Dear Frederic
aoiaoi
第1話
目の前の鍵盤が、無限に絡み付く白と黒の鎖に見えて、吐き気を催した。
指が動かない。動いてくれない。
音楽って、何だっけ——?
優希は、物心ついた頃から音楽が大好きだった。いや、物心のつく前から、と言った方が正しいかもしれない。
母がCDプレーヤーで常に聴いていたショパンの曲に、優希は夢中になった。作曲家の喜びや悲しみ、怒り。木々の緑の煌めきや、海の波立ち、風の音、雨音——。まるで作曲家本人が瑞々しい風景の中で微笑み、囁き、絶叫し、咽び泣いているかのようだ。音が繰り広げる鮮やかな情景に、幼い彼の心は激しく揺さぶられた。優希は音に包まれて思い切り羽ばたいた。
三歳を過ぎた頃、クリスマスプレゼントのおもちゃのピアノで夢中になって遊ぶ優希の姿を見て、母親は防音設備つきのマンションへの引っ越しを提案した。夫を説得した末、約一年後に新居への転居を実現した母は、優希に即座にグランドピアノを買い与えた。
母は、高校の音楽教師だ。教育熱心な家庭に生まれた彼女は幼い頃からピアノのレッスンに明け暮れ、やがてその才能を開花させた。国内のコンクールをいくつも制し、有名音大に進み、ピアニストへの道を登りかけていた。しかし、大学二年の秋に交通事故で左手を負傷し、元のように卓越した演奏は不可能になった。
三歳で初めて触れ、たちまち優希を魅了したピアノ。
それから十年経った今、目の前の楽器は、自分の全てを喰らう真っ黒な怪物にしか見えない。
「今の部分、もう一度弾きなさい。——もたもたしないで!」
母の鋭い声が、再び激しく耳に刺さる。
「コンクール予選は来月に迫ってるのよ。それまでに完璧に仕上げなければ勝てないって、何度言えばわかるの? もう時間がないの!」
優希は吐き気を必死に飲み込み、両手を再び鍵盤に乗せる。
『英雄ポロネーズ』。フレデリック・ショパン作曲の、コンクール課題曲だ。
「ほら、また音が抜けた!! やり直し!」
必死になればなるほど指が縺れ、母の叱責が一層強まる。
噛み締めた唇から、微かに血の味がした。
土日は一日中練習だ。時間にすれば10時間以上だろうか。ようやく防音室から解放された優希は、ぐったりと夕食のテーブルについた。食欲は全くない。
いつも先にダイニングテーブルにいるはずの母はおらず、リビングの奥から母の小さな話し声がする。誰かと電話だろうか。
話を終え、憂鬱な顔でテーブルの椅子を引く母に、何となく尋ねた。
「電話、誰?」
「父さんよ。もうこの家には帰ってこないんだって」
明日の天気の話でもするかのように返されたその言葉に、優希は思わず表情を強張らせた。
「……ど、どういうこと?」
「そういうことよ」
サラダを雑に皿に取りながら、母はフンと鼻で息を漏らす。
「どっちにしろ帰宅も毎日深夜で、家にまともにいなかったんだから。大して変わらないわ」
手にしていたフォークをテーブルに置き、母は険しい目を奇妙に輝かせて優希を見た。
「そんなことは、どうでもいいわね。
あなたと母さんの夢が叶えば、全てが報われるんだもの。……あなたなら絶対に勝ち抜けるわ。母さん、信じてる。
あ、父さんね、頑張れってあなたに伝えてくれって」
「…………」
優希は、ぼんやりと宙を見つめた。
——父さんは、捨てたんだ。僕たちを。
九月も下旬なのに、異常な暑さが続いている。タイマーでかけておいた冷房が切れたせいか、優希は寝苦しさにふと目覚めた。気づけば、寝汗でパジャマがぐっしょりと濡れている。その不快感に、優希はふうっと細い溜息を漏らした。
「——大丈夫?」
え?
密やかな呼びかけに、優希の意識ははっと覚醒した。
薄闇の中、ベッドに横たわる自分を、誰かが覗き込んでいる。
灰色味を帯びた、淡く青い瞳。ほっそりと青白い輪郭に、栗色がかった金髪がさらりと乱れかかる。
「——だ、誰……」
恐怖に声を上擦らせた優希に、滑らかな低音が答えた。
「君の友達。もうずっと、昔からね」
自分を見つめるその瞳が、ふっと柔らかに細められた。
「ともだち……?」
「そう。君は、小さな頃から僕の曲を楽しそうに弾いてくれていただろ?」
「あ、あなたの、曲?」
優希は、目の前の青年を改めてじっと見つめた。
信じられないことだけど——
間違いない。この人は。
「フレデリックって呼んで。優希」
彼は囁くようにそう言うと、淡く微笑んだ。
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