺色の間の、淡い青色が……灰色がかった空色が、あなたの瞳の色と同じだ」
「僕の瞳の色?」
「うん。
僕も、この色に染まれたらいいのに」
耳元を流れる風のように、フレデリックが囁いた。
「——僕と一緒に行くか」
「どこへ?」
「僕たちの身体が、隅々まであの空の色に染まる場所」
「——……」
しばらく黙り込み、風に髪をそよがせていた優希は、フレデリックの瞳を真っ直ぐに見て頷いた。
「うん」
「ここには、もう戻ってこられない」
「居場所なんて、僕にはもうとっくにないよ」
優希は、初めて見るような柔らかな笑みをこぼした。
フレデリックは、ふわりと体を浮かせてベランダの手すりの上に立った。
朝日に輝く金髪は、まるで誇らしげな英雄のようだ。
「僕の手を、ぎゅっと握って。離さないで」
言われるまま、優希は彼の手を力一杯握った。
離すものか。
絶対に、離さない。
幼い頃から今日まで、誰よりも僕を愛してくれた、この人の手を。
「——飛ぶよ」
穏やかなその声と同時に、優希はベランダの手すりを思い切り蹴った。
世界が、瞼の中でキラキラと回る。
今までの中のいつよりも眩しく、軽やかな瞬間だった。
何かの旋律が遠くに聞こえる気がして、美那子は微かに瞼を開けた。
——『雨だれ』?
優希が弾いているのだろうか。けれど一方で、息子はこういう弾き方はしないとも思う。
深い悲しみに包まれていた旋律は、やがて闇が去っていくように凪ぎ、明るんでいく。
自分がどれだけ追い求めても、聴く事のできなかった音。そしてこれからも、決して手の届かない音——。
まだ曖昧な意識を揺蕩いながら、なぜか、それだけは分かった。
音が止み、はっきりと目覚めた美那子は静かに身を起こした。
「優希?」
防音室に向かい、扉を開けるが、息子の姿はない。
そういえば、あの子は昨夜夕食を全く食べていなかった。何度もトイレに駆け込み、体調が酷く悪そうだった。
本選を目前にして厄介な体調不良など、あってはならない。美那子は優希の部屋へ向かった。
ドアを開けると、ふわりと秋風が肌を撫でた。ここにも優希の姿はない。
机の上に、開きっぱなしのノートが載っている。いつもは鍵のかかった引き出しも、開いたままだ。
「Dear Frederic……?」
何気なくノートを手に取り、捲っていくうちに、美那子の表情が次第に青ざめていく。
「————優希。
優希! どこ!?」
美那子は狼狽えながら部屋を見回した。
再び風が流れ込み、カーテンが大きく捲れた。ようやくベランダへのサッシが開いていることに気づく。
顔を引き攣らせ、ベランダへ駆け出た。
優希のお気に入りだったブルーのスリッパが、手すりの下に脱ぎ捨ててあった。
女の絶叫が、夜明けの空に響いた。
Dear Frederic aoiaoi @aoiaoi
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