第2話

「ど、どうして……あなたが、ここに?」

 あわあわと身を起こしながら、優希はフレデリックに尋ねた。

「うーん、どうしてかな。ここ最近、誰かに呼ばれている気がしてたんだ。声のする方へ降りてきたら、君がベッドで酷くうなされていた」

「え、僕、うなされてた……んですか?」

「敬語じゃなくていい。昔からの友達って、さっき言ったろ?」

 まるで兄のように優しく笑いかけるフレデリックに釣られ、優希もドギマギと微笑みを返した。

「はい……じゃなくって、うん……時々、こうやってびっしょり汗をかいて目が覚めるんだ。怖い夢を見たような感じがするのに、何を見たか思い出せなくて……

 あれ? さっきの汗が、もうすっかり乾いてる……?」

「そうか、それはよかった。

 ねえ、君のピアノ、弾いてみて」

 フレデリックは、優希の手を取ってそう誘いかける。

「——い、嫌だ」

 優希は怯えたように激しく首を横に振る。

「あなたには、絶対に聴かせられない。あんなみっともない演奏なんて」

「ははは!」

 優希の呟きに、フレデリックは楽しそうに笑った。

「音楽を愛する人が奏でる音に、上手いも下手もないよ。

 音楽を愛してる、それだけで、その音は美しい」

 フレデリックの言葉が、すうっと優希の胸に染み込んでいく。

 幼い頃に毎日噛み締めた、音が胸に染み込む喜び。

 その熱が再び胸に灯ったようで、気づけば優希はベッドから降りてスリッパに勢いよく足を突っ込んでいた。



 フレデリックの前に立ち、静かに部屋を出て暗い廊下を歩く。

 防音室の厚いドアを開け、彼を中へ導いた。

「随分大きいんだね、君のピアノは。僕の弾いていた時代のピアノとはだいぶ違う」

 フレデリックが華奢な身体を屈め、興味深そうにグランドピアノを観察する。

 優希は座り慣れた椅子に腰掛け、膝に置いた手を見つめながら呟いた。

「来月、大きなコンクールの予選があるんだ。そのための練習が、毎日厳しくて……その苦しさで、僕は自分でも気付かないうちに、あなたを呼んでしまっていたのかもしれない。今練習しているのは、あなたの曲だから」

「——それほど追い詰められるまで、練習を?」

 黙ったまま俯く優希に、フレデリックは優しく語りかけた。

「じゃあ今夜は、今までの苦しさは全部忘れて。君の好きなように、好きな曲を弾いてよ」

「え……」

 その言葉に、優希は徐に顔を上げた。

「僕の自由に? 本当にいいの? 

 ……あなたは、怒らない?」

「ははは! 気持ちの赴くまま弾くことが、なぜいけないんだ? ぜひ聴きたいな、君の演奏」

 フレデリックの言葉に、優希は瞳を輝かせた。逸る思いを抑えきれないように、両手を鍵盤に置いた。

 その指先から、歯切れの良い一音が高らかに響く。

 コンクールでの演奏曲『英雄ポロネーズ』だ。

 作曲者本人の前で弾くなど、本当なら怖くてできないはずなのに、自由に弾ける喜びが優希の胸で抑えようもなく溢れた。


 目の前で、凛々しい騎士が白い馬に跨り、燦々と陽射しを浴びながら誇らしげに空を仰ぐ。

 彼は危険を顧みることなく馬を駆り、髪を靡かせ逞しい肩を揺らしながら草原を疾走していく。

 いくつもの苦悩を越え、苦難を制し、やがて勝利を収め帰還した勇姿は、歓喜する群衆に取り巻かれた。

 英雄となった男の眩しい眼差しと笑みが、高い馬上から降ってくる——。

 その華々しい誇らしさが自身に乗り移ったかのように、優希はその一曲を駆け抜けた。

 自分の指が最後の和音を響かせた瞬間、はっと我に返った。


「見事だ。優希」

 ピアノの傍に佇んでいたフレデリックが、惜しみない拍手を送っている。

 優希の瞳から、訳のわからない涙が零れ落ちた。

 涙を慌ててぐいぐいと手で擦りながら、思わず言葉が漏れる。

「こうやって自由に弾くと、いつもすごく叱られるんだ。楽譜と全然違う、って」

「——なんだって?」

 フレデリックの青白い眉間が、ぎゅっと不機嫌に歪んだ。

「なぜ? 

 どうして、楽譜通りでなきゃ叱られるんだ? 一体誰が、そんなことを強要するんだ?

 自分の曲を譜面通りに弾いてほしいなんて、僕は微塵も望んでいない! 音を自由に楽しむことが許されないなんて……」

 微かに震えるフレデリックの声に、優希は力なく俯く。

 いつもの母とのレッスンが思い出され、再び胸から喉へと強い吐き気が込み上げた。




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