第3話
「……顔色が悪いよ、優希」
「あ、えっと……練習の時のこと思い出したら、気分悪くなっちゃって……」
フレデリックは、優希の座る椅子の前に膝をつくと、優希の手を握って瞳を強く見つめた。
「——僕の言葉を信じて。
誰がなんと言おうと、君の演奏は素晴らしい。自由になった君の音こそが、本物だ。これだけは、どんな時も覚えておいて」
新たに湧き上がりそうな涙を必死に堪えながら、優希は深く頷いた。
すいと立ち上がり、フレデリックは柔らかに微笑んだ。
「じゃあ、今度は僕の番だ。
君もよく知っている曲。聴いてくれる?」
椅子を離れた優希に代わり、フレデリックがピアノの前に座る。
背筋をすっと伸ばし、深い息をひとつついてから、彼は静かに鍵盤に指を置いた。
澄み切った音が、薄暗い部屋に響いた。——『雨だれ』だ。
仄明るい曇り空から、静かな雨が降る。穏やかに、軽やかな音を立てていたはずのその雫は、やがて来るどす黒い雲と強い雨音に呑み込まれていく。
ひたすらに地面を叩き、窓を激しく打つ雨。襲い来る孤独。
強烈な苦痛に耳を覆いたくなる頃、雨足はようやく遠ざかり始めた。
やがて空は次第に明るみ、闇は去り——雨だれの音は、いつしか耳を離れていく。
目覚めると、朝だった。
使い慣れたベッドで目覚める、いつも通りの朝。
優希は、モゾモゾと掛け布団から自分の両手を抜き出し、顔の上にかざした。
昨夜経験したものは——疲れた脳が見せた、ただの夢なのかもしれない。
けれど、彼の奏でた『雨だれ』の旋律は、一音も残さず耳に残っている。
——誰がなんと言おうと、君の演奏は素晴らしい。
彼が残していった言葉が、繰り返し優希の脳に反響していた。
*
コンクール予選当日。華やかな照明の落ちる舞台で、演奏を終えた少女がピアノの椅子を立ち、深く一礼した。会場は大きな拍手に包まれる。
「エントリーNo.15。梶山 優希くん」
少女の姿が舞台から消え、自分の名を読み上げる司会者のアナウンスが響いた。優希はふうっと肺一杯に息を吸い込み、舞台へ足を踏み出した。
今日の優希の頭の中には、彼しかいなかった。彼の言葉以外に思い出すものは何もない。
観客へ向けて一礼し、ピアノの椅子に座る。
彼がしたようにすっと姿勢を伸ばし、深く息をひとつついてから、鍵盤に静かに指を置いた。
『聴いてて。フレデリック』
一言、胸でそう呟いてから、最初の一音を響かせた。
驚くほど高らかに澄んだ波が、会場の空間に放たれた。
母に叩き込まれた強弱や技術、表現法。まるで優れたロボットのように、優希はその演奏を再現していく。
やがて演奏は『英雄ポロネーズ』最大の難所へと差し掛かった。勇者が草原を疾走していくかのような、左手が一オクターブ離れた鍵盤を高速で鳴らし続ける、あの場面だ。ここは余分な強弱や緩急をつけるなと、母から散々注意を受けていた。
この難所へ突入した瞬間、優希はその教えを完全に放棄した。
フレデリックの前で弾いたような、抑え難い高揚が胸に戻ってくる。障害をものともせず真っ直ぐに突き進んでいく勇者の姿を、優希は我を忘れて鍵盤上に描き出した。
そこから後は、演奏をもう元のロボットモードへ戻すことはできなかった。本当は、最難関のあの一部だけを自由に演奏するつもりだった。だが、せっかく生まれた勇者を自分の手で殺してしまうことはどうしてもできなかった。気づけば、あの夜と同じ高揚感に包まれたまま、最後の一音を駆け抜けていた。
鍵盤から指を下ろし、優希は夢から覚めたように椅子を立った。
思考がうまくまとまらないまま、観客席へ深く一礼した。
どっと、割れるような拍手に包まれた。
ふわふわとまだ現実感のない足取りで、母の待つ席へと戻る。
母は、引き攣ったような表情で優希を一瞥しただけだった。
結果発表は、その日の夜にweb上で発表された。発表画面を、母と一緒に祈るような気持ちでスクロールする。
予選通過者の氏名の中に、優希の名があった。
「あった……やった!! 通過したよ、母さん!!」
「優希」
思わず声を上げた優希を遮り、母は奥歯をギリギリと鳴らすように低く呟いた。
「あんな演奏、本選ではさせないわよ。絶対に」
凄まじいほどに険しい目が、優希をきつく捉えた。
「今回は、運が良かっただけ。ジュニア部門の審査は譜面通りの正確さを最優先に採点するんだと、あれほど言い聞かせてきたのに……あんな出鱈目な演奏で、落とされなかったのが不思議なくらいだわ。
——もし本選であんなことしたら、絶対に許さない」
予選通過の喜びは、一瞬で彼方へ消え去った。
母さんは、僕の音を聴いてはいない。
母さんの目には、僕は映っていない。
母さんには、僕の声は届かない。
果てしない闇だけが、優希の胸に残った。
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