13 千里と私

 突然敬語をやめて話しかけて来た千里に、私はやっぱり頼み事なんて口実だったんだ、と思った。けれどそれは口に出さず、「分かった」とだけ答えた。

 秋津が千里をどう思っているのか十分に聞けない以上、二人の関係を探るには千里に聞く方が早いと思ったからだ。どこか挑戦的な千里の態度に、気後れしないと言えば噓になるけれど、何も分からないままもやもやを抱え続けるよりはいい。

 私が看板描きで帰宅が遅くなると告げると、千里はそれまで校門で待つと言った。秋津には看板描きが始まる前に「今日は友達と帰るから、先に帰ってて」と連絡だけして、作業が終わったら真っすぐに校門へ向かった。


 千里は約束通り校門前の植え込みに座って待っていた。一体いつから待っていたのか、秋津と同じように手には文庫本を持って、熱心に読んでいるところだった。

「ごめんなさい、待たせてしまって」

 声を掛けると、千里はすぐに本をしまって「いいよ、ちょうど読みたいとこまで読めたし」と言って笑った。それから立ち上がって、私が普段帰る道とは反対方向を指さした。

「ちょっとこっちに向かったところに、いいお店あるの。そこでいい?」

「うん、いいよ」

 頷くと、千里は「よかった」と言って自転車をこぎだした。

 しかし千里の「ちょっと」はかなり遠かった。無言で自転車をこぐ千里についていくこと二十分、住宅街を一つ通り抜け、街中へ出て少し走ったところで、やっと目的の店に着いた。小さなバーを兼ねたカフェと思しき店だった。辛うじてまだバーの時間にはなっていないらしく、店の中は人気がない。慣れた様子でカフェオレを二つ注文すると、千里は私の顔を見た。

「さてと、色々聞きたいことがあるって顔だけど、まずは私から喋らせてくれる?」

「あ、うん」

 私は条件反射で頷いてしまった。初めて来た店で、なんだか落ち着かない気分だったのもあるし、そもそも家からだいぶ離れた場所に来ていることが気がかりだったのもある。けれど、こんなつもりじゃなかったとは言い出せなかった。私は千里の話を聞きたくてここまで来たのだ。何も聞かずには帰れない。


 そんな私の内心を知ってか知らずか、千里はゆったりとカフェオレを一口飲むと、口を開いた。

「あのね、これは知ってると思うんだけど、私は秋津くんが好きなの」

「……うん」

 いきなりの一言に、やっぱり千里は先週末の事を気にしていたんだ、と思った。思わず身構える私とは反対に、ゆったりと椅子にもたれた千里は、私ではなくグラスに添えた自分の手に視線を落とした。

「相澤さんは部活での秋津くんを知らないと思うけど、彼は本当に本が好きなのよ。他の人たちとは明らかに違う目をして本を読むし、みんなが書いたものも一人一人に感想をくれるの」

「そう……なんだ」

「そうよ。毎回毎回、丁寧にね。私も小さい頃から本はたくさん読んできたけど、はっきり言ってね、誉められるから読んでたところあったの」

「えっ? 本が好きなわけじゃなかったの?」

 意外な一言に、私は口をつけかけたグラスを下ろしてしまった。

 千里が文芸部の期待の新人と呼ばれていた理由は、なにも面白い小説を書くから、というだけではない。とにかく読書量が半端なく、何の本の話をしても「読んだことあるよ」と返事が来るので有名だからだ。


「うん、好きじゃなかった。むしろちょっと苦痛だと思ってた。好きだけでたくさん本を読める人がいるなんて、秋津くんに会うまでは思ってもみなかったの」

「いや、でも、秋津だって今は分からないけど」

「そう、単純に本が好きってわけじゃなかった、って秋津くんから聞いた」

 そう言うと、千里はすっと目を細めた。

「だけど、今は違うみたいなのよ。秋津くん、今は読みたくて仕方ないから読んでるんだって。それを聞いたとき、すごく羨ましくなった。それで秋津くんの真似をして、読書日記をつけたり、感想を書いたりするようになったの」

「……それで、本を読むのが楽しくなった?」

「楽しいかどうかはまだよく分からない。けど、そうしてるうちに秋津くんと話をするのが楽しくなったの。同じ本を読んで、その感想を言い合えるのって、すごく楽しいんだって気が付いたの」

「そうなんだ……」

 私はさっぱり本を読まないけれど、千里の気持ちはわかる気がした。その気持ちは、例えるなら鹿角先輩と一緒に絵を描いているときの私の気持ちと近いのかも知れない。他の人とは容易に共有できない、じっと体をコントロールして絵を描いていく苦痛と、出来上がっていく絵を見ている楽しさ。思い通りの形になった時も、ならない時も、側にはもう一人同じ思いをしながら絵を描いている人がいる、という心強さ。その感覚は何にも代えがたいし、同じ気持ちを千里が感じているのなら、秋津を好きだというのも分かる気がした。


 しかしそこで、千里は顔を上げて私を見た。

「だけどね、私は秋津くんが好きだからこそ、彼にはほかに大切な人がいるってことも分かる。自分で分かってないのもかも知れないけど、それが相澤さん、あなたよ」

「えっ?」

 急に話の向きが変わって、私は咄嗟に間の抜けた声を出してしまった。千里が何を言っているのか、一瞬全く分からなかった。

「ちょっと待って。それはさすがに考えすぎじゃない?」

 私の脳裏に浮かんだのは、先週末の秋津の姿だ。ろくに口をきこうとせず、私の質問をはぐらかし、目を逸らしていた秋津。夕暮れの文芸部室で、千里の顔を真っすぐ見て楽しそうに微笑んでいた秋津。あの日の秋津の姿を比べれば、その違いははっきりしている。

「私には、秋津は霧山さんが好きなように見えるよ。あの日だって、帰りはほとんど話をしようとしなかったし。それに、霧山さんのことを聞いても、他の女子に言うみたいに、ちゃんと返事してくれなかったし」

 私はそれを、どこかで認めたくなかった。認めたくなかったけれど、今向き合わなければ、秋津とまともに話をするのも難しくなりそうな気がした。だからこそ、真っすぐ向かってくる千里に気後れしながらも、彼女についてここまで来たのだ。

 けれどその瞬間、千里は思い切り眉をしかめた。

「何言ってるの?」

「なにって、だから」

「そんな風に誤解されてるなら、秋津くんも苦労するわね。秋津くんがなんでそんなに気まずい態度だったのか、本当に分からないの?」

「何でって、私が急に割って入ったからでしょ? 秋津は優しいから、取り繕おうとしてくれたんじゃなくて?」

「秋津くんの優しさを、そんな風に悪く悪く取れるなんて、いい御身分ね」

 ガタンと椅子を蹴立てると、千里はさっと立ち上がった。そのまま鞄を手にすると、千里はすたすたとカフェから出ていこうとする。

「えっ、ちょっと待って、霧山さん!」

 慌てて私も立ち上がったけれど、千里は振り向きもしなかった。遅れてカフェのドアを開け、自転車置き場に向かったものの、その時には千里はさっさとその場から走り去ってしまった。

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