5 鹿角先輩

 一日の授業を終えて美術室に入ると、鹿角先輩はいつものようにデッサンをしていた。左手で丸め伸ばした皺くちゃの紙を持ち、右手でイーゼルに載せたケント紙に描いていく、先輩がよくやるやり方だ。うちの部は三年生が鹿角先輩だけ、二年生はおらず一年が私だけという、廃部寸前の部だ。本来は廃部になるはずだったところを、鹿角先輩が実績を出したことでとどめたくらいだ。実績を出したというのは、要するにコンクールで賞を取ったのである。

 しかし存続はできても人はいないので、人間の姿を描こうと思ったら、こうして自分の腕や足をモデルにするか、お互いの姿を描くか、顧問の藤倉先生を描くかの三択だ。なら静物をモデルにすればいいと言われそうだが、もちろんそれもやっている。でも鹿角先輩も私も、描きたいのは人物と言うところで共通していた。

 そんな鹿角先輩と一緒に絵を描いて過ごすこの時間は、私にとってはどこか特別な時間だ。


「ああ、相澤さん。お疲れ様」

「お疲れ様です、鹿角先輩。モデル、よかったらやりましょうか?」

「いやいいよ。相澤さんもそろそろ新作描くところでしょ?」

「そうなんですけど……」

 言い淀むと、肩越しにこちらを見ていた鹿角先輩は、腕を下ろして私の方に体を向けた。

「まだモデル頼めてないんだ。ほんとに僕がやってもいいんだよ」

「うーん……あっその、鹿角先輩に不満があるわけじゃないんですけどね! やっぱり描きたいのはこの人って言うか」

「そういえば、入部したとき『絵に描きたい人がいる』って言ってたよね。それがその人なの?」

「はい、実は」

 頷くと、鹿角先輩は「そっかー」と少し考えこむような顔になった。


 鹿角先輩の方は、もう今年は受験が控えていて、文化祭の展示は去年の冬までに制作していたものと、件の賞を取ったデッサンのみとなる。そもそも部活動は三年の前半までで終わりのところを、入試でデッサンが必須で受験勉強になるから、と残ってくれている状況だ。

 ちなみに賞を取ったデッサンと言うのは、私が絵を描いているところを斜め後ろから描いたものだ。それだけ聞くと「いつもやってる事じゃん」と友達には言われてしまったくらいだが、このデッサンがとてもリアルで、描かれている私の顔は見えないのに、真剣に画面に向かっていることも、そもそもその後姿が私のものだという事も、一瞬で見て取れるものなのだ。

「すごい……」

 とただ一言、それしか言えなかったのを覚えている。

 描かれている私は一向に知らなかったのだが、完成して初めてその絵を見た時、私は画面に引き込まれるような、そこにもう一人自分がいるような感じがして、ちょっと怖いくらいだった。同時に先輩の目に映る自分の姿はこんな素敵なものだったのかと、驚きと嬉しさと、ちょっとした恥ずかしさで、それが賞を取ったと聞いたときは、自分の事のように嬉しかった。

 こんな絵を描けるようになりたい、と私はその時以来ずっと思っている。そして、そんな絵を描く先輩が自分と一緒に歩んでくれていることが、ちょっとだけ誇らしくて、でも先輩にはまだまだ追いつけないという寂しさもあって、二人で絵を描いていると何とも言えない気持ちになるのだ。

 そんな空間に、秋津を呼ぶのは何か違う、と私は思ってしまう。それくらい、この時間は私にとって大切になっていた。


「まぁ、切羽詰まったらいつでも頼ってくれていいからね。まだ時間はあるし、とりあえず下地を作っておいてもいいんじゃない?」

「そうですね、そうします」

 ようやく気持ちがまとまって、私は張っておいたキャンバスを取り出しに、準備室へと向かった。そんな私を見て、鹿角先輩もホッとしたように自分の手元に視線を戻した。描くときにごちゃごちゃした気持ちで絵に向かいたくはないし、それを分かってくれる人が側にいるのは、とても心強かった。

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